なんだろ。この人、何真剣に慄いてるのかな?
 香佑は眉を寄せて、麦わら帽子を頭から取った。
「おかえり。今日が予定だったっけ。すっかり忘れてたわ」
「おう」
 何故だか慎は、不機嫌そうに視線を彷徨わせ、手にしたデパートの紙袋を背後に隠した。
 なに、その態度。
 訝しみながらも、香佑は訊いた。
「それ、お土産?」
「お前のじゃないぞ」
 何故だか即座に言い返される。香佑は、はあ? と、眉を上げていた。
「別に私に何か買ってくれるなんて思ってもいないわよ。馬っ鹿じゃない」
 何よ。遠目から背中が見えた時、ちょっと嬉しいと思った自分が馬鹿みたいじゃないの。
 と――そこで初めて香佑は気がついていた。
 そうだった。すっかり忘れていたけど、もしかして、慎さんの態度がおかしいのは――
「もしかして……」
 手紙のこと、奈々海さんに聞いた?
 そこまで出かけた言葉を、香佑はぐっと飲み込んだ。いくらなんでも宮間のいる前で、そんな無神経な話はできない。
 ただでさえ、三年ぶりに実家に戻ったという慎が、どんな風な感情を抱いて帰って来るか――それが少しだけ気がかりだったのに。
「なんだよ」
 訝しげに、慎が言葉の続きを催促する。
 香佑は咳払いをして、視線を逸らした。
「あー、なんでもない。とにかくおかえり。今日は仕事なんかせずにゆっくり休んだら」
「なんだよ、言いかけたんなら最後まで言えよ」
「別に何も言いかけてないし。話題が何も思いつかなかっただけ、じゃあね」
 慎の表情から訝しさしか感じられなかったから、香佑は、この話は、慎にはしないことに決めた。
 本人が知らないなら、あえて言うことでもないだろう。
「いや…、ちょっと待てよ」
 傍らの宮間を、向こうに行け、と追いやっておいてから、慎は少し怒ったような目を香佑に向けた。
「どうなってんだよ」
「……どうなってるとは?」
 そこは、叱られるだろうと腹は括っている。香佑は開き直って慎を見上げた。
「なんで涼子が、この家に居ついてるんだよ。匠己がそうするって言ったのか」
「………」
 香佑は、少しの間黙ってから、言った。
「まぁ、石掘り職人さんが何考えてるのかは知らないけど」
「は?……なに? 石がなんだって?」
「この店の社長のことですけど?」
「はい?」
 慎が、呆れたように秀麗な眉をあげる。
「この店の社長さんは、家のことは基本ノータッチみたいですから」
 いよいよ事務的に香佑は言った。
「そのあたりは、私が独断で決めました。夜は女一人で寂しかったし、涼子さんとはもうすっかりお友達だしね」
「………は?」
「今夜は、涼子さんが、慎さんの歓迎会みたいなことやるって言ってたから。じゃ、そういうことで」
「ちょっと待て」
 背を向けた途端、背後から腕を掴まれる。
 少し驚いて振り返ると、慎も戸惑ったように手を離した。
「何考えてんだよ」
「別に何も?」
「おかしいだろ、涼子に何言われたよ。なんだってそんな奇妙なことになってんだ」
「だから、別に――」
 匠己と不仲になった経緯を説明するには、あの――爆弾としかいいようがない手紙の内容を話さざるを得なくなる。
 とはいえ涼子が家にいることに関しては、それとは別の部分に理由があった。
「もしかして」
 何故だか慎は、言葉を切って眉をひそめた。
「涼子に、弱味でも握られたのかよ」
「はい? 弱味?」
 言うにことかいて、何言ってんの、この人。
 その時、慎の背中越しにその涼子の声がした。
「それ、冗談でも傷つくんですけど」
 慎が眉をしかめて振り返り、香佑もまたその方を見ると、そこには涼子と匠己が立っていた。
 涼子は呆れたように両手を腰にあて、匠己は少しばかり所在なげな表情だ。
 この、なんとも間の悪いめぐり合わせに、香佑はそっと溜息をつく。
 慎と自分との距離の近さといい――また、誤解されてるな、これは。
「ほんと、慎さんって、私のこと嫌いよね。私も匠己の親友でなきゃ、顔さえ見たくないタイプだけど」
「そのまま返すよ――おう、悪かったな、長いこと休んで」
「いや」
 言葉を返したのは匠己だった。
「どうせこの時期は暇なんだ。竜さんなんて墓掃除ばっかしてたよ」
「おい。それもそれで問題だぞ」
「やっぱり慎さんがいないとな。またいい仕事取ってきてくれ」
「ああ、そういや長浜さんとこの墓地はどうなった? ノブの電話じゃ墓石十体が殆ど粉微塵になったそうじゃないか」
 慎と匠己の、普段どおりの会話に、香佑は少しだけほっとしていた。
 まぁ、そうよね。
 いくらなんでも、私が原因で二人が仲違いとかあり得ないか。
 全く、奈々海さんがあんな手紙をよこしたせいで、とんでもないことに気を使うはめになっちゃったよ。
 しかも私宛のはずが、吉野石材店止まりで、手紙の中にも私の名前が最後の方まで入ってないってどういうこと?
 あれでは、匠己がうっかり最後まで読んでしまったのも頷ける。
 とはいえ菜々海の誤解の根底を作ってしまったのは、他ならぬ香佑と慎である。
 もちろんそんな馬鹿馬鹿しい誤解は、慎の口からとっくに解かれていると思っていたのだが――
 香佑は、匠己と喋っている慎をちらっと見上げた。
 もしかして慎さん、まだ嘘をつき通してるのかな。
 まだその程度には、菜々海さんのことは慎さんの心の傷なのだろうか。だとしたらなおさら、手紙が原因で喧嘩になったことは話し難い……。
「香佑、今夜も遅くなるの?」
 不意に涼子が口を開いた。
 しまった、と、香佑は急いで腕時計に視線を走らせる。
「うん、今からすぐに出て、帰りは九時すぎになるかな。悪いけど晩御飯任せちゃっていい?」
「了解。大丈夫よ。掃除も美桜ちゃんと済ませちゃったから」
「ほんとごめんねー、明日は私が作るから」
 香佑が言うと、涼子は任せて、とでも言うようにピースサインをつくった。
「じゃ明日は甘えちゃうね。私も仕事で遅くなりそうだから」
 多分横では、その会話を耳にした慎が目を丸くしている。
 匠己は所在なさげに髪に指を差し入れ、もう俺は何も口を出さないぞ、といった雰囲気だ。
「じゃあ、私行くけど――慎さん、さっきの暴言、涼子さんにちゃんと謝っときなさいよ」
 慎を振り返った香佑は、彼を指さすようにして、言った。
「涼子さんにいてほしいって頼んだのは私だし、今は彼女が家のことを手伝ってくれてるの。今月いっぱい、私がずっと忙しいから」
「いや……」
 唖然とする慎を再度睨んでから、香佑はさっと踵を返した。
「じゃ、行ってくる。涼子さん、後のことはよろしくね」
 ついでに馬鹿な社長さんのこともよろしく。
「ちょっと待てよ、九時までって、どこに行くんだよ」
 案の定、呼び止める声は慎だけだ。香佑は歩きながら振り返った。
「時間ないから。そのあたりの事情は社長さんにでも聞いてよ」
「はぁ?」
 慎の呆れたような声を後目にして、香佑は、後も見ずに歩き出した。
 
 
              3
 
 
「まぁ、だいたいのことは判ったと思うけど……」
「判るわけねぇだろ。馬鹿野郎」
 ずかずかと踏み込む慎の意図を察したように、匠己は片手をあげて、息を吐いた。
 まだ残暑が強い最中、冷房のない作業場はむっとするほどに暑い。その中で石を彫り続けていた匠己の背中は、すでに汗で濡れ尽くしている。
「判らねぇどころか、聞きたいことだらけだよ。まず聞くけど、長浜さんとこの仕事はどうして他所にもってかれたんだ」
 すぐに動けとあれだけノブに指示しておいたのに――一体全体どうななってんだ。
「あそこの墓石は、近年のものは全部うちの先代がてがけてるんだ。普通でいうなら、うちに修繕発注があるのが当然の流れだろ」
「まぁ、一言で言えば、富士山さんにしてやられたんだな」
 頭を掻きながら匠己は言った。
 富士山――上宇佐田の富士山石材店か。
 先代の頃からの因縁のある店の名前に、慎は眉を寄せている。
「事故の後、長浜のご主人からすぐに電話はあったんだけど、最終的には富士山さんとこに流れたんだ。ノブが悪いんじゃんない。長浜さんの奥さんがどうも――富士山社長の奥さんに頭があがらないみたいでさ」
「くそ、ジャバ・ザ・ハットめ」
「は?」
「いや、こっちの話だよ。あそこのババァには、俺も散々な目に合わされてるからな」
 それでノブは、最初に血相を変えて駆けてきたのか――俺もどうかしてるな。それをすぐに人間関係のごたごたに結びつけるとは。
 何を置いても仕事のことが真っ先に頭に浮かばなきゃいけないのに。これも一種の休みボケか?
「まぁ、それはいい。ノブっつーより俺のミスだ。大切な顧客をむざむざ奪われたてたのに、今の今まで気づかなかったんだから」
 慎は溜息をつくと、改めて匠己に向き直った。
「おい、俺は言ったよな? 嘘でもお情けでも結婚した以上は女房だ。どんなに面倒でも、その立場だけは守ってやれって」 
「……ああ、今度はそっち?」
「そっちじゃねぇよ。説明しろ、どうして涼子がこの家に住んでんだ」
 匠己は言葉を探すように、汗で濡れた髪に指を差しこんだ。
「まぁ、住んでるってのは言いすぎだな。ちょいちょい来るんだ。それを嶋木が引き止めては、結局泊まらせてる、みたいな?」
 はぁ? と、慎は眉を逆立てていた。
「なんだって、そんな馬鹿なことを?」
「さぁなぁ……」
 疲れたようにベンチに座った匠己は、少し遠い目になった。
「俺と二人になりたくないんだとは思うんだけど、まぁ、他にも色々思ってるのかもな。どうせ何言っても無駄なんで、そのあたりは聞いてないんだけどさ」
「何言っても無駄って……」
 慎は、しばし呆れて匠己を見下ろした。
 お前と馬鹿嫁の間に何があったのかは知らないが、そもそも涼子がいるから、二人の関係がこじれてるんじゃないのかよ。
 だったらお前が毅然とした態度で、涼子にぱしっと言えばいいだけのことだろ。二度とこの家には近づくなって。
「で? まさかと思うけど、このままでいいとか思ってるわけじゃないだろうな」
 匠己が何も答えないので、慎はその傍らに大股で歩み寄った。
「思ってないなら、一刻も早くなんとかしろ。こういうふしだらな噂はな、田舎じゃ一気に尾ひれがついて広まるんだ。お前と涼子の関係がなんなのか言ってやろうか。傍からみれば不倫だよ。主婦が最も嫌う類型だ。まだ未練があるなら、どうして彼女と結婚した。お前らのママゴトみたいな結婚ごっこで、この店の信用ぶっつぶす気か!」
「ま、だから落ち着いて――てか、なんで慎さんがそこまで怒るんだよ」
 匠己が疲れたような息を洩らす。慎もまた――その言葉には無意識に動揺して視線を逸らしていた。
「そりゃ怒るさ。墓屋は信用第一なんだ。その店主が不倫なんて、絶対にやってもらっちゃ困るじゃないか」
 しばらく黙っていた匠己が、うつむきながら息を吐いた。
「それがさ、どうも涼子、……夏前に会社辞めてるみたいでさ」
「……マジかよ」
「俺が聞いてもはぐらかすばかりで、理由も何もわかんないけど、多分な。先月、慎さんもおかしいって言ってたろ。いつも忙しい涼子が、あれだけ長く休みをとるなんて」
「………」
「その辺りのこともあって、嶋木なりに気を使ってるのかもしんないけど……。まぁ、涼子がそれをどう思ってるのはか、謎だよ」
 さすがにそこは、慎の眉も曇っていた。
 涼子が会社を辞めた。
 仕事を含め、着ている物も車も友人も、全て一流を揃えなければ気が済まないような見栄の塊――涼子が?
 あれだけ何気に自慢していた東京の出版社を?
「まさか、お前とヨリもどすために、会社まで辞めたんじゃ」
「ないない。涼子はそんな女じゃない」
 匠己はきっぱりと言って、傍らのノミを取り上げた。
「涼子の真意はさておき、嶋木の方は無理してるわけでもなんでもない。むしろ女三人で楽しくやってるみたいだぜ。美桜も混じって毎晩女子会とかいって、わいわいきゃっきゃっ。まぁ、心配してるこっちが馬鹿みてぇだなと思えるほど」
「……涼子、何考えてんだ」
 慎は思わず片手を口に当てていた。
 むしろ恐ろしいぞ、そんな普通の女子してる涼子は。
 匠己が、微かな溜息を吐く。
「俺、それずっと言ってるだろ。俺が結婚してからの涼子の行動は、あいつらしいっちゃああいつらしいけど、正直、俺にはさっぱり分からないんだ」
「何が」
「なんつーのかな。……一言で言えば、何がしたいのか判らない」
「…………」
 慎は数度瞬きしてから、顎を落とした。
 それは――究極、お前とあの馬鹿嫁を別れさせて、自分がその後釜に座りたいんじゃないのかよ。
 それが判らないお前ってどこまで……。
 いや、そこを今更つきつめたところでどうにもならない。
「何が原因で仲違いしたんだよ」
「え?」
「お前と嫁だよ。明らかに空気がおかしいだろ。涼子を引き止めてんのが嫁の方なら、ケンカの原因は少なくとも涼子じゃないんだろ」
「ケンカ……っていうのかな。あれ」
 首の後ろに手をあてた匠己は、少し遠い目になった。
「少なくとも俺にそんな気は全然。まぁ、結局のところ、俺が鈍くて怒らせたんだろうけど」
「一体何やったんだよ。女心を踏みにじるようなことでも言ったのか」
「……………」
 初めて匠己の横顔から、静かな沈黙がかえってきた。
 慎は眉を寄せている。ああ――、これは何も言いたくない時のこいつのサインだ。
「あいつの女心がどのあたりにあるかなんて、そもそも知らねぇしな、俺」
 独り言のように呟くと、匠己はノミを振り上げた。
「まぁ、聞きたいんなら嶋木に聞いてくれ。その方が早いし、多分――正確だ」
 なんだよ、それ。
「俺にケンカの認識はないし、嶋木の態度に腹を立ててるわけでもない。まぁ、言ってみれば結婚した最初と同じかな。最初と違って、嶋木の立場だけは守ってるつもりだけど」
 慎の方には顔を向けず、淡々とした口調で匠己は続けた。
「心配してくれる慎さんの気持ちは嬉しいけどさ。そのあたりはもう、放っておいてもらっても大丈夫だよ」
「…………」
 なんだよ、その言い方は。
 守るって――だいたい、何をどう守ってるっていうんだよ。
 台所は美桜に任せたきり、お前は仕事場にこもりっぱなしじゃないか。
「別にいちいち心配なんか……してねぇけどさ」
 言いながら、慎は、なんともいえない腹立たしさが込み上げてくるのを感じていた。
 なんだか本当に――心の底から馬鹿馬鹿しくなってきた。なんだってこの俺が、他所様の夫婦のことで、こうも苛々しなきゃなんねぇんだ。
「じゃあ、俺はもう知らないぞ。あの子が孤立して――最悪、この家を出てっても」
 慎は怒りをこらえながら立ち上がっていた。
「何があってもほっとくからな。止めたりもしないからな」
 二度と――金輪際――口も手も出すもんか。家出でも離婚でも勝手にしろ。
「ひとまずだけど、出ていく心配だけはないと思う」
 しかし匠己は、けろっとして言った。
「嶋木、今、祭りの準備で目茶目茶忙しいんだ。さっき慎さんと話したことも、今のあいつの中じゃむしろ優先度が低いんじゃねぇかな」
「祭り――?」
 そこは、無視できずに聞くと、匠己はそうそう、と頷いた。
「下宇佐田祭り。毎年九月の終わりにあるだろ。あいつ、町内会の集まりで、その実行委員に立候補したみたいなんだよ」
「はぁっ? なんだってそんなクソ面倒なことに?」
 その祭りは、九月の最終日曜日。製麺工場裏のグランドで行われる。ステージあり、盆踊りあり、クジ引き大会ありの、この辺りでは結構大きなイベントである。
 吉野石材店も、毎年寄付だけは欠かさない。忙しくて人手が割けない分、結構な額を出しているし、クジ引き大会にも、石灯篭を景品に出したりした。誰からも喜ばれなかったそうだが――
「なんでも空きポストに推薦されたって言ってたかな。それだけでなく、吟さんとこで本格的に詩吟の稽古も始めたみたいだし――」
 慎はただ、口をぽかんと開けたきりである。詩吟――ついにそっちにまで手を出したか。言っとくが、田舎のジジババの道楽だぞ、あれ。
「竜さんについて、店の仕事もがんばってるみたいだしな」
 匠己は言葉を切り、こりこりと耳の後ろを掻いた。
「ま、そんなこんなで、嶋木、今は話し掛ける隙さえないほどテンパってんだ。実際涼子が家のことやってくんなきゃ、あいつ、とっくに潰れてるかもしんない」
「はぁ……」
 現実逃避かな。――と慎は首をかしげながら考えている。
 この石屋の暮らしがあまりにも辛すぎて、町内会に逃げ込んだ。にしても、わざわざ自分から涼子を家に引き入れるとは――全くもって理解不能。
「……ただ、嶋木はそこまで考えてないみたいだけど」
 匠己は息を吐き、再び石を叩きはじめた。
「今の状況じゃ、むしろ涼子の方が辛いのかな、とも思うんだよな。ま、涼子が何考えてるのか、それもまた謎なんだけど」
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。