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「では、いよいよ点灯です。世界最高の高さを誇る東京スカイタワー。今夜、初めてライトアップされたその姿を、日本国中に皆さんにお披露目することとなります」
 あー、そういや、そんなものがあったっけ。
 自分の部屋でぼんやりと膝を抱えて座ったまま、香佑はテレビのニュースで流される映像を見つめていた。
 世界一高い電波塔。香佑か東京にいた頃は、まだ建設途中だった。丁度住んでいたアパートに近かったのもあって、毎日のように見上げていたっけ。
 この塔が完成する頃には、少しは私の人生もまともになってるかな、と思いながら。
「………」
 賑やかなファンファーレと花火の音を、香佑は膝につっぷしたまま聞いていた。
 不思議だな。東京にいた頃は、完成はいつだろうって結構楽しみだったような気がするのに、こっち来てみると、まるで遠い――海外の出来事みたいだ。
 少なくとも、もう自分の人生とはまるで関係ない世界の出来事には違いない。
 ここ最近、ずっとこの家を出ることばかり考えていることに、香佑は気がついていた。
 最初の目的どおり、九州の方にでも行ってみようか。
 仕事なんて、選ばなければすぐに見つかる。そういう意味では便利な容姿だ。いままでの人生で、顔が少々目立つからって得したことはひとつもなかったけど――
 トントン、と扉がノックされる。
 もう店は閉めて、誰もいないはずだけど――そう思いながら香佑は顔を上げた。
「はい――誰?」
 そいうや、そろそろお風呂に入んなきゃな。
 匠己はまだ仕事をしているか、仕事場で寝ているかのどちらかだろう。
 彼は、入浴だけは店の者がいる早い時間に済ませてしまう。最後に入る香佑に、気を使ってくれているのだろうが、おかげで同じ家に住んでいても、そこで鉢合わせになることだけはない。
 そんなことを思いなから立ち上がった時、扉が開いた。
「よう、起きてた?」
「…………」
 匠己――
 しばらく声が出ないまま、香佑は半分腰を浮かせた姿勢で固まっていた。
 匠己がこの部屋を訪ねてきてくれたのは、腰を痛めた夜以来だ。
 夜、香佑がこの部屋に入ってしまえば、匠己は絶対に用を言いつけにこない。 それが二人に間に定められた暗黙のルールのようなものだったからだ。
「慎さん、まだ戻ってないかと思ってさ。ノブが店閉めてくれたみたいだけど、店の車で夕方出てったきりみたいなんだ」
「…………」
 匠己は寝る前なのか、珍しく作業着ではなく、清潔なシャツと七分丈の木綿パンツを穿いている。
 不意にその姿を見るのが息苦しくなって、香佑は元の姿勢に戻って顔を伏せていた。
「知らない……何も連絡ないし。こっちはもう、眠いんだけど」
「へぇ、ニュースなんか見てんだ」
 普通見るでしょ、人間二十八にもなれば。
 香佑は無視して、膝に顔を埋めたままの姿勢でいる。てか、知らないっつってんだから、さっさと部屋から出ていってよ。
「すげぇな、東京。へー、世界一の高さなんだってさ。知ってた、お前」
 知らない人がいたら、むしろお目にかかりたい。
 顔あげたら、多分隣にいるんだろうけど。
「しかし、東京タワーといい、なんのためにこんな馬鹿高いタワー作んのかな。……見栄かな」
「…………」
「そういや、どっかの政治家も言ってたもんな。二番じゃいけないんですか。そういう趣旨かな」
「送電線!」
 あまりに馬鹿なことを言う匠己に、ついたまりかねて香佑は顔を上げていた。
「地上デジタル放送のために作られたの。東京タワーだって同じでしょ。あんた、そんなことも知らなかったの」
 香佑を見下ろし、匠己はぱちぱちと瞬きをした。
「いや……知らなかった」
「あっそ」
 なんで図々しく、あんたが隣に座ってテレビ見てんのよ。
 ここは私が、唯一一人になれる貴重な空間なんですけど。
「比べるのもなんだけど、つまんないとこよね、下宇佐田」
 自分の膝をふてくされたように見たまま、香佑は言った。
「そっか?」
「そうよ。何もないじゃない。ライトアップされたタワーもなければ、花火もないし、それ以前にイベントすらないし」
「秋祭りがあるじゃん」
「馬鹿じゃない? あんなもの――しょぼすぎてイベントの内にも入んないわよ。馬鹿馬鹿しい」
 匠己が気分を害したのは百も承知で、膝を抱いたままの香佑は続けた。
「やっぱり、私には向いてないみたい。……ここでの暮らし」
「…………」
「こんなニュースみたら、東京の暮らしが恋しくなるよね。……そろそろ戻ろうかな、東京」
「…………」
「きちんと仕事見つけて出ていくからさ。そん時は、気持よく送り出してくれるんでしょ」
「二年くらい前かな、結構な台風がこのあたりに襲来してさ」
 匠己がいきなり口を開いた。
 膝に顔をうずめていた香佑は、は? と眉を寄せている。
 人がかなり深刻に話してんのに、どういう話の切り返し方?
「その時、この辺全部が停電になったんだ。あん時はマジ困った。仕事の納期がぎりぎりの時に機械が全部動かないんだぜ? 復旧は開けてるとこから順番でさ。相変わらず下宇佐田は最後だよ」
 香佑は顔をあげて、隣に座る匠己を見上げた。
「二日目には懐中電灯の電池も切れて真っ暗だ。だいたい、どの家でもロウソクたてて夜を過ごしたんだけど、――そうそう、思い出した、そん時新古原さんとこで火事になったんだよ!」
「…………」
 ごめん。
 一体なんの話?
「雨はやんでたけど、あの夜は風と雷がすごくてさ。消防車待ってたら下宇佐田は全滅するって言うんで、若いやつ全員が集まって死にものぐるいで火消ししたよ。まぁ、結局ボヤで済んだんだけど、雷が落ちてる中で火事だぜ? あれはすげぇ体験だった」
「……田舎ならではの、苦労エピソードだね」
「そうそう、――ん? いや、そういう話がしたかったんじゃなくて……」
 そもそも本題を忘れてしまったのか、匠己は眉を寄せながら首をかしげる。
 香佑は再び、顔を膝に埋めた。
「悪いけどそんな体験、私は絶対にしたくないから」
「あの時は、竜さんが一番冷静だったよ」
 香佑は、思わず体をこわばらせている。匠己の声は優しかった。
「修羅場を沢山見てるからかな。みんながパニクってわたわたしてる中、竜さん一人が強かった。あのさ、竜さんのことはお前が気にしなくても大丈夫だよ」
「…………」
「……あの人のことだから、もしかすると年単位で帰ってこねぇのかもしんないけど、戻ってきたら、この辺りの人はいつでも暖かく、竜さん迎えてくれると思うよ。本当にいい奴っていうのは、いなくなってからその価値が判るもんなんだ」
「………」
「慎さんに聞いてみろよ。今日あたりから、うちにかかってくる電話は大抵、竜さんいつ戻ってくるかって問い合わせだから」
 不意に目の前が潤んで、引き締めていた唇が震えた。
 違う。そうじゃない。
 そんな竜さんを、心ならずも町から出て行かせてしまったのは私なんだよ、匠己。
 私――私が、馬鹿な真似をしちゃったから。
 判っているのは、いまさらそのことを蒸し返して話したところで、誰も楽にならないということだ。
 竜さんがそれで帰るならともかく、多分、みんなを不愉快にさせるだけ。いってみれば私一人が持っていれば済む感情を、無関係の人たちにばらまいてしまうようなものなのだ。
「まぁ、なんていうの」
 匠己が言葉を探すように、髪に指を差し入れた。
「あまり、一人で抱えこむなよ」
「…………」
 なにそれ。
 もしかして読心術ですか?
「なによ、その似合わないセリフ」
 香佑は、動揺を不機嫌で誤魔化して、顔を背けた。
「どっかのドラマか漫画から拾ってきたみたい。だいたい抱えるって、……私が何抱えてるっていうのよ。知ったようなこと言わないでよ」
 ああ、もう喋れば喋るほど、自己嫌悪で沈んでいくのが自分でも判る。
 お願いだから、今夜は一人にさせておいてよ。てかもう、これからずっと私を一人にしておいて。
「……まぁ、知ったようなというか、確かに知ってるから言えたセリフではあるんだけど」
 独り言のように匠己が言う。
 なに、を?
「あのな、俺知ってんだ。黙ってて悪かったけど、大体のことは竜さんから聞いた」
 身体ごと固まってしまったみたいだった。
 なに、この人が何を知ってるっていうの?
「竜さんとの約束だから誰にも言ってないけど、あの夜、俺、竜さんに会えたんだ。てか、竜さんが部屋で俺を待っててくれた。話が終わると煙みてぇに消えちまったけど」
「どういう、こと?」
 初めて強張った声が出た。
「町を出るにあたって、お前のことだけが気がかりだったんだとよ。竜さん」
「…………」
「大丈夫だって言われたよ。後から心ない噂が耳に入るかもしれないけど、心配するようなことは何もなかったって。それは沢山の修羅場を見てきた私が太鼓判を押しますって」
「…………」
 ――竜さん……。
「どんな修羅場だって思ったら、ちょっと笑えなかったけどさ」
 うつむいた匠己の横顔が、苦く笑んだ。
「自分の勇み足で奥さんには迷惑かけたって、竜さんむしろ反省してたよ。だからそのことで落ち込んでんなら、もう忘れろ」
「……怒らないの?」
 香佑は顔をあげていた。
「怒るって?」
「だって」
 ――だって……。
 私が迂闊な真似をしたせいで、竜さんがこの町を出ていくことになった。
 ううん、それ以前に、形だけでも夫である匠己に、ひどく不愉快な思いをさせてしまったのでは――
「まぁ、仕事で行った先がたまたま藤木の家だってだけで、……少なくともお前に怒る必要ないだろ。そりゃ、色々思うところはあったけどさ」
 それは、もちろんあるだろう。
 夫としても吉野家としても、彼は大きな恥をかかされたのだ。
 それに、もしかしたらこの問題は、まだまだ尾を引くかもしれない――
「……ほんとに、何もされてないからね」
 やるせなさを噛み締めたまま、膝を抱いて香佑は言った。
「まずい雰囲気になったから、隣の部屋に鍵かけて閉じこもってただけ。藤木君はあることないこと言うと思うけど、……絶対にそれ信じないで」
 そんな事態にはならないと思うが、万が一にも匠己が藤木に報復行為をとってはいけない。
 そんな真似をしたら、多分藤木の思う壺だ。なにしろ相手には警察署長がついているのだ。
「そりゃ藤木よりは、竜さんを信じるだろ」
 が、苦笑して、あっさりと匠己は言った。
「竜さんはさ、そういうところで嘘がつける人じゃねぇんだ。あの人は、現実は受け入れなきゃ駄目だって人だから――ああいうところでは絶対に嘘はつかない」
 ――竜さん……。
 胸が苦しいほど熱くなる。
 匠己にそれを伝えるためだけに、最後の夜に残っていてくれた。
 そんな優しい竜さんを――私のせいで……。
 うるっと瞳が潤みかけた刹那、こつんと頭を小突かれた。
「こら。なに、また暗い顔になってんだよ」
「だって」
 零れた涙を拳で拭う香佑を、匠己はしばらく無言で見下ろしているようだった。
「泣くなよ」
「ん……」
「竜さんのことなら気にすんな。だいたい、もしお前が――何もかも自分のせいだと思ってるんなら、それは大きな間違いだからな」
 ――どういう意味……?
「嶋木のことと竜さんの失踪は、深いところでは別次元の問題であって、言い方はあれだけど、何も嶋木のためだけに、竜さんが町を出ていったわけじゃないってことだよ」
「…………」
 ますます意味が分からず、香佑は隣の匠己を見上げた。
「人ってのはそんな単純なもんじゃない。竜さんの胸の底には、俺らには見せてない部分があるってことじゃねぇかな。それ以外、上手い言葉が思いつかないけど」
「………」
 竜さんの、底にあるもの。
 そんなこと、考えてもみなかった。
 私は、自分のことばっかりで――
「一人で責任感じて落ち込むのは勝手だけど、お前のはただの自己憐憫だ。なんの解決にもなってない」
 口調は優しいままだったが、その言葉は、香佑の胸深くに突き刺さった。
 ただの自己憐憫。
 ただ、自分を憐れんでいただけ……。
「ほら、また泣く」
「だって」
 だって、あんたがきついこと言うから。
 普通はここって、明らかに慰めるところじゃない。
 私、滅茶苦茶弱ってるのに、なんだって厳しい言葉を、呑気な口調でさらっと言ってくれるのよ。
「……罰かな」
 涙を拭い、しばらくぼんやりと膝の辺りを見つめた後、呟くように香佑は言った。
「罰?」
 目に滲んだ涙をこすり、香佑は続けた。
「なにもかもあんたの言うとおり……って認めるのも癪だけどさ。本当のことを言えば、私、最初から最後まで自分のことしか考えてなかった。だから、バチがあたったんじゃないかなって」
「どういう意味だよ」
「涼子さんのこと」
 しばらく唇を引き結んだ後、覚悟を決めて香佑は言った。
「周りにはどう見えてたのか知らないけど、私は何も――涼子さんのためを思って、彼女と仲良くしてたわけじゃないんだ」
「……………」
「もっと言えば、心の底じゃ嫌いだし、いなくなっちゃえばいいってずっと思ってた。信じたことなんてなかったよ。……でもさ、まさか匠己の仕事の足までひっばるような真似をするとは思わなかったから」
「………」
「そういう言い方も、私の本音が出てるね」
 情けない。
 零れた涙を、香佑は息をして飲み込んだ。
「私がこの家を出ていった後――それがいつになるかなんて今は考えたこともないけどさ。その後、匠己は多分、涼子さんと結婚するでしょ」
 匠己は黙って膝を抱いたまま前を見ている。が、数秒後、「――は?」と言って振り返った。
 その続きを聞くのが怖くて、遮るように香佑は続けた。
「私さ……自分で思うよりずっと、この場所が好きになってたみたい」
「…………」
「私の嫌いな涼子さんが居座ってるこの家になんか、二度と戻りたくないじゃない。でもさ、もし私が本当に涼子さんのこと好きになれたらさ」
 今は嘘でも、それがいつか本当の感情になったら。
「そしたら……時々は遊びに来れるかなって思ったんだ。あんたの顔なんて見たくもなくなってるかもしれないけど、慎さんや竜さんや……ノブ君とかさ」
「……………」
「そういう人たちとの繋がりもなくなるって、寂しいじゃない」
「……………」
「涼子さんのためとか言って結局は自分のため……ずるいよね。それで、慎さんも怒らせちゃったし、匠己にも……迷惑かけてたんだね」
 匠己の人間関係を壊したくないとか言いながら、そんな先のことまで計算してた。
 ううん。もっと言えば、自分の居場所をこのままキープできないかなっていう思惑さえ抱いていた。
 このまま全員で仲良くできたら――そんなこと現実にはあり得ないって判ってはいたけれど、もし、涼子さんと私と匠己が三人で仲良く友達になれたら――私が吉野石材店に居続ける未来もあるんじゃないかなって。
 そんな馬鹿なことを考えてた。
 結果、そんな不自然な関係を周りに押し付けていたから、罰があたったのかもしれない。
 慎さんと不仲になったのも……涼子さんにまんまと弱味を握られてしまったのも……。
「てか……」
 額に手を当てた匠己が、大きく息を吐くのが判った。
「それならそうと、早く言えよ」
「ごめん……」
 言えるわけないじゃない。
 そんな、みっともなくて浅ましくて――しかも寂しい動機なんて。
「そんな理由、どう頑張っても想像すらできねぇよ。お前のことだから、てっきり俺と涼子をくっつけようとしてんのかと思ってた」
 ――ん?
 それには、香佑が眉を寄せていた。
「なにそれ。なんで私が、そこまでしなきゃいけないの」
「お前そういうの得意じゃん。昔から仲人的なおせっかいが大好きでさ、クラスの奴ら、何人も強引にくっつけてなかった?」
「そ……」
 それはあくまで大昔の話で、今はそこまで他人に深くは関われないわよ。
 他人なんて何考えてるか判らないし、どこに地雷があるかも判んないし。
 不本意ながら踏み込んでしまったのは、慎さんと奈々海さんの時くらい。それも吟さんと奈々海さんに頼まれて、逃げ場がなくなったからそうしただけで。
 匠己が再度大きな溜息をついた。
「……言っとくけど、お前の発想、根底が間違ってる」
「それは、……骨身に染みて判ったわよ」
 店の信用とか、慎さんとの信頼関係とか。
「優先しないといけないことはもっと他にあったのに、本当に馬鹿な真似したなって思ってる。慎さんに頭ごなしに否定されて、ちょっと意地になってたのかな……。子供だね、私も」
「いや、……そういうことじゃなくてさ」
 何故か思いつめたように呟いた匠己が、そのまま不意に黙り込んだ。
 ――匠己……?
 香佑は顔を上げ、匠己の横顔を振り仰いだ。
 
 
 

 
 
 
 
 
 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。