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「どうしたの。慎さんが迎えに来てくれるなんて、初めてじゃない」
キャリーを引いて改札から出てきた人を、慎は冷えた怒りを抱いたままで見下ろした。
「迎えじゃねぇよ。お前に話があって待ってたんだ」
「私に?」
くすり、と面白そうに涼子は笑った。その目には、最初から開き直ったような色がある。
「なぁんだ、それで電話で、こっちに戻る予定はいつかって聞いてきてくれたんだ。慎さんが私を恋しがるなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないとは思ったけど?」
「当たり前だ、ボケ」
「話があるなら聞いてあげるけど、そんなことしてる場合? ちらっと聞いたけど、竜さん、いなくなっちゃったんでしょ」
「おい、涼子」
慎の傍らを通り抜けようとした涼子の腕を、慎は掴んで引き止めた。
「それも計算の内だっていうんなら、俺、今度こそ本気でお前のこと許さないからな」
一拍眉を寄せ、涼子は慎を静かに見上げた。
「どういう意味かしら」
「永井ゴムの奥さんから話を聞いたよ。お前、あそこの奥さんとは、随分前からメル友なんだってな」
「以前、うちの雑誌で、会社の製品を紹介してあげたことがあったから。それで?」
「キャンセル料が出る前に断ればいいからって、お前、適当な墓の発注受けてきただろ。それでわざと、匠己の嫁が失敗した機を見計らって断らせたのか。――一体どういうつもりだよ!」
「…………」
涼子は黙って慎の腕を振り解くと、ショルダーバッグの中からタバコを取り出した。
「で?」
「で? ふざけんなよ、お前。自分が一体何やったか、本気で意味がわかってねぇのか」
慎の声が、怒りで震えた。
「言ってみりゃ最低の営業妨害だ。お前――匠己のことが好きなんじゃないのかよ。あのバカ嫁に対抗したいからって、匠己の足引っ張るような真似してどうするよ」
「誤解よ、慎さん」
ゆっくりとした口調で、涼子は言った。
「私はただ、元気のない匠己のために、嘘でもいいから仕事を発注して欲しいってお願いしただけ。匠己、ずっとオリジナル墓を作りたいって言ってたでしょ。でもこんな田舎じゃ、なかなかそういう仕事は入らないじゃない」
「はぁ?」
誰がそんな詭弁信じるよ、そう思いながら、慎は続けた。
「匠己はいつもマイペースだよ。だいたい結局断られるなら、そんなの逆効果に決まってんだろ。お前、自分の言ってる意味判ってんのか?」
駅から出てきた人たちが、慎と涼子の言い争いを、物珍しげにチラ見しつつ通りすぎていく。
「相変わらず短絡的な発想しかできないのねぇ、慎さんは」
呆れたように言って、涼子はタバコの煙を吐き出した。
「もしかしたら相続問題の片がついて、仮注文が本注文になってたかもしれないじゃない。それに、永井ゴムの仕事が断られる頃には、もっと大きな仕事が匠己には舞い込んでる予定だったのよ」
「……もしかして、鬼塚さんかよ」
「そうよ? 私が営業に回るつもりだったけど、それ、あえて嶋木さんに譲ってあげたんじゃない。嶋木さん、慎さんに目茶苦茶叱られて落ち込んでたから」
ぐっと慎は、言葉に詰まっている。
それを言われたら、慎にも何も言い返せない。確かにそこまでは涼子も計算できなかったはずだ。
「鬼塚さんに営業かけるなんて、はっきり言えば俺でも無理だ。……お前、あの難しい人から、本気で仕事が取れるとでも思ってたのかよ」
「勝算はあったんだけどね」
平然と涼子は言った。
「ま、嶋木さんのアプローチが下手すぎたんじゃないの? てっきり慎さんが手取り足取り営業を教えてると思ったけど、てんでド素人だったみたいね」
また慎は、言葉をなくしていた。
どれだけ状況証拠を積み上げても、涼子の口の上手さには敵わない。自分でそうなのだから、匠己やその嫁には到底無理な話だろう。当たるだけ無駄というものだ。
「それに、あの日――慎さんだってあの場所にいたじゃない」
畳み掛けるように、涼子は言った。
「だから私、わざと席を外してあげたのに。いわば、慎さんに王子様役を用意してあげたのよ。なのに一人で怒ってさっさと帰ってたわよね、慎さん。だから彼女、藤木君の誘いに乗っちゃったんじゃないの」
「…………」
「もちろん、そんな展開まで私に計算できるはずがないじゃない。その後何が起きたかなんて私の知ったことじゃないわ。ただ、藤木君は嶋木さんに夢中だし、嶋木さんにしたって、理不尽な理由でガミガミ怒られてばかりの石屋にいるより、院長夫人の未来の方が、何倍も輝いて見えたんじゃないの?」
自分が想像していた通りのことが、ほぼ現実に起きたのだと理解した慎は、思わず額に手を当てていた。なんてことだ――そうだったのか、それで竜さんが――
ずっと否定し続けていたことが、いきなり現実として目の前を暗く覆い尽くしたようだった。
匠己は知っているのだろうか、いや、もちろん知らないだろう。知っていれば、いくら匠己でもああも呑気に構えてはいられないはずだ。
今朝、燃えないごみを整理して置いてある場所に、そういえばあの女のひとつきりしかないパンプスがビニールに包まれて置いてあったのを、慎は改めて思い返していた。
あれを最後に履いていたのも、例の藤木クリニックでのパーティの席だった。普段靴として履ける程度には綺麗に使っていたはずなのに――と、不審を覚えたのを記憶している。その時も、微かな嫌な予感が胸を掠めたのだ。
でもまさか――確かに落ち込んでいるようには見えたが、そこまでショックを受けているようには見えなかったのに。
「どこまでが合意で、どこまでがそうじゃなかったのか、私にはわからないけどね」
涼子のあざ笑うような声が、慎を現実に引き戻した。
「ただ、藤木君は自信満々だったわよ。いずれ嶋木さんが自分のところに来るって、式場の予約さえしかねない勢い」
慎は涼子の襟首を掴みあげていた。仮にも女に、こんな乱暴な真似をしたのは生まれてはじめてのことだった。
涼子は動じない目で慎を見上げる。
その目は、私を責めるのはお門違いよ、と言って笑っているように見えた。
「……二度と、俺の前にその顔みせんな」
「どうかしらね」
かすかに笑った涼子は、慎の顔を正面から見上げた。
「理詰めで躓いたからってもう暴力? 慎さんもただの男ね、がっかりしたわ」
「どう言い訳しようが、お前のしたことが何もかも偶然だったなんて、俺は絶対に信じないからな。馬鹿じゃねぇのか? そんな卑怯な真似して匠己の気持ちが動くとでも思ってんのかよ!」
それでも、涼子の目は涼やかなものを湛えたままだ。
くそ――美桜がこの馬鹿に心酔さえしてなかったら、全員の前でこうしてやりたいところだった。
それでも二度と、この女に吉野家の敷居は跨がせない。
慎は、涼子の襟から手を離すと、傍らの壁に追い詰めるようにして手で囲った。
「なぁに? 傍からみると、まるでラブシーンでもしてるみたいよ。私たち」
くすくすとからかうように涼子は笑う。遮るように慎は言った。
「竜さんあの場に呼びつけたのもお前だろ」
「あの場?」
「藤木クリニック。竜さんが上宇佐田で起こした暴力沙汰って、そこで起きた話なんだろ」
「電話がかかってきたのよ。竜さんから」
殆ど悪びれずに涼子は答えた。
「奥さんの居所に心当たりはないかって、そりゃあすごい剣幕でね。訳が分からなかったけど、もしかして竜さんも彼女に惚れちゃったのかしら」
――本当かよ……
しかし今は、もう何を言われてもこの女の一切が信じられない。
「竜さんをあの場に呼んだのも、全部お前の計算だったんじゃないのかよ」
「……どういう意味よ」
初めて涼子の眉がかすかに陰った。
「あえて竜さんに居場所を教えた意味が分かんねぇっつってんだよ。お前の目的は、匠己と嫁を引き離すことだろ? 匠己の嫁の居場所なんて、当夜は誰も知らなかったんだ。俺だって想像もつかなかったさ。――朝まで黙ってりゃ、何もかもお前の思惑どおりだったんじゃないのかよ」
初めて涼子が、言葉に詰まるのが慎には判った。
「別に――聞かれたから答えただけよ。そこで嘘ついたら、私まで藤木君の共犯みたいじゃない」
「じゃあ聞くけど、測ったように、次の日にすぐ竜さんの過去が流れたのはどういう理由だよ。富士山さんの奥さんに聞いたよ。お前、藤木って野郎とも、今度上宇佐田に新しく来た新任の署長とも懇意なんだろ? 竜さんは、今じゃ一番の匠己の嫁贔屓だからな。お前にとっては、一番邪魔だったんじゃないのかよ」
「…………」
しばらく黙って慎を睨んでいた涼子は、やがてその目から全ての表情を消して笑った。
「だったら、そう思ってれば」
「じゃあ、認めるんだな」
「認めるも認めないも」
笑うような目で慎を見上げながら、涼子は再びタバコを唇に挟んで吸い込んだ。
「慎さんがそう思ってるなら、私が何言おうが仕方がないじゃない。私に慎さんの気持ちが解らないように、慎さんにだって、私の気持ちなんか判るはずがないんだから」
「……どういう意味だよ」
「人と人が分かり合えるなんて、幻想よ」
慎の腕を押しのけて、壁に寄りかかった涼子は冷めた目で煙草の煙を吐き出した。
「誰だって心の底には、何をしたって分かち合えない闇みたいなものを持ってるのよ。私にしたって、慎さんにしたって――竜さんにしても、嶋木さんにしてもね」
「………」
「ついでに言えば、鬼塚さんにしてもだけど」
――え?
眉を寄せた慎の顔に、涼子は面白げに煙草の煙を吐き出した。
「そんな複雑な人の行動が、他人の簡単な憶測だけで読みきれると思ったら大間違い。うぬぼれもいいところよ。でもそうね、せっかくだから言ってあげるわ。何もかも慎さんの言うとおりよ」
「……どういう意味だよ」
吸いかけの煙草を携帯ケースに収めると、涼子はキャリーを持ち直した。
「竜さんが上宇佐田からいなくなる、そこまで私は計算してたってこと。じゃあね」
「ちょっと待てよ」
――くそ。
またこいつの言葉に惑わされている。
一体どこまでが嘘で、どこまでが本気なんだ。
世界七不思議のひとつだよ。あの単純馬鹿の匠己が、どうやったらこの女と付き合えていたんだろう。
「心配しなくても、行き先は吉野石材店じゃないわよ」
タクシー乗り場で、停車中のタクシーの側に歩み寄りながら、平然とした口調で涼子は言った。
「いずれにしても、また近いうちに会うことになると思うけどね。じゃあ慎さん、香佑によろしく。ここ数日海外にいたんで携帯に出られなかったんだけど、これからはちゃんと繋がるから」
「お前――ふざけんなよ」
「ふふ、……またね」
涼子を乗せたタクシーが、あっという間に走り去る。
慎は、話がひとつも通じない憤りをもてあましたまま、ただその場に立ち尽くしていた。
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