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「全く、ここ数日というもの、あんたんとこの噂を聞かない日はないほどだ。あ? もしかして、これがお前らの新しい営業か?」
「ああ、そういう考え方も」
「ねぇよ! 馬鹿じゃねぇのか、お前」
 ――なんだ、案外気に入らてんな、匠己の奴。
 上宇佐田の富士山石材店。
 所在なく事務所の応接室に座っていた慎は、隣室から聞こえてくる声に、少しだけほっとして息を吐いた。
 最近、頻繁に呼ばれてるからどうかと思ったけど、心配することもなかったか。
 匠己が結婚しててよかったよ。あの調子じゃ、富士山さんの娘を嫁にとかいう話が出てきそうだ。
 母親とほぼ瓜二つの娘の顔を思い出し、慎はぶるっと身震いをした。そん時は、俺、間違いなくあの店をやめてるな。
「珍しいわね、高木君がうちに顔出すなんて」
 ノックもなく扉が開いて、その母親――富士山社長夫人が茶を持って入ってきた。
「どうぞ、粗茶ですけど?」
「おかまいなく、すぐにお暇しますので」
 慎は型どおり断って置いてから、出された茶に口をつけた。
「ほんとに、あなたのところも大変ね」
 にんまりと笑って慎の正面に腰を下ろすと、ネチネチと嫌味な口調で、富士山夫人は続けた。
「お騒がせな奥さんをもらったばかりだっていうのに、今度は従業員の前科がバレちゃうなんて。墓石を扱っているだけに、祟られてるんじゃないの」
 そこで匠己みたいに、「ああ、そういう考え方も」と、天然にすっとぼけられたらどんなにいいだろう。
 慎はこめかみに浮かびそうになる怒りを忍耐で抑え、微笑した。
「今度、お祓いにでも行ってみます」
 それもそれで、可愛げのない切り返しになってしまった。富士山夫人が鼻白んだように肩をすくめる。
 しかしこの――いかにも有閑マダムみたいな貫禄あふれる夫人は、その実、あなどれない実力を持つ凄腕営業マンなのだ。
 慎にとっては、いわば、最強のライバルである。
 上宇佐田に張り巡らされた婦人たちのネットワークの、ほぼ中心にいるのが富士山夫人である。いまのところ、その輪の中に慎が入り込む隙はない。
 吉野石材店が、上宇佐田で仕事が取りにくいのは、この女帝みたいな女の存在が全てなのである。
 その富士山夫人より、さらに上位に立つのが鬼塚寿美子だ。
 上宇佐田の大地主で、地元の様々な会で代表や役員を務めている。富士山夫人の権勢も、見方を変えれば鬼塚寿美子の後ろ盾があるからだと言っても過言ではない。
 ――よりにもよって、その鬼塚さんを怒らすとはな。ある意味とんでもないチャレンジャーだよ、あの女も。
 鬼塚・富士山ラインには、間違ってもお近づきにならないのが賢明というものである。
 とはいえ、今日の慎の目的は、目の前に座るジャバ・ザ・ハットみたいな女と会うことだった。
「ちょっとお聞きしてもいいですか」
「仕事以外のことならね、なにかしら」
 仕事以外のことで、あんたと話なんかあるわけないだろ!
 内心そう思いつつも、営業スマイルのままで慎は続けた。
「先日のことなんですけど、うち、吉沢町にある永井ゴム店の社長さんから、仕事をいただいたんですよ」
「そういえば、長患いしてたお爺ちゃんが亡くなったって聞いたわね。でもおたくに発注?」
 富士山夫人は、訝しげに眉を寄せた。
「鬼塚さんを怒らせてしまった一件で、早々にキャンセルされました。今朝も謝罪に伺ったんですが、門前払いのような状況で。何かそのあたり、富士山さんのお耳に入っていないかと思いまして」
「永井ゴム店――ああ、あそこは鬼塚さんから土地を借りてるから……」
 言いさした富士山夫人は、太い眉を少しだけ寄せた。
「施主さんは? あそこは奥さんと息子夫婦がいるけど、どっちの方?」
「息子夫婦の方です」
 慎がそう答えると、富士山夫人の顔が皮肉っぽく笑み崩れた。
「そりゃ、高木君。キャンセルのいい口実与えちゃったわね。あそこはね、近所に弟夫婦が住んでて、兄弟間の遺産相続でそりゃあドロドロに揉めてるのよ。墓なんて、まだ作れる状態じゃないの」
「――そうなんですか」
 なんてことだ。
 敗北感でいっぱいにりなりながら、かろうじて平静を装って慎は顔を上げた。
「じゃあ、何故うちに発注があったんでしょうか」
「そんなこと私に聞かないでよ。君、頭がいいんでしょ、少しはここで考えたら?」
 馬鹿にしたような笑いを浮かべ、富士山夫人は自分の頭を指でつついた。
「そりゃ、利用されたんでしょうね」
「利用?」
「あそこは兄弟が二人いて、どっちもが店の権利と母親の相続分を狙ってるの。だから自分こそが店の正当な跡取りだって、親戚連中にアピールしたいわけなのよ」
 なるほどな。
 祭事を取り仕切れば、確かに自分こそが正当な相続人だというアピールにはなる。
「多分だけど、店の経理やってるお兄さん方のが、あれこれ口を出す弟への牽制もあって、さっさと墓を発注したんじゃないの? どこまで本気だったかは知らないけど、その程度で発注が取りやめになったのなら、しょせんポーズよ。話がややこしくなったら、あっさりキャンセルするつもりだったんじゃないの」
「まぁ、そんな気もしています」
 内心、苦いため息を吐きながら慎は言った。
 問題はそれを――涼子がどこまで認識していたか、だ。
「リサーチ不足ね、高木君」
 にんまりと、富士山夫人は勝利者の笑みを浮かべた。
「貧すれば鈍する、の例え通りよ。相続でもめてるところじゃ、誰が施主さんになるかってだけでもトラブルになるのは常識でしょ。焦ってガツガツ仕事を受けずに、そこは最初に押さえておかないと」
「仰るとおりです」
 それは確かに自分自身の失策だった。
 涼子は今までも、雑誌社の伝手を使って、いい仕事を取ってきてくれたことがある。それを信用しすぎていたのかもしれないが、それにしても―――
 涼子が、知らなかったはずがない。
 性格は最悪だが、慎にしても、涼子の営業能力の高さだけは認めている。
 頭もいいし、慎重だ。そんな初歩的なヘマをするとは思えない。
 でもわからないな、なんのために――?
 匠己の嫁への牽制だとしても、やり方が汚すぎるし、ひどすぎる。
 だいたいそれで一番の迷惑を被るのは匠己なのだ。
 匠己のことが好きな涼子が、そんな真似までしてライバルの足を引っ張りたいと思うだろうか。
 ――匠己の嫁が鬼塚さんに、特攻隊みたいな単独営業をかけたのも絶対に変だ。
 冷静に考えれば、ここ最近、おかしなことばかり起きている。
 眉を寄せたまま沈思した慎は、今日の、一番の目的を口にした。
「富士山さん、先日のパーティでのことですが」
「ああ、藤木クリニックさんの?」
 くすりと、面白そうに富士山夫人は笑う。
「あれは大変だったわねぇ。粗忽な嫁をもらったばかりに、お店の信用丸潰れじゃない。ま、最も高木君も最初の頃は、似たようなことばかりしてたけど?」
 軽く咳払いをして、慎は続けた。
「あの後、僕はすぐに帰ったんですが、うちの――社長の奥さんは、いつ頃まで残っていたんでしょうか」
 どうも気になる。
 まるで竜さんのことまで、自分のせいみたいな言い方だった。
 前日、あんな騒ぎの後だから帰りづらかったのかとも思ったけど、あの女の帰宅は確かにひどく遅かった。
 その翌日に、竜さんの噂が宇佐田町中に広まった。上宇佐田で起こした暴力沙汰って、まさかと思うがあの女絡みじゃないだろうな。
 その問いには、含んだように富士山夫人は笑った。
「あの子、藤木の副院長と幼馴染なんですってね」
 ――え……。
「あら、聞いてなかった? 私がみたところ随分親しげだったけど。おたくの店に以前少しだけいた涼子ちゃん? あの子も含めて三人で、なんだかひそひそコソコソやってたわよ」
「…………」
 やっぱり、涼子か。
「涼子ちゃんって、確かおたくの社長と元々つきあってたんじゃなかったかしら。ホント、大変な人間関係ねぇ。最近上宇佐田でもちょいちょい顔をお見かけするけど、彼女、仕事はどうしちゃったの?」
「さぁ、僕らにその辺りの事情までは」
 だから言わんこっちゃない。
 その噂が、不倫だのなんのと脚色されるのは、もう時間の問題だって気もするぞ。
「質問の答えだけど、結構遅くまで藤木さんのお宅に残ってたんじゃないの」
 空になった湯のみを下げながら、富士山夫人は言った。
「私が見る限り、藤木の二代目がずっとあの子につきっきりのようだったから。そういうところも馬鹿みたいに迂闊なのよね、あの子」 
 
 
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 背後に人の気配を感じて、まさかと思った香佑は、箒を持ったまま振り返った。
「おはよ。今朝も冗談みたいに暑いわね」
 違った……。
 落胆を顔に出したまま、香佑は力なく頭を下げた。
 高級犬を連れたおネエ和尚の良案だ。
 いつもの白い乙女ジャージ。でっぷり超えた顔に、玉の汗を浮かせている。
 正直、こんなにテンションが下がっている朝に一番会いたくない人種だ。
「あんた、昨日は吟さんとこの稽古をさぼったんだって」
 しかし、扇でバタバタ顔を扇ぎながら、ずけずけと良案は続けた。
「吟さん、ただのすっとぼけた爺さんだと思って舐めてたらえらい目にあうわよ。あたしがみるところ、下宇佐田で怒らせたら一番怖いのが吟さんなんだから」
「……忘れてたんです」
 力なく香佑は答えた。
「今日、電話しておきます。少し仕事が忙しくなって」
 秋祭りのステージに出られないことも、ちゃんと言わなきゃ。
 熱心に指導してくれる吟には悪いが、とても、そんな気分にはなれない。実行委員会も、できることなら断ってしまいたい気分だ。それだけは、惰性のように続けてはいるが。
 加納がいきなり姿を消してから四日が過ぎた。
 慎も匠己も、様々な伝手を使って加納の行方を探しているようだが、居所どころか連絡先さえ解らないらしい。
 多分、もう戻ってこない。
 自分が上宇佐田にいた一切の痕跡を消して、加納は姿を消してしまったのだ。
(まさか竜さんが、そこまで用意周到に準備してるとは思ってもみなかったよ。多分最初から、素性がバレたら出ていくつもりだったんだろう。部屋にも、家具らしいものは殆ど置いてなかったらしい)
(じゃあ、もしかして加納竜って名前も偽名……)
(そういうことだ)
 慎と宮間の、そんな会話を聞いてしまったのが昨日のことだ。
「もしかして、竜さん辞めたから、あんたの仕事が忙しくなったってこと?」
 良案の嫌味な声が、香佑を現実に引き戻した。
「別に、そういうわけでもないですけど」
 加納の仕事のフォローは、全て慎がやっている。その慎と、いまだ冷戦状態が続いている香佑には、正直、出る幕さえない。
 箒を持つ香佑を物珍しげに眺め回してから、良案は言った。
「竜さんいなくなったら、一体誰が墓掃除してくれんのよって思ってたけど、まさかあんたがやってくれてるとはね。見たところ掃き残しだらけで、到底竜さんの几帳面さには敵わないけど」
 言い返す元気もない香佑は、無言で箒を動かし続けた。
 背後で、良案がつまらなそうに嘆息する。
「――なによ、その半端ないテンションの落ちっぷりは。なんでタっくんの嫁が、竜さんのことでそこまで落ち込まなきゃいけないわけ?」
 思わず香佑は、ぴくっと肩を震わせている。眉をしかめて良案は続けた。
「まさかと思うけど、あんたのせいで竜さん消えたとかいうオチじゃないでしょうね。竜さんの性格からいって訳ありの暴力沙汰だとは思ってたけど、まさか――あんたなんかのために?」
 放っておいてください。
 咄嗟に喉まで出かけた言葉を、香佑は力なく飲み込んだ。
 どうして私なんかのために――とは今でも思うが、間違いなく、加納は香佑のせいで窮地に追い込まれ、この町を出ていくことになったのだ。
 私があんな馬鹿な真似をしなければ――私が、藤木悠介の言葉に騙されなければ――
 あの夜着ていた服は、全部ゴミの日に捨ててしまった。
 靴も――東京にいた頃から大切にしていた物だったから惜しくはあったが、今朝、思い切ってビニールにくるんで、燃えないゴミと一緒に置いておいた。
 もう二度と、あの夜のことは思い出したくない。
 自分がされたことよりも、自分がしでかした愚かさに耐えられなくなるからだ。
「で、あんたは一体何してんの? 毎日萎れて墓掃除でもしてりゃ、竜さん戻ってくるとでも思ってるわけ」
「…………」
「だったら教えてあげるけど、逆よ。むしろあんたが掃除を引き継いでくれるって判ったから、竜さん、安心してこの町出てったのかもしれないわね」
「どういう意味ですか」
 さすがに聞きずてならずに聞き返した香佑の目の前で、良案はふんっと鼻を鳴らすようにして顎をしゃくった。
「ここにあるのよ。竜さんの子どもと奥さんのお墓が」
「……………」
「そのあたり、死んだ親父さんからタっくんは聞いてるのかしら。生きてる時から死んでるみたいに無口な人だったから、もしかして聞いてないかもしれないけどね」
「お墓って」
 香佑は少しばかり動揺しながら訊いていた。
「それ、……もしかして無縁仏」
「そうよ。だからこのあたりに、ごっちゃになって埋まってんの。竜さんがこの町に来る三年も前のことだけどね」
「……………」
「当時は身寄りがないと思ってたから、うちの先代が役所から委託されてこの墓地に埋めたのよ。竜さんがやっと探し当ててうち訪ねてきた時には、もう掘り返そうにも無理だったって話」
 言葉が何も出て来なかった。そうだったんだ、だから竜さんは――毎朝、嫌な顔ひとつせずに、この墓地を掃除していたのだ。
 でも、だったらどうして。
「竜さん、本当にこの町を出ていったんですか」
「そうみたいね」
「でも、奥さんと子供さんのお墓があるのに――」
「あんたが掃除してくれるから、大丈夫だと思ったんじゃない」
「…………」
 迷うように視線を下げた香佑を、ふんっと鼻を鳴らして見ておいて、良案は丸っこい背中を向けた。
「あの、竜さんの奥さんはどうして――?」
 この町に来て、そして子供さんと一緒に亡くなってしまったんだろう。
「それ聞いてどうすんの」
 そっけない口調で良案が言った。
「興味本位で聞いてるなら、かえって竜さんに失礼よ。坊主にだって守秘義務があんの。タっくんにも言ってない話を、なんであんたなんかに話さないといけないのよ」
 別に興味本位じゃ――でも、そう言われると香佑には何も言えなかった。 
 そうだ、確かに聞いたところで、自分には何もできない。
 今までも、多分、竜さんの過去を聞く機会はいくらでもあった。それを私は故意に――深く関わるのを避けていたのだ。
 関わったところで、私には何もできないから。
「竜さんも、本当に馬鹿よ」
 良案の背中が言った。
「あんたみたいな中途半端な女のために、今まで積み上げてきた何もかもを無くしちゃうなんてね。先代への恩返しのつもりだったんでしょうが、せめてあんたがカラッと明るくやってないと、竜さんもなんのために町出てったのか、意味がわかんなくなるわよ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。