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「じゃあ、全部本当の話なの……」
 美桜の声が強張っている。
「まぁ、本当みたいだな。俺も正直、聞いた時は耳疑ったけど」
 慎は溜息をついて、ダイニングの椅子に腰を下ろした。
「逮捕当時の記事も見せてもらったよ。竜さん、東京のなんとか組ってところの組長でさ。――写真も見たけど、今とは別人みたいな人相だった。驚いたよ」
「組長とか……それ半端なヤクザモンじゃないっすよ。相当じゃないっすか」
 宮間が言葉に詰まるのが判った。
「竜さんが、元ヤーなのは知ってるけど、蘇芳会系の組長だったなんて……。ひゃー、こえーっつーか、ある意味雲の上の人っていうか」
「そりゃ、元ヤンのお前からみたらな」
 慎の声は暗いままだった。
「俺らからみたら、正直、地底のどん底の人だよ」
 香佑は、ざわめく気持ちを堪えながら、台所の扉を開けた。
 もう、美桜の耳にまで入っている――おそらくは、午前中の間のどこかで、町の人たちから噂が流れてきたのだろう。
 それはそうだ。平和で長閑で、事件といえば交通事故しか起こらないような田舎町。警察が家を訪ねてきたといえば、それだけで大ニュースである。
「あ、女将さん!」
 宮間が、待っていたというような声をあげた。
「大変なんっすよ。今日、俺と慎さんで営業に回ったら、なんか竜さんが大変なことになってて」
「もう聞いたんだろ、そんな顔してるよ」
 香佑を横目でちらっと見てから、慎は不機嫌そうに呟いた。
「お前は一体何聞いたよ。そりゃ吃驚だよな。俺も正直、しばらく思考がぶっ飛んでたくらいだからさ」
「別に……」
 香佑は重苦しい気持ちのまま、視線を下げた。
 自分がよく知っているはずの竜さんと、ヤクザの組長だった頃の加納という人が、どうしてもひとつに繋がらない。
 多分、その動揺と戸惑いは、香佑だけでなく、宮間や美桜、慎も同様に感じている。
「でも……噂でしょ、ただの」
 香佑は、自分に言い聞かせるように言って、シンクの前に立った。
「そんなの、竜さんに聞いてみないと分からないよ。色々聞きはしたけど、私は……あまり、信じてない」
「噂ならな。でも俺は、警察で直に聞いたんだ」
 素っ気ない口調で慎は言った。
 宮間が、諦めたように言葉をつなぐ。
「一体なんの嫌がらせだって、慎さん、怒って警察に文句言いに行ったんすよ。そしたら、……まぁ、なんつーのか」
 言葉を濁し、宮間は美桜と顔を合わせた。
「竜さんな。――詳しい事情は教えてもらえなかったんだけど、昨日上宇佐田で暴力沙汰を起こしたみたいなんだ」
 疲れたように慎は言った。
 香佑は息を飲んでいた。それは――
「もちろん竜さんにも言い分はあると思う。事情、俺たちはなんも知らないからな。ただそれでもやっぱり……暴力はよくないだろ」
 暴力って、なんなの、それ。
 話が余計に大きくなってる。藤木君言ってたのに、昨日のことは警察には何も言ってないって。
 シンクに立ったまま、香佑は動けなくなっていた。
 自分が思っていた以上に、昨日のことは最悪な形で続いているみたいだ。
 私――どうすればいいんだろう。
「被害も小さいし、相手の強い意向もあって、逮捕とか立件は見送るんだそうだ。――それも相手の人が、竜さんのバックを怖がってるからなんだってさ」
 溜息を吐きながら慎は続けた。
「事情を聞いた以上、警察としても放ってはおけないから、今でも暴力団とつながりがあるかどうかを確認して回ってるんだとさ。それでも、ひでぇやり方だとは思ったけどな。――ただ抗議しようにも、肝心の竜さんがもう逃げちゃってるんだ」
「逃げた?」
 香佑は顔色を変えていた。
 前を見たままで、慎が頷く。
「そのあたりは、匠己が確認しに行った。部屋は昨日の内に解約されて、今日にでも便利屋が荷物を引き取りにくるんだとよ。もうこうなると、俺にも何も言えなかったよ」
 香佑はショックのあまり、めまいさえ覚えていた。
「人……殺したのも本当の話?」
 表情を固くしたままで美桜が言った。
「本当に竜さん、人殺して刑務所に入ってたの?」
「さっき言ったろ。当時の新聞記事までご丁寧に見せてもらったんだ、俺」
 投げやりな口調で、慎は言った。
「当時の竜さん、ホストクラブやらキャバクラやら、五軒くらいの店のオーナーやっててな。どんな女も落とすってことで、その界隈じゃ相当有名な人だったそうだ。稼ぎはいいわ、腕っぷしは強いわで、瞬く間に組織の中で頭角を表したんだってよ」
 前を見たままで、慎は続けた。
「ま、そんな中で客とのトラブル――その客もヤクザで、:一種の営業妨害だったんだろうけどな。怒り狂った竜さんが、店の奥に連れ込んだ挙句、殴り殺したって話だよ」
 香佑は言葉をなくし、それは美桜も宮間も同じことのようだった。
「竜さん、それ裁判で全面的に認めて、五年の実刑。ヤクザ同士の喧嘩ってことで、随分大目に見られたんだろうけど――結局は三年くらいで外に出てる。その時、蘇芳会とは完全に手を切って、東京を離れたみたいだ」
「それで、うちに?」
「先代の頃の話だからな。今からもう十年も前の話だよ。匠己も、竜さんの詳しい過去までは知らないって言ってたから、今頃びっくりしてんじゃねぇか」
「匠己君も一緒に警察に行ったの?」
「あいつは、逆に呼び出しくらったみたいだぜ。ま、一応雇用主だからさ。お前らもその内、事情聞かれるかもしんねーから、覚悟だけはしといたら?」
シンクに両腕をついたきり、香佑は息ができなくなっていた。
「女将さん、どうしたんすか、顔色真っ青っすけど」
 のぞきこんだ宮間が、吃驚したような声をあげる。
「心配しなくても、そんな深刻なことにはなんねーよ。ただ、竜さんいなくなった後の店が大変ってことくらいで」
 慎が呆れたような口調で言う。
 そうじゃない。
 こんなことになったのは、全部私がしたことが原因なんだ。
 竜さんが消えたのも、あの人の過去が広まってしまったのも全部。
 全部、私の――
「疲れてんなら、自分の部屋で休んでろよ」
 慎が疲れたように立ち上がった。
「俺、店に戻ってるわ。なんか昨日に続き、電話がじゃんじゃんかかってくる予感がするし」
「竜さん、本当にやめちゃうの」
 美桜が不安そうに呟いた。勝手口の手前で、慎が背を向けたまま足を止める。
「やめる気で消えたんだろ。何があったのかは知らないけど、あの人の気性なら、俺らに迷惑かかると判った時点で、その判断になったんじゃないか?」
「……それでいいの、慎さん」
 美桜の問いかけには、しばらく重い沈黙があった。
「竜さんなら、どこでも上手くやっていけるさ。……変に噂が広まった町で働くより、その方が竜さんのためだと思う」
「――慎さん、待って」
 香佑は堪え切れずに振り返っていた。
 本当のことを言わなくちゃ。頭の中はそれだけで、他には何も考えられなかった。
 竜さんの不名誉な疑いだけは、私が晴らさないといけない。
 でないと、まるで悪者みたいに町を去っていく竜さんに、あまりにも申し訳なさすぎる。
「こ、今回、――竜さんは全然悪くないから」
「は?」
 慎が、訝しく眉を寄せる。
「わ、私が竜さん探してくる。竜さんが出ていく必要ないよ。だって竜さんは私を」
「うーっす、ただいま」
 その時、ひどく疲れた声がして、台所の窓から匠己が顔をのぞかせた。
 
 
「なんだ、また全員揃ってんだ。もしかして今からメシ?」
「竜さんのことだよ」
 あまりに場違いな質問に、慎が溜息をつきながら言った。
「一応簡単な事情だけ、こいつらにも説明しといた。で、警察の方はどうだった?」
「どうもこうも――正直、言葉も出てこなかったよ」
 匠己は靴を脱ぎ、台所の窓から中に入ってくる。
 いつにない思いつめたような表情が、事態の深刻さを表しているように思われ、香佑は言葉に詰まったまま、その場に立ちすくんでいた。
 警察で、匠己は何を聞いたのだろう。
 いまさら卑怯なようだけど、やっぱり昨夜の一件を匠己に知られてしまうのは、怖い。
「あの竜さんがなぁ……」
 立ったまま動けない香佑に代わり、美桜が冷茶を用意して、匠己の前に置いた。
「じゃ、お前、マジで先代から何も聞いてなかったの?」
「元ヤーさんで、懲役上がりってくらいはな。それ以上のことは全然知らなかった。まさに晴天の霹靂ってやつだ」
 匠己の対面に腰を下ろした慎が、はぁっと呆れたような溜息をつく。
「お前なぁ、せめてお前くらいは何もかも承知してろよ」
「いやぁ、知ってたら、安心していられたかどうか」
 匠己の発した意外な言葉に、香佑は少し驚いていた。
 少なくとも、匠己だけはそんな風には言わないと思っていた。
 竜さんのことは、親父が誰より信用していた、俺にはそれだけで十分だった。いつだったか、匠己はそう言って加納を庇っていたのに。
「本当言うとな、ちょっと前から、おかしいとは思ってたんだよ」
 眉を寄せ、腕組みしながら匠己は言った。
「おかしいって?」
「いや、だって普通さ、家出した奥さん迎えに行くのに、スーツと花束ってないだろ」
「……………」
 はい?
「その時から、竜さんってナニモンだ? とは思ってたよ。でもまさか、元ホストクラブのオーナーで、千人斬りの異名を持つ伝説の男だったとは……」
 しばし、唖然とした風に瞬きを繰り返していた慎が、同じ表情のままで言った。
「………匠己、お前さっきから、何言ってんの?」
「え、だから竜さんの――聞かなかった? 慎さん」
「いや、問題は――そっち?」
 全員の顎が落ちるのにも気づかず、眉を寄せたままで匠己は続けた。
「お袋が、いやに竜さんに入れ込んでたのはそのせいか、とかさ。疑っちゃわりーと思ったけどさすがに考えちまったよ。十秒見つめただけで女を落とすとか。守備範囲は男女問わずにゆりかごから墓場までとか。すげくね? すげーっつーか、やばすぎじゃね?」
「……………」
 しばらくあんぐりと口をあけていた慎が言った。
「もしかして、こんな時間まで、警察でその話ばっかしてたわけ」
「いやぁ……ついな、盛り上がっちまったよ」
 匠己は申し訳なさそうに頭を掻く。そして、あ、と思い出したように顔を上げた。
「で、竜さん、戻ってきた?」
「……………」
「あれ、なんで全員、黙ってるわけ?」
 数秒後――嘆息しながら顔を背けた慎が、耳の後ろあたりを指で掻いた。
「てか、竜さん、いまさら戻ってこれんのかよ」
「だって俺、辞めていいなんて一言も言ってねぇもん」
 匠己は、腕時計に視線を落としながら立ち上がった。
「やべ、富士山さんとこに呼ばれてんだった。わりー、今からちょっと出かけてくるわ、俺」
「でも竜さんは、辞める気なんだろ」
「まぁ、戻ってくるんじゃね?」
 ばたばたと台所を出て行く匠己の背に、慎が呆れたような声をかけた。
「どっから来るんだよ、その根拠のない自信はよ!」
 足を止めた匠己は、少し不思議そうな目で振り返った。
「だって竜さん、墓掃除大好きじゃん」
 しばしの沈黙の後、最初に吹き出したのは宮間で、次に笑い出したのは美桜だった。
 慎も、苦笑しながら立ち上がる。
「なぁんか、深刻に考えんのが馬鹿らしくなってきた」
「もう、いいじゃん。せめて私たちだけでも竜さんがいつ戻ってもいいようにしとこうよ」
「マジで竜さんのことだから、裏の寺院墓地が荒れ放題になれば、戻ってくるかもな」
 苦笑交じりに言った慎が、香佑をちらっと見て視線を逸らした。
「俺、ちょい匠己を送って来るよ。富士山さんとこなら、どうせ飲まされるだろうから」
 全員が去り、一人になった香佑は、へなへなと腰をついていた。
 昨日の夜もそうだった。
 また、匠己が空気をあっさり変えてくれた。
 絶対にこれしかないという思い込みを、軽く解き放ってくれた。
 そうでなければどうなっていただろう。
 自分はこの場で何もかもぶちまけて、そして藤木悠介のところに行くつもりだったのかもしれない。――

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。