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「えー、それ、本当の話なの?」
「本当らしいわよ。今朝早く――が来て、そんな話していったって」
「うちは昨夜、上宇佐田の親戚から電話があって。ほんと、怖くて眠れなかったわよ」
 なんの話……?
 もしかして私のこと? 違うような気もするけど――
 そんな風に思いながら、香佑はそろそろと和室の扉を開けた。
 二丁目の集会所。今日は下宇佐田講中婦人会の集まりである。
 昨日あんな事件が起きたばかりで、正直、甚だ行きづらかったが、ここで逃げたら、ますます顔を出しづらくなる。
 何を言われても平謝りで乗り越えよう。そう覚悟は決めていたものの、実際はひそひそ声を聞いただけで、足がすくみそうになっている香佑だった。
 案の定扉を開けた途端、びたっと中の会話が止まった。
 下宇佐田秋祭りにバザーとうどん屋を出店する準備とあって、今日は通常来ない人たちまで顔を出している。
 祭り実行委員で顔を会わせる水元志乃もいるし、初めて見る顔の奥様たちもいる。
 その全員が、香佑を見た瞬間、あっ、しまったみたいな目になって視線を逸らした。
 ――やっぱり、私の話だったか。
 香佑は軽い恐怖を覚えながら、小さく頭だけを下げた。
 昨日の今日でまさかね、と思ったが、田舎の情報網の速さは光なみだ。すでにとんでもない誤解が、町内でリレーみたいに駆けまわっているに違いない。
「ちょっと、吉野さん」
 原因が推測できるだけに聞く勇気もなく、ひとまず座敷の外に出ると、瀬川医院の娘、瀬川初枝がそっと袖を引いてくれた。
 香佑はいきなり救われた気持ちになり、咄嗟に口走っている。
「違うんですよ。藤木さんとは同級生ってだけで、別に何も!」
「え――? なんの話?」
 え、違うの?
 てっきり、昨夜藤木クリニックで起きた騒ぎが広まって、香佑が藤木と不倫しているだのなんだのという不名誉な噂が広まってしまったのでかないかと思ったのだ。
 正直言えば、それが不安で、昨夜は一睡もできない程だった。
 昨夜のことに涼子がどう関与しているのはか推測するしかないが、加納を助けに寄越した理由は、ひとつしか思いつかない。
 昨日の出来事を、吉野石材店の面々に――いってみれば匠己に知らせるためだ。
 そして、どう考えても言い逃れできない状況に自分はあった。
 籠城していた時間をあわせると、二時間近く藤木と二人きりで部屋に閉じ込もっていたのである。
 加納は何も言わなかったが、本当はどう思ったのだろう。
 他人の言うことを簡単に信じる匠己や無駄に疑い深い高木慎はどうだろう。考えるだけで絶望的な気持ちになる。
「じゃあ、何も知らないの? 吉野さん」
 瀬川初枝が眉をひそめた。
 瀬川医院の娘でもあるこの人と香佑は、未入籍がばれちゃった事件から、ちょっと親しい仲になった。
 といっても、五十を過ぎた初枝とは、わーっと話が盛り上がるようなことはない。大人で、周囲の空気を読むことに長けている初枝は、おおっぴらに香佑を援護することはないが、いつも励ましのメールをくれたり、さりげないアドバイスをくれたりする。
「実はね、今年の5月頃のことかしら……。上宇佐田で発砲事件があったのよ」
「はい? 発砲?」
 あまりに突飛な方向に話がいったので、香佑は思わず声を高くしていた。
 しっと瀬川初枝が指を唇にあてる。
 二人は、人目を避けるように台所の中に入った。
「発砲って、あの――もしかしなくても拳銃的な?」
「蘇芳(すおう)会って、聞いたことあるでしょう。日本で一番大きなヤクザ組織のことだけど」
 香佑は言葉を飲んでいた。
 その末端の末端だけど、構成員の一員と関わっていたことがあるからだ。
「有名な話だから知ってると思うけど、山一つ越えた隣県に、そこの本部があるでしょう。――もう東京に進出して随分経つから、本部といっても実態は支部みたいなものだというけどね。……まぁ、そういったこともあって、暴力団のトラブルが山を超えてやってきたんじゃないかって、その程度の話で終わったのよ」
「誰か撃たれたんですか?」
 初枝は、眉を寄せながら首を横に振った。
「停めてあった車に銃痕があったってだけ。結局誰がなんのためにそんな真似をしたのかは判らなかったって聞いてるわ。撃たれた車の持ち主も、普通の農家の奥さんだったし」
「あの、……それで」
 それが、私となんの関係が?
 5月なら、まだ香佑が東京にいた頃だ。そんな話、父からだって聞いたことがない。
「昨夜から今朝にかけて、その件で警察の人が聞き込みに回っているらしいのよ。言いにくいけど――おたくの、加納さんのことで」
 竜さん――
 自分の顔色がみるみる変わるのが、香佑には判った。
「加納さん、蘇芳会系暴力団の元構成員なんですってね。加納さんが訳ありなのは、この辺りの人は大抵知ってたけど、……まぁ、はっきりそうだって警察に言われるとね」
「まさか竜さんがやったっていうんですか。なんだって5月のことを今更?」
 声を荒げる香佑に、初枝は困惑したように人差し指をかざした。
「加納さんが、じゃなくて、加納さんに恨みを持ってる人の仕業かもしれないってことよ。いずれ耳に入ることだから言うけど、加納さん、東京でヤクザを一人殺して服役してたって……」
「……………」
「その報復だって言われれば、誰だって恐ろしいと思うでしょう。新古原さんなんて、即刻加納さんには町を出ていってもらうって言ってるし……、また、吉野さんのところに、徒党を組んで抗議に行くんじゃないかしら」
 香佑はうつろに視線を下げながら、考えていた。
 ――私のせいだ。
 ただじゃ済まさない、そう藤木は連呼していた。その時は、想像もしていなかった。まさか、こんな手で報復に来るなんて。
 今朝、珍しく加納は日課の墓掃除に来なかった。
 匠己も朝早く車で出ていったきりで、結局今日は、慎と二人で鬼塚邸に謝罪に行ったのだ。門前払いで、会ってさえもらえなかったが――
 その慎も、珍しく沈鬱な顔をして、黙り込んだままだった気がする。
 ――私……自分の心配ばかりで……。
 あれだけ世話になった加納のことを、すっかり忘れてしまっていた。藤木悠介が加納に報復することくらい、当然、考えておかなければならなかったのにー―
「ごめんなさい。私、今日はもう帰ります。皆さんにそう伝えてもらえますか」
「それはいいけど、吉野さん」
 急いで背を向けた香佑をいたわるように、初枝が小さい声で言った。
「あまり、大げさに考えなくても大丈夫よ。騒いでいる人は騒いでいるけど、加納さんの人柄を知っている人は逆に心配してるくらいだから」
「ありがとうございます」
 ほとんど気もそぞろになりながら、香佑は駆け足で集会所を後にした。
 今日に限って、竜さんが墓掃除に来ていない。
 それがただの偶然で、今の話となんの関係もないことを祈りながら、香佑はバッグから携帯電話を取り出した。
 
 
「ずっと待ってたんだ。絶対にそっちから掛けてくると思ってたよ」
 藤木クリニックにかけた電話は、すぐに副院長室につながれたようだった。
 藤木悠介の、いっそ呑気としか言いようのない嬉しそうな声に、香佑は携帯をへし折るほどの強さで握りしめていた。
「あんた……、一体、なんの真似よ」
「判っただろ、嶋木」
 せっつくように、藤木は言った。
「本当は昨日、あの場で忠告したかったんだ。吉野の店にいる加納って奴な、本当に危ない奴なんだよ。あんな奴を雇ってる吉野の気がしれない。俺はもう、嶋木のことが心配で心配で」
 その、あまりに勝手な、ひとりよがりの言い分に、香佑はしばらく言葉が出てこなかった。
「危険って」
 冷静になれ、自分にそう言い聞かせながら香佑は言った。
「一体あんたが、竜さんの何を知ってるっていうのよ」
「調べたんだよ。お前のことが心配で」
「はぁ?」
「あいつはな、蘇芳会系暴力団の幹部で、歌舞伎町でいくつも風俗店を経営していた凄腕のジゴロだよ。中国から女子供を密輸入しては薬漬けにして売春させるような、残虐非道のヤクザなんだよ」
 しばらく言葉が出てこなかった。嘘だ。竜さんがそんな――
「挙句、同じ組のヤクザを殴り殺して刑務所行きだ。その時に足を洗ったとかいう話だけど、どうだかな」
 俊敏な動作、女を蕩けさせるような美声。
 奥さんと子どもが無縁仏に入っている――
 香佑の中に、様々な思いが蘇る。
「過去をいちいちほじくり返すのもどうかと思ったけど、昨日のことではっきり判ったよ。あいつは堅気になんかなってない。根っからのヤクザで暴力を屁とも思わない危険な獣なんだ」
 藤木の意気込んだ声が、香佑を再び現実に引き戻した。
「お前だって、あの場にいれば判ったさ。道具も使わず扉を蹴破ったんだぜ? 扉を足で払いながら踏み込んで来た時のあいつの目――俺、本気で殺されると思ったよ」
 それは――あんたが、それだけのことをしようとしたからじゃない。
 とはいえ前科者の加納が、そこまでして香佑を助ける理由は一体どこにあったのだろうか。
 そこは、今考えてもよく判らない。
「ただ、その時起きたことは警察には何も言ってない。だから嶋木も蒸し返して騒いだりするなよな。言えば加納ってヤクザは間違いなく刑務所行きだ。――本当は訴えたかったけど、嶋木に迷惑になっちゃいけないと思ったんだ」
 それ、私の迷惑というより、あんたの保身のためなんじゃないの?
 そう思ったが、やはり一言も反論できなかった。香佑にしても、昨夜の出来事は誰の耳にも入れたくないからだ。
「それでも、極めて危険な元ヤクザが下宇佐田の吉野石材店にいるということは、市民の義務として通報させてもらったよ。最も警察でも、あの男の素性くらいとっくに掴んでたみたいだけどな」
 やっぱり――
 香佑はこめかみを指で押さえ、電話の向こうにいる藤木を睨むように目を細めた。
「じゃあ聞くけど、警察が、竜さんの過去をいちいち触れ回ってるのはどういうこと」
「え、なんだって?」
「いまさら――何ヶ月も前の事件を引き合いに出して、どうして竜さんの個人情報ばらまいてるのよ。それが嫌がらせなら、今すぐやめて。やめさせてよ!」
 香佑の口調から抑え切れない怒りを読み取ったのか、一瞬藤木が言葉に詰まるのが判った。
「それは――二階堂のやり方で、俺が直接そうしてくれって頼んだわけじゃない。だいたい俺にそんな権限があるわけないだろ。警察の判断だ、捜査方針だよ」
 言い訳がましい口調が、まさかと思っていたことの信憑性をますます高めさせる。
「あんた、警察署長の二階堂さんとは友達なんでしょ」
 悔しさを、握りしめた拳で逸らしながら、香佑は続けた。
「だったら、二階堂さんに言って、いますぐそんな馬鹿げた捜査やめさせてよ。仮に発砲事件に竜さんが関係していたとしても、竜さん、ただの被害者じゃない!」
 もしかしなくても、このままでは竜さんが町を出ていってしまう。
 多分、もう吉野石材店には戻ってこない。どういう理由からかは知らないが、昨夜のうちには、吉野石材店を去る覚悟を固めていたような気がする。
「さっきも言ったけど、俺にそんな権限はないんだ。――でも、努力してみるよ。二階堂は気心の知れた友達だから。が、それには条件がある」
 ――条件?
「俺のところに来いよ、嶋木」
 訴えるような口調で藤木は言った。
「俺と結婚してくれ。お前、吉野とまだ籍入れてないんだろ? その理由は涼子から聞いたよ。吉野とは何も恋愛感情から結婚したわけじゃないんだって」
 聞いた? 何を?
 あの馬鹿が涼子さんに、何を言ったの?
「俺と一緒になって、二人で藤木病院をやっていこう。うちのお袋、小学校の頃から嶋木を贔屓にしてただろ? 夕べ事情を話したらすぐに応援するって言ってくれたよ」
 は――はぁ……?
 そんな馬鹿な。いかにも子離れできてなそうなお母さんではあったけど、ありえないでしょ、普通……。
「オフレコだけど、加納ってヤクザはもうこの町を出ていったんだ。行方は、二階堂なら掴んでると思う。――嶋木が直接俺のところに来たら、あいつの居場所を教えてやるよ」
 なんかもう――
 なんなの、この最低な展開は。
 香佑は返事もせずに携帯電話の通話を切った。
 脅迫ついでにプロポーズとか、一体どういう感覚の持ち主なんだろう。そんな馬鹿げた条件、死んだって飲めるはずがない。
 香佑は携帯をバッグに滑らせてから、家の玄関の方に向かって早足で歩いた。
 駐車場から車が一台なくなったままだから、まだ匠己は帰宅していないに違いない。
 ――竜さん……、戻っててくれたらいいんだけど。
 それが、あまり見込みのない期待であることは玄関に入ってすぐ判った。
 まだ開店時間なのに作業場は静まり返り、そのかわりに全員がダイニングに集まっている気配がする。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。