28
 
 
 それでもまだ、気がかりがひとつ残っている。
 慎が事務所に戻り、匠己が自分の作業場に引き上げたので、香佑は一人で食事の後片付けをしていた。
 今夜の全ての成り行きを知っている涼子さんと、藤木悠介がどう出るか。
 特に涼子が何を考えているのか、香佑には全く判らない。
 どうして竜さんに連絡なんかしてくれたんだろう。
 匠己でもなく、慎さんでもなく、どうして竜さん……?
 涼子の何もかもを疑ってかかるのも嫌な気持ちだが、どうしてもその行為の裏に、何かあるような気がしてならない。それどころか、もう信じたところでなんにもならないという諦めの気持ちしか湧いてこない。
 いずれにしても、予想に反して、匠己も慎も、今夜の出来事は何も知らないようだった。
 藤木の口から匠己の耳に入る前に、自分から打ち明けた方がいいのだろうか。
 いや、もしかすると藤木が何も言わずにいる可能性だってある。彼にしても今夜の出来事は、隠しておきたい恥のはずだからだ。
 ――取り敢えず、明日竜さんに相談してみようか……
 迷った末、香佑はそう結論づけた。
 今夜、店がバタバタしているタイミングで弁明したところで、却って二人を煩わせるだけだろう。
 その時、背後の勝手口が開いて、慎が戻ってきた。
 振り返った香佑は、咄嗟になんと言っていいか判らなかったし、慎もまた、表情を固くしたようだった。
 昼間の大喧嘩以来、二人きりになったのはこれが初めてだ。まだ二人は、必要なこと以外一切口を聞いていない。
 ひどく気まずい空気の中、慎が視線を下げながらサンダルを脱ぐ。
「悪い、こっちに電話のメモを忘れたから」
「机の上?」
「いいよ。自分で取る」
 台所に入ってきた慎と、テーブルに手を伸ばしかけた香佑の視線が鉢合わせになった。
 いかにも不機嫌な慎を直視できずに、香佑は戸惑って視線を逸らそうとする。
 その刹那、慎の目が不審そうにすがまった。
「なんだよお前。その服、ボタンがいっことれてるぞ」
 ―――えっ。
「みっともねぇな。服くらい匠己に買ってもらえよ」
 慎の口調は軽いものだったが、香佑は多分――かなり動揺して、自分の胸元あたりを握りしめていた。
 しまった。そうだった。迂闊にも綺麗に忘れていた。確かに藤木ともみ合っている時、ブラウスのボタンがひとつだけ飛んだのだ。
 襟のあたりだったし、ボタンとボタンの感覚が狭いから、あまり気にもせずにそのままにしていたけれど――。
 慎が訝しげな表情で押し黙る。多分、香佑の反応に驚いたのだろう。
「じゃ、俺店閉めて帰るんで」
「お疲れ様」
 そっけなく答えた香佑は、急いでシンクに向き直った。
 ああ、本当に馬鹿だ、私。弁明どころか誤解されやすい状況作ってどうするんだろう。
 あ、まだ今日のこと謝ってない――そう気づいたのは、慎が勝手口から出ていった後だった。
 追いかけようとしたが、その勇気はさすがに湧いてはこなかった。
 これひとつとっても、とてもじゃないが、今夜のことは誰にも話せそうもない。
 ――どうしたらいいんだろ。私……。
 香佑は唇を噛んだまま、洗い桶の食器を見つめていた。
 
 
「おい、入るぞ」
 何日ぶりかに入った友人の仕事場は、ひどく乱雑な有様だった。
 まぁ、急ぎの仕事が入ってたからな。
 結局は流れそうだけど――そんなことを考えながら、慎は室内に視線を巡らせた。底が抜けそうなロフトの存在は、あえて無視する。
 匠己は椅子に座り、携帯を耳に当てているようだった。
 へぇ、と慎は意外に思った。
 原始人が珍しく携帯電話を使っている。
「おう、慎さん」
 しかし匠己は、あっさり携帯を置いて振り返った。
「どこかに電話?」
「いや、そう思ったけど繋がんねぇから」
 ――もしかして涼子かな。
 そう思いながら、慎は壁際の脚立に腰を下ろした。
「そろそろ帰るよ。あっち、あいつ一人になるから」
「そっか。遅くまで悪かったな」
 母屋に戻れよ。今夜くらい。
 そう言いかけた慎は、なぜか喉に何かが引っかかったようになって、咳払いをした。いや、別に俺がいちいち言うことでもないし。
「実は、ちょっと気になることがあってさ」
「んー?」
 立ち上がった匠己は、伸びをするように腕を伸ばす。
 腹が立つほど呑気な奴。俺たちが何日口きかなかったのか、マジで分かってんのかよ。
 こいつと喧嘩したらいつもそうだ。俺一人が怒って、イラついて、なのにいつも最後は俺が折れるんだ。今みたいに。
「永井ゴム。涼子が取ってきた仕事のことだけど、あれ、おかしくないか?」
「おかしいって?」
「ダメになった今だから言えることかもしんねぇけど、なんかこう、……施主さんの匂いがしなかったっつーか」
「…………」
「最初から、からかい半分で頼んできたんじゃねぇかな。涼子の前じゃ言えねぇけど」
「ま、終わった話だし、どうでもいいよ」
 返事の前に、わずかに沈黙があったので、慎は、匠己にも思うところがあったのだろうと理解した。
 そもそも、この話、匠己は最初から乗り気ではないようだった。「どうかな。俺、直接会ったことねぇしな」そう言って渋る匠己に、受けろ、と強く勧めたのは慎だ。その意味では、少しばかり責任を感じている。
「断ってきたタイミングもそうだけど、ちょっといやらしいな、と思ってさ。まぁ、こっちの落ち度といえば落ち度なんで、明日、謝りに行ってくるけど」
「………」
 やはり匠己は答えないまま、傍らの棚から愛用のノミを取り上げる。
 何かあるな、とは思ったものの、慎は息を吐いて立ち上がった。
「ま、そんだけだ。じゃあな」
「嶋木と仲直りした?」
 遮るように背を向けたままの匠己が言ったので、慎は思わず咳き込んでいた。
「はい?」
「しろよ。お互い意地張ってないで。特に原因もないんだから」
「おい、それをお前が言うか?」
 くそ、やっぱり見抜かれている。
 腹が立つほど鈍いくせに、時々嫌なところで鋭いんだ、こいつは。
「あのな」
 再び脚立に腰を下ろし、膝の上で手を握り合わせながら慎は言った。
 結局俺は、今夜、この話がしたくて来たんだろう。
「とんでもない誤解だからな」
「何が」
「何がって何もかもが。涼子や奈々海にされるならともかく、お前にされたら、俺の立つ瀬がないだろうが。なんだってどいつもこいつも、ありえない想像を俺に押し付けるんだ? それともなにか? お前の馬鹿嫁ってのは、そこまで魅力的な女なのかよ」
「まぁ……」
 匠己が笑いを噛み殺しているのが判った。
「慎さんが夢中になるほどかっていえば、そうでもないな」
「当たり前だ」
 てか、その言い方も癪に障るぞ。
「何が書いてあったんだよ」
 むすっと前を見ながら、慎は言った。
 この唐変木、いい加減お前から切り出しやがれ。
「奈々海から。俺が千葉に帰ってる間に、手紙かメールでも来たんだろ? あの馬鹿、一体何書いてよこしやがったんだ」
「手紙は嶋木宛だったから、あいつが持ってる。――まぁ、内容からそうだと思っただけで、実のところ誰宛かは、どこにも書いてなかったんだけど」
 慎は目を閉じ、一拍深呼吸をした。
 あの――クソボケ女。
「奈々海のやってくれそうなことだよ」
 額に青筋が立つのを覚えながら、怒りを懸命に堪えて慎は言った。
「で? 何か決定的なことでも書いてあったのかよ。とっくの昔に馬鹿嫁から言い訳されてると思うけど、確かに恋人のふりみたいなことはしたよ。クソみたいな三文芝居で、しかも時間にすれば一分足らずだ。騙される奴の顔が見てみたいほどの嘘くせぇ芝居だがよ」
「うん、聞いた」
 あっさりと匠己は頷いた。
「今の慎さんと、ほぼ同じ剣幕で似たようなこと言ってたよ。ほんと、波長みたいなもんがよく似てんな。あいつと慎さん」
「……俺が言ってる趣旨、解ってるよな?」
「解ってる。手紙に書いてあったのもその辺りのことだよ。二人がお似合いだったとか、慎さんが幸せでよかったとか」
「言っとくが、全部奈々海の脳内妄想だからな!」
 笑うように息を吐いた匠己は再び椅子に腰掛け、ノミの刃具合を確かめるように指をあてた。
「あのな、慎さん」
「なんだよ」
「その手紙な、全部嶋木に渡したわけじゃないんだ」
「…………」
 一瞬眉を寄せ、慎は匠己を見上げていた。
「どういう意味だよ」
「追伸っていうの? 後で気づいたら一枚だけ机の上に残ってた。嶋木がカンカンだったんで、追加で渡すタイミングがなかったってのもあるんだけど」
 そこで言葉を切った匠己は、少し考えるように眉を寄せた。
「結局は渡さなかった。まだ俺が手元に持ってる」
「だからなんで」
 少し黙ってから、匠己は言った。
「俺が慎さんだったら、絶対に読まれたくないと思ったから」
「…………」
 なんだよ、それ。
「それが誤解であれ、なんであれ、そんな形で自分の内面を暴露されるのは、たまんねぇな、と思ったから。――迷ったけどな。すげぇ自分が卑怯な真似してるような気がして」
「………ちょ」
「いいタイミングで嶋木に渡すべきだろうとは思ったけど、……そのタイミング、俺には永久に判りそうもねぇよ」
 なんだ、それ。
 おいおい、頼むから――話を大きしないでくれよ!
「持ってくるよ。作業場の机ん中に入ってるから」
 しばし呆然と、立ち上がる匠己の背を見ていた慎は、殆ど咄嗟に立ち上がっていた。
「いや、いい」
「いいって?」
「い――いちいち読み返して、恥の上塗りさせんなってことだ。お前の手で捨てといてくれ。何が書いてあろうが、間違いなく誤解だから」
 絶対に――死んでも、読まない方がマシなような気がするのは何故だろう。
 足を止めた匠己は、少しばかり困惑したように耳の裏あたりを指で掻く。
「てか、嶋木宛の手紙なのに、捨てるのもどうかと……」
「誰宛だろうが知るもんか。書いた本人から捨ててくれって頼まれたんだ。四の五の言わずにさっさと捨てろ」
「じゃあ、せめて慎さんが」
「絶対に嫌だね。てめぇが自己判断で手元に残したんだ。最後まで自分でケリつけろ!」
 下唇をわずかに突き出し、匠己は諦めたような息を吐いた。
「まぁ、いいけどさ」
「渡すなよ? 捨てろよ? 存在自体息絶えるまで口にするなよ? 奈々海には俺がよく言っておく。約束破ったら今度こそ本気で絶交だからな!」
 くそ。奈々海の奴。一体何書きやがったんだ。鈍い匠己がここまで気を使うってことは、相当乙女な内容だったに違いないぞ。
 確認したいけど、したら恥ずかしさの余り、そのあたりの田んぼに頭からダイブしたくなるに違いない。
「あいつ、何してた?」
 今度こそ帰ろうと立ち上がった慎の背で、匠己の声がした。
 あいつ――てめぇの女房のことかよ。
「俺が覗いた時は台所で片付けかなんかしてたよ。後は知るか。俺もずっと店にいたし」
「ふぅん」
 てか、気になるなら自分で行けよ。
 やっぱり、多少は落ち込むだろ。初めての営業で、あんだけ大きな失敗したら。
 俺が慰めようにも――完全に拒否されたしな。
 すごい強張った形相で、後退りされた。そんなに怯えさせるつもりじゃなかったのに。
 自業自得だけど、完全に嫌われたな。
「あのな」
 少し迷ってから、慎は言った。
「俺が悪いんだ」
「ん?」
「俺が――感情的になりすぎて、ここ数日、あの子を精神的に追い詰めてた。それも元を正せば、全部お前のせいなんだけどよ」
 背後の匠己から、返ってくる言葉はない。
 実際、なんの言葉も欲しくはなかった。
 これほど自己嫌悪で胸が悪い夜もない。自分が悪いと判っているのに、何一つ慰めもフォローも口にできなかった。――最低だ。
「あの子は悪くない。……落とした仕事の穴は俺が埋めるよ。まぁ、そんだけだ。じゃあな」
 
 
 ――感情的、ね。
 一人になった匠己は、軽く息を吐いて、ノミを取り上げた。
「そこで感情的になった理由までは、慎さん、考えねぇのかな」
 俺のこと鈍い鈍いっつってるけど、ある意味俺以上じゃん。
「………」
 慎さんは、自分の気持ちを抑えることに慣れている。
 それが当たり前のことだとさえ思ってる。
 そういう恋愛を――俺は慎さんに、二度として欲しくねぇんだ。
 これから先何年も、慎さんとは友達でいたいから。
 たとえこの関係が、どんな結末を迎えたとしても。
 ――ま、今はそれどころじゃないな。
 匠己は、なんら反応を見せない携帯電話を横目で見た。
 竜さん、どこに行った。
 留守電で辞めるって言われても、正直、わけがわかんねぇんだけど。
 匠己は棚の置き時計を見た。十時少し過ぎ。行ってみるか、今から。ああいう電話を残すくらいだから、無駄足だって気もしなくはないけど。
 息を吐いてノミを置くと、匠己は真っ暗な外に出た。
 母屋には、香佑の部屋にだけ仄かな明かりがついている。
 ――藤木のところに行ったのか……。
 さすがにそこは、少しだけ気鬱な溜息がもれる。
 やりたいようにしろとは言ったけど、さすがにその展開は予想外だった。
 今日の昼間、上宇佐田でパーティみたいな集まりがあって、そこで嶋木が営業をかけて失敗した。
 夕方、慎に聞いた情報はその程度のものだったが、富士山石材店に呼びつけられた時に、パーティの場所が藤木クリニックだったと教えられたのだ。
 同席していたのが涼子と藤木。
 それを聞いた時は、即座に家に引っ返そうと思ったほどだ。そのタイミングで加納から電話がなければ、実際そうしていたかもしれない。
(もし心配されていたらいけないと思って。今から、奥さんを家までお送りするところです。なに、ちょいと落ち込んではいますが、お元気ですよ)
 その時は富士山家にいたから、詳しい話はきけなかった。今にして思えば、竜さんは今日一日どこにいて、どこで嶋木を拾ってくれたんだろう。
 そして、その電話から数時間も経たない内に、退職を告げるメッセージを留守電に残すなんて……。
 ――藤木のところで何かあったわけじゃないだろうけど、……最近の竜さんの変化といい、ちょっと嫌な予感がするな。
 このタイミングで涼子と連絡が取れないのも、気にかかる。まぁ、涼子には昔からそんな気まぐれなところがあって、いったん姿を消してしまうと、どうしたって捕まらないのだが。
 それにしても、面倒な男が上宇佐田に戻ってきた。
 藤木悠介。
 小・中学校では、嶋木香佑と対を成す人気者だった。
 身長も高くてスポーツもできて、まぁ、匠己からすれば甚だ迷惑な気質だったが、ひとりよがりの男気みたいなものもあり、名実共に男子のリーダーだった。
 嶋木絡みで嫌な目には散々あったが、酔っぱらった女を部屋に連れ込むとか、少なくともそういうタイプじゃなかったはずだ。
「………」
 嶋木もそうだけど、東京ってのは人を変える何かがあるのかもしれないな。
 お守り袋のこともある。藤木とは一度シラフで話してみなければならないと思っていたが――
 まぁ、今は竜さん探すのが先決だな。
 停めてあった車の扉を開けると、匠己は運転席に乗り込んだ。

 
 
 
 
 
 
 
 

 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。