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「お腹は、空いていませんか?」
 運転席の加納に声をかけられ、後部座席にいた香佑は、はっとして顔をあげていた。
「い、いえ……」
「店は、少しバタバタしているようなので」
 穏やかな口調で、加納は続けた。
「あまりゆっくり、食事ができるような雰囲気じゃあないかもしれません。先に飯を食っておかれた方がいいと思いますよ」
「………」
 ――竜さん。
 なんで、そんなに優しいんですか。゜
 もしかしなくても私は今日、竜さんにとんでもない迷惑を掛けたのかもしれないのに。
 それだけじゃない。
 鬼塚さんの件では、店にも匠己にも迷惑をかけた。店がバタバタしているというのも、もしかして……。
「あの、竜さん」
 香佑は、あえて明るい口調で言った。
「実はこの近くに私の実家があるんですよ。ちょっと寄ってもいいですか。父に一度帰れってしつこく言われてて――」
 加納が何も答えないので、さらに明るい声で続ける。
「食事もついでに、実家で済ませちゃいます。帰りは父に送ってもらうんで、竜さん、先に戻っててもらっていいですから」
 先日、あんな嘘をついて帰ったばかりだ。いく子さんが悪い顔をするのはもちろん、父も不審に思うだろう。
 でも、――今は……吉野石材店の方には、その何倍も帰りにくい。
 バッグの中からは口紅だけが消えていた。何も落ちていないことを確認したつもりだったのに、それだけは拾いそびれてしまったらしい。
 一張羅の靴は、バックル部分の皮紐が切れていた。多分、その時に擦ったのだろう。今頃になって足の甲がひりひりと痛み出す。
 悔しさと情けなさで、ふっと目の前が滲んでいた。
 ――馬鹿みたい、口紅、買ったばかりで大切に使っていたのに。
 今の香佑には、定価三千八百円、割引で二千五百円でも、かなり高額な出費である。
 それでも今夜の自分への罰にすれば、安すぎだといってもいいだろう。
 ――てゆっか、なんかもう……。
 自分がとことん情けなくて、惨めで。
 高木慎には、逆切れした挙句に啖呵をきって、その後藤木悠介にあんなバカな目にあわされて。
 慎もそうだが、匠己だって絶対に呆れるに違いない。
 鬼塚寿美子を怒らせたことは、あっと言う間に下宇佐田のコミュニテイに広まっていくだろう。そうしてますます、吉野石材店は仕事を取るのが難しくなるのだ。
 何をやっても上手くいかない。こんなトラブルメーカーの私が、いまさら、どの面下げて吉野家に戻ればいいのだろうか――
「奥さん」
 不意に、静かな口調で加納が言った。
「面映いことを言うようですが、自分でしでかしたことから、目を背けちゃあいけません」
「…………」
「確かに今回、奥さんは沢山の失敗をされたようですが、それは自分で落とし前をつけにゃあならんのです。逆に言えば、その覚悟さえあれば、失敗なんぞ恐れる必要は何もねぇ」
「………」
 うつむいたまま、香佑は目を見開いていた。
 静かな口調で、加納は続ける。
「今はえらそうにしている慎公だって、社長にしたって、この業界に初めて足を踏み込んだ時は、奥さん以上に失敗の連続でした。誰だってそうです。自信なんてもんは、失敗を財産にして作り上げていくものですからね」
 ――竜さん……。
 開いたままの瞼が震え、香佑は懸命にこみあげてくる感情に耐えた。
「おこがましいことを言うようですが、てめぇから見れば、奥さんは失敗を恐れるあまり、色んな意味で中途半端になっておられるようだ。そいつはよくねぇ。何もしないほうが、まだマシなくれぇです」
「でも――」
 香佑は、初めて口を開いていた。
「りゅ、竜さんにはわかんないんです。私、本当に……ここ最近は、何をやっても失敗続きで」
 加納の言葉は全て最もだと思うのに、自分が何で反論しているのか、香佑自身にも分からなかった。
「それも、結構半端ない失敗で――怖がるなって言われても、無理です。取り返しのつかないことだって、この世には沢山あるんですから」
 人生を一変させて、二度と元には戻れない失敗だってある。
 どんな未来も怖くなかった子供の頃とはもう違う。
 この世界の闇の一端を、香佑は垣間見てしまったのだ。
「そうでしょうか」
 それでも、加納の口調は静かなままだった。
「確かにこの世には色んなことがありはしますが、絶対なんてもんは、所詮自分の中にしかねぇんです」
「…………」
 絶対は、自分の中にしかない。
 それは――それは、どういう意味?
「人の道を外れたてめぇが、偉そうに言ってる場合でもねぇんですがね」
 加納は苦笑まじりに言って、言葉を切った。
 香佑もまた、無神経なことを言った自分に気づいて、言葉が続かなくなっていた。
 私の何倍も人生の修羅場と悲しみを経験しているかもしれない竜さんに――私はなんて、自分勝手なことを言ったのだろう。
「少しお休みなさい。着いたら起こしてさしあげますよ。落ち込んでいる時は一眠りするに限ります。目が覚めると、案外気持ちなんて簡単に切り替わっているもんですから」
 その優しいバリトンを、香佑は両手を目にあてたまま聞いていた。
 どうしよう。
 竜さんの優しさに泣いちゃいそうだ。
 最近知ったことだけど、人って辛くされるより、優しくされた時の方が涙腺、壊れやすいんだな。
 でも、一体どうやってこの失敗をリカバリーしたらいいんだろう。
 仕事が取れないどころか、町内会にも顔を出しづらくなった。竜さんの言うことは判るけど、実際問題どうしていいのか見当もつかない。
 その上、もし藤木悠介が匠己にあることないこと告げ口したら――。それを、涼子さんが裏付けしたら?
 もう、どうしようもない気がする。
 再び逃げたい気持ちがこみ上げてきて、香佑は自分の身体を抱いた。
 匠己――匠己はどう思うだろう。
 ある意味今は、高木慎より顔を見るのが怖い。
 ――そういえば……。
 ふと気づいて、香佑は顔をあげていた。
「竜さん、どうして私の居場所が判ったんですか」
 もしかして慎さんから聞いたとか――まさかね。
 いくら慎さんでも、藤木が作らせたあの部屋のことまでは知らないはずだ。
「聞いたんですよ」
 淡々と加納は答える。
「誰に……ですか?」
「涼子さんに」
 ――え?
 暗い国道の向こうに、吉野石材店の明かりが見えてくる。
「あの、涼子さんが、なんて?」
「何も? 奥さんの帰りの足がないことを、気にされていたようですよ」
 どういうこと……?
 不安と疑念が渦を巻く。
 しかし、これで本当に判った。確かに涼子さんは、今夜藤木邸で起こることを知っていたのだ――
「すみません。私はこれから、人と会う用事があるので」
 前を見たままで加納は言った。
 え、と香佑は顔をあげている。
「時間がないので、奥さんを家に送り届けたら、すぐに行かなけりゃあなりません。今日は一度も店に戻れずに悪かったと、社長に伝えといてもらえますか」
「判りましたけど、……今の時間から、一体誰に?」
「古い昔の知り合いに」
 ――知り合い……?
 香佑は訝しく加納を見上げたが、それ以上加納は何も言わず、黙って前を見つめているようだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。