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25
「嶋木……、嶋木」
――私、何をしてるんだろう。
香佑は耳を塞いだまま、しゃがみこんでいた。
背後では激しいノックが響いている。
その度に足が震え、悪寒と吐き気がこみ上げる。香佑にとっては、先ほどよりもなお最悪の状況だった。
「なぁ、頼むからそこ開けてくれよ。もう、絶対にしないから」
「……叩かないで……」
香佑は細く呟いたが、独り言のようなその声が、扉を挟んだ隣の部屋にいる藤木に届くはずもなかった。
土壇場で逃げることができたのは、香佑が抵抗する気力をなくしたと思い込んだ藤木が、思いっきり無防備になってくれたからだ。
藤木のキスに頭突きで応酬した香佑は、さらに彼の向こう脛あたりを思いっきり蹴ってから、逃げようとした。
が、鼻血を垂らしながらも即座に追いかけてきた藤木が扉を塞いだので、反射的に、別の扉の方に走ったのだ。
そこは、藤木曰く「二人のために作った」とされる寝室みたいな部屋で、逃げ場は窓以外にどこにもなかった。――事態がますます悪化したと見た香佑は、咄嗟に扉の鍵を閉め、その前に机やら椅子やら、動かせるものは全て持ってきて――ひとまず籠城の体裁を固めたのだ。
再び扉が激しく叩かれる。
「出てきてくれよ。頼むから。俺が悪かったよ、本当だ」
間断なく叩かれる扉の音は、香佑に否応なしに東京の悪夢を思い出させる。
――だーかーら、もう隠れても無駄なんだって。
――出てこいよ。それとも俺がそっちに行こうか?
――なぁ、やらせろよ。俺、あんたに惚れちゃったんだよ、マジで。
「嶋木、開けてくれよ、頼むから!」
「……本当にやめて……」
香佑は頭を抱えたまま、自分の膝頭に突っ伏した。
その扉を叩く音だけで、気が狂いそうになる。もう、今の何もかもがどうでもいいと思えるほどに。
冗談みたいだ。まさか東京での最悪の思い出を、ここにきて再体験することになるなんて。
「じゃあ、いつまでもそこにいろよ」
藤木の声に、初めて苛立ちがにじみ出た。
「トイレも風呂もあるし、冷蔵庫には食料も入っている。吉野には俺が連絡しておくよ。嶋木は俺のところに泊まるから心配するなって」
いい加減にしてよ。
なんでそうも、思い込みが激しいのよ。
私、あんたのことなんか好きじゃないし、好きになる可能性は最早ゼロ以下なんですけど。
「2日も3日も帰らなきゃ、吉野もさすがに判るだろうさ。嶋木が俺のものになったんだって」
「はぁ?」
それにはさすがに声を上げると、扉の向こうから藤木の勝ち誇った声がした。
「今は俺のことが好きじゃなくても構わないさ。どうせ――嶋木にはもう、行く所なんてないんだから」
どういう意味よ。
「男の部屋で一晩過ごせば、誰だって疑うに決まってるだろ。吉野がどれだけ寛大か知らないけど、疑われたままで実のない夫婦生活を続けるより、俺と一緒になった方が何倍もいいに決まってるんだ。こうなったら絶対に、朝までこの部屋から出さないからな」
なによ、その無茶苦茶な理屈は――
この人、頭がおかしくなってるんじゃない? もしかして。
頭を抱えたまま、香佑は唇を噛み締めた。
自分はなんて馬鹿だったんだろう。
携帯もバッグも隣の部屋で、香佑に助けを求める術は何もない。
このまま朝まで閉じこもっていたら――悔しいけど、確かに藤木の言う通りだ。
藤木は匠己に、あることないこと好き勝手に言うだろう。私一人が何もなかったと抗弁したところで、果たして信じてもらえるかどうか。逆に、どうして部屋にまで行ったのかと、責められてしまうのがオチだろう。
本当に、馬鹿だ、私。
藤木の本性なんて、この前の同窓会でわかっていなきゃいけなかったのに。
なのにちょっとでも信用して、口車に乗って――馬鹿みたいだ。
「涼子をあてにしてるなら、無駄だからな」
それでも出てこない香佑に苛立ったのか、藤木が一際強く扉を叩いた。
――涼子さん……。
「涼子だって今夜のことは知ってるんだ。そもそも俺と嶋木をくっつけようしているのは涼子なんだぞ。俺と口裏をあわせてくれるさ。嶋木がどう言い訳したって、信じる奴なんて誰もいないからな!」
「…………」
やっぱり、そうだった。
信じたくないけど、ここに至った今では、何もかも高木慎の言うとおりだった。
苦手な人だとは思ったけど、一生懸命信じようとしたし、仲良くなろうと努力した。
匠己の好きになった人だから――涼子さんも辛い思いをしていると思ったから――でも……
彼女の底にあるものは、香佑が想像していたよりずっとずっと深いのかもしれない。正直、もう自分の判断の何を信じていいのか、香佑にはまるで解らない。
再び扉が激しく叩かれ、香佑はびくっと全身を震えさせていた。
「嶋木、開けろって!」
「もうやめてよ!」
香佑は、叫ぶように言い返していた。
「わかったわよ、開けるからもうやめて」
もう、扉を外から叩かないで。
頭がおかしくなりそうだから。
が、外から返ってくる言葉はなかった。その代わり、木製のものがへし折れるような凄まじい音がした。
――なに?
香佑はぎょっとして身をすくませた。
続いて、バキッ、メリメリッと何かが叩き割られる音がする。
まさかと思うけど、藤木君が、扉を壊そうとしている?
――冗談じゃない!
蒼白になった香佑は、反射的に部屋の隅の方に走って逃げた。窓を開ける――解っていたことだがここは五階で、飛び降りられる高さではない。
背後では、凄まじい音がまだ続いている。ついには荒々しい足音まで聞こえ始める。
「誰か――」
香佑は、切れ切れの声で、無駄と解って助けを求めた。外で、何か異常なことが起きている。半ばパニックになった頭で、理解できたのはそれだけだ。
再び扉が叩かれる。
「――奥さん?」
え?
半ば腰が抜けそうになっていた香佑は、その声に弾かれたように顔をあげた。
「いるんなら、出てきてくれませんか。もう大丈夫ですから」
穏やかで丁寧な美声。この声で、香佑のことを奥さんと呼ぶ人は、世界中に一人しかいない。
――竜さん?
なんで? どうして竜さんがここに?
まるで夢を見ているようだったが、救いの手が差し伸べられたのは間違いない。
香佑は急いで、積み重ねた椅子や机を跳ね除け、鍵を外して扉を開けた。
いきなり、安堵したような加納の顔が現れる。彼は仕事をする時と同じスタイルで、首にはタオルを巻いていた。
「怪我は?」
「大丈夫です」
とはいえ、靴は片方しかなく、多分髪も乱れている。しかも、床にはバックの中身が散乱したまま――加納が何を想像するか、考えただけで恐ろしかった。
もうこの状況ひとつとっても、何一つ言い訳できない立場に自分はいるのだ。
が、加納は普段通りの微笑を見せると、なんでもないように言葉を続けた。
「あまりお帰りが遅いので迎えにあがりました。もう、ご用件の方はお済みですか」
「は、はい」
「そうですか。では家に帰りましょうか」
「お、お前――吉野のところのヤクザだな」
その時、いきなり引きつった声がした。
あまりの異常事態の連続に、すっかりその存在を忘れていた。藤木である。
彼は部屋の隅――カーテンの影に隠れるようにして、ひどく怯えた目で、それでも加納を睨んでいるようだった。
「こ、こんな乱暴な真似をして、ただで済むと思うなよ。住居侵入の上に器物破損だ、お、俺は絶対に泣き寝入りはしないからな!」
こいつ――
さすがに香佑は、怒りで拳が震え出すのを感じていた。それはそのまま、こっちのセリフだ。
「言っとくけど、竜さんに何かしたら私が許さないからね。今夜の何もかもを警察でぶちまけてやるんだから」
「お、俺は何もしてないぞ。話の途中で、お前が勝手に隣の部屋に閉じこもったんじゃないか」
「はぁ? 何ふざけたこと言ってんのよ」
確かに未遂ではあったけど、でも明らかに強姦すれすれだったじゃない。
しかし藤木は、それだけは譲れないといった目になってまくしたてた。
「本当だ。お前がへんに誤解して暴れたから、抑えこもうとしただけで――冷静になったら、きちんと話をするつもりだったさ。実際、何もしてないだろ、俺」
――それは、まぁ、確かにそうではあるんだけど、それって結果論にすぎないじゃない。
「なのに、目茶苦茶にしやがって……、できたばかりの部屋なんだ、お袋になんて言い訳すればいいんだよ!」
藤木は半泣きになっている。
その視線の先を見れば、入り口の扉だ。それは蝶番が壊れ、半分が取れた形でキィキィと音を立てている。木目には幾筋もの亀裂が走り、ひどい壊れようである。
香佑はさすがに顔色を失っていた。
まさかと思うけど、これを竜さんが――?
細身で紳士的な性格からは想像もできないが、素手――いや、素足で蹴り壊したとでもいうのだろうか。
廊下には、騒ぎを聞きつけたらしい職員や看護士が怯えた顔で輪をなしていた。
「ぼ、坊ちゃん、本当に警察に連絡しなくても?」
「いいって言っただろ、余計な真似は絶対にすんな」
ヒステリックに藤木が叫ぶ。
「こいつらは――友だちなんだ。それに免じて、警察だけは勘弁してやるよ」
なに、その言い方――
単に自分の立場がないから、警察沙汰にしたくないだけじゃない。
歯ぎしりするほど悔しかったが、ここで警察が出てくれば、分が悪いのは、自分と加納も一緒である。
その間も、加納は淡々と香佑のバックとその中身を拾い集めてくれている。
驚くことにこんな状況なのに、彼の表情には、動じたものが全くなかった。
「今夜のことは、痛み分けにしておいてあげるわよ」
捨てセリフのように、香佑は言った。
「おかしな噂がたった場合、困るのはお互いでしょ。いい――? 竜さんに何かしたら、私もただじゃ済まさないからね」
「お前は何も知らないんだ、嶋木」
やけくそのように、藤木が叫んだ
「そいつは、前科者のヤクザだぞ? お前が思ってるより何倍も危険な男なんだ。誰がヤクザの言い分なんて信じるもんか。――いいか、絶対にこのままじゃ済まさないからな!」
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