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「鬼塚さんには、今、うちの母から電話を入れておいたから」
「うん……。ありがと」
 香佑は力なく微笑んで、ため息をついた。
「気にするなよ」
 ぼんやりと座る香佑の正面に、藤木悠介は腰を下ろした。
「鬼塚さんのことだけど、気難しい人ってこのあたりじゃ有名だから。気難しいっつーか、むしろ変人? 何が怒りどころかわかんないってうちのお袋もぼやいてたよ」
 全く慰めにもならなかったが、とりあえず藤木の意を汲んで、香佑は控え目な微笑を返した。
 最低のことをした挙句、最低のケリの付け方をした。
 どう贔屓目にみても、悪いのは勝手な真似をした自分だ。冷静に考えてみたら百歩譲っても、営業の高木慎にだけは事前に報告しておくべきだった。
 なのに慎の態度に腹を立てて逆ギレして、謝るべきところで意地を張ってしまって……。
「あのさ」
 うつむいたままで、香佑は訊いた。
 気持ちが沈む理由はもうひとつあった。
 この話を自分に持ちかけてくれた涼子のことだ。
「本当に鬼塚さんと話をしたのって、涼子さん一人だったの」
「悪かったよ、嘘ついて」
 視線を下げた藤木は、申し訳なさげに頭をかいた。
「そもそも涼子が鬼塚さんに、匠己が有名な仏師だって話を持ちかけんだ。そしたら鬼塚さん、匠己の店で墓を作る気になったって。――それ、涼子の勘違いだったのかな」
「…………」
 勘違いだったのだろうか。本当に。
「俺は後から入って、場所だけセッティングさせてもらったんだよ。その……嶋木にいいとこ見せようと思って」
 そんなことはどうでもいいんだけど。――でも、涼子さんは。
 私は確かに涼子さんの口から、鬼塚さんに墓を建てる意向があると聞いた。
 そこは、勘違いだったら怖いから、何度も口頭で確認した。
 でも鬼塚さんの真意はそうじゃなく、単に匠己に興味があっただけだった。
 それがもし、涼子さんの勘違いではなく、意図的に伝えた嘘だったとしたら?
 直前で、彼女が席を立ったのも意図的なものだったら……。
 香佑は、こめかみを押さえるようにして首を横に振った。
 違う。それは考えすぎだ。私が心の底では――慎さんに指摘されるまでもなく――涼子さんを信じていなかったから、そんな風に思えてしまうのだ。
 いくら涼子さんが私を疎んでいても、匠己の仕事の足を引っ張るような真似まではしないだろう。そこまでする理由が判らないし、そうだとしたら、匠己を好きだという根底まで崩れてしまう。
「なぁ、もう遅いけど、本当に食事は取らなくていいのか?」
「あ、うん。家戻って食べるから」
 とはいえもう家には――吉野家にはさすがに帰りづらい。
 なにしろ高木慎に、あれだけ啖呵を切ってしまったのだ。同時に携帯の電源も切ってしまったから、その後の吉野石材店の様子は何も解らない。
 もし鬼塚寿美子から苦情の電話でも入っていれば、慎だけではなく、美桜も宮間も、もしかしたら加納ですら、香佑のしたことに呆れているかもしれない。
 結局それら全てから、香佑は逃げてしまったのだ。
 冷静になってみれば、逃げずにすくに事情説明に戻るべきだったと思う。でも、そうはできなかった。
 あれから二時間も過ぎて――いまさら、どの面下げて家に戻っていいか、香佑にはますます解らなくなっている。
「……あのさ、嶋木」
 不意に思いつめた声で藤木が口を開いた。
「実は折り入ってお願いがあるんだ。この病院で仕事をしないか?」
 ――え?
「東京から戻ってきて驚いたよ。うちにはまともな仕事ができる事務員がいないんだ。みんな田舎町の縁故採用だからね。事務レベルは――お話にもならない」
「そうなの?」
 ああ、と苦い目になって藤木は頷いた。
「簡単な試験は受けてもらうけど、嶋木なら申し分ないよ。俺も、昔からの友達の方が、側に置くには信用できるし――月給は、手取りで二十五万くらいでどうだろう。もちろんボーナスもちゃんと払うよ」
 そんなに?
 という声が、喉のあたりにまで飛び出しそうになっていた。
 朝から晩まで働いて、自由になるお金は二万円足らず。吉野石材店とは、雲泥の違いだ。
「結婚してたって――働きに出るのは自由だろ? 別に吉野をどうこう言うわけじゃないけど、嶋木をあの石屋でただ働きさせるのはあまりにももったいないよ。それに、涼子に聞いたけど」
 言いにくそうに、藤木はそこで言葉を切った。
「店の経営、あまり上手くいってないんだろ? そういう意味でも、奥さんである嶋木が外に働きに出るのは、悪い話じゃないと思うけどな」
 うん……。
 自分がひどく迷っていることに驚きなから、香佑は曖昧に言葉を濁した。
 まずそれは、匠己に相談してみないといけない。彼はなんというだろう。いや、もう答えを香佑はもらっている。
 好きなようにすればいい――俺にも慎さんにも遠慮せずに。
「まぁ、でも私……家の手伝いとか色々あるし」
「だいたいなんだよ。あの高木っていういけすかない野郎は」
 遮るように、藤木は言った。
「たかだか田舎の石屋が何様だよ。嶋木が怒鳴られてるのを聞いて、正直目茶苦茶腹が立った。あんなのにいいようにこき使われてんなよ。マジであいつ、お前の価値が分かってないよ」
 またそこで、高木慎への反発がめらめらっと蘇りかけている。
 そうよ。確かにあんたの言うことは最もだわよ、高木慎。
 でもあんたの最近の怒り方は、言っちゃ悪いけど完全に八つ当たりじゃないの。
 ……何に八つ当たってるのかは分からないけど。
「ちょっと今から、病院の方に行ってみないか?」
「え?」
 慎のことを考えていた香佑は、その言葉の意味が解らないままに藤木に腕を取られていた。
「外来は休みだけど、入院患者がいるから、当番のスタッフは揃ってるんだ。どういう場所で仕事をするのか、一度見てみてくれないか」
 いや、でも正直、藤木君のところで働くのはちょっと――
 それでも、その場できっぱり拒否できなかったのは、まだ香佑の中に迷いがあったからかもしれない。
 もう、高木慎にいちいち文句を言われながら日々を過ごすのはまっぴらごめんだという思い。
 結局はお金がないから、私はあの男に何を言われても逆らえないのだ。
 今まで考えたこともなかったが、他所で働くというのは、確かにありだ。そうしたらもう、高木慎なんかにびくびくする必要もない……。
 
 
 病院は藤木家と隣接していて、廊下伝いに防火扉を開けると、もうそこが病棟だった。
 看護士と、見舞い客らしき人たちが照明の消えた受付フロアを行き来している。
 院内に、結構人がいると判った香佑は、ようやく藤木ヘの警戒を解いていた。
 院内を説明してくれる藤木はただただ熱心で真面目で、看護士らが彼を見るに目も憧憬が溢れている。
 まぁ、既婚者だし、立場のある人だし、今日はシラフだし、いくらなんでもこの前の二の舞はないか。
 どうせ断るつもりだったが、院内を案内する藤木があまりに鼻高々で嬉しそうだったので、香佑は彼の自慢に最後までつきあうことにした。
「――ここが俺のオフィスだ。そして嶋木の仕事場でもある」
「あの、藤木君、やっぱり私さ」
 その時には、香佑は断るタイミングだけを考えていたが、藤木が開けた部屋は、どうやら副院長室のようだった。
 広い部屋に、豪勢な応接ソファ。びっくりするほど画面の大きなデスクトップパソコンと、膨大な医学書が入った書棚に、香佑は一時、驚きながらも見入っている。
「……すごいね、このパソコン。テレビかと思っちゃった」
「最新機種だよ。今は患者のカルテも、全部ここで管理する時代さ」
 少し自慢気にそう言った藤木は、両手を広げるようにして香佑に向き直った。
「この奥に、二人の部屋を作らせたんだ」
「………」
 数秒またたきした香佑は、眉を寄せて藤木を見上げた。
「二人?」
「僕らの部屋だ」
 はい? なんでそこで「ら」?
「最初から、ここで嶋木にプロポースするつもりだった。結婚しよう、嶋木。俺なら、絶対に吉野よりお前を幸せにできる」
「は……はぁ??」
 それ、なんの冗談――と思った時には、いきなり距離を詰めた男に抱きすくめられていた。
 吃驚した香佑は、大慌てで両腕を伸ばして抵抗する。
「ちょっとやめて、あんた、頭でもおかしくなったんじゃないの?」
 懸命に逃れようとしたが、最初の油断が致命的だった。もがいても、体勢的に身動き取れない。
「ふざけないで、私もあんたも結婚してるでしょうが」
「涼子から聞いてないのか? 離婚したんだ、もう何の問題もないよ」
 はぁ? 聞いてないし、こっちは形ばかりとはいえ既婚者なんですけど?
「本気でやめて、大声出すわよ」
「防音が効いてるんだ。ちょっとやそっとじゃ聞こえないよ」
 ――冗談じゃない!
 この人、全然懲りてないじゃない。
 あっさり二の舞を踏んだ自分も、なんて大馬鹿者だったんだろう。
 遮二無二押し倒そうする藤木の顔を、香佑は持っていたハンドバックで思い切り叩いた。バックの中身が床に散らばる。
 よほど思いつめていたのか、藤木の力も死にもの狂いだ。
 無言というより声を出す暇もない必死の攻防の中、片方の靴が脱げ、ブラウスのボタンが飛んだ。そこに至って香佑はようやく、自分がリアルにレイプされるかもしれないという恐怖を覚えた。
「あんた、わかってんの? シラフでやったらマジ犯罪よ。私、本気で警察に訴えるわよ」
「やってみろよ」
 逃げられたら次はないと思い込んでいるのか、藤木の声も必死だった。
「そうなったら、吉野の方がむしろ分が悪くなるとは思わないのか。ここは俺の部屋で、嶋木は自分の意志でここまで来たんだ。責められるのは――嶋木の方だ」
 何言ってんの――
「それに警察だって……信じるかな」
「…………」
 警察を味方につけたら何かと便利だ。先ほどの藤木の言葉と涼子の意味深な微笑が蘇る。警察が本当の意味で市民の味方ではないことを、香佑はよく知っている。そう、結局あの人たちは、権力の下僕なのだ。
「なぁ、いいだろ。お前らが本当の夫婦じゃないことくらい、涼子から聞いて知ってるよ」
 香佑の迷いを感じとったかのように、藤木は勢い良く畳み掛けた。
「吉野だって、今でも涼子とセックスしてるんだ。あいつに義理立てする必要は何もないだろ」
 頭の中が、一瞬真っ白になっていた。
 握りしめていたバッグが手から落ちる。
 藤木の重みが、いきなり耐え難くのしかかってくる。それでも香佑は動けないままだった。
 
 
 
 
 
 
 

 

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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。