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「ただいま……」
 疲れきった香佑が家の扉を開けると、中は思わぬ歓声で溢れていた。
 ここ数日の最悪なムードに慣れきっていただけに、香佑は驚いて顔をあげた。外にBMWが横付けされていたから、涼子が帰ってきているのは判っている。
 歓声をあげているのは、美桜と宮間だった。
「マジすごいっすよ、涼子さん!」
「本当ですよーっ、涼子さん、正式にうちの営業になったらいいのに!」
 なんの話……?
「そんな大げさな、いつもお世話になっている、ほんのお礼よ」
 少し面映そうな涼子の声が聞こえてきた。
 三人がいるのは台所だ。
 香佑はそっと、磨りガラスの引き戸を開けた。
「あっ、女将さん」
「あら香佑、おかえり」
 美桜だけがぎこちなく視線を逸らしたが、宮間は目を輝かせて飛び出してきた。
「聞いてくださいよ、女将さん! 涼子さんが、そりゃあでっかい仕事を取ってきたんです」
「え、仕事……?」
「大げさよ、ノブ君」
 微笑んだ涼子は、座っていた椅子から立ち上がってエプロンを締めた。
「ただ新規のお墓の発注を、一件拾ってきただけなのに。――香佑、お腹空いたでしょ、何か食べない?」
「あ……うん」
 午後七時。まさか涼子が戻ってきているとは思わなかったから、今日は自分で作るつもりだった。
 が、シンクにはすでに夕食の残骸があり、それを美桜が片付けているようだ。
「少し待って、今、香佑の分を温めなおすから」
 その美桜を涼子が止めて、冷蔵庫から鍋を出し始める。
 ――なんか……ちょっと気が引けるな。
 ようやくこの華やいだムードの意味が、香佑にも理解できていた。
 数日前から家を留守にしていた涼子が、墓の仕事をとって帰ってきたのだ。
 誰にも言わないでと言うから言っていないし、理由も聞いてはいないが、今、涼子は会社を辞め、フリーで仕事をしているはずだ。
 本の出版以外にも原稿の執筆をいくつか頼まれているようで、いつも夜遅くまでパソコンに向かっている。どう見ても香佑以上に忙しい日々を送っているのだ。――それなのに。
 店のために仕事をとってきた涼子と、あいも変わらず町内会の仕事にかかりきりの香佑。それで、食事の世話にまでなるなんて。
 香佑が所在なく席につくと、対面の宮間が興奮気味に続けた。
「でも、師匠名指しのオリジナル墓でしょ? いやぁ、ぶっちゃけ、最近そういうでかい仕事はなかったから。師匠も、マジ喜んでますよ!」
「だったらいいけど」
 鍋に火をかけた涼子はますます控え目な口調になった。
「とにかく納期が早いから、匠己には大変な思いをさせることになるわね。匠己、もうこもりっきりで仕事にかかってるんでしょ?――あら、慎さん」
 涼子が不意に視線を向けたので、香佑は反射的に肩を震わせていた。
 ここ数日、もう話し合いなんて絶対に無理――みたいな険悪なムードを漂わせていた慎が、むっとした顔で勝手口から台所に入ってくる。
 慎は、テーブルについた香佑をちらっと見たが、その目はますます不機嫌そうになるだけだった。
「おい、涼子」
 慎は、顎をしゃくるようにして涼子を見た。
「予算と日程の件で、ちょい確認したいことがあるんだけど、事務所まで来てくれないか」
「そりゃ行くけど、ちょっと待ってくれる。今、香佑にご飯作ってるから」
 い、いや、涼子さん。ご飯くらい私が自分で作るから。
 が、香佑が慌てて席を立つより早く、高木慎の氷より冷たい目が向けられた。
「本当にいい身分だな、お前」
「………」
 なによ、それ。
「専業主婦みたいな暇な立場で、一日町内会で楽しくやって、帰ってきたらメシまで客に作らせるのか。本当に最低の社長夫人だよ」
 慎の言葉のあまりの辛辣さに、香佑だけではない、宮間も美桜も、少しばかり唖然として立ちすくんでいる。
「何が祭りだ、バカバカしい――うちの仕事とは何の関係もないのによ」
 なに、この人。
 匠己とのことで怒っているのはわかるけど、なんだって私が、こんな言い方されなくちゃいけないわけ?
「べ、別に」
 何も言い返せない悔しさと、理不尽な怒りに対する憤りで、香佑は、言葉に詰まっていた。
「い――言われてる意味がわかんない。だいたい、あんたにそんなこと言われる筋合いはないじゃない。言っとくけど、私だってこの家のことは」
 少しは、私なりに考えて――
「だったら仕事のひとつでも取ってこいよ」
 ますます冷淡な口調で、遮るように慎は言った。
「仕事もできないくせに、俺に口ごたえなんか死んでもするな。文句のひとつも言いたかったらな、少しは涼子を見習ったらどうだ!」
 なにそれ――
 何も反論できない目の奥が、悔しさでみるみる熱くなる。
 今、はっきりと判った。
 何が原因かよく判らないけど、私はもう、慎さんに嫌われてしまったのだ。
 もちろん、今言われたことの何もかもが正論だけど、慎さんが、こんな酷い言い方をするなんて思ってもみなかった。
 そして、それがこんなにも悔しくて悲しいなんて。
「ちょ……女将さん」
 宮間がおろおろと口を挟む。
 歯を食いしばったまま、香佑は拳を握りしめた。絶対泣かない。こんなことで簡単に泣いたりするもんか。
「もう……。慎さんったら、何を苛々してるのよ」
 どこか呆れた涼子の声が、その場の張り詰めた沈黙をようやく破った。
「らしくないわよ。なんでいちいち香佑に当たるの。仕事のことは、彼女には関係ないじゃない」
 歩み寄ってきた涼子が、そう言って、そっと香佑の手をとった。
「それに町内会の仕事だって、長い目でみればうちの営業よ。慎さんだっていつも言ってるじゃない。普段のつきあいが、なにより大きな営業活動だって」
 むっとした慎は、忌々しそうに息を吐くと、怒ったように踵を返した。
「うるせぇ、とにかくお前は早く来い」
「取ってくるわよ、仕事くらい」
 殆ど反射的に、香佑は言い返していた。
 というより、今感情を怒りに転嫁しなければ、本気で泣いてしまいそうだった。
 高木慎に冷たくされたことより、その直後に涼子に優しい言葉をかけてもらったことの方が、余計に感情のせきを壊しそうになっている。
「なによ、えらそうに。一体あんたは何様よ。墓の注文くらい、――とってきてあげるわよ。私だってひと通り、営業のことなら勉強したんだから」
 宗派も言えるし、墓の型も大雑把な値段も全部頭に入っている。
 やったことがないのは実地訓練くらいだ。
「一度も営業に回ったことがないくせに……」
 慎の声は、怒りを通り越して、最早呆れているようだった。
「出来もしないことを、開き直って言ってるお前こそ何様だよ。馬鹿馬鹿しい。行くぞ、涼子」
「香佑、あとで香佑の部屋に行くから」
 振り向き様に、涼子がそっと囁いた。
 悔しさとこみ上げる荒々しい感情で、香佑はその顔さえ、まともに見られない。
 そんな香佑の背中を、涼子は優しい手つきで撫でた。
「そんなに感情的にならないで……。大丈夫よ、慎さんなんか私たちで見返してやりましょうよ」
 ――どういう意味…?
 微笑した涼子は、香佑の耳元でそっと囁いた。
「まだ交渉中なんだけど、ひとつ、いい話があるの。心配しないで、私は香佑の味方だから」
 元気づけるように香佑の手を握り締めると、涼子は優しく微笑んで、慎の後を追っていった。
 
 
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「ちょっと、いい?」
 香佑が背後から声をかけると、一心不乱にスケッチブックに鉛筆を走らせていた男は、すこし不機嫌そうに顔をあげた。
「なんだよ、今忙しいんだけど」
 まぁ、そうだろうな。
 仕事中――どういう状態の時かは判らないけど、時々匠己がひどく機嫌が悪くなることだけは知っている。
 しかも涼子が取ってきた仕事は、通常じゃあり得ないくらい納期が早いそうだから、これから二ヶ月余り、匠己はその仕事にかかりきりになってしまうのだろう。
「まぁ、別に、用ってほどでもないんだけど」
 ベンチに麦茶と夜食を置いた香佑が言い淀むと、匠己は初めて鉛筆を置いて振り返った。
 軽く息を吐き、多分、自分の緊張をほぐそうと頭をかく。
「慎さんのこと?」
「違う。怒るわよ、それ以上この話題を続けたら」
「そういう意味じゃなくて――昨日だっけ、ひどくやられたらしいじゃん。お前が泣きそうだったって、ノブが言ってたから」
 全く余計な告げ口を――
 香佑は微かに息を吐いて、匠己の背後のベンチに腰掛けた。
「聞いてんのなら、一回くらい母屋に顔出しなさいよ」
 匠己は指で髪をかきあげると、一瞬天井の方を見てから、再びスケッチブックに視線を落とした。
「まぁ、お前と慎さんのケンカだろ。どうかな、俺が下手に口出したら、余計にこじれるような気がしてさ」
 なにそれ。
 ああ――ダメダメ。ここで腹を立ててる場合じゃない。今日は、ケンカするためにここに来たんじゃないんだから。
「ま、いいんじゃね?」
 香佑の辛抱など何一つ判らない呑気な口調で、匠己は言った。
「だいたいのところはノブに聞いたけど、あれも慎さんの愛情表現のひとつなわけだし」
「どこが!」
「どうでもいい相手に、慎さん本気で怒ったりしないよ」
「………」
「感情的になってんなら、何か理由があるんじゃねぇかな。ああ見えて根が優しいから、多分怒った端から後悔してるんだ。お前から話しかけてみろよ、案外あっさり仲直りできると思うけど」
 とてもじゃないけど、今の高木慎相手にそんな恐ろしい真似はできない。
 ――あんたは、最近の高木慎の刺々しさを何も知らないから……。
 高木慎とは、昨日から口も聞いていなければ目も合わせていない。
 もう香佑にしても、やられっぱなしというわけではない。多分慎以上の氷のオーラを、今は幾重にもまとっている。
 香佑は、はぁっと溜息をついた。
 てか、冗談でも、あんたの口から愛情表現とか、紛らわしいことは言ってほしくないんですけど。
 あんた、私の気持ちとか……、本当にちゃんと判ってる?
 私の好きなのは、あんた一人で。
 気持ち的に、迷ったことすらないっていうのに。
「今やってるの、涼子さんがとってきたっていう仕事?」
「うん、久々の大きな仕事だから、燃えるよな」
 再び鉛筆をとりあげた匠己は、子供みたいに楽しそうだった。
「やっぱり、それは、自分でデザインできるから?」
「そりゃな。墓はなんでも好きだけど、やっぱり遊べた方が楽しいから」
 遊び、ですか……。
 やっぱりあんたの性格にはついていきがたいものを感じるわ。
「明日中に、ラフのデザインを5つばかり出さなきゃいけないんだ。コンセプトも何もかもお任せだっていうからさ。逆にとっかかりがなくて迷うよな」
 匠己の足元には、すでに数十枚のちぎり取った画用紙が散乱している。
「涼子さんの、……知り合いの人?」
「上宇佐の永井ゴムの社長さん。仕事で知り合いになったって言ってたけど――ああ、悪い。用って結局なんだった?」
「ううん、なんでもない」
 香佑は溜息をついて立ち上がった。
「仕事の邪魔してごめん、じゃあおやすみ」
 ちらっと横目で見上げると、壊れかけのロフトの底には、不器用にベニヤ板が打ち付けられている。どうみても下手くそな造形だから、あきらかに匠己が自分で補強したのだろう。
 別にそこまでして、この絶叫マシンみたいなロフトで寝なくてもいいのに。
 おんなじ屋根の下で寝たって――別に、寝込みを襲いやしないのに。
「あのな」
 出ていこうとしたら、背後で匠己の声がした。
「前も言ったけど、俺に遠慮なんかすんなよ」
 むっとした香佑は言い返そうとして諦めた。駄目だ、この人。完全に誤解したまま、それを解こうともしてくれない。
「判ってる、最初から遠慮なんてしてないし」
「慎さんにも、しなくていいから」
 はい?
 唖然して振り返った匠己は、すでにスケッチブックに鉛筆を走らせている。
 そのままの姿勢で匠己は言った。
「そんだけだ。とりあえず、お前の好きなようにやってみればいいよ」
 なによ、それ。
 どういう意味よ。
「別に――慎さんには、する意味も義理もないんですけど!」
 香佑は少し攻撃的に言って、やや乱暴に扉を閉めた。
 やっばり、匠己は分かってない。てか、何が言いたいんだか、全く意味が判らない。
 相談しようと思っただけ、心の底から無駄だった。
「涼子さん?」
 匠己の作業場を後にした香佑は、すぐに携帯から涼子に連絡を入れた。
「昨日の話だけど、会ってみることにしたから。うん、向こうにその気があるなら、話すだけ話してみる。ふじき小児科――今はクリニックだっけ? そこに行けばいいんだよね」
 まぁ、私が行くより慎さんか匠己が直接行ったほうが、遥かに可能性は高いと思うんだけど。今の状況じゃ仕方がない。
 匠己は忙しくて、慎さん、取り付く島もないんだから。
 てか、見てなさいよ、高木慎。
 絶対に仕事を取ってきて、あんたをぎゃふんと言わせてやるんだから――
 
 
 
 
 
 

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。