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「え、慎さんと匠己がケンカ? どういうこと?」
 涼子は、携帯のイヤホンを耳に当てなおしながら言った。
 運転中。道路は渋滞で、空は少しばかり曇っていた。飲み忘れた薬を飲もうと思っていた涼子は、袋を助手席に置いてミネラルウォーターのペットボトルをホルダーに戻した。
 電話をかけてきた相手は、美桜だった。よほど深刻な状況なのか、その声は最初から動揺している。
「原因不明……? さぁ、もちろん私にもわからないわ。一体なんなのかしらねぇ。まぁ、心配しなくても、男同士なんてすぐに仲直りするわよ。慎さんと匠己なんて、十年近く親友やってんだから」
「でも慎さん、匠己君と口も聞かなければ目もあわせないってくらいの徹底っぷりで」
 美桜は、それでもまだ不安そうに続けた。
「ノブ君も、あんな深刻なケンカした二人は初めてだって言うし。どうしよう涼子さん。慎さんがこの店、出ていっちゃったら」
「それはないわよ」
 涼子は、美桜を励ますように優しく言った。
「慎さんは、吉野石材店が大好きなの。間違ってもそんなことはないから、安心しても大丈夫。それより、嶋木さんと上手くやってる?」
「え、ええ、……まぁ」
 たちまち陰った美桜の声を聞き、涼子は満足して微笑んだ。
「ごめんね。不本意だろうけど、今は彼女と仲良くしてあげてくれる? どうも彼女、私が美桜ちゃん使って意地悪してるって、慎さんにあることないこと吹き込んでるみたいなの。慎さんだけならともかく、匠己もその嘘を真に受けちゃって……」
「涼子さんに出て行けって言ったんでしょう? ほんと、信じられない。許せないです!」
「私もよ。でも仕方ないわ。今は彼女が、吉野石材店の女主人なんですもの」
 美桜の悔しさが、電波を通じて伝わってくる。
 涼子は笑いを噛み殺したまま、携帯を持ち直した。
「じゃあね、美桜ちゃん。私なら今夜には家に戻るから。うん、いいお土産があるの、本当よ。きっと慎さんの機嫌も直るわ、――じゃあ」
 携帯を切った涼子は、堪え切れずに唇に拳を当てた。
 てか慎さん――簡単すぎでしょ!
 嶋木さんを意識させて引き離そうとは思ったけど、まさか匠己とまで険悪になっちゃうなんて。
 一体あの夜に何があったのよ。多少は妬けばいいと思ってけしかけたけど、どうやらその夜に、決定的なことでもあったみたいね。
 簡単すぎてむしろ面白くない、みたいな?
 あの強情で潔癖な高木慎のことだから、不倫なんて不名誉な疑い、絶対に受け入れられるはずがない。もちろん、嶋木香佑との間には、一線も二線も引いてしまったことだろう。
 香佑にしても、不仲の原因が自分だと自覚している以上、――していなかったら、させてあげないといけないけど、今までみたいに高木慎を頼ることはできないはずだ。
 涼子は笑いを懸命にこらえながら、藤木の番号を呼び出して押した。
「あ、藤木君? 私、涼子。例の話なんだけど、少し急いで進めることにしたから」
 口うるさい小姑みたいな男が、ようやく圏外に消えてくれた。しかも思いの他早いタイミングで。
 後はあしらい易い人たちばかり――まぁ、一名、竜さんか。
 少しばかり読みきれない人がいるけどね。
 
 
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「社長、薬剤が違ってますよ」
 え? と手元を見た匠己は、ぎょっとして手にしたチューブを投げ出した。
 苦笑した加納が、そのチューブを拾い上げる。
「業務用の接着剤で墓を磨いちゃいけませんや。大変なことになりますぜ」
「……悪い、ちょっと考え事してたから」
 二人の頭上では、午後の太陽が燦々と輝いている。
 上宇佐田の町外れ――命日を控えた故人の墓を、年に一度無償磨くのは吉野石材店の伝統のようなものである。
 特製薬剤を使って本格的に汚れを落とすから、他の石材店ではまず無償でしたりはしない。出張代を含め一回あたり万単位で料金がかかる。
 こういうところも、他の石材店に、陰口を叩かれる一因なのだろうが、父の残した伝統を、匠己はそのまま受け継いだ。
(磨くんじゃねぇ、磨かせていただくんだ)
 墓は何年も――場合によっては百年先もありつづけなければいけないものだ。
 自分が作った墓が、年を追うごとにどう変化していくか。毎年墓を磨くことでそれを知り、新たな学びを見つけることができる。それが、職人としての修業になるのだ。
「竜さんがついてきてくれるなんて、何年ぶりかだな」
 ブラシで墓の溝を磨きながら、匠己は苦笑して言った。
「この墓掃除のやり方も、竜さんに叩きこまれたんだよな。久々に見られていると思うと緊張するよ」
「薬剤を間違えたことを除けば、全く問題ないでしょう」
 加納もまた、かすかに笑って竿石を手で撫でた。
「これだけ綺麗にしてもらえりゃあ、石も仏さんも喜んでおられるんじゃあないですかね。最後のチョンボは、見なかったことにしてあげますよ」
「は、はは」
 匠己は、腕で汗を拭って、仕上げ作業にかかりはじめた。
 昼下がり。周辺に人影はなく、二人しかいない土手沿いの墓地は静まり返っている。
「最近、命日が先の墓まで掃除して回ってるのは、うちの奥さんに掃除を教えるため?」
 バケツの水で小削ぎ落した苔を洗い流しながら、匠己は訊いた。
「そうですね。掃除は墓石屋の基本ですから」
 その辺りの道具を片付けながら、あっさりと加納は答える。
「ふぅん……」
 墓掃除は竜さんの専売特許みたいなもので、ノブにも手伝わせたことがないのに、そりゃあ随分気に入られたもんだ。
 てか、本当にそれだけが理由かな。ちょっと気になるんだよな、最近の竜さんの変化には。
 今日も、わざわざ俺の掃除につきあってくれるなんて、――
 まぁ、察しのいい竜さんのことだから、俺の態度の方を気にしてくれたのかもしれないけど。
「元気がないみたいですね」
 案の定、掃除道具を軽トラの荷台に乗せていると、背後から冷えた缶コーヒーが差し出された。
「そういうわけでもないんだけどさ」
 サンキュ、と、それを受け取ってから、匠己は荷台に腰を下ろして缶の封を切った。
 傍らに、加納も腰を預け、同じように缶コーヒーを口につける。
「慎公とケンカしてるからですか」
「ケンカ……」
 呟いた匠己は、コーヒーを一口飲み干した。
「じゃねぇって言ったら、今度こそ慎さん激怒するな。そうだよな、俺が売ったケンカ……なんだろうな、あれ」
 そんなつもりでもなかったんだけど、まぁ、今はそう取られても仕方がない。
 反応が見たかったなんて言ったら、多分、本気で殴られるだろうし。
「ふ……。その慎公も、めっきり辛気臭い面になりましたよ。原因はやっぱり奥さんですか」
「うん……ん?」
 うっかり頷いた匠己は、急いで否定しようとしたが、すぐに無駄だと気がついた。
 何も見ていないようでいて、その実加納とは、全てを見透かしているようなところがあるからだ。
 嶋木香佑との結婚が形だけのものだということを、匠己は慎以外には打ち明けていない。が、おそらく加納はそれすらも見抜いているに違いない。
「まぁ、色々……何やってんのかな、と思ってさ。最近の俺は」
 匠己は缶を傍らに置いて、晴れ渡った空を見上げた。
 慎さんまで怒らせて、一体何がしたかったんだろう。
 いや、何をするつもりだったのかは判っている。判っているのに――気持ちがそこに追いついていかないとでもいうのだろうか。
 傾斜地の上はクローバーの生い茂る平地で、眼下には川の水面が広がっている。
 匠己は荷台の上に、大の字になって寝転んだ。眩しくて目が痛い。手をかざして光を避ける。
 目を閉じると、思いだしてしまうのはやはりあの夜のことだった。
 ――反応、ゼロだったな。
 結構大胆な真似をしたつもりだったんだけど、怒りもしなければ、何故かと問われもしなかった。なんだったんだ、あの反応は。
 ただ、驚いたような目でこっちを見て――もしあの時、慎さんが来なかったらどうなっていただろう。
 どうもこうもない。ロフトの底が抜けて、どれだけ運がよかったとしても、多少のケガはしていただろう。
「…………」
 なぁ、言えよ。
 お前は俺のこと、一体どう思ってんだよ。
 なんで慎さんとつきあってるって誤解したくらいで、ああも眉つりあげて怒ったんだ。
 そこで期待した俺も単純だけど、その次の日にはもう涼子を泊めるとか言い出すし、マジで、女ってわかんねぇ。
 そして男は馬鹿だと思う。
 一度ついた火が――それが勘違いだと判ってもなかなか消えない。
 あの夜初めて感じた胸の弾力とか、肌の感触とか――ああ、もう勘弁してくれ。これ以上自分が、ただの男だと思い知らされるのはまっぴらゴメンだ。
 あの夜からずっと、嶋木を抱くことばかり考えている。
 顔をみれば、それが行動になりそうで、今は母屋に行くのも嶋木がいない時間を見計らうようになった。
 ――肩揉みなんて、もう絶対に無理だな、こりゃ。
 もともと冷や汗を掻きながら、なんとか小一時間耐えていた。とにかく涼子に、俺の気持ちを判ってもらうしかないと思ったから。
 それもあと少しの辛抱だと思っていたのに――
「…………」
 いずれにしても、このままじゃ無理だな。
 どこかでこの煩悩にケリをつけなきゃ、仮面夫婦を続けるなんて絶対に無理だ。
 これが一週間も前のことだったら、なるようになれと腹を括っていたかもしれない。
 でも今は……。
 あんな手紙を読んでしまった今は――
「悩んでますね」
「はは……」
 苦笑した匠己は、髪を指でかき回した。
「ない頭、何年ぶりに使ったかな。まぁ、考えても俺の頭じゃ、いい知恵も浮かばねぇんだけど」
「そういう時は、原点に戻ればいいんですよ」
 ――原点?
 加納が、少し離れた隣に腰を下ろすのが判った。
「ご自分が、直感でこうだと思われたことに、従えばいいのでは?」
「…………」
 俺の直感……。
 しばし考えた匠己は、眉を寄せながら首をかしげた。
「いやぁ、俺、自分の行動いちいち言葉で説明できねぇんだよな。そこまでつきつめて考えてるかって言われたら、実は何も考えてないし」
「それは、社長が、実は相当複雑な人間だからですよ」
 あっさりと、その辺の草を手折るように簡単に加納は言った。
「社長に比べたら慎公なんて、気が抜けるほど単純で扱いやすい男です。奥さんも慎公と似たタイプで、社長に似ているのは――いや、社長以上に複雑なのは、涼子さんくらいでしょうね」
「…………」
「涼子さんに関しては、私でもちょっと読めない部分がある。興味深い女性です」
 俺と涼子が似た者同士で、慎さんと嶋木も似た者同士。
 まぁ、その構図は、竜さんに言われるまでもなく気づいてたけど。
「坊ちゃんが――失礼」
 昔の呼び方を口にした加納は、すぐにそれを言い直した。
「呼び方なんてどうでもいいのに」
「いや、それじゃあ、ケジメがつきませんや」
 いくら社長も敬語も勘弁してくれと言っても、加納は頑として聞き入れない。二言目にはそれでは先代に顔向けできないという。
「社長が、東京の大学を辞められた時のことを覚えておられますか」
「…………」
 しばらく眉を寄せた匠己は、それが仏師修行に行くために大学中退を決めた時のことだと思いだした。
「ああ、覚えてる。お袋が反対して、もう大変だったよな」
「理由を言いなさいと問い詰められて、社長がなんと答えられたのかは?」
「………いや、全然」
 何か、適当な言葉を連ねたような気もするが。
「なんとなく」
「え?」
「仏像を見ている内になんとなくそう思った。そう仰られたんですよ」
 え―――??
 俺、そこまで適当なことを――?
 愕然とする匠己を見下ろし、苦笑しながら、加納は続けた。
「ミヤコさんは最後まで反対しておられましたがね。社長が東京に戻られた後、先代がすぐに仰ったんです。好きにさせてやればいいと」
「……親父が?」
 結局、許しの電話は母親からかかってきたような気がする。
 まぁ、それを待つまでもなく、すでに退学届けを出してはいたんだけど。
「社長のなんとなくは言い換えれば直感だと。社長の場合、むしろあれこれ考えると筋道が濁って判らなくなる。直感に従うのが一番いいんだ。――先代はそう仰られていましたよ」
「…………」
「私もそう思いますね。最初に直感で決められたことが、社長のような複雑な人には正解なのかもしれません。迷うなら、最初に戻られてみてはどうですか」
 ――最初………。
 最初か。
 俺、そもそもなんで嶋木と結婚しようと思ったんだっけ。
 失くした初恋を実らせるためか? あいつを石屋のカミさんにするためか?
「………………」
 いや、どっちも違うはずだ。
 あいつを他の誰かと無駄に結婚させたくなかった。
 確かにそうだ。それが誰でもいいなら、俺がその役につくべきだと思った。あいつをそんな風に汚してしまうのが耐えられなかったから。それは――今にして思えば俺のエゴだったのかもしれないけど。
 でも、それだけでもなかったはずだ。
(嶋木、香佑です……。よろしくお願いします)
 そうだ、それだけじゃなくて―――
 
 
 
 

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。