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「それはそれは、面白い経験をなさいましたね」
「笑い事じゃないんですよ、本当に」
 香佑は力なく言って、楽しそうな加納から視線を逸らした。
 その翌朝――香佑はいつものように、加納の墓掃除の手伝いをしていた。
 涼子への嫉妬うんぬんの部分と慎と匠己が険悪になったうんぬんの部分を差し引いて、うっかり匠己のロフトに上がって、それを慎さんに助けてもらっただけの話をしたのだが――話の途中から加納は笑い出し、どうも、真剣に聞いてもらえているような気がしない。
「と、とにかく、あの危険きわまりない代物を早く直してあげてください。あいつ、馬鹿じゃないの。あんなところで毎晩寝起きしてるなんて――」
 毎晩毎朝がスリリングすぎるじゃない。それでいて熟睡してるんだから、本当に気がしれないったら。
「まぁ、……社長もいい年をした男ですからね。さすがに無理だと思ったんじゃないですか」
 箒を動かしながら、独り言のように加納は言った。
「はい? どういう意味ですか?」
「もともと耐久性など無視した素人の手作りで、壊れるのは時間の問題だったんですよ」
 香佑の質問を無視して、淡々と加納は続けた。
「何度も修繕を依頼されましたが、実のところ、壊れるのを待っていたんです。でも、もう限界みたいですね」
「?……あの、さっきから意味がよく」
「まぁ、私なりに、お二人の関係は不自然だと思っていたので」
「………」
 どういう意味?
 しばし首をかしげながら箒を動かしていた香佑は、やがてその意味に気づいて、自分の耳がみるみる赤くなるのを感じた。
 ちょっ、ちょちょ、竜さん。
 その気遣い、むしろいらないっていうか、そういう部分は軽くスルーして欲しいんですけど!
 つまるところ、匠己のロフトが壊れてしまえば、匠己は母屋で寝るしかなくなると――そういうことだ。
 やっぱり、不自然に思われてたか――まぁ、それはそうだよね。
 匠己が毎日作業場で寝泊まりしていることくらい、多分、店員の全員が知っている。
 しょっちゅうケンカしてるし、ていうかそれ以前に、結婚してからは常に涼子さんが家にいるし――誰だって、こいつら大丈夫か程度には思うはずだ。
 それにしても、昨夜の気まずさといったらなかった。
 結局、慎に抱え上げられるようにして魔のロフトから救出された香佑だったが、その時の慎の凄まじく不機嫌な態度ときたら――いや、不機嫌というレベルではない。もう、話かけることすらためらわれるような怒りのオーラが、全身から立ち上っていたくらいだ。
 その怒りは、香佑というより、むしろ匠己に向けられていたようで、二人は殆ど口さえ聞かずに、奇妙な沈黙――というか、とんでもなく険悪なムードだけが、その場を包み込んでいたのだ。
 匠己も匠己で、いつもの飄々としたキャラはどこに行ってしまったのだろうか。明らかに失礼な頼みを慎にしたにも関わらず、それ以上謝るでもなく、誤魔化すでもなく、どこか思いつめた顔で黙り込んだままで――
 ああああ、どうすりゃいいのよ、この険悪ムードがもし今日になっても収まってなかったら。
 原因は、冷静になった今なら判る。
 奈々海さんの、あの手紙だ。
 おそらくだが、慎さんは、奈々海さんの手紙の存在を知っている。そして、それを匠己が読んだことも知っている。その上で匠己があんな態度を取ったと思ったから、ああも剣呑な表情をしていたのだ。
 つきつめてみれば、全てが誤解の上に成り立った茶番なのだが、匠己は完全に誤解しているようだし、慎さんは――多分、誤解されたことそのものを、怒っている。
 どうやら奈々海さんが投下した紙爆弾は、最悪の効果を引き起こしてしまったようだ。
「あの、私、あっちのゴミを片付けてきますね」
 加納に言い置いてから、香佑は溜息とともに歩き出した。
 ――慎さんと一度話さないとなぁ。
 悪いのは人の心が読めない匠己なんだけど、あんな馬鹿な誤解させちゃったのは、少なくとも私と慎さんの行動に原因があったわけだし。
 しかし、今の慎とまともに話ができるかどうか。
 自分と慎もそうなのだが、匠己を含め、三人が三人とも、互いの本心を言い合わないから、なおさら事態はややこしいことになっている。
 なんだか馬鹿みたいじゃない? 匠己にしたって慎さんにしたって、私のことなんか絶対好きでもなんでもないのに。
 まぁ、そのあたり、曲りなりにも夫になった人に本心を話されても嫌だけど――「こいつのことよろしくな」とか。「俺ら別に、本当の夫婦でもなんでもないから」とか。
 匠己なら本気でそう言っちゃいそうだ。
 嘘でも、俺の妻に手を出すな、みたいなことは言わないだろうし。
 そもそも、私のこと、本気で好きでもないんだし……。
 はぁっと、香佑は、ますます憂鬱になって溜息をついた。
 なのに昨夜は、雰囲気でキスしようとしたよね、絶対。
 まぁ、男なら、あの体勢でちょっとその気になるのは判らなくもない。でも、だからって、――少し軽薄すぎるじゃない。匠己のストイックで一途なイメージが、ガラガラっと崩れてしまったみたいだ。本当にどこまで最低なんだか。
 だいたい、ずるい。
 私一人を勝手にドキドキさせておいて、あの場で慎さん呼んじゃうなんて。
 無神経というより、残酷すぎる仕打ちじゃないの。まるで、浮気?した私と慎さんへのあてつけというか、皮肉みたいな。
 多分慎さんも、そう感じたから、昨夜はあれだけ怒っていたのだ。当たり前だ。親友と信じて苦楽を共にした相手に、あんな風に疑われて――
「しかも、手紙、大した内容でもないのに」
 箒を動かしながら、香佑は愚痴のようにつぶやいていた。
 二人がお似合いで嬉しかった、とか。まぁ、奈々海さんの誤解だと一言抗弁すれば、なんだ、と思える程度の内容だ。それに誤解なら、最初の日に香佑の口から解いている。高木慎の兄と偶然出会って、心ならずも恋人のふりをした顛末である。
 それなのに――
 思えば、あれだけ世話になっている高木慎相手に、匠己はなんて男らしくない真似をしたんだろう。
 そもそも匠己みたいな無頓着な唐変木に、そんな嫌味な真似ができるとは、思ってもみなかったけど……。
「あ、そういえば竜さん」
 加納がゴミを集めに来たので、ふと思い出した香佑は言っていた。
「夕べ、た――社長さんに、墓掃除のことを聞かれたんですけど」
「ああ、――なんと?」
 待っていたように加納が答えたので、香佑は少し不思議に思って顔を上げた。
「まぁ、何が聞きたいのかよく判らなかったんですけど、やたら墓掃除に出てるみたいだけどなんで? みたいな感じで。もしかして社長さん、墓の数も命日も把握してなかのかなと思って」
「社長は全部把握してらっしゃいますよ」
 淡々と加納は答えた。
「そうなんですか」
 まぁ、確かに社長ならその程度は――でもじゃあ、昨日の質問はなんのため? 何かを気にしているような態度だったけど。 
「あっらぁ、タッくんのおブスな馬鹿嫁じゃないの」
 その時、いきなり甲高い声がした。
 
 
「おはようございます。良庵和尚」
「あらあら、竜さん、朝もはよから、ご苦労さん」
 本当に腹の立つ人だなぁ、と思いつつ、香佑も加納に習って、丁寧に頭を下げた。
 祐福寺の良庵和尚だ。
 顔を上げると、ぎょっとするほど大きな犬――多分、小さな牛くらいはある、毛並みのふさふさした高級犬を引き連れている。
 こんな朝から、まさかと思うけど、高級犬をつれて呑気に散歩?
 別にいいけど、せめてフンくらい自分で取ってくれてるんでしょうね。
 香佑は少しばかりの疑念をこめて良庵を睨んだが、良庵はどこ吹く風で、扇子ではたはたと汗まみれの顔を扇いだ。
 むっちりした身体を包む、白いジップパーカーのジャージ。胸には<乙女>の二文字が墨痕隆々と刺繍してある。本当によく判らないけど、田舎の和尚さんってみんなこんなもの?
「あっついわねぇ、朝っぱらから」
「ええ、今日もいいお天気になりそうですね」
 加納はにっこりと笑って頷いているが、香佑はさすがに唖然としていた。
 おーい、良庵さん、それだけですか。私にはともかく、もっと竜さんには言ってあげることがあるでしょうに。
 これだけ毎日、おたくの墓地を綺麗に掃き清めているんだから――
「それにしても、残念ねぇ。鬼塚の奥さんの話だけどさ」
 しかし、良庵はいきなり話題を変えて、どこか恨みがましい目で香佑を見た。
「おたくにもうちにもいい儲け――もとい、とってもいい話なのにねぇ。富士山社長んとこで何もしないんだから、もっと積極的に、客取りに動いたっていいでしょうに」
 香佑は、おののいたように首を横に振って加納を見た。
 冗談じゃない。富士山夫婦の恨みを買うのだけは、これ以上勘弁だ。
 だいたい鬼塚寿美子にだって、香佑は多分嫌われている。いまだ挨拶しても視線を向ける程度の反応しか返してこないし、合同婦人会では完全無視の下っ端扱い。間違いなく、頼むだけ無駄だろう。
 しかし加納は、どこかしんみりした様子で、視線を下げた。
「ご主人を合同墓地に入れるお話ですか」
「合同墓地といえば聞こえはいいけど、無縁仏も同様じゃないの。あの金持ちが無縁とかありえないし、もったいないわよぉ。後で後悔しても、混ざっちゃった骨は取り出せないって、アタシ、何度も鬼塚さんに言ったんだけどねぇ」
「………」
 視線を下げた加納が見ているのは、この墓地の大半を占める――無縁仏の一角だ。しなびた墓の竿石部分が、ところ狭しと建てられている。
 それは、いわゆる合同墓ではなく、一度は親族によって建てられたものの、今では誰からも顧みられなくなった墓である。
 親族がいなくなったり、遠方に引っ越してそれっきりになってしまったり――そうやって見捨てられた墓は、祐福寺の決めたルールに則り、数年後には竿石だけを残して捨てられるのだ。
 お骨は合同墓に収められ、竿石は墓地の片隅にかためて置かれる。
 加納が見ているのは、その竿石が固めて置かれている場所で――合同墓は、そこから少し離れた場所に建てられていた。
 寄せ集められた無縁墓も含め、加納が毎日綺麗にしているのはこの合同墓である。
「だいたいさ、あんたんとこも、かなり経営が苦しいんでしょ、ぷっちゃけた話」
 ふん、と丸っこい鼻を鳴らしながら、良庵は続けた。
「タッくんの仏像の仕事も途切れちゃって。墓だってあんた、もったいぶって二年先まで予約がいっぱいだとか喧伝してるみたいだけど、新規の注文殆どないって聞いてるわよ。他所の石材店さんから」
 えっと、香佑は加納を見上げたが、加納の横顔は変わらないままだった。
「こないだも、せっかくトラックが墓石跳ね飛ばしてくれたのに、その修繕、全部富士山さんにもってかれたんでしょ。言っとくけど、取られた客は長浜さんだけじゃないわよ。富士山の奥さん、あんたのとこの顧客に次々声かけてるみたいだから」
 ――そんな……。
 トラックに壊された墓の話はちらっと宮間から聞いたものの、そこまで深刻な話だとは考えてもみなかった。
「富士山の腐れカボチャみたいな奥さんは、町内会で絶大な権力を持ってるからね。当然顔も広いし、人脈も深いのよ。タッ君も、どうせもらうなら、町内会でトップにたてるくらいの嫁をもらえばよかったのに」
 もう一度、いまいましげに鼻を鳴らすと、良庵は犬の紐を引き寄せた。
「そんな深刻な状況なのに、従業員の数は無駄に多いし、生意気に無職の嫁までもらっちゃってさぁ。本当に大丈夫なの、吉野石材店」
「私に、店の経営のことまでは」
 淡々と加納は答えたが、確かに良案の言う通りなのかもしれない――と、香佑は内心思っていた。もしかして加納がやたら墓掃除に出かけているのも、他にすることがないからだろうか?
「ま、竜さんには言うだけ無駄ね。おたくんとこは、慎ちゃんが全部仕切ってるから」
「慎がいなかったら、うちはとっくに潰れてますよ」
 苦笑まじりに加納が答え、それもまた、嘘でも誇張でもないと香佑は思った。
 あの馬鹿社長――その貴重な慎さん怒らせて、一体何がしたかったんだろう。
「てかさぁ、これは慎ちゃんにも言ってんだけど、もっとタっくんの腕の良さを大々的に宣伝しなさいよ。あの子の作る墓は、本ッ当に素敵なんだから」
 ――へぇ……。
 そこは、良庵の言葉に、初めて頷きたくなっていた香佑だった。
 なんだこの人、ちゃんと見てるところは見てるんじゃん。
「鬼塚の奥さんは、上宇佐田、下宇佐田の奥様連中に、ものすごい影響力があるのよねぇ。ほんっと残念。鬼塚さんの仕事がとれたら、何よりの宣伝になると思うんだけど」
「…………」
 確かに、それも良庵の言うとおりだ。
 もし、――そんなこと考えるだけで怖いけど、もし、鬼塚さんに営業をかけて、仕事を取ってこられたら。
 いやいや無理無理。絶対に無理。
 一瞬ひらめいた思いつきを、香佑は慌てて追いやった。
 ぜっかく少しだけ町内会にも馴染んできたのに、下手すれば全てを失うどころか――二度と顔を出せなくなる。
「まぁ、実際のところ、我にかえったら寂しくなるわよ、自分のダンナが無縁仏なんてサ」
 ため息混じりに、良庵は呟いた。
「それ、竜さんもよく判ってるでしょ。なんたってあんたの奥さんと子供が無縁仏になっちゃってんだから」
 ――え……。
 一瞬固まった香佑は、ゆっくりと加納を見上げた。
 加納は静かな横顔のまま、「それも、人様の決めることですから」とだけ言った。

 
 
 

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。