7
 
 
「大丈夫ですか」
「え、何がですか」
 驚いて香佑が聞くと、加納竜二は少し躊躇ったような微笑を浮かべた。彼はそうしながら、まだ真新しい墓石に白いさらしを巻いている。
「なんだか、顔色が悪いようなので」
「そんなことないですよ」
 色んな意味で元気がないのは本当だが、まさか今朝から始まった生理で、ガンガンにお腹が痛いとは言えなかった。
 しかし、鎮痛剤が効かないほど痛いなんて初めてだ。しかも、一日目。まだマックスには間があるのに――。
「私なんて、健康だけが取り柄ですから」
 香佑は、あえて元気よく言い訳した。「多分、日焼け止め塗りすぎたんです。真っ白になるまで塗りたくってきましたから」
「だったらいいですけど」
 加納は微かに笑うと、再び作業に没頭しはじめた。
 西村家の納骨式。
 午前九時半。香佑と加納は、下宇佐田の外れにある西村家の墓地にきている。山の中腹に建てられた小さな墓地は、前、匠己に説明してもらった屋敷墓地というやつだ。別名、地域墓地ともいう。
 昔からそこにあるという理由でもって、法律で許可された以外の場所に埋葬することが認められているという場所。
 晴天の空の下、綺麗な黒御影が日差しを受けて輝いている。彫り込まれた白い文字が真新しい。加納の説明だと、先月完成し、施工したばかりの墓石だという。
 その棹石部分に、加納は白いさらしを巻いていた。香佑は、その加納に指示されるがままに、周辺の落ち葉や枯れ木拾い集め、箒で綺麗に掃き清めていた。今、二人は納骨式の準備をしているのである。
「知らなかった。納骨式の前って、そんな風に、墓石にさらしを巻くものなんですね」
「納骨式ともいいますが、……正式には開眼法要というんです」
 淡々と加納は答えた。「新しい墓石に、魂を入れる儀式です。このサラシは、お寺さんのご指示があった時に外すんですよ。その時は、奥さんにもお手伝い願います」
「あ、はい」
 最後の文字が真っ白なサラシの下に消えていく。ふと気づいて香佑は聞いていた。
「前から聞いてみたかったんですけど、その文字は、うちの会社で彫るわけですか」
 南無阿弥陀仏とか、なになに家の墓、とか。
「そうですね」
「このお墓に限らず、お墓に刻まれた文字って、とんでもなく達筆だと思うんですけど、――あれも、うちで?」
 匠己の字が下手なのは判っているし、宮間に関しては読むのがやっとのレベルだった。慎さんは――おそろしく几帳面だが、ただ、几帳面というだけである。
「もしかして、竜さんが、字を書かれているんですか」
「いえ」
 加納は苦く笑って首を横に振った。「てめぇに、そんなおこがましい真似は死んだって出来ません。うちで作る墓の文字は、あれは全部社長が下書きされたものを、私が彫り込んでいるんです」
「へぇ……」
 ん――もしかしてその社長って?
「も、もしかして、それって、よし――いえ、うちの社長のことですか?!」
「そうですよ」
 あっさりと加納は答え、香佑は顎を落としてた。
「社長がオーダーメイドで受けた墓は、彫りも全部、社長一人でなさいます。仕入れた既成の石に文字を彫る時だけが、私の仕事なんです。うちはオーダーメイドと既成品の二種を扱っていますから」
 その辺りは、もう香佑も知っている。
 既成品の墓石を磨いたり水平にしたり、名前を彫ったりしてから施工するのが、加納と宮間の仕事で、オーダーメイドの墓を作るのが匠己の仕事だ。
 高木慎は営業と経理と電話相談。香佑が店のことで、知っているのはそのくらいだ。
 やはり、白いさらしを巻いた台座を墓の前に置きながら、加納は続けた。
「亡くなられた先代も見事な文字を書かれましたが、正直、匠己さんはそれ以上です。もちろん、施主さんの希望があれば、プロの書家に依頼をかけますがね。デザイン文字といって、今はそういうものが流行っているようですよ」
 そんなことより、香佑は匠己が――あの匠己が、おそろしく達筆であることに、ただ唖然と顎を落とし続けていた。昔は下手だった。間違いない。書道の時間に墨で絵を書いて、叱られていたこともよく覚えている。
 信じられない―― 昔の弱々しいいじめられっ子が、一体どこまで、多才さを魅せつけてくれるんだろう……。
 何故だか、余計に気持ちが重くふさぎ込んだようになって、香佑は黙って箒を動かし続けた。
 なんかだかもう、何をしても匠己には一生追いつけないような気がしてきた。
 昔は明らかに香佑が先を走っていた。ついて来られない匠己にイライラしたこともある。恋愛でも、まぁ、いい風に解釈すれば、香佑一人がませていて、ひたすら先を走っていたのかもしれない。
 今にして思えば、たった一年、あとたった一年で、匠己はその香佑に追いついてくれたのかもしれないのだ……。
 ――もう二度と、あんな冷たくて馬鹿で、無神経な男に恋なんかしない。
 東京に行くことになったその日、走りだした新幹線の中で、香佑はそう自分に言い聞かせた。
 匠己を好きになった(のかもしれない)その日、香佑は大切に持っていた恋の神様を無くしてしまった。悪い風に解釈すると、それが報われない五年間の片思いの始まりだったのかもしれない。
 あのお守り袋さえ出てくれば、二人の関係のなにもかもが変わるかもしれないと思ったが、結局それは、最後まで出て来なかった。
 匠己と自分の関係は、もう変わることはない――何をしても。
 香佑はそう思い、上宇佐田時代の何もかもを忘れてやり直すことにしたのだ。
 もう二度と、あんな冷たくて馬鹿で、無神経な男に恋なんかしない。もう二度と、吉野匠己に恋なんかしない――
「今日はお天気でよかったですね」
 加納の言葉で、香佑ははっと我に返った。
「天気予報では雨でした。ずっと気がかりでしたが、ご施主さんの思いが天に通じたんですね。感謝です」
「そうですね」
 少し慌てて相槌を打ちながら、香佑は自分の心が何一つ目の前のお墓や施主さんに向いていないことに気がついていた。
 それだけとっても、墓屋の女房失格――なのだろう。
「開眼法要自体はすぐに終わりますから、昼前には店に戻れますよ」
 黙りこんだ香佑をどう思ったのか、加納が気遣うように言葉を継いでくれた。
「奥さん、六時から町内会のお仕事が入ってましたね。お送りしますよ。今夜は仕事で、そちらの方に回るので」
「そんな時間に、なんの仕事があるんですか?」
 店を留守がちな加納の仕事に少しだけ興味があって、香佑は聞いた。
「墓の掃除です」
 掃除――?
 それが仕事? そう思った香佑は瞬きをした。
「朝、いつもやってる墓場の掃除ですか? 箒で掃いたりとか?」
「そうじゃないです。墓石本体の掃除です。専用の器具や薬剤を使って、石を磨きに行くんです」
 額の汗を拭って、加納は続けた。
「うちは、一年に一度、店で施工した墓石の掃除を無償で行なっているんです。先代の頃からのやり方で、匠己さんも、暇を見つけては掃除に行かれていますよ」
「そうなん、ですか……」
 一年に一度。店で手がけた墓を全部。
 よく判らないけど、結構な量――なのではないだろうか。
「私は掃除が好きなので、社長に頼んで、専ら、私が行かせてもらうようにしているんです。ありがたいことです」
 加納の仕事ぶりを見ろ、と言った慎の言葉を、香佑は改めて思い返していた。
 掃除という、一見石屋にとっては畑違いの仕事ですら、加納は一切手を抜かない人なのだ。吉野石材店の裏手にある寺院墓地は、朝は枯葉一枚落ちていない。無数の墓石も卒塔婆も、全て綺麗に清められている。
 立派な人だなぁ。と思いながらも、香佑は少しばかり、加納の底にあるものを不思議に思っていた。
 匠己が、墓石に熱中するのは、彼が単純に石が好きだからだ。その中でも、とりわけ墓石が好きな理由はよく判らないが、フリーク的な匂いがすることだけは間違いない。
 高木慎は生計の糧として――というより、石好きな友人のサポート役として、この業界にいる気がする。だから、そこに執着や熱意はあまり感じられない。もしそんなものがあるとすれば、墓石ではなく匠己の才能に惚れているのだろう。
 竜さんは……よく分からない。
 この人は、一体何に執着して、この店にいるんだろう。
 まぁ、そもそも店にいる理由すら分からない私が、人のことをあれこれ思ってる場合でもないんだけど。
 
 
              8
 
 
「なんていうんですか 。もっとこう――目玉が欲しいと思うんですよ。最後に全員でわーって盛り上がれるような」
 香佑の言葉を、車座になって座る祭り実行委員会の役員たちは、難しげな面持ちで聞いている。
「それで、人気コンテストなんてどうかと思いました。この町で一番人気のある人を決める、みたいな感じの。いわば、町の顔を決めるんです」
 下宇佐田秋祭り実行委員会、今日は二回目の会合である。
 町内のお偉いさんや、上宇佐田町内会役員まで集結した一回目の会合とは違い、下宇佐田の町内会役員ばかりが集まった二回目の会合は、いつもの集会所で行われていた。
 午後七時から始まった会合は、何一つまとまらないまま一時間が経過し、今はもう、八時を軽く過ぎている。
 準備があるから、香佑は午後六時には家を出たが、その時にはまだ匠己は戻ってはいなかった。
 涼子も昨夜から家を空けているので、もう香佑は、匠己の行方は気にしないことにした。
 一体、二人して、どこで遊んでいるのやら。
「でものう、吉野の奥さん」
 司会者で、町内会会長でもある岩崎巌(いわさきいわお)が、気難しげに口を挟んだ。
 つるっとした禿頭に、いかにも頑固者そうな険しい目と口角の下がった唇。どんなに話が進んでも、大抵はこの人の一声で引っくり返される。つまるところ、人の話を聞く能力が著しく弱い男だ。
「あんたは初めてでわからんじゃろうが、毎年、くじびきが、最後の一大イベントなんじゃ。それで、祭りは大いに盛り上がる。皆、くじびきを、それはそれは楽しみにしとるからの」
「ほんとに」「そうですよねぇ」と、古参の役員たちがいちいち頷き合う。それに勢いづいたように、岩崎会長はうんうん、と頷いて続けた。
「なにも今更、新しいものを持ってこなくてもいいんじゃないのかね。だいたいそういうことは、去年の反省会で話しておかないと」
「その通りですよ」
 と、したり顔で相槌を打ったのは、新古原夫人だった。
「若い人の意見だからと思って我慢して聞いてましたけど、祭りそのものを知らない人にああだこうだ言われるのも、ねぇ」
「そうそう、一度経験してみてから、仰っていただかないと」
 いや……。
 と、立ったままの香佑は、疲れが顔に出そうになるのを懸命に堪えた。
 てか、新しい企画考えてこいって、そう言われたから、発表しただけなんですけど。
 馬鹿正直に考えてきた私が、本当にただの馬鹿じゃない。
「ま、今年もくじ引きでいきましょうや」
「そうですねぇ。やっぱりくじ引きで決まり、ということで」
「他に案はないようですし、後も全部、例年通りということで」
 なんなの、一体、この会議。
 香佑は、腹の痛みを堪えながら、着席した。
 祭り企画会議が聞いて呆れる。一時間話しあった挙句が、何もかも例年通り??
 よく判りました。ここは、新参が口を出せるような、そういう場じゃないんですね。
 新古原夫人にまたやられた。挨拶がてら、祭りの企画をひとつ考えてきてちょうだいって――だから、昨夜、一生懸命考えてきたのに。
 しかし、ここで苛立ちを顔に出してもどうにもならない。
「すみません。初めての私が、つい熱く語っちゃって」
 明るく謝った途端、新古原夫人が、香佑を目で促した。みなさんにお茶を、細い目がそう告げている。そうだった。私は元々、お茶出し要員で、ここに呼ばれているんでした。
 香佑はにっこり笑って立ち上がった。我慢我慢、スマイルスマイル、とにかく今は、印象だけはよくしなくっちゃ。
 何故だかここで投げ出したら、黙々と掃除をする加納に、顔向けできないような気がした。昨日までは殆ど萎えていた気持ちは、今朝、加納の仕事ぶりを見てから、不思議と立ち直りかけている。
 頑張ろう。地道にやってれば、いいこともあるさ。うん。
 ただしそれは、匠己と涼子を抜きにして、の話である。
 そこに思考がいくと、テンションはとめどなく下がりっぱなしだ。とりあえず、今は考えないことにするしかない。
 ――それにして、本気でお腹痛いな。
 台所に立つと、ひんやりとした冷気のせいか、背中のあたりがぞくっとした。
 朝から鈍い痛みを持っていた腹は、六時間置きに鎮痛剤を飲んでも、一向に改善する兆しがみられない。
 ――おかしいな。生理の量も少ないし、こんなにお腹痛いこともないんだけど。
 気のせいならいいけど、軽い吐き気がするのはなんだろう。もしかして食あたり――まさかね。一度牡蠣にあたったことがあるけど、こんなもんじゃなかったし。
 が、茶菓子用に買ったカステラを袋から出した途端、甘い匂いに胸がむかむかした。一気に軽い吐き気が、強い嘔吐感にとってかわる。
 ――え……?
 香佑は、驚きながら、ハンカチで口を覆って、隣のトイレに駆け込んだ。
 まずい、マジで吐く、これ。
 トイレの中には、折悪しく用を足した後なのか、ハンカチを手にした新古原夫人が立っている。一瞬目があったが、香佑に言い訳するだけの余力はなかった。
 和式トイレでかがみこんで嘔吐する香佑の背後で、「ど、どうしたの、吉野さん!」と、新古原夫人がパニックになっているのが判った。
 ひと通り吐いた香佑は、冷や汗を拭って振り返った。
「す、すみません。ちょっと……胃が悪いみたいで」
「と、とにかく休んで。家の人に連絡しないと!」
「ほんと、大丈夫ですから」
 香佑は断ったが、その端からまた嘔吐感がこみ上げてくる。立ち上がれない香佑の背後で、どやどやと人の気配がした。
「どうしたの」
「それが、吉野さんが吐いちゃって」
「あらまぁ」
「誰か、吉野石材店に連絡して。とにかく迎えに来てもらわなくちゃ!」
 ああ――そんな大袈裟なことじゃない。だいたい間違っても今、匠己なんかに迎えにきてほしくない。
「あの、本当にいいですから。感覚的に病気とかじゃないですし」
 香佑は必死に声をあげた。多分生理痛がひどいあまり、つい吐いちゃっただけだろう。そんなこと初めてだけど。
 が、そう言った直後、何故だか周囲に奇妙な沈黙が満ちた。
「病気じゃない……」
 え、何、この雰囲気。
「それならなおさら、早く横になって!」
「そうそう。携帯あるなら、自分でご主人に連絡する?」
「早く、連絡してあげないと」
 はい?
 香佑はやや慄きながら、自分を見る人達を見回した。
 ――なんだろう、この空気。
 なんか皆さん、おかしな誤解をされてるような気がするんですけど……。
 
 
 
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。