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「吉野君、まぁ、一杯どうかね」
 刺身を口に運んでいた匠己は、その言葉に、箸を置いて顔を上げた。
 上宇佐田にある、商工会議所の二階。
 その和室を二間、ぶち抜きで借りきって行われているのは、『宇佐石の会』の社長会である。
 簡単に言えば、上宇佐田と下宇佐田、両町にある石材店や、石を扱う関連会社の社長同士で集まって飲みましょう、という会だ。
 一応、石の会には登録してはいるものの、基本、町内の同業者とつきあいのない吉野石材店――匠己にしてみれば、顔を出すだけ無駄なことこの上ない会合であった。
 死んだ父の代から参加していないし、できることなら、このままずっと不参加で通したかったのだが――
「いただきます」
 匠己が伏せてあった盃を持ち上げて差し出すと、すぐに湯気の立つ日本酒が注がれた。
 にこやかな笑顔で、徳利を手にしているのは、石の会、会長である永谷園吉蔵(ながたにえんよしぞう)である。
 豊かな灰色の髪に大柄な身体。品のいいグレーのスーツに身を包んだ男は、上宇佐田町で、老舗の造園会社を営んでいる。
 上宇佐田の町内会長も務めている有力者で、いずれは市会議員に立候補するのではないかと言われている人だ。
「これは若いだけあって、いい飲みっぷりだ。さぁ、もう一献」
「ありがとうございます」
 まいったなぁ。あんま、好きじゃねぇんだけど。
 そう思いながら、匠己は一息に盃の中を飲み干した。
「さ、もう一献」
「……どうも」
 判った。こういう場合、全部飲んじゃいけないんだな。
 学習した匠己は、半分ほど飲んだ盃を卓上に置いた。
「若いね」
 自分も盃を取り上げた永谷園は、しみじみと言った。
 俺のことか、もしかして。
 そう思いながら、匠己はその盃に、取り上げた徳利を傾ける。
「まだ、二十八ですから」
「ははは。この中では一番の若い社長さんだ。お父さんは残念だったね。いい職人さんだったが――」
「その節は、大変お世話になりました」
「いや」
 しみじみと、何かを思い出すように目を細めながら、永谷園は盃を唇につけた。
「職人らしい寡黙な方で、この手の会合には一切参加されなかったが――息子の君が、参加してくれて嬉しいよ。この地方の店は、後継者がなくて次々と閉じているからね……。吉野さんも、いい息子さんを遺されたものだ」
「はぁ」
 匠己は神妙に頭を下げ、所在なく耳の後ろを掻いた。
 末席に座る匠己と、その前に座る永谷園の周りでは、宴もたけなわな喧騒が繰り広げられている。
 どこかから連れてきたコンパニオンとふざけあう、いい年をした男たち。
 宴会が始まって小一時間。若い匠己が珍しいのか、ポケットには、携帯番号が書かれた箸袋が三つも押し込まれている。
 以前、東北で修行していた時もそうだったが、迂闊にホテルの扉を開けると、とんでもなく面倒なことに巻き込まれそうだ。
 結婚してるから、と、ストレートに断っても、誰も信じてくれないし……。
(結婚? 嘘ばっかり〜、じゃあなんで、指輪してないの?)
(吉野さん日焼けしてるけど、指に痕すら残ってないじゃん。そんな嘘、すぐにバレちゃうって)
 まぁ、それは……話せば長い事情があるわけで。
 そもそも誰にも話す気はないんだけど。
「なにやってんだ。若者が隅の方でちびちびちびちび。ほらほら。前で歌でも歌わんか」
 好奇心旺盛な女たちよりさらに面倒な相手が、そこにいきなり割り込んできた。
 真っ赤な顔で、匠己の腕をひっぱりにかかったのは、石の会副会長の富士山悟朗(ふじやまごろう)である。
 上宇佐田で大きな石材店を営む男で、匠己の父とは、少なからぬ因縁がある相手だ。
「すみません」
 匠己は、いかにも恐縮した風に断った。
「実は、歌は全くダメで……。勘弁してください」
 むっと、富士山はふさふさとした眉毛を釣り上げた。
 恰幅のいい身体に、日本人離れした濃い顔だち。ぎょろっとした目に、大きな鼻。しかしすべてのパーツが中央に寄りすぎていて、なんだかアンバランスな印象がする人だ。
 いずれにしても、大きな身体に濃い顔に大きな声。迫力満点ということだけは間違いない。
「ダメでも歌え。ここじゃあな、新人は必ず芸をする伝統になってるんだ。踊りでも漫才でもいいぞ。ほら、歌が一番楽だろうが」
「はぁ」
「なんでもいいんだ。童謡でもいいぞ。お母ちゃんが歌ってくれなかったか? ワンワン鳴きながら、犬のおまわりさんでも歌ってみせろ」
 相変わらず、嫌な絡み方をしてくるなぁ、この人は。
 無視したいところが、ここは下手に出るしかない。でないと、なんのためにこの会に出ることにしたのか判らない。
「すみません」
 匠己は、丁寧に断った。
「覚えてる歌がないんです。生まれてこの方、人前で歌ったことがないもんで」
「は? 嘘をつけ。学校で合唱でもあったろう。校歌だってありゃあ、人前で歌うもんだ」
「すみません」
 合唱大会は面倒で欠席していたし、校歌も、最後まで覚えられなかった。別に嘘をついているわけじゃない。
 富士山は、どれだけ腕を引いても匠己がまるで動かないので、諦めたように手を離した。
「おい、お前」
 そのまま横に座り込んだ富士山は、意地悪い目で匠己をねめつけた。
「今日はどういう風の吹き回しだ。親父のやったことを謝りにきたのか? ああ?」
 まぁ、それが言いたくて絡んできたんだろうな。
「はぁ、すみません」
 ビール瓶を差し出されたので、匠己はグラスを持ち上げた。
 雰囲気的に、潰れるまで飲まされる気がする。アルコールに弱い方ではないが、明日は自分で運転して下宇佐田まで戻らなければならない。
 適当なところで、寝たふりでもするか。匠己は腹を括って、グラスのビールを飲み干した。
 案の定、富士山は、空いたグラスに、今度は徳利の日本酒を注ぎ始めた。
「お前の親父は、この業界の鼻つまみ者だ。なにしろ、裏話を暴露して、自分とこだけに客が集まるようにしたんだ。最低だよな? ああ?」
「はぁ、すみません」
 きついなぁ……、これ、盃何倍分だよ。
 そう思いながら、匠己はなみなみと注がれたグラスの日本酒に唇をつけた。
「ふん、飲みっぷりだけは悪くないな」
「ありがとうございます」
 ふう。リーマンにでもなった気分だ。
 飲み干した途端、コンパニオンたちから歓声が上がる。
「富士山さん、早くその人潰しちゃって」
「その後で私たちが、お持ち帰りしちゃうから」
 おいおい、冗談じゃないぞ。
 匠己の前に、二杯目のグラス日本酒を差し出さしながら、ねちねちと富士山は続ける。
「なぁ、若造? お前も親父の営業路線をそのまんま引き継いでんだろ? 噂は俺んとこまで届いてるよ。吉野石材店の汚らしいやり方がよ」
「はぁ」
 汚らしいか。
 ただ、石の適正価格を教えているだけで、そう取られてもな。
 あってないのが、石の値段だ。
 その値打ちは時々の人気で決まる。別に高い石で墓を作っても、安い石で作っても、強度や耐久性に差があるわけじゃない。それを、説明してるだけなんだけどな。
 だん、と富士山が机を叩いた。
「よくもまあ、この会に顔出せたもんだよ。この業界の裏切りもんがよぉ!」
 人のいい永谷園が、はらはらとした目で二人を見ている。周囲はどこなく静まり返っていて、匠己と富士山の会話に耳をそばだてているのが判る。
 はぁ、と匠己は、心の中で溜息をついた。
 出なきゃ出ないで、散々悪口を喧伝するくせに、出たら出たでこう来るか。まいったな。
 まぁ、いい。それも全て想定の範囲内だ。
「お前、この間、結婚したんだって?」
 不意に、富士山の目が、野卑な風ににやついた。
「べっぴんの奥さんもらって、いい気になってんじゃねぇのか? 上宇佐まで噂になってるぞ。なんでも嶋木さんとこの、出てった娘さんもらったそうじゃねぇか」
「はぁ、すみません」
「気をつけろよー。美人はほっとくとすぐに浮気するからな。しかも嶋木の娘ならなおさらだ。母親が、なにしろ水商売なんかやってるような女だから」
 一拍、呼吸を置いてから匠己は言った。
「はぁ、すみません」
「なんだこいつ。さっきから、はぁ、すみませんしか言わねぇぞ」
 富士山が大声で言い、周囲に、ためらいがちな笑いが起きた。
「親父はだんまりで、息子は謝ってばかりときてる。本当に人を馬鹿にした親子だぜ」
「もういいじゃないですか、富士山さん」
 たまりかねたように、傍らの永谷園が口を挟んだ。が、構わずに富士山は続ける。
「そういやお前、仏師だったか? 墓石じゃなくて、仏像彫るのが本業なんだろ。ただの石屋のわしらとは、格が違うって、本当はそう言いたいんだろ?」
「はぁ、すみません」
「ああ? なんつった? お前」
 あ、しまった。
 真っ赤になって立ち上がりかけた富士山の手を、永谷園が慌てて掴んだ。
「もう、お酔いになられてるんですよ。勘弁してあげてくださいよ。富士山さん」
「――チッ……。図体がでかいのに情けない野郎だぜ」
 舌打ちをして、ようやく富士山が立ち上がる。
 匠己は黙ったまま、グラスの日本酒を飲み干した。これだけ飲んでも、まるで酩酊感がないのが不思議だった。しかし、それにしても……。
「富士山さんも悪い人じゃないんです。ただ、ちょっと……その、先代の吉野社長とは、色々あったようで」
「親父の気性はよく知ってますから」
 気遣うように声をかけてくれた永谷園に、匠己は丁寧に頭を下げた。
「僕のことなら、何を言われても構いません。気にしないでください」
「だったらいいんですが」
 永谷園は、丁度傍を通りかかった仲居に、水を頼んでくれた。
「ああ、そうだ。吉野さん」
 その永谷園が、席を立つ間際に言った。
「来週末、石の会で懇親会があるんです。そこには、みなさん、ご家族を同伴されておいでになられるので、吉野さんも、どうでしょう」
「……家族、ですか」
 先程の富士山の暴言を思い出し、匠己はわずかに言いよどんだ。
 まぁ、あんまり耳に入れてやりたくはないな。
「すみません。うちは家族も従業員として仕事をしていますので、ちょっと時間的に無理だと思います」
 今は、色んな意味でテンパってるみたいだし……。
 町内会で色々あるんだろうけど、それは、一言も俺には言わないしな。
 ――まぁ、慎さん帰ってきたら、助けてもらおうくらいに思ってんだろうな。
 それでも判らないのは、自分から涼子を引きこんでおきながら、今日みたいに、その涼子に嫉妬する素振りを見せることだ。
 人の提案蹴散らしといて、なんなんだ、あれは一体。
 涼子も涼子で、一体何のために長々と居座ってんだか。嶋木がいようがいまいが、もう俺達の先には何もないぞ? 
 それは俺より、涼子の方がよく判っているような気がするのに――
 昔からそうだが、女は、本当によく判らない。


 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。