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「えーっ、じゃあ、嶋木さんの娘かどうかも判らないわけ?」
「噂よ、噂。なんたって、妊娠の時期が時期だったから」
 扉の向こうから聞こえるそんな声に、香佑は足を止めていた。
 家から自転車で三十分のところにある、下宇佐田二丁目集会所。
 今日はここで、下宇佐田町秋祭り実行委員会が開かれる予定になっている。
「今でいうデキ婚ってやつよ。だからすぐに噂になったの。あれは、譲二さんの子供じゃないんだろうって」
 嶋木譲二――香佑の父のことである。
 冗談みたいだ。
 ぼんやりと香佑は思っていた。とうに捨ててきた思い出が、またこうして目の前にある。私が追いかけたんだか、向こうが追いかけてきたんだか。
「譲二さん、コメディアンみたいな人なのに、奥さんがとんでもない美人だったから。あの子――吉野の奥さんをもう少し派手にした感じ? でも、あの子のあれは間違いなく母親似ね。子供の頃から派手な顔をしてたから、将来、身を持ち崩すんじゃないかって心配してたけど」
 声は、富士山ます江のものである。
「それにしても、まさかそんな曰く付き人が、吉野さんところにお嫁に来るなんてねぇ」
「知っていれば、私たちがミヤコさんに言ってやめさせたのに」
 同意する声は、新古原夫人とその取り巻きの一人、役所勤めのご主人を持つ吉永美土里だ。下宇佐田講中では、副会長を務めている。
「でもまぁ、娘さんは娘さんだし、割りとしっかりした子のように思いますけど……」
 と、そこで一人、控えめだけど好意的なことを言ってくれた人がいた。
 瀬川医院の娘、瀬川初枝である。医院といっても、そこはよぼよぼのおじいちゃんが一人でやっている診療所みたいなもので、娘の初枝が看護婦兼事務員をやっている。初枝は独身で、もう五十過ぎのようだが、出戻りか、ずっと独り身なのかは分からない。
「しっかりっていうより、勝気な感じね」
「のんびりした匠己君にはどうなのかしら。あまり、似合ってないんじゃない」
 瀬川初枝の声は、それきり聞こえてこなくなった。 
「ま、吉野石材店は、石材店業界でも浮きまくってるから」
 ます江の、冷ややかな声がした。
「うちの主人も言ってるけど、卑怯な商売してるって先代の頃から爪弾き者よ。皮肉なものよね。上宇佐田一のお騒がせ女の娘が、そんな石屋に嫁ぐなんて。お互いが笑いものだって、まだ気づいてないのかしら」
 香佑は深呼吸した。――落ち着け、落ち着け、自分。
 今、感情を爆発させたって、なんにもならない。なにもこの人たちと、一生つきあっていくわけじゃないんだから。
 私は私で――頑張らないと。誤解されてたお母さんの分まで、頑張らないと……。
「ちょっと、どいてよ」
 その時、後ろからだるそうな声がした。
「あ、すみません」
 我に返った香佑は、急いで脇に退いた。そして、げっと思っている。地区婦人会の会長、鬼塚寿美子だ。痩身で、いかにも厳しい顔をしていて――まるで退職した学校の先生みたいな雰囲気を持っている。
 何をやっている人なのかはよく知らないが、噂では下宇佐田一の金持ちらしい。
 その鬼塚寿美子は、そこにつったっていた香佑のことなど見向きもせずに、扉を開けて会議室に入っていった。
「あらぁ、鬼塚の奥さん」
「どうしたの? 今日は欠席されるって聞いてましたけど」
「ちょっとね、暇になっちゃったから」
 中で繰り広げられる歓談を聞きながら、香佑は、台所の方に歩いて行った。 そうだ、まずはお茶を淹れなくちゃ。今日は地元の偉い人達が沢山来るみたいだし。
 上宇佐田の婦人会の人たちまで来るとは、思ってもみなかったけど。
 水を入れたヤカンを火にかけた後、香佑はしばらく、ぼんやりとガスコンロの前に立ち続けていた。
「……………」
 駄目だ――なんだか気持ちが萎えそうになってきた。
 こんなことをしている何もかもが、ものすごく無意味に思えるのは何故だろう。
 万が一頑張って受け入れられて、それでどうなるというんだろう。
 そもそも私、吉野家の本当の嫁でもなんでもないのに――
  
 
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「悪い、ネクタイどこにしまったっけ」
「ちょっと待って。すぐに出すから」
 そんな声が家の中から聞こえてくる。開きっぱなしの玄関の前で、詩吟の稽古から戻ったばかりの香佑は、驚いて立ちすくんでいた。
「はい、これでいい?」
「ああ、サンキュ」
 なに、この会話。
 まるで夫婦みたいな――
 会話そのままの光景が、目の前の廊下にあった。
 ネクタイを手渡す涼子と、それを受け取る匠己。
 涼子はエプロン姿で、匠己はこの暑いのに、白の長袖シャツにライトグレーのスラックスを履いている。
 髪はなんだか生真面目な感じに整えて――いつもの匠己とは、まるで違う横顔だ。
 香佑は、ただ立ちすくんでいた。
 もしかして、出勤前の新婚夫婦の情景ですか、これ。
 今はもう、夕方の四時なんですけど。
「あら、おかえり」
 先に香佑に気づいたのは、涼子だった。
「ああ」
 匠己も、なんの気もないように顔を上げる。悪びれも気負いもない顔に、香佑は静かな怒りがこみ上げて――それが、諦めに変わるのを感じていた。
「出かけるの」
 ひどく乾いた声で、香佑は聞いた。
「ちょっとな」
 素っ気なく答える匠己は、ネクタイを不器用な手つきで締めている。
 涼子が、物言いたげな目でそれを見ているから――、多分香佑がいなかったら、手を貸していたに違いない。
 わかった。
 これが、香佑が来る前の、吉野家の日常だったのだ。
 いつも思うことだが、この場合、邪魔なのは涼子さんじゃなくて、私の方なんだ――
「今夜は、泊まりになると思うから」
「あ、そう」
 結構大切なことを言われたのだが、香佑はスルーして、靴を脱いだ。
 二人の傍らをすり抜けるようにして、自分の部屋に向かう。
「ねぇ、本当に送らなくていいの」
「いいよ。どうせ泊まるんだから」
 そんな声が最後に聞こえたが、香佑は遮るように扉を閉めた。
 自分をつなぎとめていたものが、切れそうになっている。多分、あと一息くらいで、ふつっと切れてしまうのがよく判る。
 判っている。なにもかも自分で引きこんでしまった災だ。
 でも――自分で引きこもうが、降って湧いたものであろうが、匠己の心が自分にないことが、そもそもの問題なのだ。
 出ていこうかな。今。
 壁に背を預けて立ったまま、香佑はぼんやりと考えていた。
 とりあえず、広島に行くくらいのお金はあるし。生活費の持ち逃げみたいにはなっちゃうけど。
 ああ――でも明日は、竜さんの手伝いだ。
 それが終わるまで、もう少し頑張ってみようかな……。
 でもなんか、色んなことが、もう耐えられそうもない気がする。

 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。