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「はい。吉野石材店でございます。あら、西村さん? ええ、私涼子です。丁度仕事が夏休みなので、手伝いにこさせて頂いてるんですよー」
 玄関の扉を開けると、台所の方からそんな声が響いてきた。
 午後五時、夕食のメニューなのか、家中にカレーの匂いが充満している。
 結局懇親会では、何ひとつ口にできなかった。昼食抜きで働かされた香佑の胃が、強い匂いできゅうっと収縮する。
「違います違います。社長と結婚したのは別の人。私は、ただの友達ですから。ええ、奥さんとも同級生なんです。やだ、そんなんじゃないですって」
 華やかな笑い声。「もうー、そんな言い方したら、社長の奥さんに失礼ですよ。私は、本当に、ただの友達なんですから」
 どんな言い方よ。それ。
 ひどく憂鬱な気持ちのまま、香佑は足早に台所の引き戸の前を通りすぎようとしたが、次の涼子の声で、再び足を止めていた。
「え、来週の納骨式ですか?」
 ――納骨式……。
 そうだった。慎さんに頼まれていた仕事。上宇佐田の西村さんの納骨式!
(墓にご遺骨を収める納骨式には、石材店の人間も立ち会うことになってるからな。日時と希望をお聞きして、それ、竜さんに確認してから、あんたが調整しといてくれ)
 納骨式とは、以前、この石材店で設置した墓石の中に、遺骨を収める儀式である。
 香佑は急いで引き戸を引いて、台所に入った。
 部屋の隅の固定電話の前には涼子の、シンクの前には横山美桜の背中がある。
 美桜はちらっと香佑を振り返り、その目を冷淡に元に戻した。
 完全な拒絶の目。香佑は気持ちが重く塞がるのを感じながら、電話を代わろうと涼子の方に急いで歩み寄った。
「涼子さん。その電話」
「ええ、私が承ってます」
 しかし、香佑を遮るように涼子は続けた。
「加納には私から伝えますので、どうぞ、おっしゃってください。ええ、日時と供え物の確認ですね」
 私が――慎さんから、頼まれてて……。
 その言葉は口には出来ず、香佑は仕方なく、涼子の傍に立っていた。涼子は香佑を省みること無く用件を全て聞きとると、数分世間話をしてから電話を切った。
 香佑がその間、立ち去れなかったのは、自分でないと判らない話が出てくるかもしれないと思ったからだ。しかし、その心配は全くの不要のようだった。
 今に限ったことではない。石材店の店員としての、涼子の対応は完璧だ。高木慎不在の中、店は三日前から通常営業に戻っているが、はっきり言えば、慎に変わって店をしきっているのは涼子である。
「美桜ちゃん。ご飯できた?」
 その涼子は、香佑の存在に気づかないかのように、まず美桜に声をかけた。
「はい。準備オッケーです」
 振り返った美桜が明るく答える。彼女もまた、香佑を完全に黙殺している。
「じゃ、慎さん――はいなかったか、竜さんとノブ君呼んで早めに食べちゃって。匠己のところには私が持って行くから」
「判りました」
 エプロンで手を拭った美桜が、勝手口から外に出ていく。それを見届けてから、初めて涼子が、香佑を振り返った。
「ごめんね。香佑」
 返事に窮したまま、香佑は曖昧に頷いた。うっかり台所に入った自分を、馬鹿だったな、と思いながら。
 立ち上がった涼子は、そのまま食器棚の方に歩いていった。
「美桜ちゃんね、どうしても香佑のことが苦手で、顔を合わせるのも苦痛なんだって。やっぱりあれかな。多感な年頃だから、匠己と香佑の結婚がショックだったのかもね」
 そんな風には思えないけど――香佑は反論しようして、やめた。いずれにしても、美桜のことなら、涼子の方が遥かに判っているに違いない。
「まぁ、私も、折を見て話してるし、美桜ちゃんも、少しずつ慣れようとしてるみたいだから」
 皿を取り出しながら、涼子は笑顔で香佑を見上げた。
「今は悪いけど、美桜ちゃんと距離を置いてあげてね。香佑を仲間外れにするみたいで、悪いとは思ってるんだけど」
「ううん。それは別に――」
「カレー、残しておくからあとで食べてね。あ、それから朝御飯のお味噌汁だけど」
 皿にご飯をよそいながら涼子は続けた。
「匠己がパンがいいっていうから、私も朝はパンにしちゃったんだ。悪いけどそのまま残してあるから」
「…………」
 カレーの皿をトレーに載せた涼子が出ていったので、香佑は溜息をついて、ガスコンロの隅に置かれた深鍋の蓋を取った。
 手付かずの冷えた味噌汁――その隣には卵焼きや漬物も、ラップさえかけられずに放置されている。香佑はくじけそうな自分を懸命に叱咤した。いいじゃん、別に。今日の私の夜ご飯にすれば。
 てか、なんていうんだろう。今の私のこの状況。小公女セーラ……シンデレラ………渡る世間の泉ピン子……まぁ、自分一人が被害者だと思うのはもうやめよう。美桜に嫌われているのは、何も涼子さんのせいではないし、涼子さんにしても、色んな意味で前向きに頑張っているわけだし。
 冷蔵庫に鍋ごと味噌汁を収めていると、隣の窓がガラッと空いた。振り返ると、香佑が台所にいるとは思わなかったのか、少し驚いた目をした匠己が立っている。
「ああ、帰ってたんだ」
 なんなの、その思いもよらなかった、みたいな口調は。
 朝からゴミの分別でバタバタで、それが終わった後は、自転車で懇親会に直行したから、今日会うのはこれが初めてになる。
「少し休んだら、すぐに出かけるから」
 ひどく素っ気なく、香佑は返した。
「また講中?」
 台所に上がりながら、やはり素っ気なく、匠己が聞いてきた。
「今度は祭り。新古原さんに、秋祭りの実行委員会の方にも顔出すようにって言われたから」
「へー、いいようにこきつかわれてんのな」
 なによ、その人事みたいな言い方は。
 私だって好きでこきつかわれてるわけじゃない。この厄介事の何もかもが、あんたと結婚したせいなんですけど。
 匠己は黙って冷蔵庫から、ミネラルウォーターを取り出し、香佑は所在なくシンクの傍に立っていた。
 二人の間は、実の所、慎が里帰りする少し前からぎくしゃくしている。
 理由はよく判らないし、会話がなかったから本当にぎくしゃくしていたかどうかも判らない。ただ、一時、すごく近づいたように思えた二人の距離が、いきなり元に戻ったのだけは、間違いないような気がする。
 元に――結婚式の最初の夜に。
 互いに相手を自分の中に入れまいと、高い壁を張り巡らせたまま、宿で向いあった時のように。
 なんなの一体? 自分から歩み寄ってくれたくせに、また離れていくってどういう勝手? そんな風に思っていた時に、涼子がやってきたのだ。
(は? 涼子を泊める? 夏休みの間、この家に?)
 最初、匠己は驚き、ただ呆れているようだった。
(いや、それ……確かに去年まではそうしてたけど……)
 それきり言葉を切って考え込んだ匠己は、何故だかひどく疲れたような息を吐いた。
(ま、嶋木がそれでいいっていうのなら、俺に言うことは何もないよ。いちいち俺に聞かずに、好きにすればいいんじゃね?)
 自分から切り出したくせに、その言葉や態度に香佑はかちんときていた。
 当たり前のように、嶋木と呼ばれたことに対しても。
(それ、どういう意味? 私が寛大な決意をしたのに、なんで責められるような態度を取られなきゃいけないわけ?)
(寛大って……)ますます匠己は、話が判らない、みたいな横顔になった。
(まぁ、もういいや。てか、だいたい、俺がいつ、どうやって嶋木を責めたよ)
(その態度の何もかもがよ。結局、あんただって嬉しいんでしょ? 大好きな涼子さんが家にいると)
 振り返った匠己が、本気でむっとしているのが香佑にも判った。
(勝手にどうとでも思ってろよ。普通に考えて、常識がないと思っただけだよ)
(私が? 冗談でしょ。ないのはあんたの方じゃない。てか、私たちは形だけの夫婦で、そもそも恋愛感情がないんだよね。そっからして常識外れなのに、今更涼子さん一人を泊めたくらいで、ぐだぐだ言われる筋合いはないんですけど)
 いくら感情的になってしまったとはいえ、どうしてあんなことを言ってしまったのだろうか。
(好きにしろよ)
(ええ、しますとも)
 それが決定打となって、二人の意思疎通は完全に途切れた。
 あとは涼子にいいようにされっぱなしで、――今更、助けて下さいとは、口が裂けても言えない状態である。
 水を飲み干した匠己は、手の甲で唇を拭い、ペットポトルを冷蔵庫に戻した。
 首にタオルを掛けた彼は、白いシャツに薄青色の作業用ズボンを履いている。いつもの、彼のスタイルだ。髪は、ここ数日涼子にさんざんせっつかれたせいか、また短くなっている。
 悔しいけど、顔を見ると、少しだけ胸がきゅっとなる。この年になって、またこんな――少女の片思いみたいな感覚に捕われるとは思ってもみなかったけれど。
「自転車?」
 不意に匠己が口を開いた。
「え?」
「夜の会合。帰りが遅くなるようなら、車で送ろうか」
「い、いいよ、別に。自転車で行き来できる距離だから」
 冗談じゃない。涼子さんのいる前でそんな真似をされたら、どんなしっぺ返しが待っているか判ったものじゃない。
 というより、急に優しい言葉をかけられると、この冷戦状態の最中、どう返していいか判らなくなる。
 まだ、涼子を泊める泊めないでケンカした時のように、あからさまにむっとされた方がマシなくらいだ。今みたいに、淡々と事務的に優しくされると、ますます寂しい気持ちになるじゃない……。
 実際、匠己が生の感情を見せてくれたのはケンカしたあの夜くらいで、以来彼は、飄々とした態度と言葉の中に、感情の全てを閉じ込めてしまったかのように見える。
「私のことより、早く仕事に戻った方がいいんじゃない」
 動揺しつつも、素っ気なく香佑は言った。「今、涼子さんが仕事場にご飯もっていったから。来る途中で会わなかった?」
「いや」
 やはり淡々と匠己は答えた。「会わなかったけど、行き違いかな」
「カレー、冷めちゃうわよ」
 卵焼きの皿にラップを被せながら、いよいよ冷たく香佑は言った。こうして見向きもされなかったおかずを見ると、忘れていた怒りが、ふつふつと蘇ってくる。
「それから、朝はパンの人なら、最初からそう言ってよね。いちいちお味噌汁作るのも馬鹿馬鹿しいから!」
 訝しく眉を寄せる匠己を置いて、香佑はさっさと背を向けて歩き出した。
 あー、もう、何もかもが腹立たしい。
 無神経、鈍感、墓石馬鹿。私の気持ちなんてなんにもわかってないくせに。
 どうしてこう――何もかもが上手く回ってくれないんだろう。
 部屋に戻った香佑は、仰向けに寝そべって、両手の甲で目を覆った。
 てか、馬鹿じゃない? 私って。
 どう贔屓目に見たところで、今回悪いのは、間違いなく私だ。
 自分の心の重荷を軽くしたいばかりに、頭痛の種である涼子をこの家に引き入れてしまった。心の中では、彼女の詭弁を薄々理解していたというのに、である。
 今回に限って言えば(あくまで今回)、匠己は、そんなに悪くない。むしろ、香佑と涼子の間に立って、日々居心地の悪い思いをしているのだろう。涼子の滞在を、決して手放しで喜んでいるわけじゃない。そこまで、無神経な人じゃない。
 ――それが判っているのに、何だって私は、未だに天邪鬼全開路線を突っ走っているんだろう。
 その答えももう判っている。自分は匠己を怒らせたいのだ。
 なんとかして、あの一見ぼんやりとした、けれど鉄壁のポーカーフェイスの下から、絶対にあるはずの生の感情を引き出したいと思って、あがいている。
 この状況を、あんたはどう思ってるの。
 あんたは、私と涼子さん、どっちを選ぶつもりなの。
 目をつむったまま、香佑は唇を噛み締めた。
 ほんと、馬鹿だ。私って。
 多分、答えは最初から出ている。
 たとえ怒った匠己から答えを引き出せたとしても、それが自分の願う通りのものである可能性は、殆どといっていいほどないのに――

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。