2 
 
 
「どういうこと? あのイケメン店員さん、石材店辞めちゃったの?」
「いや、違う違う」
 てか、もうそんな噂が上宇佐田で広まってるの?
 本当に田舎の噂の速さって――香佑は半ば呆れながら、携帯電話を持ち直した。
「慎さんなら、実家に帰っちゃったの。里帰り。なんかね、三年も家に帰ってなかったんだって。だから少し、長い休みを取ることになってさ」
「へぇー」
 もちろん、そこに至る紆余曲折を知らないミサミサ――柳美郷には、香佑が抱いている感慨深さは分からないに違いない。
「うち、こないだまで一週間の夏休みだったの。そのついでにね。慎さんだけ、ちょっと長めの夏休暇って感じかな」
「どうでもいいけど、高木さんの顔を見なくなったって、うちのオカンがマジ寂しがってるからさ。早く戻ってくるように伝えてよ」
「ん、判った。一応伝えとく」
 とはいうものの、慎には、どちらかと言えば、実家でゆっくりしてきてほしい香佑である。せっかく数年ぶりに、絶縁していた兄と和解したのだから。
「吉野さん」
 その時、背後で、急かすような声がした。「お座敷にビールの追加、急いで、持ってきてくれる?」
「は、はーい。ただいま」
「てか……、今度は何やってんの、香佑」
 携帯の向こうの、美郷の声が呆れている。香佑は軽く溜息をついた。
 なんで美郷は、いつもいつも――まるで運命みたいに、間の悪いタイミングで電話をかけてくるんだろう。そう思いながら、香佑は携帯を耳と肩の間に挟み込んだ。
「ごめん。またかけ直す。今ちょっと立てこんでて」
「今度は一体なんなわけ? 墓屋やめて、料理屋でも始めたわけ?」
「町内会の懇親会なのよ。その手伝い。またかけ直すから」
 切った携帯をエプロンのポケットにすべらせた香佑は、足元のクーラーボックスから缶ビールを取り出した。
 集会所の台所。狭いスペースは、クーラーボックスや、大鍋で埋め尽くされている。シンクには洗い物の山。座席では下宇佐田の町内会長をはじめ、各地区の講中の代表たちが、真昼間から楽しく懇親会を開いている。
 今日は日曜日。石屋は営業しているが、世間的には休日だ。
(悪いわねぇ。今日の懇親会は、役員さんたちの慰労会の意味もあるから、役員じゃない吉野さんは、お手伝い専門ってことでよろしくね)
 そんな理由で、下働きは、ほぼ香佑一人の仕事になっていた。
 どうでもいいけど、役員じゃない人って、他には誰もいないわけ? と、全く釈然としない香佑だったが、ゴミ当番と同じで、やれと言われたら、とりあえずやるしかない。
 本当は――時間さえあれば、もっと美郷に話したいことは沢山あった。
 東京での失敗。とりあえず居場所が欲しくて、駆け込むみたいに故郷で結婚したこと。吉野との結婚が形だけのもので、――あの馬鹿には、他に好きな人がいること。
「……無理。とんでもなく不幸だって思われるじゃん」
 香佑は、ぶるぶるっと首を横に振った。美郷の気性では、吉野家に怒鳴りこんできかねない。
 まぁ、ちょっと前まではそこまで不幸って感じでもなかった。墓場で同窓会があって、その夜匠己と二人で話し合って――その頃までは。
 不幸の連鎖は、あたかも畳み掛けるように、高木慎が里帰りした日から始まったのだ。
(いいか。店のことは、基本、あんたに任せたからな。匠己は何もできないから、竜さんに教えてもらいながら、あんたがなんとか切り盛りしてみろ。一週間か十日かして、俺が帰ってきた時には)
 少しは、石屋の女房らしい顔になってるだろうな。
 そんな風に香佑を脅してから、今から十日前、慎は下宇佐田を出ていった。
 いきなり涼子が吉野家にやって来たのは、その日の午後のことである。匠己は石材店の寄り合いとやらに呼ばれていて、夏休みの初日、家には香佑しか残っていなかった。
 ライバルの出現――しかも、悪夢みたいな同窓会以来の再会だったが、涼子はひたすらしおらしく、そしてひどく寂しげだった。
(香佑、私ね……匠己と今までどおり仲のいい友だちでいたいの。もちろん香佑とも。匠己は香佑に気を使って、私と距離を置こうとしているようなんだけど、――なんだかそれが、すごく辛くて)
 そう言って涼子は、唇を噛み締めるようにして涙を零した。思わず香佑がもらい泣きしてしまうほど、それは切なげな表情だった。
(毎年ね。お盆休みには、この家に泊めてもらってたの。もちろん今年もそのつもりだった。匠己とは別れたけど、決して憎み合って別れたわけじゃないし――でも、無理ね。今年は香佑がいるんだもの)
 ぽたぽたと涙を零して、それでも気丈に笑う涼子に、私のことなら気にしないで――と、言う以外の、どんな言葉が言えただろうか。
 とはいえ、正直、その時の香佑の心には、単なる同情以外の別な感情が重い澱みたいにしこっていた。
 涼子に対する申し訳なさ――小学校時代、心ならずも、香佑の友達が彼女をからかい、傷つけた。同窓会ではついに謝ることのできなかったその件である。
(私たち、友達になれるかな)
 許しを求める気持ちもあって、おそるおそる香佑は聞いた。涼子は目を潤ませて頷いた。
 本当にそう思ってくれる? 嬉しい――私、本当に分かり合える友達がいなくて、すごく寂しかったの!
 それが、女優顔負けの名演技だったということは、三日もたたない内によく判った。
 今となっては、色んな意味で後悔している。でも、もう遅い。
 涼子が来たその日の夜が、初めての婦人会だった。たちまち香佑は、町内会の仕事をあれこれ引き受けることになり――今に至る。
 結局、留守がちになった香佑にかわって涼子が吉野家の主婦の座に収まり、香佑は家からも店からも締め出されてしまったのだ。
 はぁっ、と香佑は溜息をついた。
 今、慎さん帰ってきたら、マジで激怒されそうだよ。ほんとに、自分が情けないったら。
 座敷に入って、缶ビールを机に並べていると、背後で囁くような声が聞こえた。
「新入りの人?」
「ほら、吉野石材店のお嫁さん」
「ああ……例の」
 香佑はちらっと声の方を見ている。
 殆ど上座といっていい位置に座しているのは、地区婦人会副会長の富士山ます江(ふじやまますえ)。
 でっぷりと肥え、眉も目も口角も全部下に下がった、お人よしなんだか不機嫌なんだか判らないような人相をしている人である。
 最初に出た婦人会で初めて知ったのだが、上宇佐田で大きな石材店をやっている――つまるところ、匠己にとっては商売敵の家の奥さんだ。
 それだけでも、うわっという感じなのに、富士山ます江との因縁は、さらに二十年以上前に遡るようなのだった。香佑がまだ、上宇佐田で暮らしていた頃に。
 香佑も、ます江の特徴的な顔なら、うっすらと記憶していた。聞けばます江はその昔、上宇佐田で、香佑の母親と一緒に子ども会の役員をしていたというのだ――
 まぁ、色々言いふらしてんだろうな。お母さんのこと。
 そのます江と目があったので、香佑はしおらしく頭を下げてから立ち上がった。
 相手は完全無視である。その嫌悪を含んだ目が、香佑の推測が被害妄想でないことを正直に告げている。
 下宇佐田の町内会、新古原夫人を中心とする講中の人たちの態度に棘があったのも、おそらくはそのせいだろう。地区婦人会で、副会長のます江の占めるウエイトは大きく、会長の鬼塚寿美子という恐ろしげな名前の人に次いで、女性たちのリーダー的な存在であるらしい。
 ――まさか、これほどまで下宇佐田が上宇佐田と交流があるとはなぁ……。 大丈夫なのかしら、私、これから。
 香佑は、はぁっと憂鬱な溜息を吐いた。
 地区婦人会とは、おおざっぱにいえば、上宇佐田と下宇佐田の合同婦人会の呼称である。他にも小さな町が混じっているが、概ねこの二町で構成されている。
 香佑も初めて知ったのだが、元々この二町はひとつの町だった時代があるらしく、そのせいか、ありとあらゆる行事がひとつにまとめられているし、双方の行き来も盛んなのだ――
 故に、上宇佐田で悪評高かった香佑の母――香子の噂が、あっという間に下宇佐田にまで広がってしまったのだろう。
 悔しいし、腹は立つが、ここで香佑が仕事を投げ出してしまえば、やっぱりね、と思われるのは目に見えている。
「吉野さん、悪いんだけどそれ終わったら、近くの店でガムテープ買ってきてくれる?」
「あ、はい、ただいま」
 ――ああ、明日も、ゴミの分別……。ストッキングの次はなんの嫌がらせが待ってるだろう。
 空いた缶ビールを下げながら、香佑は再度、憂鬱の溜息をもらしていた。
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。