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「はあああ、なんなのよ、これ」
 生ゴミ散乱防止用ゴミボックス。――通称ワンニャンカァの蓋を開けた香佑は、愕然としつつ、その中身から目を逸らした。「マジで?」
 生ゴミが入っていることは予想できた。が、可燃ゴミ専用袋に混じって散乱しているのは――
 香佑は、おそるおそるボックスの中に視線を戻す。
「……ストッキング……?」
 なんで生ゴミ専用ゴミ置き場の中に、使い古しのストッキングが山のように捨ててあるのだろうか。山――そう、それはもう山と言っても過言ではなかった。数百ともしれない薄汚れたストッキングが、ボックスの中にてんこ盛りになっている。
 しかもそれを、これから分別しないといけないのは香佑なのだ。
 国道沿い。途方に暮れる香佑の背後を、トラックが二台連なって通過していく。午前七時。十時には集配車が来るというから、それまでに済ませておかないといけない。
 香佑は息を止めるようにして、持参したマスクで口と鼻を覆った。軍手を装着して準備完了だが、こんなことなら防護服並の装備を用意しておくべきだったかもしれない。
 他人の履き捨てたストッキングなんて――何が悲しくて、こんなものいちいち拾い上げなきゃいけないの?
 ――まさかと思うけど嫌がらせ? いや、まさかね。いくら私が嫌われてるからって、大の大人がそこまでは……。
 吉野石材店に下宇佐田三丁目町内会のご婦人たち――通称、講中婦人会(こうじゅうふじんかい)の人たちがやってきたのは、先週の始めのことだった。
(ワンニャンカー? なんですか? 犬と猫専用の車とか?)
 玄関で、きょとんと瞬きする香佑に、講中の代表と名乗る険の強そうな婦人は、いかにも小馬鹿にしたような笑いを返してくれた。
 匠己と一緒に挨拶に行った家――この辺りでは一番の地主である、新古原(しんこばら)家の奥さんである。
 新古原夫人は、これだから都会の人は、とばかりの溜息をついて、こう説明してくれた。
(違うのよ、吉野の奥さん。ワンとニャンとカァ。つまり犬と猫とカラスの鳴き声に決まってるじないの)
 いや、決まってると言われても。
(この辺り、犬やら猫やらカラスやらの被害がそれはもうひどいのよ。まさか吉野さん……迷い込んだ猫に餌なんてやってないでしょうね。さっきもおたくの前で、二三匹走ってるの見かけたわよ)
 疑念たっぷりの目で睨まれ、それには、香佑は苦しい咳を返しただけだった。当の真犯人は、今、仕事場で呑気に墓石を磨いている。
(で、その三匹の獣よけのゴミ収集ボックスを、ワンニャンカァって呼んでるの。言っときますけど、これ、全国共通語ですからね。それで吉野さんにお願いしたいのが――)
 つまるところ、ゴミの分別の仕事である。
 一応、可燃ごみ不燃ごみとゴミを出す日は決まっているが、通りすがりに捨てられるゴミもあり、さらには分別自体を理解できない老人たちもいるらしく、大抵違うものが混じっているのだという。
 この辺りの町内会の当番は、ひと月単位で廻っているようで、来月は、吉野家がゴミ分別の当番だったのだ。
(慎ちゃんがやってた頃は、あらゆるところから奥さんやら娘さんやらが手伝いにおしかけて、そりゃ、朝からキーキーキャーキャーうるさかったものだけども、奥さんじゃあねぇ……)
(ただでさえ、石屋にヘンな女が住みついてるって、悪い噂が――あら、言い方悪かったらゴメンなさい。ほら、吉野さんとこは、この辺りじゃ大人気だから。なんていうの、あの韓国ドラマの――)
 それ、もともとは日本の漫画なんですよ。
 四人のイケメン男子と貧乏女子の恋物語。実際四人全部と恋に落ちたかどうかは知らないけど。
 貧乏女子ってとこだけはあたってるけど、あの程度でフラワー4とかあり得ないでしょ。これだから田舎のレベルの低さときたら――
 と、思いつつ、高木慎だけは、まぁ、そのレベルに達しているような気がしないでもない。あと、竜さんも悪くない。年とか経歴とかかなり異色なフラワー4ではあるけれど。
 だいたい、フラワー、間違っても花じゃないよね。花っていうより墓。そうよ、墓よ。墓より男子。なんていいネーミングだろう。
 まぁ、当たり前に、墓よりは男子がいいに決まってるけど。
 その日、講中の面々――新古原夫人とその取り巻きたちの要求は、ゴミ当番にとどまらなかった。
(言いたくはないけれどあなたのお姑さん。今の社長のお母様のことだけど、今まで町内会のお仕事、殆どされてなかったのよね)
(そりゃあ、お仕事も忙しいんだろうし、身体も弱いんだろうけど、ちょっと、ねぇ……)
 新古原夫人もそうだったが、押しかけた女たちの態度には、少しばかりわざとらしい刺があった。
 全員が六十代前後。香佑の母親世代である。何故だろう。匠己と一緒に挨拶に回った時は、むしろ好意的な態度で応対してくれた人たちばかりだったのに――
(今月は秋祭りもあるし、とにかく、人手は一人でも多く欲しいの。もちろん今年は、奥さんが手伝いに出られるんでしょう?)
(明日は婦人会の地区定例会があるんだけど、挨拶がてら顔を出してみたら? ご近所だけ挨拶して、それで終わりってこともないでしょうに)
 彼女たちの棘の理由は、その翌日、婦人会の地区定例会とやらに出た時にようやく判った。
 婦人会の構成メンバーは大抵が上宇佐田の人だった。つまり、香佑の実家である嶋木家のこともよく知っていて――
「……………」
(上宇佐田? 冗談じゃないわよ。あんなところに、二度と戻るもんですか。町も人も見るのも嫌。ああ、いやいや。思い出したくもない)
 いきなり、ジーンズのお尻に入れていた携帯が鳴った。そこだけはデラックスな携帯電話――確か韓国ドラマでは、「俺専用電話」とか言われて、ヒーローから渡されるものだが、なんのことはない、父が買ってくれた携帯電話である。
「香佑? 遅いからどうしたのかと思って」
「あ……うん」
 携帯から響く明るい声に、香佑は少しだけ暗くなった気持ちを奮い立たせた。
「ごめん。思ってたより分別に時間がかかりそうだから、先にご飯食べててくれるかな。お味噌汁なら、作っておいてあるから」
「そうなの? なんだったら私、手伝いに行こうか?」
「ううん。それは大丈夫。さっさと終わらせて戻るから」
 何故だかそれだけは大慌てで断り、香佑は天を見上げて溜息をついた。
 やっぱり、何かが間違ってる。
「そ。じゃ、匠己と、先にご飯いただいてるね。ゴミの分別、頑張って」
「ありがと……涼子さん」
 切れた携帯電話で、香佑は自分の頭を軽く叩いた。
 そこで嫉妬なんてしちゃダメだ、自分。
 何もかも、自分で決めて、こうしたことだ。
 だからこのことでは、誰にも愚痴なんて言わないし、泣いたりなんかしない。いや、するもんか。
 その時、背後で車のクラクションが鳴った。
「奥さん」
 振り返ると、背後に停った黒のセダンの中から、見慣れた顔がのぞいている。
 薄い色の入った眼鏡に、短く刈った男らしい髪。
「あれ、竜さん?」
 香佑は驚きながら、車の方に駆け寄った。「どうしたんですか。こんな早い時間に」
「奥さんこそ」
 逆に問われ、ようやく香佑は気がついた。「あ――もしかして、お墓掃除に?」
「ええ」
「嘘。いつもこんなに早いんですか」
 まだ朝の六時半で、開店まで四時間もある。
「いつもではないですが」香佑を見上げながら、加納は片頬だけで微かに笑った。
「今朝はつい早く目が覚めてしまいました。他に、することもないので、つい」
 そこで言葉を切った加納は、しなやかな動作で車から降りてきた。
 シルバーのカーゴパンツに同色の長袖シャツ。姿形はまさしくこのド田舎に相応しい肉体労働者のそれなのに、この身のこなしのただごとじゃなさはどうだろう。
「お掃除って、毎日ですか」
「天候によっては、休む日もありますよ」
 なんでもないように加納は言うが、もちろん、全て無償の奉仕である。墓地を所有している祐福寺からも、もちろん吉野石材店からも、なんの報酬も得てはいないだろう。
 香佑は、ゴミの分別くらいで泣き言を言った自分が恥ずかしくなった。
「あの……私も、早く起きられた時はお手伝いしますね」
 実の所、前々からそれを加納に言い出そうと思っていた香佑だった。
「慎さんに、聞いてると思いますけど、その――私、竜さんの仕事を見て、石屋の心構えみたいなものを勉強するように言われたんです。実際、何を見ていいのかよく判らないんですけど」
「いや、いいです」
 ワンニャンカァを覗き込みながら、加納は言った。「お気持ちはありがたいのですが、あれは、私一人の仕事なので」
 柔らかくはあったが、妙にきっぱりとした口調だった。
 何故だか香佑は、その口調に、横山美桜と同じものを感じていた。私の仕事なんです。手を出さないでもらえます? もちろん、加納のそれは、美桜の口調とも態度ともかけ離れたものだったけれど。
「仕事で判らないことがあれば、いつでも仰ってください。聞いていただければ、なんでもお答えしますよ」
「あ、はい」
 優しく言われたものの、そこにも香佑は、静かな拒絶をみてとった。
 最近の加納は外回りばかりで、仕事ぶりを見ようにも、店にいないのだからどうしようもない。
 聞かれれば答えるということは、自分から教えるつもりはないということだろう。職人の技の伝達なんてそんなものかもしれないが――もちろん香佑は、職人志望ではない。
 ――うーん、せっかく仕事をくれた高木慎には悪いけど、やっばり、どう接していいかわかんないかな。竜さんには。
「分別なら、以前私もやったことがあります。手伝いますよ」
「えっ、いいです、いいです」
 その加納がポケットから軍手を取り出したので、香佑は慌てて遮っていた。
「それこそ、私の仕事ですから。てか、中見ました? これ」
 香佑はストッキングをひとつつまみ上げた。
「竜さんみたいな人が、こんなものほじくってたら、変態です。こっちは大丈夫ですから、お墓の方、お願いします」
「……変態ですか」
 拳を口元の辺りに当てて、加納はわずかに苦笑した。
 しまった。と、香佑は少し赤くなっている。
「い、言い方まずかったですね。その――男の人が触るようなものじゃないですから。ほんと、ここは一人で大丈夫です」
「――わかりました。じゃあ」
 加納はあっさりきびすを返し、元の車に乗り込んだ。
 優しくて素敵な人だけど、高い壁があるのはこの人も同じだな、と、香佑は思った。
 もちろん、人なんてみんなそんなものだろう。
 大人になってからの人付き合いは、その壁を通して上手く折り合っていくものだ。無邪気な子供時代と違い、年を取れば、人は沢山のものを心の底に溜め込んでいる。互いの深いところにまで入りこめば、その分、傷ついたり傷つけたりする確率も高くなる。
 香佑はふと、高木慎のことを思い出していた。
 まぁ、リスキーな賭けではあるけれど、飛び込んでみれば、思いの外相手と心が通じ合える可能性だってあるものだ。真実、高木慎と通じあえたかどうかは不明だけれど、あのお墓で同窓会以来、少し距離が縮まったような気もするし。
 とはいえ、肝心の夫である人とは、最近ますます遠ざかってしまった。飛び込もうとすればするほど遠ざかるって一体――
「さて――」
 香佑は頭を切り替えた。そんなことより、今はワンニャンカァである。
「頑張りますか。人は人。私も私で忙しいし」
 その時、携帯にメールが入った音がして、香佑は急いで携帯を開いた。
 途端に眉をしかめている。うわ、新古原さんだ。
 
 おはよう、吉野さん。
 今夜の懇親会ですけど、午後一時からになりました。
 場所は三丁目の集会所。お手伝いよろしくお願いします。

 そっか、それも私の仕事だった。
 何故だか萎えかけていた気持ちが、その連絡メールでむくむくと持ちなおしかけている。
 軍手を脱いで返信した香佑は、よし、と気合を入れなおした。
 まぁ、全てがパーフェクトじゃないけど、今日も一日、このド田舎で頑張っていくしかない。

 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。