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第三話「墓より男子@」
――また、あの夢を見た。
「ごめん。支度に時間かかっちゃって」
耳に馴染んだ声と共に、健康そうな脚が階段を駆け下りてきた。
うわ、と、匠己は思わず顔を背けかけている。なんだ、あの短いスカートは。
「おかしくない?」
「ん、可愛いよ」
待っていた人に即答されたにも関わらず、香佑はうつむいて、自分の髪を指で直す仕草をした。
いや、直すとこ違うだろ。スカート、スカート。見えるんじゃないか、その短さじゃ。
腕時計を見ながら、背の高い男が言った。
「どこ行く?」
「どこでも……。ね、本当におかしくない?」
「可愛いって、マジで」
それでも自信なげに自分の衣服を見下ろす香佑の肩を、男が、ややじれったそうに抱き寄せた。
「ほんと、可愛い」
「なにそれ、ウソっぽい」
「言ったじゃん。香佑は何着ても可愛いし――どこだっけ、ウサギ?」
「宇佐田町」
「ああ、そこそこ。ウサギ訛りの喋り方も可愛い」
「あのねぇ。……やめてよ、もう。昔のことは思い出したくもないんだから」
もつれ合うようにはしゃぎながら、二つの影が目の前を通り過ぎて――数メートル先の路地で消えた。
「…………」
動くに動けず、隣の建物の影に立っていた匠己は、呆気にとられたまま、二人の姿が消えた路地を見つめていた。
――てか……。
自分で言ってなかったか?
五年待つとか?
確かに駅では追いつけなかったが、だからって、たかだか半年足らずで?
――女って…………
しばし、唖然と、手にした赤いお守り袋を見つめた匠己は、やがて首をかしげて歩き出した。
風は冷たく、灰色の空は厚い雲で覆われている。今にも雪がちらつきそうだ。
匠己は時計を見て、白い息を吐いた。急がないと、帰りの新幹線に間に合わない。墓巡りに行こうと思って貯めていた二年分の小遣いがパァだな。これで。
しかし、どうすりゃいいんだ。これ。
匠己は古びたお守り袋を持ち上げた。
こんなものを見つけさえしなかったら、半年前のあの日、駅まで追いかけていくことも、こうして東京の家まで訪ねていくこともなかったろう。
ま、言い方は悪いが、初恋の末路を知ることもなかったわけだ。
あいつは、恋の神様だとか言ってたけど、本当にそうか? むしろ、疫病神的な匂いすらするぞ。
東京に引っ越された時点で、どうせつきあいとか無理だったし、綺麗なままにしておけば、いつまでも懐かしく思い出せた相手だったのかもしれないけど―――
「…………」
捨てるか。
いや、でもあんだけ大切にしてたしな。
持ってるのも微妙に気が重いし、――ポストにでも投げ込んどくか。そうだな。神様なんだから、その程度の奇跡もありだろう。
匠己は踵を返して、元来た道を戻り始めた。
「だから、今、忙しいんだって」
数歩歩いたところで、声がいきなり飛び込んできた。
匠己は足を止めていた。携帯電話を耳に当てながら、香佑が足早にアパートの方に向かって歩いている。
「そう、前に写メで送った人。つきあってるかどうかは微妙だけど、今から初めて二人でデートなんだ。今? だから忘れ物取りに家に戻ってるの」
階段の前で、その背中が止まる。
匠己は、少し不思議な気持ちで、半年前に別れた人の背中を見つめていた。
肩を覆う髪の長さは変わらない。でも、また少し背が伸びた。俺も、あれからかなり伸びたんだけど、そっちも伸びたんじゃあまり意味ないな。まぁ、そもそも今更、どっちの背が高かろうが、なんの意味もないんだけど。
「うん。そう。やっと忘れたの。悪夢みたいな片思いだったけど、もう、顔みることも二度とないしね。気の迷いだし、勘違い。あははっ、こっち来て、やっとそれが分かったって感じ?」
さすがに匠己は、むっと眉を寄せていた。
どうでもいいけど、もう、女の言葉なんて二度と信じねぇぞ、俺は。
そういう意味じゃ、いい人生勉強になった。お年玉二年分の授業料も無駄じゃない。
匠己は足を踏み出した。よく考えたら、別に隠れる必要も何もない。さっさとこれ渡して、下宇佐田に帰るか。
「おい――」
「正直、吉野のことなんか、もう思い出したくもないんだよね」
声のトーンが少しだけ沈んで聞こえた。
「恋って辛いものだし、泣くのが当たり前だと思ってたけど、そうじゃないって初めて知ったよ。――うん、楽しいよ。これでよかったんだよね。時々迷うし、判らなくなるけど、どっかでケリつけなきゃ、一歩も前に進めないから」
「…………」
「あの馬鹿と遠距離恋愛とか、そもそも無理だし、最後もばっさり振られたしね。追いかけてきたら――ないない? ありえないでしょ。高校出たら石屋継ぐって言ってたし。うん……もう、会うこともないよ。その方がいいんだ。だって会ったらもうダメじゃん。また好きになっちゃうじゃん。あいつ魔法使いなんだよ。石の呪い。絶対そうに決まってる。その呪いがやっと解けたんだから」
アホか。
誰が魔法使いだよ。
ああ――参ったな。
「何やってんの」
最初に聞いた男の声が、匠己の傍らをすり抜けた。ふと足をとめ、その人がちらっと匠己の方を振り返る。制服にマフラー姿。雑誌にでも出てきそうな整った顔だちのイケメンだ。嶋木に――よく似合っている。
「あ、ごめん。友達から電話かかってきて」
香佑が慌てたように、携帯電話に唇を寄せた。「じゃ、切るね。ミサミサ。またこっちから連絡するから」
背の高い男が、微かに笑う気配がした。
「ウサギの友達?」
「だから宇佐田。滅多にかかってこないんだけど、いっつも変なタイミングでかけてくるの」
「へぇ」
笑っている横顔が優しそうだった。背が高いだけでなく、骨格がしっかりしているから、年は少し上のように見える。
悪い奴じゃない――んだろうな。
そこはもう、図りようがないけれど。
「待ってて――あれ、あった!」
バックに携帯を入れた香佑が、少し驚いたような声をあげた。
「ごめん。忘れてたと思ったけど、お財布、バックに入ってた」
「あはは、そうなんだ」
「ほんと、ごめん」
「いいよ。気にしなくても」
手をつないだ二人が、寄り添うようにして冬の街を歩いて行く。見つめあう横顔が幸福そうだ。雪が、音もなくちらつき始める。
匠己は歩き出していた。
参ったな。
マジで、参った。
今のこの気持を、どう表現していいか判らないけど、今日ここに来たことを、もしかしてこれから何年先も、俺は後悔しそうな気がするぞ。
綺麗にしろ、残念にしろ、思い出になるはずの感情が、何年先になっても、なんだか忘れられなくなりそうな気がするのは何故だろう。
何年先になっても――いつまでも、心の底の深い場所に、今日の感情が残っているような気がするのは……。
「おはよう。匠己」
いきなり自分の中に割り込んできた声に、匠己はほとんど反射的に飛び起きていた。
「なによ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
いや、驚くだろ。普通。
朝――作業場に設けた狭いロフトに、朝の日差しが差し込んでいる。ここに戻った最初の年に、匠己自身が作った極めて粗雑な屋根裏部屋だ。
この、一人分の重さを支えるので精一杯の場所に、二人目の人間が上がりこむだけで問題なのに、その相手が――
「起きて。もう朝御飯できてるから」
「判ったから、ベタベタ触んな」
「ひっどい言い方。ていうか、私のこと意識しすぎなんじゃない?」
駄目だ。こいつに何言っても。
匠己は傍らのシャツを羽織って、身体を起こした。
「嶋木は?」
「いないわよ」
腰に腕をあてながら、平然と涼子は答えた。
「朝からバタバタした挙句、何も言わずに出かけちゃった。だから朝御飯、今朝は私が作ったんだ」
匠己は軽い溜息をついた。
「判ったから、出てってくれ。着替えたらそっちに行くから」
今度は涼子が、笑うような息を吐く。
「切り替えの早い匠己が、今回は珍しく長く怒ってるのね。でも、言っとくけど」
「判ってるよ」
遮るように手をかざすと、涼子は満足そうに微笑んだ。
「ならいいけど? 私を恨むのは筋違いよ。なにもかも、決めたのは嶋木さん。そして決めさせたのは匠己――なんでしょう?」
「…………」
「何か事情があるんでしょ」
耳元で囁くように、涼子は言った。
「結婚しなきゃいけなかった事情。でも、やっぱり上手くいかなかった。仕方ないわよね。彼女、匠己のこと本当は好きじゃないみたいだし」
「…………」
「心配しないで。私は、匠己と嶋木さんの味方よ。お互いに言いにくいことでも、私がちゃんと聞き取ってあげるから安心して。今、嶋木さん寂しいのよ。唯一心の拠り所だった慎さんが、実家に戻っちゃったから――」
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