20
 
 
「お茶持ってきた」
 ぶっきらぼうに言うと、作業場の奥で石を削っていた人は、額の汗を手の甲で拭って振り返った。
「なんだよ。まだ怒ってんの」
「当たり前じゃない」
 むっと膨れたまま、香佑は冷茶の入ったポットとカップをベンチに置いた。
 石の会から帰宅して、まだたったの一時間。怒りを冷ませという方が無理である。
「いやぁ、好評だったし、受ける人には受けてたじゃん」
「それ、吟さん一人じゃない」
 タオルで汗を拭いながらベンチに座った匠己に、香佑は冷茶を注いだカップを付き出した。
「後の人は、どっちらけ。私、後からマジで聞かれたからね。あれ、もしかしてお経ですかって」
「お前が下手すぎたからなぁ……」
 匠己は遠い目になって天井のあたりを見上げた。
「せっかく習ってんだから、もう少し真剣にやってみろよ。案外、声出すのも楽しいぞ」
 拳を振り上げていた香佑は、その言葉にうっと詰まって、そっぽを向いた。
 まぁ、確かにその通りだ。義理で習い始めたという気持ちばかりが先立って、練習では、適当に人の声に合わせていた。あまり真剣に取り組んではいない。
「あんたは、真剣にやってたわけ」
 そう聞くと、匠己はいかにも心外そうに眉を上げた。
「まさか。思いっきりの遊び半分だよ。吟さんには散々叱られたけど、それでもお前よりはマシだったんだな」
「……ほっといてくれる。マジで」
 ほんっとうにムカツク奴。
 まぁ確かに、香佑よりマシだったとはいえ、匠己の詩吟も、決して上手いとはいえなかった。二人してお経を読んだと酷評されても仕方のないレベルだ。
 もうお前には二度と歌は頼まん、と富士山などは激怒して――匠己はだた、「はぁ、すみません」と謝っていた。間違いなく、それも匠己の想定の範囲内だ。
 それでもその後は、それなりに笑いと話題の中心で、香佑は内申、匠己の人あしらいの上手さに舌を巻いていた。
 とはいえ、この先二度と、匠己に詩吟を詠めと頼む輩はいないだろう。その程度には場の空気は凍りつき、失笑と苦笑いだけが起きていた。そういう意味でも、匠己は上手いというか、――なんだかずるい。
「……女あしらいは下手なくせに……」
「え?」
 匠己が訝しく振り返ったので、香佑はただ無言で肩をすくめた。
 そう言えば、あれから涼子さんの姿が見えないけどどうしたんだろう。おかげで穏やかな日々が過ごせてはいるけれど、何ひとつ連絡がないと少しだけ心配だ。
 香佑はちらっと匠己を横目で見て、溜息をついた。
 こいつさえいなければ、涼子さんとも、少しは仲良くできたのかもしれないけど――
 まぁ、東京での仕事に戻ったのだろう。いくら大手とはいえ、あんなに長く休めるものかと訝しく思ったものだが、もう9月も半ば。本格的な秋の訪れももうすぐだ。
「なんでもない。ほんと、あんたって嫌な奴だな、と思って」
「はぁ? なんだよ。それ」
「女の気持ちを弄んで、いつか、痛い目にあっても知らないんだから」
 そろそろ祭り実行委員会に行かなくっちゃ。香佑は立ち上がろうとした。その腕を掴んで引き止められる。
「……何」
 香佑は驚いて匠己を見上げていた。
「いや……」
 匠己も、そんな自分に戸惑っているかのように、一瞬、言葉に詰まっていた。
「俺がいつ、誰の気持ちを弄んだのかと思って」
 なにそれ。
 そんなのいちいち説明しなきゃ、あんたにはわかんないわけ。
「自分の胸に手を当てて、よく考えてみたら」
 香佑は、いよいよ素っ気なく言って立ち上がろうとした。ていうか、この状況、とんでもなく照れるんですけど。真正面からこの人に見つめられると。
 なのにまだ、匠己は香佑の手を離そうとしない。
「あのさ」
「な、何よ。私、そろそろ出ないといけないんだけど」
「…………」
 何? この前、うちに泊まった夜から、少しこの人、おかしくない?
 なんで、そんな目で私を見るの?
 あの夜もそうだけど、なんだか錯覚してしまうじゃない。
 まるで、あんたも私のこと好きだって。
「……い、言い過ぎたんなら謝るけど、……別に、そこまで本気だったわけでもなくて」
「…………」
「あの……」
 手、離して……。
 自分から目が逸らせないよ。このままだと、心臓が、――壊れそうで……。
 匠己の唇が、何かを言いたげにわずかに開いた。その時だった。
「あ、いたいた。女将さん、って――うわわっ、お邪魔だったっすか!!」
 ――勘弁してよ。そのリアクション。
 我に返ったように匠己の腕が離れ、香佑はなぜだか激しく失望しながら振り返った。
「別にお邪魔でもなんでもないわよ。なんなの、一体」
 本当は、ものすごく邪魔だったような気がするけど。
「いや、慎さんから、今電話が入ってて」
 横を向いて、わざとらしく咳き込んでから、宮間は言った。
「慎さんから?」
 思わず明るい声が出た。そういや、元気にやってるかな、あの人。あんなに世話になった割りには、ここ数日、すっかり存在を忘れてた。
 香佑は匠己を振り返った。
「ほらー、だからこっちにも電話引けって言ったのよ。早く店の方に戻んなさいよ」
「いや、女将さんに」
 背後で、宮間の声がした。
 ――私に……?
「西村さんとこの納骨式の件で、確認しときたいことがあるって。竜さん今外だって言ったら、女将さんに代わってくれって言うんですけど」
 ああ、私か。
 香佑はためらいながら、何故か匠己を見上げていた。
 てか私、納骨式は、ただ周りを箒で掃いただけで、前日までの連絡やお供え物の手配なんかは、全部涼子さんに任せっぱなしだったんだけど。
「行けよ」
 立ち上がりながら、匠己が言った。
「え」
「電話。千葉からだったら、電話代がもったいないだろ」
「あ、うん」
 なんかこう――今、ぎくしゃくの前兆みたいな感じがしたけど、気のせいだよね。
 立ち上がって、戸口にまで行った時、背後で宮間の声がした。
「それから、師匠に手紙が来てるんで、ここ、置いときますね」
「ああ、後で見るから、適当に置いといてくれ」
 香佑はちらっと振り返っていた。
 再び仕事に取り掛かった匠己は、もうこちらを振り返ろうともしていない。
 別に慎さんが悪いわけじゃないけど、なんだかすごく悪いタイミングで電話がかかったと思うのは気のせいだろうか。
 まさかね。
 私と慎さんなんて、そもそも嫉妬されるような関係ですらないんだから――
 
 
「……安藤奈々海……?」
 ベンチの上に置かれた手紙を取り上げた匠己は、眉を寄せて首をかしげた。
 誰だろう。ごくごく最近聞いた名前のような気がするけど。
 お客とも違うし、誰だったっけ。
 住所は千葉か。慎さんの実家もその辺りだ。
(慎さんから?)
 何もあんな、あからさまに嬉しそうな声を出さなくても。
 みっともないけど、まるで頭から水でもかけられた気分だった。
「……何が、女の気持ちを弄ぶなだよ」
 それ、俺が言いたいんだけど。遡れば十八年前からずっと。
 手紙を再度ひっくり返した匠己は、その瞬間、差出人の正体に気づいていた。
 思い出した。この人は慎さんの――
 元妻で、幼馴染。そりゃ住所が近いはずだ。
「え、なんだって俺に手紙?」
 よく見れば、宛名は吉野石材店で止まっている。まぁ、いかにも私信だし、社長である俺宛で間違いはないんだろうけど――でも、なんで?
 まさか慎さんの身に何かあったとか――まさかな。さっき本人から電話があったばかりだし。
 匠己は、ためらいながら、封を指で切った。
 
 
「……え、匠己がそんなことを?」
「ええ、まぁ……」
 ダイニングテーブルでお茶を飲む宮間は、どこか気まずそうだった。
「涼子さんに、もう来るなって、そんなこと言ったの」
 香佑は眉をひそめながら、タオルで手を拭ってその宮間の前に腰掛けた。
 仕事が終わり、今から帰ろうとする宮間に「涼子さん、最近連絡ないけどどうしてるか聞いてる?」と、話しかけたのは香佑だった。
 涼子のことは、正直苦手だし、いられると辛いけど――それでもやっぱり、気になってしまったのだ。
 最初、宮間は言い渋っていたようだったが、香佑が重ねて聞くと、ようやく重い口を開いてくれた。
「いつの話」
「女将さんが、実家に泊まった夜っすよ。涼子さん、ボロボロ泣きながら出ていって、俺ももう、胸が痛いっつーか、なんつーか」
「…………」
「まぁ、師匠も、今のままじゃマズイって、さすがに思ったんじゃないっすかね。俺もおかしいことしてるな、この人たちって思ったし。慎さんにもガミガミ叱られてたみたいだし」
 それは確かに、相当おかしなことをしていたに違いない。
 新婚家庭に、元彼女が堂々と乗り込んできたのだから。
 でも――
「涼子さん、泣いてたの」
「初めて見たっす、あの人の泣いた顔」
「…………」
「恋愛って残酷っすね。それまで家族みたいにうちに顔出してた人が――あ、別に女将さんがどうだっつー話をしてんじゃないんっす。俺も、師匠の決断は正しいなと思ってますから、でも」
「うん、判ってるよ」
 まだ何か言いたげな宮間を、香佑は微かに笑んで遮った。
 それでも胸の中は、重苦しさでいっぱいになっている。涼子さんに、匠己がそんなことを言ったんだ。別れても、つかず離れずうまくやっている――そんなことを言っていた涼子さんに。
 多分、出ていった私に気を使って。
「………」
 宮間が帰った後も、香佑は一人でぼんやりと椅子に座り続けていた。
 問題は、多分私だ。
 私さえ、涼子さんと上手く折り合っていければ、匠己と涼子さんが、あえて離れる必要もないんだ。
 私が――涼子さんを受け入れることができたなら。
「ノブは帰った?」
 背後で、いきなり匠己の声がした。
「あ、ああ、ごめん」
 ぼんやりしていた香佑は、急いで立ち上がってエプロンを締め直した。
「ご飯、もうすぐできるから待っててくれる。できたら仕事場に持ってくから」
「……うん」
 妙にテンションの低い声に、香佑は少し訝しく振り返る。
 匠己は昼間と同じ作業着姿のまま、黙って封書のようなものを机の上に置いた。
「悪い、読んだ」
「……? なに、私あて?」
 匠己が答えないので封書を取り上げると、差出人は安藤奈々海、となっている。
「あ、奈々海さん」
慎さんの幼馴染で元妻じゃん。
 私に手紙?
 まぁ、お礼の手紙が何かだろうけど――
「別に読んでも構わないでしょ。こないだ友達になったばかりなんだ。案外いい人だよね、奈々海さん」
「あのさ」
 最初と同じテンションのまま、遮るように匠己は言った。
 香佑は初めて気がついた。そう言えばこの人、さっきから一度も私を見ないけど、どういうこと?
「俺に気をつかわなくていいから」
「はい?」
「そのあたり、好きにしていいっていうか、そういうことなら応援するから」
「はい?」
 なんの話……?
「んじゃ、メシできたらよろしくな」
 匠己が出ていったので、香佑は首をかしげながら手紙を封筒から引き出した。
 私も涼子さんのことで話があるんだけど――まぁ、それはご飯持ってった時でいいか。
 外では、夏の最後の蝉が、どこか物悲しい鳴き声をあげている。
 
 
 
 
 
 
 
                     墓より男子@ (終)
 >後半改めAに続く >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。