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18
「で、あれから何か、新しい情報は入ったわけ?」
広島市内のビジネスホテルの一室で、涼子はノートパソコンのキーを叩きながら、傍らの携帯に話しかけた。
スピーカー機能をオンにしているから、机に置いたままで通話可能だ。
「いや、結構ガードが硬くてさ」
すぐに藤木悠介の声が、雑音混じりの背景音と共に返ってくる。
「ていうか、当時のこと知ってる人間が、殆ど会社に残ってないんだよ。だいたい中途で入った子が短期で辞めるなんて、珍しくもなんともない話だし――なぁ、それが本当に重要なこと?」
「判らないけど、少し気になるから」
あの真面目で頑張りやの嶋木さんが、二ヶ月で会社側から解雇されている。
一応だけど、調べておいて損はない気がするのよね。
「ま、分かり次第伝えるよ。そんなことよりさ。今、吉野の会社の方を調べてんだ、俺」
「へー」
いらっとした涼子は、キーを少し強めに叩いた。
嶋木さんの過去、本気で調べてないでしょ、あんた。
匠己の会社って、あんな田舎の石屋に一体何があるっていうのよ。叩いても埃すら出やしない。とんでもなく無意味じゃないの。
あと数分で、依頼されていた原稿の締め切りがくる。正直、男の話が無益だったら、聞くだけ時間の無駄だろう。適当なことを言って電話を切ろうと、涼子が口を開きかけた時だった。
「それがさ。案外すごいネタが拾えてさ。あそこ、元ヤーさん雇ってるだろ。加納とかいう名前の」
なんだ、何の話かと思ったら。
「竜さんね」
涼子は白けた口調でおざなりに答えた。
「まぁ、確かに知らない人には驚きかもしれないけど、元ヤクザなんて、どこに行ったって普通にいるでしょ。竜さん、あの辺りじゃ人気者だし、その程度の話じゃ誰も」
「あいつ、危ないぜ」
遮るように藤木は言った。
「そうでもないと思うけど」
「そりゃ今は丸くなってるかもしれないけど、過去過去、過去だよ。その話が広まったら、吉野の店が信用なくなるのは間違いなし、みたいな」
「……へぇ」
涼子はわずかに眉をあげた。
「詳しく聞かせてくれる? その話」
添付ファイルをつけたメール送信を終えた涼子は、藤木の話に耳を傾けながら、窓の外に視線を向けた。
匠己――
ひとまず素直に退散してあげたけど、これで終わったと思ったら大間違いよ。
むしろ、痛々しく去った私に対して、少しでも罪悪感を持ってくれれば大成功ってとこかしらね。
私の本当の気持ちなんて、匠己には死んだって判んないだろうけど。
「……ごめんね、嶋木さん」
卓上に置かれた嶋木香佑の調査書を持ち上げ、涼子はくすりと笑った。
今夜は勝ったと思ってる?
でもね、どうやったって最後には、匠己は私にところに戻ってくるようになってるの。
私にはね、絶対にそうできるだけの切り札があるのよ。
「今はまだ、使わないでおいてあげるけどね」
だって切り札は、最後の最後。
一番面白くて有益な時に使わなきゃ、なんの意味もないじゃない。
19
「えっ、なんで吟さんがここにいるんですか」
吉沢町――グランドホテル吉沢の二階。
その催しは、奇しくも、先月行われた同窓会と同じ場所で開催されていた。
「なぁに。隣の部屋で、詩吟の集まりがあったのよ」
立食形式のパーティである。驚く香佑を尻目に、吟は、テーブルの上の枝豆を、ひょいと摘み上げた。
いつもの着流し姿である。墓場にいても様になるし、パーティの席でも様になるのだから、着物というのも便利なものだ。
「永谷園会長とは昔からのつきあいじゃから、ちょいと、挨拶だけしておこうと思っての」
もぐもぐと口を動かしてから、吟は顎をしゃくるようにして香佑を見た。
「匠己はどうした」
「今、あっちで」
香佑が指さした先では、スーツ姿の匠己が、二、三人の男たちに囲まれて、立ち話をしている。
カメラを持っている人がいて、マイクみたいなものが突きつけられているから、取材なのだろう。
この会――今、香佑が参加している宇佐地区石の会は、どうやら少しばかり、この業界では有名な会のようだった。
夫人同伴の懇親会とあって、会場の雰囲気は華やかだ。取材を受けているのは匠己だけでなく、石の会会長の永谷園の周りにも記者らしき人が侍っている。
むろん、メジャーな雑誌ではなく、業界専門紙――石関連の雑誌の取材らしい。
匠己と一緒にこの会に参加した香佑は、同業者にひと通り挨拶を済ませた後は、とんと暇になっていた。というより、ひたすら居心地が悪い思いをしていた。
元々奥さん同士の結束が強い会らしく、すでに婦人会みたいな派閥が出来上がっている上に、そのリーダーが香佑の苦手な富士山ます江なのだ。
ます江は、香佑を端から無視しているし、他の夫人たちも、なんとなくます江の顔色を伺っている風である。つまるところ、地区婦人会と全く同じ雰囲気だ。
――まぁ、匠己が、私を連れてきたくなかった理由も判るかな。
香佑はそっと溜息をついた。頼りの匠己は、あちこちの席に呼ばれて、なかなか香佑の所に帰ってこない。
そんなところに、折良く吟の姿をみつけたのだ。
その吟は、匠己の方を見てから、「ほう」と不思議そうな声をあげた。
「なるほどのう。永谷園さんに聞いた時は驚いたが、本当に匠己が来とるのかい」
少しばかり呆れた声である。吟は再び枝豆を摘み上げた。
「珍しいことなんですか」
「珍しいというより、初めてじゃ」
――え……。
「まぁ、色々あっての。匠己とは関係のない部分で、吉野石材店といえば、この業界じゃあ、ちょいとした嫌われ者なのよ。匠己の親父が死んだ時も、葬式に出たのは永谷園さんくらいじゃからの」
「…………」
香佑は黙って、笑顔で受け答えしている匠己を見た。
知らなかった。そんな話。
「匠己は、あんたも知っての通りの職人気質で、そもそも業界に顔を繋ごうという気がさらさらない。慎公も、そのあたりは割り切っておるからの。そういう意味じゃあ、吉野石材店は、匠己の代になっても石材業界の異端児だったわけじゃ」
「それが、どうして?」
どうして、嫌われていると判っている人たちの集まりに――?
何故か吟は、香佑をちらっと見上げた。
「さぁの。匠己に関してここ最近の変化と言えば、トラブルメーカーの嫁をもらったことくらいじゃ」
「はい? な、なんですか。それ」
もしかしてそれ、私のこと?
「匠己が偉いのは」
淡々とした口調で、吟は続けた。
「自分の拘りを、人とぶつからずに、水のように通していくところよ。あれも父親を散々悪く言われ、随分不条理な思いをしたんじゃろうが、その辺りの気負いも主張も何一つ見せずに、ただ、周りに合わせて頷いておる」
ぐしゃり、とその吟の顔がいきなり崩れた――いや、笑った。
「そのくせ、見ているがいいよ。匠己は自分を決して曲げたりはしないのよ。ある意味、とんでもなく扱いにくい、厭味ったらしい男ではあるがのう」
「…………」
自分の拘りを。
人とぶつからずに、水のように通していく。
香佑は、しばらく無言で、その意味を考えていた。いや、匠己のことを、自分に置き換えて考えていた。
知らなかった。匠己の父と石材業界の間にどんなトラブルがあったのかは知らないが、匠己もある意味、私と同じ葛藤を背負っていたのだ。
私はどうだったろう。最初からすごく気負っていた。絶対に自分を認めさせようと頑なに思っていた。そうできなければ、負けだとさえ思っていた。
自分を嫌っている人たちを、内心ではもっと嫌っていた。認められたいとは思っても、好かれたいとはただの一度も思わなかった。
最初に、匠己に、こう言われた。
自分が好きにならなければ、相手も、決して自分を好きになってはくれないと。
「……………」
「あ、吟さん、いいところで会った」
その匠己の声がした。
よほど吟を見つけたのが嬉しかったのか、少年みたいに目を輝かせてこちらに駆けてくる。
「やー、助かった。どういう偶然? ちょっと聞いてみたいことがあってさ」
「なんじゃい」
匠己がポケットからしわくちゃになった紙を取り出して、吟と何事か話し始めたので、香佑は邪魔にならないよう、二人の傍をそっと離れた。
なんか――微妙におもしろくないんですけど。
また、匠己に教えられた。
また、二人の間に差を感じた。
私は一体、いつになれば、今のあいつに追いつけるんだろう……。
「おう、ここにいたか。吉野の若造」
いきなり、高圧的なダミ声が響いた。
ぎょっとした香佑が振り返ると、いかにも酔いが回りきったような――真っ赤な顔をした大柄な酔っぱらいが、匠己の腕を掴んでいる。
「若いくせに、偉そうに取材を受けてヒーロー気分か。お前はな、ここじゃ一番の下っ端で新参だ。歌でも歌って、盛り上げろ。歌がダメなら、踊りを踊れ」
その隣では、富士山ます江が、どこか面白そうな目で笑っている。まさかと思ったが、その男がます江の夫のようだった。
富士山の声が大きいせいか、もともと注目を浴びている二人なのか、周囲がさっと静まり返り、視線が一様に向けられる。
「じゃあ、一曲歌います」
あっさりと匠己が言った。
「なんだぁ、お前。この前は、歌はダメだって言ったじゃねぇか!」
「いやぁ、よく思い出したら、一曲だけ、大丈夫な曲があったので」
しれっと言った匠己が、目で香佑を促したので、香佑は少し驚きながら、その傍に歩み寄った。
嘘。もしかして本当にデュエット?
どうしよう。恥をかかさない自信はあるけど、まさか匠己が本気にしてくれるは思ってもみなかった。てかこの人、Jポップなんて知ってるの?
「先程も紹介しましたが、妻です」
ちっと、富士山が、苦々しげに目を逸らした。最初からそうだったが、目茶苦茶感じの悪い人だ。香佑は我慢して頭を下げた。
「妻もたしなみがあるので、一緒に歌わせてもらいます。川中島で」
川中島?
その言葉には、香佑は眉を上げて匠己を見上げていた。
嘘でしょう? それって、まさか……。
「川中みゆき?」
「中島みゆき? どっちだ、それ」
周囲の人たちが訝しげにささやいている。
違う。中島みゆきでも川中みゆきでもなく、それは――それは、詩吟の――
鞭声粛粛、夜河を渡るだ。
香佑は、くらくらと目眩を感じた。
「む、無理、絶対に無理。あんな声、死んだって人前で出せないから」
「なんでだよ。今、吟さんとこで習ってんだろ」
壇上に立った匠己は、落ち着いた所作で、しわくちゃに丸めた楽譜を広げた。
「俺も興味本位で、あれだけは吟さんに習ったんだ。お前、自分で歌は得意だって言ってたじゃん」
それは、倖田來未とか、二人の愛ランドとかの話で、詩吟はそこに入っていない。いや、想定されてさえいない。
「えー」
マイクを持った匠己が、ごほん、と咳払いをした。
何故か手拍子が鳴り始める。いや、詩吟に手拍子とかいらないし。
「吟じます」
なにそれ。一昔前に流行ったギャグですか?
あああ、なんて悪夢。いや、なんて現実。
こんな宴会場で、しかも雰囲気が超盛り上がってる所に詩吟とか、マジ場違いな気がするんですけど。
これ、絶対わざとやってるに違いない。一人で場をしらけさせるのは勝手だけど、なんだってそこに私を巻き込むのよーーーっ
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