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17
「……で、どうすんの。これ」
「いや……私に言われても」
とりあえず、極力距離を開けるしか。
襖が閉じられた八畳の客間に、今、布団が二つ並べて敷かれている。
その布団を挟んだ両隅に分かれ、香佑と匠己は、眉を寄せながら向かい合っていた。
匠己は、父から借りた、明らかにサイズが足りないパジャマを着ているが、それをからかう余裕もない。
――どうしよう……。
香佑は、頭を抱えていた。
結局、布団はいく子が用意するというから、香佑は、匠己の後に続いて風呂に入った。
そして、出てきたらこうなっていたのである。
「あんた、嫌だって言わなかったの」
「言えるかよ。そのあたり、お前が上手くやれよ」
と、責任を押し付け合ったところで仕方がない。
そうか。そうきたか。当然のように別の部屋で寝るつもりだったけど、それを今夜の状況で主張するのは、確かにひどく不自然だ。
腕を組みながら、香佑はしばし考えた。私が沙紀ちゃんの部屋に行く――匠己が車の中で寝る――私がリビングで一晩中テレビを見る――
だめだ、全部、今夜の状況にふさわしくない。
だいたいリビングでは、今いく子さんが一人で韓流ドラマ見てるみたいだし。
「と、とにかく、離そう」
部屋の隅と隅に、布団を思いっきり離してしまえば、あまり相手の存在は気にならないはずだ。
「いや、いいよ」
しかし匠己は、諦めたように溜息をつくと、布団に入って背を向けた。
「それも、明らかに不自然だろ。心配しなくても何もしないし、そんな気にもならないよ」
「なっ、それもそれで、なんだか微妙に腹立たしいんですけど?」
「あのな。同じ家に親がいるのに、普通、そうはならないって」
背中から、面倒そうな声が返される。
「もう寝ろよ。明日は店が開く前に、あっちに戻るぞ」
「………うん」
なによ。
もう少し悩んでくれたって……いいじゃない。少しはさ。
さっきはあんなに、優しく抱きしめてくれたのに。
「電気は?」
「つけとけよ」
「あ、私、消さないと眠れないかも……」
「だったら消せよ。どっちでもいいから」
「豆球、残しとこうか」
もう、帰ってくる返事はなかった。
なによ。素っ気ないったら。
まぁ、この状況で、さっきみたいに優しくされても、困るんだけど。
「携帯、アラームにしとくけど、何時にしとこうか」
「…………」
「もう、寝ちゃった?」
「…………」
早すぎ。
まぁ、こっちもその方が気楽だけど。
香佑は、少し躊躇ってから自分も布団の中に入った。
少し離れた隣から、規則正しい寝息と、そしてわずかな体温が伝わってくるようだ。
やっぱり、少しドキドキする。つい、振り向きたい衝動に――いやいやいや。
香佑は自分を戒めるように頬を叩いた。
とにかく隣を意識しない。いないと思えば、別に気になることもない。しかももう、寝ちゃってるみたいだし。
携帯を開いて、アラームをセットしていると、メールが入った。
香佑は、少しだけ表情を強張らせていた。瀬川さんだ。
吉野さん。
今日は、ごめんね。
吉野さんのお父さんがなんでもないことのように話していらしたから、私も気にせず、つい他の人に話してしまったの。
私の知人も、結婚してしばらく籍を入れなかったから、そういうのも、今は普通なのかな、と思って。
悪気はなかったのだけど、結果的にあんな風に広まってしまったことは、すごく申し訳なく思っています。
うちの町内会は、昔から地の人ばかりで構成されていて、新しい人には、いつだって敷居が高いの。だから、吉野さんみたいに苦労された挙句、離れていった人は沢山おられます。
でも、その中でも、吉野さんは、すごく頑張っていると思いますよ。
月並みな言葉だけど、負けないで。
若い人たちの中には、吉野さんに好感を持っている人は沢山いますよ(今は、言葉をかけにくいだけで)。
今日は、ご主人が役員の家を一軒一軒回って、色々と話をされていたようですよ。
匠己君、素敵ですね。
あんな優しいご主人がいる吉野さんが羨ましいわ。
これに懲りずに、これからも頑張ってくださいね。
「ねぇ……」
香佑は、思わず声をあげていた。
「ねぇ、見てよ。こんなメールがきたんだけど!」
「――あ?」
それでも動かない匠己の背中を、香佑は掴んで揺さぶった。
「見てってば。ほら、瀬川先生のところから」
「あのなぁ……」
仕方ない、みたいな溜息を吐きながら、匠己が物憂そうにこちらを向いた。
「ほら、ほらほら」
香佑は開いた携帯電話を差し出した。
仰向けになった匠己は、唇を尖らすようにしてその画面を見ている。
「ふぅん」
「ふぅんって、どう、どうどう? 嬉しくない? なんだかすごく、嬉しくない?」
「いや、その感情を俺に押し付けられても」
寝入りを起こされて不服そうだったが、匠己の横顔がわずかに笑んだような気がした。
「ま、よかったな」
「………うん」
ありがと。
何も力になれないって、結構頑張ってくれてるじゃん。
ありがと……匠己。
「素敵なご主人だって」
「なんだよ、気味悪いな」
「ふふ、だって、素敵なご主人だよ? なんだかこっちまで鼻高い感じ」
「社交辞令だろ。そんなんで喜んでんなよ」
「だって」
香佑は、携帯を胸に置いて目を閉じた。――だって、本当に嬉しいんだもん。
そして――そのまま、しばらく目を閉じて考えてから口を開いた。
「あのさ」
「なに」
「籍のことなんだけど、……どう思ってる?」
香佑が薄目を開けて、匠己の様子を伺うと、匠己も仰向けになったまま、天井を見ているようだった。
「親父さんに説明した通りだけど」
呟くように、彼は答えた。
「私次第? 私がしたいって言えば、入籍もオッケーだってこと?」
「……俺に、そのあたりの拘りはないから」
「そっか」
籍を入れたら、偽装結婚とか、形だけの夫婦とかじゃなくなるんだ。少なくとも。
私は堂々と吉野香佑になって、保険証も、免許の名前も書き換えて――胸を張って、下宇佐田のコミュニテイの中で生きていける。
でも……。
よく判らないけど、それじゃ、何かが違うんだ。
何かが違う。それが何なのかは判らないけど。
「ま、考えとく」
「なんだよ。それ」
ふっと匠己が、緊張を解いたような息を吐く。
匠己は本当はどうしたかったかな。ふとそう思ったけど、それはもう、聞かないことにした。
「それよりさ」
香佑は匠己を振り返った。
「石の会だけど――夫婦同伴? 私、絶対に行くからね」
「ええ?」
いきなり迷惑そうな声をあげる匠己を、香佑は少しむっとして睨んだ。
「なによ。富士山さんの奥さんもいるんでしょ? 出なきゃ出ないで、絶対ああだこうだ言われるんだもん。だったらもう、いっそラブラブな感じを見せつけてやらない?」
「何がラブラブだよ。勘弁しろよ。俺もう、出るのやめようと思ってたのに」
「なんでよ。いいじゃない。カラオケでもあれば、デュエットしようよ」
「あのなぁ……」
何か言いかけた匠己が、ふと考えこむように言葉を途切れさせた。
「ま、それもいいな」
「でしょでしょ? あー、なんだか楽しみになってきたし」
何歌おう。倖田來未のKAMENがいいけど、匠己が知ってるあたりなら二人の愛ランドとか? ちょっと古すぎるけど。
自慢じゃないけど、歌はかなり、上手い方なんだよね。私。
しばらくそんな香佑を見ていた匠己が、呆れたような苦笑を浮かべた。
「ほんと、単純な奴」
「なによ、それ」
「たかだかメールひとつで、人って、そうも前向きになれるものなんだな」
「ほっといてよ。どうせ私は単純ですよ」
振り返ると、思いの外近い場所に顔があった。
香佑も少し驚いたが、匠己も同じように驚いている。
彫りの深い綺麗な顔――男らしくて、硬そうな唇。
胸の奥で、忘れていた動悸が再び鳴り始める。
いつの間に、こんなに距離が縮んだんだろう。
そうだった、忘れていた。今は、いつもの状況じゃなくて、一応夫婦ということになっている二人が、夜、同じ部屋にお布団を並べて寝ているんだった。
「…………」
「…………」
あの……。
息が詰まりそうな沈黙の中、香佑の喉の奥が微かに鳴った。
なんで、そんな目で私を見るの。
なんかもう、どうしていいのか、判らなくなりそうなんですけど、今。
匠己の唇がわずかに開く。香佑はびくっと肩を震わせていた。
「……おやすみ」
――え?
「あ、うん。おやすみ」
我に返った時には、匠己はもう、背を向けていた。
なんだったんだろう。今の間は。
そのままキスまでいっちゃいそうな――そんな抗いがたい引力みたいなものがあったんですけど、何もかも私の妄想で気のせいだった?
まぁ、そうだよね。
匠己にその気があるなら、今日を待たずしてとっくにそうなってただろうし。
香佑は、携帯を枕元に置いて、目を閉じた。
しばらくすると、再び、匠己の寝息が聞こえてくる。
香佑はちらちらっと匠己の様子を伺ったが、微かに上下する背中は、もうこちらを振り向く気配さえ感じられなかった。
――嘘でしょ。普通に寝れちゃうんだ、この状況で。
少しむっとして、香佑は唇を尖らせる。
ほんと、信じられない奴。
私は……、なんだか朝まで眠れそうもないのに……。
「……………」
ちょっと、近づいちゃおうかな。
どうせ寝てるし、今までの経験からいって眠りが深い時は何しても起きないし、少しくらいなら、平気だろう。
朝は朝で、七時より前に匠己が自分で起きるなんて、まずあり得ない。時計は六時にセットしたから、間違いなく香佑の方が先に目覚める。
香佑は、少しだけ距離を詰めた。
手を伸ばしたら、簡単に背中に触れられる距離。
匠己がいよいよ寝入っている風だったので、ますます大胆になって、もう少しだけ距離を詰める。
身体を傾けたら、頭が背中に当たる距離。
「……………」
香佑は、自分の額を、そっと広くて暖かい背中に当てた。
――好き……
信じられないくらい、好き。
どうかその手で、私に触れて。
私のなにもかも、全部に、触れて。
そして、あなたのなにもかもを、全部を私のものにして。
もう二度と、誰にもあなたを渡したくない――
「竜さん? 悪いな、こんな時間に。よかった、まだ残っててくれたんだ」
時計を見ながら匠己は携帯を耳に当て直した。
午後十一時半。
店に電話したものの、誰かが出るとは、正直、思ってもみなかった。
「いや、俺慌てて出てきたから、戸締りとかどうかと思ってさ。まぁ、なんだかんだあって、帰りは明日の朝になりそうだから」
奥さんは?
加納が初めて口を開いたので、匠己は、出てきた家の方を、ちらっと見ていた。
この状況で熟睡とか、一体どういう神経だ?
しかも、どんだけ寝相が悪いのか、放っておけばどんどんこっちのテリトリーに入ってくるし――眠れないだろ。あんな真似されちゃ。
「一緒に帰るよ」
匠己は言った。
「明日、そっちに連れて帰る。なんか張り切ってるから、竜さん、厳しく仕込んでやって」
「それは、難しい注文ですね」
電話の向こうで、加納が微かに笑うのが判った。
「私は、女性を厳しく扱ったことがないので。つい、甘くなってしまうかもしれません」
「は、はは」
信用してるけど、なんか、微妙に危険だな。この人も。
あいつもあいつで、若干ファザコン気味なところがあるし。
まぁ――本心じゃ、父親が恋しかったんだろうな。十四歳かそこらで別れて、それきりだったんだ。
「花は、ちゃんと奥さんに渡しましたか」
「えっ、ああ、あー、渡したけど、あんま、効果はなかったかな、はは」
誤魔化すように笑うと、電話の向こうで、加納が諦めたような息を吐くのが判った。まぁ、見抜かれてるな、この人には。
しかし、たかだか実家に迎えにいくのに、よそ行きのスーツ着て手土産に花とかありえねぇだろ。竜さんの感覚って、ちょっと俺には判んねぇぞ。
匠己は携帯を持ち直した。
「竜さん、色々ありがとな、今回は」
「なんのお話でしょう」
「竜さんに言われるまで、気づかなかったことが色々あったからさ。あいつが籍や名前にこだわってたのも知らなかった。……ま、その辺りは、自己解決したみたいだけど」
名前も、あいつにとっては、ここで生活していく上での、拠り所のひとつだったんだろうな。
おかしな奴。
嶋木だろうが、吉野だろうが、お前の居場所なんて、もうとっくに出来てるのに。
「奥さん、嬉しそうでしたよ」
「え?」
「周りから吉野さんと呼ばれることが、単純に嬉しかったのでは? だから張り切っていたし、そのテリトリーに誰も入れたくはなかった。私にはそう思えましたけどね」
「……え?」
どういう意味だ、それ。
「奥さんは、それだけ社長が好きだということですよ。では、おやすみなさい」
「え、ちょっ、竜さん?」
え?
一体なんの話だって?
匠己はしばし、呆然と、通話の切れた携帯を見ていた。
なにか、聞き間違いでもしたかな。俺。
いやー……
口元を押さえると、自分の頬が少し熱くなるのが判った。
ないない。それは絶対竜さんの勘違いだ。
でも――
てか、もう戻れないじゃねぇか。あの部屋には。
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