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16
「……これ、着替え」
「ああ、サンキュ」
縁側に座る匠己の隣に、香佑は少し躊躇ってから、腰を下ろした。
月光が、彼の横顔を照らしている。
ネクタイを取って、シャツの襟元をくつろげている匠己は、職人というより会社勤めをしている人のように見えた。
案外、飲める人なんだな。
イメージ的に下戸だと思ってたけど……。
香佑は、眩しくなって視線を下げた。
そっか。もう子供の頃の匠己じゃない。
あれから十年以上が過ぎている。もう私たちは――大人なんだ。
「本当に泊まるの?」
「しょうがねぇだろ。飲んじゃったんだから」
「誰かに頼んで迎えに来てもらったら……」
「誰にだよ」
涼子さんとか――
それは、口には出来なかった。
馬鹿な匠己が、本気でそれを実行したら、やっぱり嫌だと思ったから。
「いいよ」
月を見上げながら、匠己が言った。
「親父さん、俺に泊まって欲しかったんだよ」
「うん……」
その辺りは、恥ずかしいくらいテンションを上げた父の態度でよく判った。
結局、家の空気が悪くなったのは一瞬で、あとはとめどなく良くなっていくばかりだった。
父ばかりでなく、いつも無愛想ないく子さんまで、なんだか人が変わったみたいによく笑い、一人、その空気についていけない香佑を除き、大人四人の宴会?は、結局十時過ぎまで続いたのだ。
完全に酔い潰れてしまった父の寝室からは、少し離れた縁側にまで、高鼾が聞こえてくる。
「あの、……今夜は本当に迷惑かけて」
かなり不本意ではあったが、少なくとも今夜のことだけは謝ろうと、香佑が覚悟を決めて匠己に向き直った時だった、
初めて香佑に視線を向け、匠己は微かに笑った。
「丁度よかったよ。俺も、一度きちんとお礼を言わなきゃなって思ってたから。保険証のこともそうだけど、携帯のことも」
「…………」
「お前がどんな話ししてるか判んないから、緊張したよ。むしろ、酒出してもらってほっとしたくらいだ」
「…………」
なにそれ。
なんで携帯のことで、あんたがうちのお父さんに、お礼言わなきゃいけないわけ。
そんな風に言われたら、まるで本当にあんたと私が結婚したみたいじゃない。
私が、本当に吉野香佑になったって――
そんな風に、――錯覚してしまうじゃない。
「なんで、迎えに来てくれたの」
動揺しながら、けれどそれを悟られないように香佑は言った。
「そりゃ……」
匠己は困窮したように、鼻のあたりを指で払う。
「生計たてて出て行かれるんならともかく、これから仕事探すんだろ。住む場所も決まってないのに――いくらなんでも、そんな無責任な真似、できないだろ」
「…………」
それだけ?
別の答えをそこに期待していた香佑は、拍子抜けしたように息を吐いた。
夜に王子様みたいなイケメンが花束もって、それだけのオチ?
「本気で出ていきたいんなら、……確かに俺に、引き止める権利はないんだけど」
言葉を探すような口調で、匠己は続けた。
「ただ、お前がどう思おうと、俺は、嶋木の親父さんから、お前を預かったんだ」
「………」
父と匠己の間に、不思議な信頼関係があることを、今夜香佑は初めて知ったのだった。
一体いつの間に二人は親しくなったのか、父はどうも、匠己に全幅の信頼を置き、匠己も匠己で、その信頼に答えるような態度をとっている。
「束縛する気はないけど、――責任は持つよ。お前だけじゃなく、店の誰に対しても、それは同じだけどな」
「…………」
そっか。
誰に対しても同じですか。
一見放置しているようにみえて、あんたが案外面倒見がいいことは、なんとなくだけど判ったよ。ノブ君も美桜ちゃんも竜さんも、なんだかんだいってあんたのことが大好きみたいだし。
まぁ、私も、その一員程度にはしてくれてるわけですか。
張り詰めたものが、ゆるゆると抜けていく。香佑は気付かれないように息を吐き、視線を自分の膝に落とした。
まぁ、期待したところで、その程度の理由だよね。
そんなの、最初から判ってたけど……。
香佑は視線を下げたまま、こみ上げてきた感情が溢れないよう、懸命に堪えた。
でも、ごめん。
――もう、それだけの理由じゃ、私の心が辛すぎるんだ。
今戻ったところで、結局はまた、同じことの繰り返しになる。
だったらもう――別の場所で、やり直した方が。
「いろよ」
零れそうになった涙を、香佑ははっとして指で払った。
「なんかこう……、上手く言えないけど、こういうリタイアの仕方は、お前らしくないよ」
実際、上手い言葉が見つからないのか、匠己がもどかしげに頭をかいた。
「正直に言えば、お前がうちに来た時からずっと思ってた。どう言やいいのかな。――俺が昔にこだわりすぎてんのかもしれないけど……昔のお前と変わったなって」
「………」
変わった?
「まぁ、色々あったのかな、とは思ったけど」
「………」
「いいよ、言いたくないことは言わなくてもいい。それでどうだってわけでもないけど、ただ、その――」
前を見たまま、匠己は少し困ったように息を吐いた。
「まぁ、いろよ」
「………」
「お前がどう思おうと、もううちには、お前のポジションみたいなものができてんだ」
「はい?」
いや、それはあり得ないでしょ。
顔をあげた香佑の反論を遮るように、匠己は続けた。
「だいたい、今、お前がいなくなったら、俺が慎さんに怒られる。慎さん、いずれはお前に、経理を任せるつもりみたいだからな」
――慎さん……。
「竜さんもそうだ。あの寡黙な人がこれから色んなこと教えようと張り切ってたのに、その矢先にいなくなるなよ」
竜さんも……。
「美桜は、……かなり落ち込むよ。今はつんけんしてるけど、多分、心の底じゃお前との関係に悩んでるんだ。不器用な奴だから、どうしていいか判らないだけで」
嘘でしょ。
私、かなりあの子に嫌われてんのに。
「ノブも、なんだかんだいって、お前頼りにしてるしな。あいつ、すぐに年上に依存するから」
それには、さすがに笑ってしまっていた。
つまり、この状態で出ていくのは無責任ってことですか?
ずるいなぁ――私の痛いところばっか突いてきて。
肝心のあんたの気持ちは、一切口にしないくせに。
「私、でも」
涙腺が潤みそうになるのを懸命にやり過ごしながら、香佑は言った。
「でも、ものすごい啖呵切っちゃったし、……町内会の人たちに」
ババアとか――それは、心の中でしか言ってないけど。
「ああ、確かに怒ってたよ、新古原さん」
匠己はわずかに肩をすくめた。
「お前には不本意だろうけど、俺がその辺り、謝っといた」
――え……。
「俺も若干不本意だったけどな。まぁ、正面からぶつかるばかりがケンカじゃねぇから」
「…………」
「何やっても通じない相手って確かにいるけど、それひっくるめて面白いって思えたら、お前の勝ちなんじゃねぇの? まぁ、俺が無責任に言うようなことでもないんだけど」
それは――でも――
でも……。
「別に無理にするような仕事でもないし、本当はやめてほしいと思ってたけどな。まぁ、お前信じろって竜さんに言われたから」
匠己の言葉に、香佑は少し驚いて顔をあげていた。
「……竜さんが?」
匠己は、微かに笑って、そう、とでも言うように短く頷いた。
「再会してからは、俺より周りのみんなの方が、お前のことよく見てるみたいだ。正直、ちょっと悔しかったよ」
なにそれ。
別に、そこであんたが悔しがる必要なんてないじゃない。
私も――何無駄に、泣きそうになってんだろ。
「……なんかさ」
しばらく無言で感情の波をやりすごした後、呟くように、香佑は言った。
あんたの言う意味も判るし、竜さんが信じてくれるのも嬉しいんだけど。
なんかさ。もう、色んなことが辛くって。
頑張ればなんとかなるって、伝わる人には伝わるって、ずっとそう信じてやってきたけど。 やっぱりそれは、無理みたいで……。
今は、それを面白く思うなんて、とてもじゃないけど無理そうで――
「そんなに、……ひどい人だったのかな」
独り言のように呟くと、匠己が不思議そうに香佑を見下ろした。
「お母さん。……私には優しかったし、いいお母さんだったんだけど」
「…………」
「でも、正直言うと、私には何もわかんないんだよね。本当のことなんか何も知らない。もしかして、周りが言ってるのが正しくて私が間違ってるのかなって思うと、なんか辛くて……」
「…………」
もう、そういった過去の何もかもから、背を向けたくなってしまって――
再度零れた涙を指で払った時、匠己が肩を抱き寄せてくれた。
香佑は大きく息を吸い込んで、そのまま匠己の胸に額を押し付けるようにして、泣いた。
「ごめんね……」
「何が」
「色々、勝手に勘違いして、……ごめん」
「いいよ」
「謝らせちゃって、ごめん……、私が悪かったのに」
「………」
そっと抱きしめられたから、香佑も匠己の背中に手を回していた。
なんでこんなことしてるんだろう。そう思いながら、香佑はしばらく、匠己の腕の中で声を出さずに泣き続けていた。
「俺も、ごめんな」
「…………」
「あんま、力になってやれなくて、ごめん」
「…………」
――匠己……。
もうやめて。
これ以上、好きにさせないで。
こんな風に優しくされたら、もう二度と、一生あんたのことが、忘れられなくなっちゃうから。
神様、お願い。
この残酷な魔法を解いて。
私に、この人を忘れさせてください――
「あの……香佑さん?」
その時、背後でいきなり声がした。
はっとした香佑は、たちまち自分が現実に引き戻されるのを感じた。
しまった、いく子さんだ!
しかも実家の縁側で、何やってんだよ、私たちは。
まさに、溢れていた涙も凍る一瞬で、咄嗟に匠己を押しのけるようにして身体を離すと、背後のいく子は、案の定、とんでもなく気まずそうな表情をしていた。
「その……、ごめんなさい。お風呂の用意ができたから、匠己さんに先に入ってもらって?」
それだけを告げたいく子が、いかにもそそくさと背を向ける。
匠己は咳払いをし、香佑はただ、固まっていた。
しまった。そうだった。そもそもそれを告げるつもりで、私もここまで来たんだった。
ここは実家で、こんな真似している場合でも、感慨にふけっている場合でもなかったのに――
「もーっ、ふざけるのは勘弁してよ。暑いんだからっ」
「え? ――あ、ああ、悪い」
香佑はわざとらしい声を上げて、大急ぎで立ち上がった。
いく子さんに後で言い訳しなきゃ。
沙紀がいるのにとかで、また厭味を言われるに決まっている。自分はどう言われてもいいが、これで匠己に悪い印象が残るのだけは嫌だ。
「いく子さん、お布団なら、私が敷くから」
急いでいく子の背を追いながら、香佑は、自分の胸が不思議にドキドキしているのを感じていた。
――初めて……匠己に抱きしめられた。
初めて、匠己の身体に触れた。
どうしよう。
もう、忘れられそうもない。
大好きな人の腕も胸も、その暖かさも。
もう、二度と、生涯自分の中から消えそうもない――
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