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「あら、まぁまぁ、こんな時間に、本当にまぁまぁ」
 いく子さん。……声が三オクターブくらい高くなってますけど。
 香佑は居心地悪く視線を下げた。
「夜分に、申し訳ありません」
 玉暖簾をわけてダイニングに入ってきた匠己は、低い声で言って、頭を下げた。
 なにしにきたのよ。しかもそんなに着飾って(京都に行った時のスーツだけど)、一体全体なんの真似?
 それに花束って……。
 視線を逸らしながら、香佑は少しドキドキしていた。
 もしかして、それ、私に……?
 今回、間違いなく悪いのは誤解した私なんだけど、そっちから謝ってくれるとか?
「あの、これ」
 わずかに視線を泳がした匠己が、その花束をいく子の方に差し出した。
「えっ、私にっ?」
 ぱっと、いく子が、頬をわずかに赤くする。
 はぁ? と、香佑は、顎を落としそうになっていた。
 違うでしょ、そのチョイス。そこは間違っても、私に渡すところじゃないの?
 香佑は唖然としていたが、匠己は頭を掻きながら、続けた。
「店の者が、手土産にと持たせてくれたんですが、……すみません。食えるものの方がよかったかな」
「ううん。すごく嬉しい。ありがとう、匠己君」
 いや、いく子さん、そこで少女みたいに喜ばれちゃ、私と父の立場がないんですけど。
 はははっと、すでに大分酒の入っている父が、豪快に笑った。
「こりゃあ参った。匠己君は天性の女たらしだな。うちの鉄仮面を、あんなに喜ばせてくれるんだから」
「は、はは……。冗談でも、そんなこと言わないでください」
 多分、本気で引きつった笑いを浮かべた匠己が、香佑の隣に腰を下ろした。
「匠己君、食事は」
「あ、お構いなく」
「じゃあ、コーヒーでも淹れるわね」
 香佑は呆気に取られていた。
 こんなにうきうきしているいく子さんを見たのは初めてだ。おそるべし、花束の威力。
 いつも、家政婦のミタみたいないく子さんが、こうも明るい笑顔を見せているなんて――
 てか、こいつは一体なにしに来たわけ?
 コーヒーが出て、未練がましい目をしていた沙紀が部屋に戻ると、匠己はいきなり居住まいを正して頭を下げた。
「お父さん、保険証の件では、大変申し訳ありませんでした」
「え、いや、……え?」
 香佑も、いきなりのその切り口には驚いたが、父もそれ以上に驚いているようだった。
「申し訳ないって、そりゃ、一体どういう意味だね。わしが差しでがましい真似をして、どうやら香佑には、迷惑をかけてしまったようだが――」
「保険証のことは、僕の全くの失念でした。大切な娘さんをお預かりしたのに、申し訳ないことをしたと思っています」
「…………」
 香佑は息を飲むようにしてうつむいていた。
 嘘でしょ。
 一体、何を言いにきたわけ。この人。
 これじゃ、まるであんたが、私の本当の夫みたいじゃない。
「やはり、まだ籍を入れてはいなかったのかね」
 父の声が、そこだけトーンが下がって聞こえた。
 あえて平気なふりをしているが、多分そこは、父もひっかかりを覚えたはずだ。
「二人で話し合って、いい時期に入れようと決めました」
 視線をわずかに下げて、匠己は答えた。
「僕にも彼女にも、当たり前ですが、結婚は初めてで――僕らは同級生ですが、十年以上会っていないと、やはり、感覚的には初対面の相手です。僕の都合で、急いで式を挙げましたが、籍だけは、……僕というより、彼女に考える時間を与えるべきではないかと思ったんです」
 嘘――それとも本当?
 香佑はうつむいたまま、匠己の横顔を見上げたい衝動を必死で堪えていた。
 婚姻届。最初の日に有無を言わせずに破り捨てたのはあんたじゃなかったっけ。
 あ、でもその前に、私が夫婦の儀式を完全拒否しちゃったから。
「香佑」
 父が、少し困ったような口調で言って、香佑の方を見た。
「お前はどう思っているんだ。籍を入れるも入れないも、お前次第ということらしいぞ」
 ――私……?
 香佑は戸惑いながら、動かない匠己の横顔を見上げたが、その匠己は、嶋木家に来てから、まだ一度も香佑をまともに見てくれない。今も、視線を下げ、自分の膝の辺りを見ているままだ。
 ちょっとちょっと、それはないでしょ。
 だって、躊躇ってるのは匠己も一緒だし――。
 困惑した香佑は、しかしすぐに理解した。
 そうか、父の手前、そう言うしかないってことか。
 じゃあここは、私が悪者になるしかないじゃない。
「ご、ごめんなさい、お父さん」
 全く釈然としなかったが、香佑はその役目を引き受けることにした。
「その……私に迷いがあって……少し、待ってもらっているの。何もかも急に決まったから、そこだけは時間をかけて考えてもいいかなーって」
「香佑さん、世間的には、それはあまりいい目で見られないわよ」
 いく子が、たしなむように口を挟んだ。
「今回、お父さんの口から人に知れてしまったんだから、これを機に、入籍するべきだと思うわ。でないと、どんな噂をたてられるか判らないわよ」
「うん……はい」
 神妙に頷きながら、香佑は、実際、どうなんだろうと思っていた。
 だからって、入籍?
 皮肉なもので、それまでは入籍していないことがコンプレックスだったのに、今の状態で急いで籍を入れることが、本当にいいことだとは思えない自分がいる。
「二人で、話し合います」
 匠己が再度、頭を下げた。そして、三拍ほど、そのままの姿勢でいてから、言った。
「だから今夜は――ひとまず、香佑さんを連れて帰ってもいいですか」
「え?」
 譲二といく子が、訝しく眉を上げる。
 あちゃっと、香佑は、額を叩きたくなっていた。
 しまった。そこをまず、口裏合わせしておくべきだった。
「ちょっ……あのさ」
 匠己の袖を引いた香佑は、驚いて振り返る匠己に、懸命で目で訴えた。
 判るでしょ。この空気で。
 この、すごく和やかな家のムードで。
 私、家出してきたなんて一言も言ってないし、その辺り、空気読んで話合わせてくれないと。
 しかし匠己は、香佑のアイコンタクトがまるで理解できないように、わずかに首をかしげて再び父に向き直った。
「本当にすみません。もうお聞きだとは思いますが、その……喧嘩というか、誤解というか。香佑さんと感情の行き違いがありまして」
 いく子が非難がましい目を香佑に向け、譲二がはぁっとため息をつく。
 たちまち重く沈んだ空気に気づかないのか、匠己は、再度深々と頭を下げた。
「今夜、籍のことも含めて、きちんと、二人で話し合おうと思いますので」
 ……最低だよ。 
 香佑は、半ば表情を引きつらせたまま、視線を下げ続けていた。
 嘘ついて里帰りしたことが、これで完全にバレちゃった。
 今後二度とこの手は使えないどころか、これでますます実家に顔を出しづらくなる。
 てか、どうでもいいけど、匠己もお父さんも、馬鹿正直すぎるんじゃない?
 頼むから、もっと上手く空気を読んで、嘘つくことも学ぼうよ。
「いく子、酒を持ってきてくれ」
 溜息をつきながら、父が言った。
「匠己君」
「はい」
 顔を上げた匠己が珍しく緊張しているのが、香佑には判った。
 へー、と香佑は、少しばかり驚いている。
 見合いの席でも、結婚式でも、ぼけているんだか、何も考えていないんだか、飄々としていた匠己が、今、初めて緊張している。
 一体、今夜のこの人はどうしちゃったわけ……?
 しばらく無言で盃を口につけた父が、重々しく口を開いた。
「悪いがその頼みは却下、だ。今夜香佑を、君のところに返すわけにはいかんなぁ」


 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。