|
13
「お帰り、どこ行ってたの」
「ちょっとな」
匠己は溜息をついて、リビングの椅子を引いた。
「てっきり、嶋木さん追いかけたんだと思ってた」
台所に立つ涼子は、コンロの火を消しながら、くすりと笑った。
午後六時、夕暮れの空に、夏の名残みたいな蝉の声が響いている。鍋の中に何があるのかは知らないが、台所には、いい匂いが立ち込めていた。
「心配しなくても、間違いなく彼女は実家よ」
肩をすくめて、涼子は包丁を取り上げた。
「タクシーの無線聞いてたけど、下宇佐田から上宇佐田に行くお客様、みたいなこと言ってたもの。こんな時間から広島なんて行けるわけがないし、今夜は一晩実家に泊まるつもりなんじゃない」
まぁ、そうだろうな。
竜さんの話だと、駅にもそれらしい人は来ていないそうだし。
――実家か……。
唇を噛むようにして、匠己はしばらく沈思していた。
それなら、むしろ放っておいてもいいような気がする。
譲二さんと話せば、嶋木の誤解も解けるだろう。あの人も不器用だから、どういう切り口で何を話すかは未知数だけど。
でも――
(恋って辛いものだし、泣くのが当たり前だと思ってたけど、そうじゃないって初めて知ったよ)
(追いかけてきたら――ないない? ありえないでしょ)
「ノブ君も竜さんも、駅まで探しに行くなんて、ほんと、大袈裟。ほっといても、明日には帰ってくるわよ。人騒がせな人ね、嶋木さんも」
「涼子」
自分の中の迷いを断ち切るように、匠己は顔をあげていた。
「お前、もう、うちには来るな」
「は?」
笑うような顔が振り返る。「言わなかった? これは嶋木さんが」
「嶋木がなんと言おうと、もう来るな。お前は友達だけど、もう家には泊められない」
「……何言ってるの?」
「嶋木、迎えに行ってくる」
「匠己!」
立ち上がった匠己の腕を、背後から涼子が掴んだ。
振り返ると、真剣な目が見上げている。
「嶋木さん、匠己のことなんか好きじゃないわよ」
「知ってるよ」
即答すると、涼子が、少し言葉に詰まるのが判った。
しかし、腕を振りほどこうとすると、いっそう強くすがりつかれる。ドライな涼子の思わぬ熱さに、匠己は驚いて言葉を失っていた。
「あの子、多分誰でもよかったのよ。安定した生活ができるなら誰でも。それがたまたま匠己だっただけじゃない」
「涼子」
離そうとした腕を、いっそう強く握り締められる。
「私、そんな人に、大切な匠己を渡したくない!」
見上げる涼子の双眸に涙が滲んだ。
「私たち、何年つきあったと思ってるの」
「……………」
「そうよ。確かに別れたわ。でも、だからこそ、恋人よりもっと深いところに私はいると思ってる。匠己には、幸せになってほしいのよ。愛情もないまま、打算だけでする結婚なんて、私は絶対認めたくない」
「俺がしたかったんだ!」
匠己は息を吐くようにして、言った。
涼子が驚いたように目を見開く。
「愛情がなくても打算でも、俺がしたいと思ったんだ。誰でもいいなら、俺がその相手になりたいと思った。だから、嶋木は悪くない」
もっと言えば、嶋木に、そんな結婚だけはしてほしくなかった。
この町で、他の誰のものにもなってほしくなかった。
そんな身勝手な打算だけで、自分はあの日、結婚を軽々しく決めてしまったのだ。
どんな最もらしい理由をこじつけたところで、それが真実だ。
そして、そんな卑怯な選択をした自分が嫌で、結婚している間は絶対に嶋木を好きにはならないと、決めた。
あくまで友達として、この家を出ていく日まで見守っていこうと――今でも、その気持に変わりはない。
「だから、嶋木のことは、俺が最後まで責任を取るつもりだ。悪い、涼子――もう、何も言わないでくれ」
「……匠己……」
呆然とする涼子の腕を、罪悪感を振り切るようにして引き離すと、匠己は車のキーを持って外に出た。
夕暮れの空に、のどかな蝉の声が響いている。
ふと、匠己は我に返っていた。
なんだか、勢いに任せて劇的なことしてるけど、いくらなんでも、この作業着のままじゃ、ちょっとまずいな。
足を止めて、自分の作業服を見下ろす。今日は、午後から加納と一緒に墓掃除をしたから、いつも以上に汗まみれだ。
着替えに戻るか――それからシャワー。なんだか流れ的に間抜けだけど、実家に戻ったのならそんなに焦る必要もないし。
むしろ、嶋木家で、今どんな騒動が起きているかと思ったら。
先程、瀬川病院で聞いた話を思い出し、匠己はふぅっと溜息をついた。
もうちょっと、遅い時間に行った方がいいのかもしれない……。
14
「え、それ、どういうこと……?」
香佑は箸を落としていた。
午後七時半、嶋木家。
夕食が並ぶ食卓には、今、この家の主人である嶋木譲二とその妻のいく子。
そして、いきなり里帰りした娘の香佑が、座っていた。
「いや、だからワシが」
缶ビールを片手に、けろっとした目で、香佑の父――譲二が言った。
「ワシが今朝、瀬川病院に行ったんだ。香佑の保険証、まだ使えるからな。匠己君のところで作るまでは、返さない方がいいと思っていたんだが、正解だったよ」
は………
はい?
お父さんが?
「あの……」
香佑は、水から引き上げられた金魚みたいに、口をパクパクさせた。
「あの、一体なんで、お父さんが?」
「それはないと思ったが、お前が妊娠したって話が、どういうわけだか、町内の人から伝わってきたからな!」
父は豪快に笑ったが、その横では、妻のいく子が、なんとも居心地の悪い顔でうつむいている。香佑はそれが――あまりよくない類の噂だと、察した。
「とにかく、こりゃ大変だと思って、すぐに瀬川病院に電話したんだ。お前の携帯にかけても繋がらなかったしな。そしたら、保険証の話になって、ああ、こりゃいかんと」
そして、翌日、すぐに保険証を持って病院に駆けつけたらしい。
「匠己君に気を使わせちゃならんから、あえて連絡せんかったんだが、いかんかったかな? 保険証のことは、病院の方から説明してくれると言っていたし」
香佑はしばらく、開いた口が塞がらなかった。
――匠己じゃなかった。
嘘でしょう。確か吉野さんのご主人って――いや、嶋木さんのご主人だったかな。ええい、紛らわしい。その判りにくい呼称、なんとかしてよ。
なんにしても、そこで大誤解して、啖呵切って家出てきてしまった私って……。
匠己は、わけが判らなかっただろう。道理で、きょとんとした目をしていたはずだ。
「別に、いまさら、もうどうでもいいけど、病院で何話したの」
必死に自分を立て直しながら、香佑は訊いた。
「何って?」
譲二は不思議そうに首をかしげた。
「二人は見合い結婚で、まだ結婚して間もないから、籍もまだなんでしょう、みたいな話はしたよ。それがどうした?」
それがどうしたって、おーい。
それ、私にとっては、すごく大切なことだったんですけど!
握りしめた箸がふるふると震えた。
それはまぁ、どこか鈍くて楽天的な父にしてみれば、大した問題ではなかったろう。保険証を作っていない言い訳を、いい形でしてくれたのかもしれない。
それにしても……。
「でも、結婚してすぐに里帰りなんて、いいの、香佑さん」
茶の用意をしながら、少し非難めいた声で、いく子が言った。
「しかも明日から、広島の友達のところだなんて――ちょっと早すぎじゃない」
「え、ええ。まぁ……少しゆっくりしてくるように、匠己さんにも言われてるんで」
さすがに父に、今のタイミングで本当のことは言えなかった。
いずれにしても、今さら吉野家には戻れない。とりあえず広島に行って仕事を探して――父には、着いてから連絡しよう。
これで、よかったんだ。
香佑は自分に言い聞かせた。
色んな意味で、これでよかった。匠己とは、どのみち上手くやっていけない。
つきつめてみれば、理由は呆れるほど明白だ。
私は彼が好きで、彼は私を好きじゃない。それだけのことなのだ。
今別れなければ、この先ますます別れることが辛くなる。
匠己を今以上に好きになることはあっても、その逆は多分、ない。
どんな目にあっても。いくら、実らない恋だと思い知らされても。
今日だって、タクシーに乗った瞬間に、後悔と未練で、胸が一杯になったくらいなのに――
「お母さん、誰か来たよ」
廊下で、小さな足音がした。父といく子の間に出来た娘で、香佑には異母妹にあたる沙紀である。
八時が消灯時間だという沙紀は、今夜は早々に自室に入っていた。
多分いく子が、香佑と接触させることを嫌ったのだろう。
香佑は、いく子にとっては前妻の娘で、あまり二人の仲は、上手くいっていない。
「ええ? こんな時間に」
眉をひそめるいく子に、沙紀は、指で窓の外を指し示す仕草をした。
「お外に車、停ったもん。背の高いお兄ちゃんが、降りてきたよ」
「匠己君かな?」
譲二が冗談めかしていったので、香佑はないない、と手を振っていた。
「お髭のお兄ちゃんじゃなかったよ」
無邪気な目で沙紀は言った。
お髭のお兄ちゃん――ああ、匠己のことね。あいつ、この家に、前は髭も剃らずに来たからな。ほんと、失礼だったったら。
ていうか沙紀ちゃん、その時匠己に会ったっけ。確か見合いの日には、親戚の家に預けられていたはずだけど。
愛らしい笑窪を両頬に浮かべ、沙紀は嬉しそうな声で続けた。
「すごくイケメンのお兄ちゃん。まるで王子様みたい。しかも、花束とか持ってたし」
誰――?
こんな夜に王子様みたいなイケメンが花束?
大人三人が訝しく顔を見合わせた時、玄関のチャイムが鳴った。
|