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13
「へぇ、店やってたんだ。嶋木さんが?」
「まぁな。ただ正式なオーナーは当時一緒に住んでた桂木っていう恋人で、嶋木に権利はなかったみたいだ」
ふぅん、と涼子は煙草を唇に挟みながら、目の前の男を見つめた。
ただの世間知らずのぼんぼんかと思ったら、案外、使える男じゃない。
「で――?」
涼子が促すと、藤木はコーヒーカップを持ち上げて、唇をつけた。
都内のカフェ。早朝のこの時間は、出勤前のサラリーマンが朝食をとったり新聞を読んだりしている。勤務医の藤木は今晩が夜勤で、二人が会えるのはこの時間しかなかった。
「嶋木も馬鹿だよ。店を開業するのに自分の貯金の大半をつぎ込んで、挙句、権利は男のものだ。まぁ、あいつらしいといえば、あいつらしいけどさ」
「本当ね。彼女、母性の塊っていうか、とにかく心根の優しい人だから」
人はそれを、馬鹿なお人好しっていうんだけどね。
涼子は冷めた目のまま、煙草の煙を吐き出した。「それで?」
「二十代の女性向け衣料品店――そこそこ流行ったらしいけど、一年くらい前に不渡りだして潰れてる。調べたけど、桂木って男はいまだ行方不明でさ」
はぁっと藤木は憂鬱そうな溜息を吐いた。
「借財は、嶋木が全部整理したんだ。店のもの売って、自分の貯金やマンション処分して――それでも、残った借金は、多分、自分名義で借金して背負ったんだろうな。借金が最終的にどうなったかは知らないけど、一応、完納されてはいるみたいだ」
「なんで判るの?」
まさか、その借金を匠己が肩代わりしたとか。
ありうるわね。あの馬鹿もその程度にはお人好しだから。
藤木は苦い目で肩をすくめた。
「金融業界にちょっと知り合いがいてね。裏の情報を流してもらったんだ。嶋木香佑に、――吉永香佑か。今のところ、借金はない。二、三の金融会社で借金して、下手すりゃ自己破産するパターンだったらしいけど、今から半年くらい前に全額返済されている。総額で……三百万くらいかな」
俺に、相談してくれてたら。
そう呟いた藤木が、親指と人差し指で目頭を押さえた。
「その程度のはした金で、嶋木が苦しんでたと思うと、胸が痛むよ。俺だったら、嶋木をそんな目に合わせたりしない。あいつは昔から、男を見る目が全然ないんだ」
どうなんでしょうね。
その嶋木さんが困ってた頃、あんたはナース二人と不倫三昧で、奥さんから三行半つきつけられてたんじゃなかったっけ。
ある意味、彼女に男を見る目はあると思うけど、それは今は言わないことにしよう。
苦悩も顕わに、藤木は続けた。
「推測だけど、多分、身内が立替えたんじゃないか? よほど危ないヤミ金で借りてたら別だけど、それ以降、嶋木が借金をした形跡はないようだ」
「ふぅん……」
半年前なら匠己はないか。あの二人が見合いの席で、交通事故みたいに再会したのは間違いないみたいだし。
ま、他人の借金を肩代わりするなんて、慎さんがそもそも許すはずがない。
吉野家にそんな余裕はないし、店のお金は、高木慎の許可なしには動かせないことになっているのだ。
にしても、東京で破産寸前だった嫁、か。
しかも男に騙されて。
涼子は笑いを噛み殺した。――これ、マジで受けるんですけど。
てか、とんでもないお荷物女じゃない。
これは、ミヤコさんに会う前に、いい情報をゲットしちゃった。
匠己はどこまで知ってるのかしら。それ聞いたら、さぞかし驚くでしょうね。
「それから、嶋木さん、どうしたのかしら」
「小さなアパレル会社にパタンナーとして再就職してる。でも――二ヶ月で解雇だ」
よどみなく藤木は答え、へぇ、と涼子は眉を上げている。「なんで?」
「それは頑として教えてもらえなかった。どうやら、彼女に問題行動があったみたいだけどな。その後しばらく消息を絶って――三ヶ月ほど前に、突然上宇佐田に帰ってきたんだ。後は、片桐の方がよく知ってるだろ」
問題行動。
あの優等生の嶋木さんが?
眉を寄せたまま、涼子は唇を指で叩いた。なにかあるな。そのあたりに。
「もうちょっと、そのあたり、調べられない」
「いいだろ。終わったことはもうどうでも」
苛立ったように、藤木は机を拳で叩いた。
「肝心なことは、今の嶋木だ。前に言ってたよな。吉野との結婚には、わけがあるかもしれないって」
そのわけが、あんたが今、どうでもいいって言った部分に隠されてると思うんですけど。
この真性の大馬鹿男。よくそれで、東大医学部なんて通ったものね。
「とにかく……藤木君は、もう少しそこを調べてみてくれる」
涼子は煙草の煙を吐き出した。
「いいけど、……プロに頼めば、済む話だし」
渋々と藤木は答える。
「でも俺、今月中には上宇佐田に帰るぞ。今は引越しの準備やらで忙しいんだ。故郷に帰ったら、すぐに嶋木を迎え入れられるようにしておきたいし」
馬鹿だな、本物の。
涼子は胸の底で冷笑を浮かべた。
どんな夢を見てるか知らないけど、人の心が、そう簡単に動くと思ったら大間違いよ。
だから心なんて、そもそも欲しいと思わなきゃいい。
「協力は惜しまないわ」
優しい口調で、涼子は言った。
なにしろ、医者だから、物理的な方法はいくらでもあるわけだし。
「だから、切り札は、慎重に取っておいてね。焦らずに、一番有効な時にそれを使うの。大丈夫よ。全部私が、お膳立てしてあげるから……」
14
空気が今までと違うのは、部屋に入った瞬間に判った。
下宇佐田二丁目の集会所。
今日は、定例の婦人会の集まりが催される予定になっている。
香佑が、借りている会議室の扉を開けた途端、外まで聞こえるほど賑やかだったお喋りや笑い声が、ぴたっと凍りついたように静止した。
「……あの、すみません。先日はご迷惑をおかけしてしまって」
なんだろう、と思いつつ、香佑はひとまず謝罪した。
また悪口でも言われてたのかな。それにしても、全員が私と目を合わせないって――
「ああ、いえ、いいのよ。ねぇ」
最初に口を開いたのは、新古原夫人だった。
「てっきり妊娠かと思ったけど」
「よく考えたら、時期がねぇ。いくらなんでも早すぎだわよね。ホホホ」
はぁ、と、香佑は訝しく室内を見回した。
なんだろう。この妙にガチガチの嫌なムードは。
今までもひどかったけど、今日のはなんだか、一味違うぞ。
「……私、お茶の用意してきますね」
首をかしげながら廊下に出た香佑は、瀬川初枝の背中を見つけて声をかけた。
一昨日、香佑が運ばれた瀬川病院の娘で、香佑にしてみれば、婦人会の中では、一番話しやすい相手である。
「先日はすみません。瀬川先生にはお世話になってしまって」
駆け寄ると、いつも温厚で大人しい初枝が、ぎょっとした風な妙な笑いを浮かべた。……やっぱり変だ。
「あの、今日の帰りにでも、病院に伺おうと思ってたんですけど、支払いのことで」
訝しみながら、香佑は本題を切り出した。
「私、うっかりしてて、実はまだ保険証の切り替えが済んでないんです。ひとまず、全額お支払しいますので、その旨、瀬川先生に伝えておいてもらえます?」
何故か初枝は、困惑したように視線を彷徨わせた。
「あ、あー、いいのよ、もう。その件なら」
――え……。
「知らなくてごめんね。えーと、……嶋木さんだっけ。まだ吉野さんと入籍してないんでしょ」
「……………」
「今朝、嶋木さんのご主人がうちの病院に見えて、そのあたり色々説明してくれたから。お見合いで、何もかも急だったんですってね」
は?
なに、それ。
「まぁ、だから……、新古原の奥さんとも話したんだけど、この会にあなたを参加させるのは時期尚早なんじゃないかって。そのあたり、きちんと匠己君と話がついてからの方が、ねぇ」
なんなの、それ。
嶋木さんのご主人が見えて、そのあたり色々説明してくれた――
それはあの馬鹿男が、馬鹿正直に、入籍してない事情を、このお喋りな人たちに打ち明けたってこと?
「まぁ、とにかく気にしないで。都会じゃよくある話なんだろうし、やっぱり、見合いだけで即入籍とか、女としては不安だもの。判るわよ、嶋木さんの気持ち」
嶋木じゃないし。
最早それ、本名ですらないんですけど。
香佑は、半ば呆然としながら、会議室に向かって歩きはじめた。
なんで?
どうしてそんな、凄まじく余計な真似をしてくれるわけ?
そりゃ、事実婚は、都会でもどこでも珍しくない話ですよ。式上げてから、入籍までのタイムラグがあったって、別におかしな話でもない。あんたにしてみれば、全然大したことのない話だったんだろうけど。
でも、私、一応あんたと結婚したことになってんだよ。
それを今更、事実婚に引き戻してどうするのよ。
そんな真似されたら、もう――
「やっぱり、ミヤコさんが反対されたのよ。間違いないわね」
「匠己君もぼーっとしてるようで、結構慎重な子だからね。そりゃ、心配だったんじゃない? あの子が、嫁として務まるかどうか」
「やっぱりねぇ」
扉から漏れてくる新古原夫人たちの声を、香佑はぼんやりと聞いていた。
どうしよう。これから。
リカバリーする方法が、もう見つからないんですけど、マジな話。
「そうそう、そういえば、富士山の奥さんに聞いたんだけど」
新古原夫人が声をひそめた。
「今度、石の会――石材店の連合会で、家族ぐるみの懇親会みたいなものがあるらしいんだけどね。 匠己君、奥さんは同席させないってきっぱり言ったそうよ」
「あらぁ」
「やっぱり」
香佑はただ、眉をひそめて立っていた。
なに、その話。
「富士山の奥さん、嶋木の元奥さんにはそれは恨みを持ってるでしょう。匠己君も自分の立場のまずさがようやく判ったんでしょうよ。しかも、まだ籍も入れてないんじゃね」
そこは、香佑も危惧していた。富士山ます江は、匠己の商売敵の奥さんである。だからこそ、ます江の機嫌を損ねないよう、どんな醜聞を言いふらされても我慢していたのだ。
「ねぇ、一体嶋木の奥さんが、富士山の奥さんに何したの」
「そりゃ、浮気でしょ。あの堅物ご主人が、一時、嶋木の奥さんに入れ込んで――」
香佑は、ガラっと扉を開けていた。
「すみません」
ふざけんな。このババァ。
「うちの母、ああ見えて案外潔癖なんで、それはないと思います。相手が田舎の石屋ってだけで、母的にはアウトですから。私と一緒で、ド田舎と肉体労働者が苦手なんで」
お母さん、ごめん。
もう無理だし、もう限界。
「何、この子」
「な、なんなのよ、その馬鹿にした言い方はっ」
香佑は答えずに頭を下げた。
「失礼します。短い間でしたけど、お世話になりました!」
もう二度と、お会いすることはないと思いますけど、お元気で。
最後に、思いっきり猫に餌捲いて出ていってやる。
もういいし、もう嫌だ。もう二度と、こんな町には戻らない――
15
「あれ、いた?」
荷物を詰めたキャリーを持って家を出た所で、作業着姿の匠己と出くわした。
それまで、ほぼ思考停止状態で、荷造りをしていた香佑は、初めて、自分の周囲の時が動きだすのを感じていた。
「帰りは夕方になるって竜さんから聞いてたけど」
少し眉を寄せて、匠己が近づいてくる。
首にかけたタオルが汗で濡れている。ひどく汗をかいた後なのか、服にも作業用ズボンにも、汗染みができている。
「また、具合が悪くなったんなら、早めに瀬川さんとこに行っとけよ。先生は、しばらく休んだ方がいいって言ってたんだ。それをお前が無理するから」
ああ――
やっぱり、元凶はこの人か。
どこかで嘘だと思ったけど、やっぱりこの人が、今朝瀬川病院に行ったんだ。
無神経な鈍感男。
もう私、あなたにはついていけません。
「ねぇ」
遮るように、香佑は聞いた。
「石の会とかで、夫婦同伴の懇親会があるって本当の話?」
「あ?」
足を止めた匠己が眉を寄せる。
「……それ、誰かに聞いた?」
「私の同席を断ったって、本当の話?」
自分でも驚くほど、気持ちは冷静で冷めていた。多分、最後の未練を断ち切るために、自分は今、匠己と向き合っているのだ。
「まぁ……」
少し不思議そうな目になって、匠己は自分の首のあたりを掻いた。
「その方が、嶋木も気が楽だろ。別に、無理に出るような会でもないし」
それも、本当の話だったか。
ふぅん。
「まぁ、あんたにしてみれば、私が嶋木だろうが吉永だろうが、どうでもいいことなんだよね」
「……は?」
「今回のことでよへく判ったよ。あんた、私の気持ちなんか全然わかってない、なんであんな余計なことを、瀬川先生に言ったのよ!」
蘇った怒りで頭が瞬時に熱くなる。が、匠己はあっけにとられたように瞬きをした。
「いや、……それ、なんの話」
「じゃ、そういうことで」
「はい?」
きょとんとする匠己に、香佑は真正面から向き直った。
「今日で、出ていくことにした」
「…………」
「最初から、あんた言ってたよね。私が出ていきたいなら、いつでもそうして構わないって。その方が自分には好都合だって」
「…………」
「今までお世話になりました。携帯は解約して。それから悪いけど、広島までの汽車賃はお借りします。向こうで落ち着いたら、送り返すから」
しばらくあっけに取られていたように黙っていた匠己が、言葉を探すように、額に手を当てる。
殆ど衝動的に足を踏み出す寸前で、香佑は、未練みたいに匠己の言葉を待っていた。
この期に及んで奇跡みたいに、行くなと言ってくれるのを。
「……あー」
ようやく、彼の唇から低い声が出た。
「行くあては、あるわけ」
「美郷のところ」
これで、切れたな。
そう思いながら、香佑はさっさと歩き出した。
聞くんじゃなかった。全く最低のボキャブラリーの持ち主だよ。あんたって。
「――おい」
坂を半ばまで降りたところで、ようやく匠己の声がした。
「今の時間から、新幹線なんてないぞ!」
「そんなの、あんたが気にしなくていいから!」
坂の下から、電話で呼んだタクシーが上がってくる。香佑はさっと右手をかざした。
一度目の家出の二の舞はもうしない。自転車で逃げて雨にたたられるなんて、漫画みたいな展開はもうゴメンだ。
が――
「あら、嶋木さん?」
漫画より、もっとあり得ないことが起きた。停ったタクシーから、白いワンピースに身を包んだ人が優雅に降りてくる――涼子だ。
バックを抱えた香佑を見て、さすがに匠己と違って勘のいい涼子は、驚いたように眉を上げた。
「え、どうしたの? こんな時間からどこかにお出かけ?」
向かい合う二人の前に、匠己――ではなく、初老の運転手が慌てた態で降りてきた。
「いやぁ、すみません。こっちに送る便と、迎えの便が一致したので。――嶋木さんです? うさぎタクシーです。どうぞどうぞ」
すっごい、皮肉だな、これ。
出ていく私と、帰ってきた涼子さん。
なんて漫画的なタイミングだろうか。
「涼子さん。私、ここ出ていくことにしたから」
車に荷物を投げ入れながら、香佑は淡々とした口調で言った。
「今まで二人の邪魔してごめんね。それから、色々嫌な思いさせて、本当にごめん。……無理だったのかもしれないけど、私は本当の友達になりたいと思ってた。……さよなら」
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