11
 
 
 扉を開けると、部屋には豆電球だけが点いていた。
 部屋の真ん中に布団が敷かれていて、そこに香佑が身体をまるめるようにして横になっている。
「…………」
 匠己は黙って枕元で膝を折り、額から落ちたタオルを拾い上げた。
 指先に熱い息がかかる。そのまま、指の甲で額に触れると、驚くくらい熱かった。
「……夏に風邪なんて引くなよ」
 閉じた睫毛が微かに震えて見えた。唇は乾いて、熱がある人特有の荒い呼吸になっている。
 匠己は枕元の金盥にタオルをひたした。硬く絞ったタオルを広げ、額に落ちた髪を手のひらで上げる。
 途端に、微かに呻いた香佑が、姿勢を変えて仰向けになったので、匠己は少し驚いて手を引いていた。
 唇が何かを呟いた気がしたが、依然、目は覚めていないようだ。ただ、眉は少し歪んでいて、ひどく苦しそうな寝顔に見える。
 ――嫌な夢でもみてんのかよ。
 匠己は、そっと、その額に、冷えたタオルを乗せてやった。
 枕元には、目が覚めたら飲ませてあげてください――と、加納に言われた薬袋が盆の上に置かれている。それから水差しとグラスまで。すごいな、竜さん。慎さんだって、ここまで気がきくかどうか――
 しばらく、名状しがたい思いで香佑の寝顔を見ていた匠己は、やがて小さな溜息をついて立ち上がった。
 まぁ、大人だし、風邪なら急変することもないだろう。
 今夜は隣の仏間で寝るか。嶋木が起きれば気配で判るし、扉を開けておけば、向こうもそれと気づくだろう。
「……お母さん」
 低い、囁くような声が、足元から聞こえた。
 匠己は驚いて振り返っている。
「お母さん、ごめん……」
「……………」
「ごめん……」
「……………」
(これは私の勝手な決めつけですが、奥さんは、お母さんの分まで、頑張ろうとしていたんだと思うんです)
 加納の言葉が、瞬時に胸に蘇る。
(自分が地域に認められることで、お母さんの汚名のようなものを、晴らそうとしたんじゃないでしょうか。もちろん、色んなお気持ちを持っておられたんでしょうが、そういうお気持ちも、間違いなくあったんじゃないかと……私には、そう思えるんです)
「……………」
 匠己は再び香佑の枕元に膝をついた。
 咄嗟に屈み込み、布団の外に投げ出された手に、衝動的に自分の手を重ねていた。熱くて、そして思った以上に小さくて細い指。
 胸に、喉に何かの感情が閊えている。言葉にできない、気持ちにも出来ない、何かの、大きな感情が。
 ――参ったな。
 これは……本気で参った。
 その時、リビングで電話が鳴る音がした。弾かれたように我に返った匠己は、香佑の手を布団の中に収めると、足音をたてないように気をつけながら、枕元を離れ、部屋を出た。
「もしもし、匠己君?」
 声は美桜のものだった。
「ごめん。遅くに。今ノブ君から、奥さんが倒れたってメールがあって……」
「ああ、大事ないよ。ただの風邪だから」
 何故だか救われた気分になって、匠己は声を下げながら答えた。
「今、自分の部屋で寝てる。一日休めば治るだろ。明日は丁度、定休日だし」
「うん……」
 何故だか美桜の口調は歯切れが悪かった。
「なんだよ。心配? あまり仲がいい風には見えなかったけど」
「そんなこと――ないけど……」
 冗談めかして言った言葉だが、思いの外力なく返され、それきり、美桜は無言になる。
「気にすんなよ」
 匠己は香佑の部屋の方を振り返りながら、軽い口調で言った。
「あいつ、根に持たないタイプだから、美桜さえその気になれば、いつでも仲良くなれると思うよ。電話あったことは伝えとくから」
「いい、それはいいから」
 きっぱりと、硬い声で断られる。
 美桜は、ちょっと手間がかかるぞ。あいつ、思い込んだら頑なだからな――
 そう言った慎の言葉を思い出し、匠己は軽く息を吐いていた。
「あのね」
 思いつめたような声で美桜が口を開いた。
「ん?」
「夜ご飯とかどうしたの。今夜、涼子さん、東京に戻るって言ってたから」
 なんだそんなことか。
 匠己は思わず苦笑している。
「それなら、家にあるもん適当に食うよ。心配しなくても大丈夫だから」
「あのね」
 まだ、美桜は言いよどんでいる。
「冷蔵庫に、お味噌汁と卵焼きが入ってるんだけど」
「ああ、そうなんだ」
 匠己は冷蔵庫をちらっと見た。
 それ、嶋木の朝の定番じゃん。まぁ、涼子来てから、ゴミ当番だとかであまり作らなくなったけど。
「それ、昨日のものなんだけど」
「ああ、大丈夫だろ。一日くらいなら」
「あの人が作ったから」
「はい?」
 あの人?
「毎朝、早く起きて作ってたから。それだけ」
「…………」
 電話は、それきりガチャンと切れた。
 少し考えてから、匠己は冷蔵庫まで歩いて行って、扉を開けた。
 冷えた深鍋を取り出してみると、中には、野菜の入った味噌汁が手付かずのまま残されている。
 その奥には、輪切りにされただし巻き卵に、きゅうりの漬物。
(彼女、忙しいみたいで、匠己の朝御飯は、私が作るように言われたの。だから匠己も、嶋木さんに催促したりしないでね)
「……………」
 馬鹿だな、俺も。
 つまるところ、ここ数日、涼子にすっかり騙されてたわけだ。
 いや、日中、散々冷蔵庫空けといて、今まで気づかない俺も俺だ――涼子を責める資格もないか。
「…………」
 雪がちらつきはじめた灰色の町。
 あの日耳にした言葉が、静かに胸に蘇る。
(恋って辛いものだし、泣くのが当たり前だと思ってたけど、そうじゃないって初めて知ったよ)
(うん……もう、会うこともないよ。その方がいいんだ。だって会ったらもうダメじゃん。あいつ魔法使いなんだよ。石の呪い。絶対そうに決まってる。その呪いがやっと解けたんだから)
 この感じを。
 俺は何年も前に初めて知って、最近は夢で再体験している。
 あの時はまだ、それがなんなのか判らなかった。でも、あれから何年かして気がついた。
 あの日、自分だけのものだった心に、初めて他人の存在が刻まれたのだ。
 胸の奥の深い場所、消そうにも決して手の届かない所に。
 まるで、永遠に消えない刻印のように――
 
 
               12
 
 
 ――だる……。
 薄目を開けると、見慣れた自室の天井があった。
 感覚的に、熱は引いた。でも、全身がけだるい感じに包まれている。
 なにより嫌なのは、メイクも落とさず、むろん風呂にも入らずに、外出した時のままの服装で寝てしまったことだ。
 汗でべたつく髪を指ですきながら、香佑はのろのろと身体を起こした。
「サイテー……。朝風呂に入りたいんだけど」
 日差し的に、朝だ。
 てか、あのバカ男は帰ってきたのかしら。町内会の人たちが、変に先走っておめでた報告をしていたみたいだけど、もちろん、その可能性かゼロなことは、匠己が一番よく知っている。
 まぁ、結婚前のことを疑われたら別だけど。
 ふと、横を見た香佑は、そのまま時がとまった人のように固まっていた。
 ――え……?
 なに、この物体。
「わあああっっ」
 数秒置いてから、声が出た。その途端、隣で寝そべっていた人も、慄いたように跳ね起きる。
「っ、なんだよ、一体」
「なんだよも何もないわよ。なんだって、あんたが隣で寝てるのよっ」
 思わず夏布団で胸元を隠している。いや、決して裸なわけじゃないし、匠己にしても、畳の上で自分の腕枕で寝そべっていただけなのだが。
「あれ……」
 ようやく現実に気がついたのか、匠己は香佑を見たまま、瞬きをした。
「もしかして、元気になった?」
「当たり前じゃない。もともと大したことないに、周りが大袈裟に騒ぐから」
「………」
「な、なによ。何ぼけーっと人の顔見てるのよ」
 香佑は布団を胸に当てたまま後ずさったが、匠己はそれでも、どこか不思議そうな――眩しいものでも見るような目で香佑を見つめつづけている。
 その視線の意味も、訝しそうな表情の意味も、香佑には全く分からない。
「な、なに?」
「いや……」
 匠己は我に返ったように目を反らし、こりこりと耳の後ろを掻いた。
「夢でも見たかな」
「はい? それ、一体どんな失礼な夢?」
「忘れた」
 拍子抜けするようなことを言って、匠己はそのまま立ち上がった。
「腹は?」
「え、な、治ったけど」
 なんなの、この人。昨日どこに行ってたとか、その手の言い訳は全くないわけ?
「いや、そうじゃなくて、減ってるかってこと」
「そりゃ……」
 途端にぐぅ、と腹が鳴った。
 そりゃ、昨日からろくに食べてないんだから、減ってるけど。
 わずかに匠己が、唇の端に笑いを浮かべた。
「なんか作ってくるから、待ってな」
「えっ、いいよ。そんなの」
 それより、先にお風呂に――言いかけた香佑は、はたと気がついていた。
「……あんたが作るの?」
「そうだけど?」
「できるの?」
 ほぼ、生活無能力者のあんたが。
 匠己は心外そうに眉をあげる。
「もともと一人暮らしだったんだ。料理くらい作れるさ。竜さんが瀬川先生にきいてくれたんだけど、当分は消化にいいもの食えってさ」
 ――瀬川先生……。
 言わずと知れた、瀬川医院の院長。つまり、瀬川初枝の父親である。
 まさか、あんな時間に病院で診てくれるとは思わなかった。その場に初枝も居たとはいえ、さすがは田舎の開業医だ。
 何度も断ったが、結局は無理矢理病院に連れて行かれた。
 あれだけ冷たかった町内の人々に心配してもらったのは嬉しかったが、正直、医者だけは勘弁してもらいたかった。というのも――
「あの、私、――保険証持ってなくて」
 おずおずと香佑は言った。
 支払いをしてくれたのは加納だったが、一体どのくらい請求されたのだろうか。
 が、匠己はあっさりと振り返った。
「とりあえず、顔見知りだし、三割負担でオッケーだってさ。保険証、後で持ってきてくれって言われたんだけど、俺、持ってこうか」
 嘘でしょ……。
 どんだけ、他人を信用しすぎる医者なのよ。
 世の中には、一見結婚してても、他人のままの夫婦もいるんだから。
 とはいえ、そこに気づかない匠己も匠己だ。籍を入れてない以上、吉野香佑の保険証なんて作れない。本籍の吉永香佑で作ったとしても、そんなもの、顔見知りの医者に出せるわけがない。
「あ、いいいい。私行くから。あの病院なら、自転車でいける距離だし」
 誤魔化すように笑って、香佑は急いで布団にもぐりこんだ。
 しまった……。
 慎さんにあれほど言われたのに、まだ保険証を作っていなかった。なんとなく役所に行きづらくて、そのままになっている。
 むろん、結婚前の保険証は、父に返してしまったから使えない。
 病院に行くことなんて、数年に一度くらいのことだと思って、全く油断していたのだ。
 ――だって、仕方ないじゃない。本名で作ろうものなら、吉野の籍に入ってないことがバレちゃうし。
 役所には守秘義務があるらしいが、田舎のそれを、香佑は全く信用していない。
 現に香佑の母親にしても、本人しか知らない東京での過去があっと言う間に町内に広まった。ただでさえ、居心地の悪いこの町で、今の香佑の拠り所は吉野家の嫁という立場だけだ。
 それまでも否定されてしまったら――もう、どうしていいか判らない。
 仕方ない。できるのが遅れてるとかなんとか言って、たちまち現金で全額払おう。
 これで、靴買おうと思って貯めてたお金がパァだな。
 香佑は溜息をついて天井を見上げた。
 ――ん?
 そういや、今朝の匠己、妙に距離が近くなかった? 気のせいかしら。
 昨日までの素っ気ない、つっけんどんな匠己じゃなくて、まるで同窓会の夜みたいな――そんな距離の近さを感じたのは、私の気のせい?
 香佑は、そろそろと布団から顔を出したが、むろん、もう匠己の姿は部屋にはなかった。
 ――ま、気のせいか。
 私が熱出したんで、ちょっと心配になったんだろう。多分それだけのことだ。
 仰向けになった香佑は、天井を見上げながら溜息をついた。
 保険証ひとつとっても、やっぱりこんな関係、不自然だよね。
 どっかの時点で解消して、一日でも早くこの町を出ていくべきかもしれない――

 
 
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。