12
 
 
「じゃ、ごめん……悪いけど、……そろそろ行くから」
 香佑は、台所の扉を開けて、おずおずと声をかけた。
 中では、慎と加納、そして宮間が早めの夕食を取っているはずだった。そこに美桜の姿を認め、香佑は胃がわずかに収縮するのを感じた。全く、自分が情けない。相手は十代の女の子なのに。
「あ、準備オッケーですか?」
 宮間が、湯のみを置いて立ち上がった。加納だけが顔をあげたが、慎は無視、美桜は背を向けたままだ。
「ごめん。仕事中に……」
「いいですよ。この辺りバスも電車もないし、車で行かなきゃ無理っすから」
 本当は自分で運転していきたかったが、営業にも使う車を、そんなに長い時間一人占めにはできない。
「わーお、女将さん、超可愛いじゃないっすか」
 宮間が歓声をあげたので、香佑はぎょっとして手を振っていた。可愛いも何も、初日、ケバいと酷評された服なんですが。
「やめてよ。全然嬉しくないから」
「だって、化粧した顔見たの、何日ぶりになるんですかねぇ。最近は、畑仕事も板について、すっかり農家のお嫁さんだったのに」
「ほっといてくれる?」
 もう嫁とか女将さんとか、耳にするだけで頭痛がしそうなんですけど。
「ねぇ、慎さん。女将さん、超可愛くないですか。同窓会行くのにいつも以上にお洒落とか、ちょっと師匠的にはまずいんじゃないかなぁ」
 当の慎は、無言で席を立ち、代わりに返事をしてくれたのは加納だった。
「似合ってますよ。奥さん」
 竜さん……あなたは、本当にいい人です。でも奥さんっていうのは、ちょっと勘弁してほしい。
 そんな風に呼ばれると、嫁でも女将でも奥さんでもない私は、そもそもここにいちゃいけないんじゃないかって気になるから。
「早く戻れよ」
 シンクに茶碗を置きながら慎が言った。
「あ、はい、送ったらすぐに戻ってきますんで」
「ごめんね。迷惑かけて」
 香佑は急いで言い添えたが、慎から返ってくる言葉はなかった。
 まぁ、完全に怒らせてしまったんだろう。奈々海から頼まれた以上、そのままを伝えるしかなかったとはいえ、――自分が慎でも怒るだろうと思うからだ。余計なことをしないでよ、と。
 なんだか、思いが伝わらないと思うと、勝手だけど虚しくなる。慎の塲合、色んな人の優しさが誤解されたりこじれたりしたばかりに、こうなっているだけのような気もするのに――。
 その時、台所の窓がいきなり開いた。
「あれ、みんな揃ってたんだ」
 明るい声と、華やかな色彩。その声を聞いただけで、香佑は、身体が強張るのを感じた。
「涼子さん?」
 美桜が、まず目を輝かせて振り返った。
「やっほー。京都のお土産もって来たよ。匠己は?」
「仕事場です。呼んできましょうか」
「いいよ。後で私が行くから」
 窓からよいしょっと入ってくる涼子に、宮間が慌てて手を添えた。
「涼子さん。そんなセクシードレスで、よいしょとかやめてくださいよ。目の毒ですって」
「てゆっか、今日の涼子さん、目茶綺麗なんですけど。どうしちゃったんですか、一体」
 ああ……。と、香佑はその光景を見ながら思っている。
 美桜は、本当に涼子さんが好きなんだな。その目が、もう憧憬できらきらと輝くくらいに。
 そりゃ、私が嫌われるわけだよ。
「香佑」
 と、涼子の笑顔が、いきなり香佑に向けられた。
「よかった。間に合って。同窓会行くんでしょ? どうやって行くつもりだった? 匠己はどうせいかないだろうし、車だったら飲めないでしょ」
「ああ、それは俺が送迎を」
 宮間が、少し驚いたように口を挟む。「てか二人、仲良しさんでしたっけ……」
「同級生だもん」
 にっこりと笑って、涼子は立ちすくむ香佑の傍に歩み寄ってきた。
「私、アルコールが一切飲めないの。車だから一緒にいこ? 帰りも、ここで泊めてもらうつもりだから」
 加納がちらっと慎を見上げ、慎は無言で肩をすくめた。知らない、とでも言わんばかりに。
「美桜ちゃんも泊まらない? 久しぶりに、女子トークしようよ」
「えーっ、いいんですか、本当に?」
「当たり前じゃない」
 小花の散った、淡いレモン色のワンピース。デザインは、この夏の流行だ。ほっそりとした涼子の白い足が、ふんわりとしたワンピースととてもよくマッチしている。
「あ、そうだ。みんなにお土産があるの。まずは竜さん。これね、匠己と随分悩んで決めたの。気にいってもらえたらいいんだけど」
 その声を聞きながら、香佑は少しずつ、背後に下がって部屋を出た。
 とりあえず――落ち着こう、自分。
 別に、驚くべきことでもなんでもない。こういうの――とりあえず、最初の夜に、一応、説明してもらってたわけだし。
 ここでは、私が部外者で。
 ある意味涼子さんが、女主人なんだから。
 外に出ると、もう空は黄昏れていた。田んぼからは、蛙の鳴き声が聞こえてくる。
 自分ってすごいな。と、水子地蔵越しの空を見あげ、香佑はぼんやり思っていた。
 絶対に我慢できないと思える状況で、こうも冷静に振る舞えた。なんかもう、何が起きても受け止められるって感じじゃない。
「香佑、ごめん。もう少し待っててくれる?」
 背後からいきなり涼子の声がした。玄関から追いかけてきたのか、素足に香佑のサンダルを履いている。少し嫌な気がしたが、自分はそれさえ、拒否できない立場のような気がした。
「ああ……うん。私はいいけど」
 本当は送ってほしくないけど、この流れではもう、逆らえない。
 タクシーを拾おうにもお金がないし、今さら行かないなんて、そんな我儘が言えるはずもない。
「ちょっと、匠己の顔見てからにしようと思って」
「……へぇ」
 今日は一度も顔見てないや。朝御飯も作らなかったし。
「一緒にいかない? 彼の仕事場。多分今の時間なら、一人でご飯食べてるから」
「………」
 なんなの。一体。
 もしかしてこの人、わざとやってる?
「ううん、私はいいよ。涼子さん一人で行ったら?」
「一人はちょっと切ないかな。色んな思い出が詰まってるから」
 くすっと笑って涼子は続けた。
「もしかして匠己から聞いてるのかな。私たち、別れる時に約束したの。もし、これから誰を好きになっても、仕事場の彼の部屋にだけは、絶対に誰も入れないでって。だって――二人だけの思い出があそこには沢山詰まってるから」
 はいはいはい、そうですか。
 金輪際入りませんから、それは安心してください。
「じゃ、ちょっと行ってくるね。少し長くなるから、車に乗って先に待ってて」
 銀色のキーが手渡される。BMW。結構な高級車だ。東京に住んでるはずの人が、なんだってこんな車でやってきたんだろう。
 香佑は、滲んだ涙を拳で拭った。勘弁してよ。アイシャドーもマスカラも、もうそんなに残ってないのに。
 それでも、涙は後から後から目の端を伝い、香佑は何度も息を吸い込みながら、指の端でそれを拭った。
 本気でしんどくなってきた。
 もう、これはさすがに限界かもしれない。
 
 
「おい」
 靴を履き変えた人が、時計に視線を落としながら玄関から出てくる。慎は壁から背を離し、小走りに駆けていこうとする片桐涼子の背に呼びかけた。
「あら、慎さん」
 足を止めた涼子は、にこっと笑って振り返る。
「どうしたの? 怖い顔。もしかしてお土産が気に入らなかった?」
 慎はひとつ息を吐いてから続けた。
「俺さ、随分前に言ったよな。お前の営業能力はある意味俺以上だって」
「覚えてる。それ、確か厭味か皮肉だったよね」
「――俺以上に嘘つきって意味」
 慎は腕を組んで、不思議そうに首をかしげる涼子を見下ろした。
「よくもまぁ、あんな嘘がぺらぺら言えたもんだな。匠己の仕事場なら、美桜だって当たり前に入ってるし、仕事頼みに来た若い姉ちゃんだって入ってるよ。あの無頓着な大馬鹿者が、そんなロマンチックな約束、そもそもするかよ」
「そんなの、慎さんにはわからないじゃない。私と匠己の二人だけしか知らないことなのに」
 くすっと笑った涼子は、その笑いを刻んだままで、慎を見上げた。
「なに? もしかして立ち聞きでもしてた? へー、氷の慎さんが、もう嶋木香佑の虜になっちゃったんだ。さすがは宇佐中のアイドルよね」
「美桜に、何吹き込んだんだよ」
「何って?」
「想像つくから言ってやるよ。お前、中学の頃、彼女にイジメられたとでも言ったんだろ? 美桜はそういうの、全くダメだからな。それで頷けるよ。美桜があそこまで頑ななのも」
「そうなの? でも私は、本当のことしか言ってないけど?」
 涼子は軽く肩をすくめた。
「首長竜、ろくろっ首、幽霊女――随分ひどい目にあったのよ。嶋木さん率いる女の子のリーダー集団には」
「……彼女は、そういうキャラには見えないけどな」
 どっちかといえば、すぐに騙されて、逆にひどい目にあいそうな気がする。
 面倒なことも損なことも、最初は嫌がりながら、結局は引き受けてしまうような。
 奈々海の身勝手な頼みだって――断ろうと思えば、断れたんだ。間違いなく、俺が怒ると判っていたのに。
「すっかり、夢中なのね。慎さん」
「ふざけんなよ。匠己の嫁だぞ」
「結婚したこと? 最初はびっくりしたけど、今はもう慣れちゃった。そんなの、なんの意味もないじゃない」
 唖然とする慎を尻目に、涼子は肩をそびやかした。
「彼が結婚して、やっと気づいたの。私、匠己じゃなきゃダメみたい。絶対にあきらめないわ。チャンスがある限り、なんだってやるつもりよ」
「あのな――涼子」
「それに二人を見てて判ったの。なんなの、一体。付き合い始めみたいにぎくしゃくしちゃって。ねぇ、本当にあの二人、夫婦になったの? もしかして他人のままなんじゃない?」
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。