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13
「匠己とはね、大学2年の終わりに付き合い始めたの。私が彼の部屋に引っ越して、……そうね。半年くらい一緒に暮らしたかな」
聞いてないんですけど、そんな話。
香佑はステレオのボリュームをあげようとしたが、人様の車で送ってもらっている身で、もちろんそんな無神経な真似は出来なかった。
運転席の涼子は続ける。
「三年の夏に、いきなり大学辞めて東北行くとか言い出して――私はこっちで、出版関係の仕事につくつもりだったから、その時に一回別れたのよ。それでも、連絡だけは取り合ってたの」
ああ、そうか……。
芸大を中退して、東北で仏師の修行をしてたんだっけ。
耳を塞ぎたくなる話だったが、香佑の知らない匠己の過去には、悔しいが興味を惹かれる。
「せっかく仏師の称号を得たと思ったら、今度はいきなり下宇佐で墓屋になるって――あの時は本気で驚いたわ。この人何になりたいのって呆れちゃった。でも、こっちには母方の祖母が住んでるから――おかげで、東京にいる頃より、ちょくちょく会えるようになったのよ」
「……涼子さん、仕事はいつから?」
香佑は少し不思議に思って聞いた。美桜の話だと、涼子は吉野の実家にも住んでいたことがあったように思える。でも、東京で仕事をしながら下宇佐の匠己の家で一緒に暮らすなんて、少しあり得ないような気がしたのだ。
「大学出て、すぐによ。彼が下宇佐に帰ってからは、長いお休みの時に吉野石材店で泊まらせてもらうようになったの。そんな感じで遠距離恋愛してたけど、――別れたのは半年前かな。私の方が、少しその関係に疲れちゃって」
半年?
そんなに最近の話なの?
香佑は、静かに打ちのめされていた。それは――まだ二人の心に、思い出が生々しく息づいていて当然だ。
「まぁ、私たちって、高校の時から付かず離れずみたいなところがあったから。別れたっていっても、そんなに深刻には考えてなかったんだけどね。だから結婚したって聞いて、本当にびっくりしちゃった」
「えっ、じゃあ」
少し驚いて香佑は聞いた。「涼子さん、事前に聞いてなかったの」
「言わないでしょ、普通」
少し馬鹿にしたように涼子は笑った。「ただの友達じゃないんだから。別れたばかりの元彼に、香佑なら言える? 私結婚するんだーって」
それは……まぁ、別れ方にもよると思うけど。
でもなんだかよく判らない。匠己の言い方では、その辺り、涼子さんと意思疎通がとれてるような気がしたのに。というより、だから二人は、傍若無人にいちゃいちゃしてるように思えたのに。
「匠己はそこまで無神経じゃないわよ。香佑、匠己のこと、本当になにも知らないのね」
また余計なところで、香佑は傷つけられていた。
「ね、それより香佑、藤木君のこと覚えてる。ふじき小児科の」
「え、ああ、なんとなく……だけど」
「この車、実は彼からの借り物なの。私たち東京で、宇佐田会っていうの作っててね。宇佐田出身の子だけで集まる会合みたいなものだけど、それで藤木君とも親しくなったの」
「へー」
あ、思い出した。
勉強もスポーツもできた、一番人気の男の子だ。
記憶は定かではないけれど、確か一度、告白されたことがある。ちょっぴり鼻が高かったけど、即答で断ったっけ。吉野が好きだから、無理だって。
「彼、今は結婚して、東京の大学病院勤めなんだけど、そりゃあかっこよくなってるわよ。しかも超エリートだし。もし会ったら、惜しいことしたと思うんじゃない?」
「別に……それはないと思うけど」
もう顔もろくに覚えてないし。
「彼、香佑のことがずっと好きだったのよ。そりゃあもう、傍で見ていて切ないくらい。きっと藤木君、今日はめっちゃテンションあがるわね。なんたって、香佑のこと、女神か何かみたいに思ってたんだから」
「へー」
なんか、もう、どうでもいいや。
本当にどうでもよくなってきた。
いっそ、その藤木君と不倫でもしてみようかしら。ああ――そしたら慎さんに、腹の底から嫌われそうだ。
14
「なに、あれ……感じが悪い」
柳美郷が鼻に皺を寄せるまでもなく、その席の全員が、なんとなくこの会場の――嫌なムードに気がついていた。
吉沢町にあるグランドホテル吉沢。グランド――といっても四階建ての、さほどグレードの高くないホテルだが、この辺りでは一番大きなホテルである。
その二階、鶴の間が、今夜の同窓会の舞台だった。
「宇佐田会だって」
声を潜めてそう囁いたのは、いつも美郷とつるんでいた永瀬心奈。通称ココリンである。
「このホテルも、宇佐田会の連中が押さえたらしいよ。東京行った連中だけで、作った会。なんか超感じ悪くない?」
「いって見れば勝ち組の集まりだよ。負け組は来るなってオーラが、めっちゃ出てね?」
ガソリンスタンドを継いだという木村直樹がビールのグラスをあおりながら呟いた。
「いいんじゃない? ほっといて」
酔いの回った感じの美郷が、ろれつの回らない口調で言った。
「構成メンバー、藤木以外は、昔のジミンズばっかじゃん。中学じゃ全然目立たなかったくせに、宇佐田会とか片腹痛いし」
「もうやめなよ」
香佑は、たまりかねて美郷の手からグラスを取った。
「しかも、リーダーが首長とか。笑えない?」
「あいつ、地味なくせに性格悪かったもんね。いかにも私らに恨みもってそうじゃん」
「でも、美人になったよなー、片桐さん」
「だけど、墓屋の吉野の嫁ですから」
あははっと笑いながら美郷が言う。香佑は溜息をついて、額を押さえた。もう――あれほど、この話には触れないでって言ったのに。
確かに、香佑にしても、せっかく腹を括って来た同窓会が、ここまで感じの悪い――同窓会というより、いっそ宇佐田会の集まりみたいな場だとは思ってもみなかった。
宇佐田会――涼子が言ったその会とは、東京近郊で働く卒業生だけの、一種、独特な集まりのようだった。同じく東京で仕事をしていた香佑が呼ばれなかったのだから、多分、職種に制限を設けているのだろう。
数にして十数名。彼らだけが、ひときわ大きなテーブルを陣取り、何やらひそひそと笑い合っている。どこか田舎臭さの残るその他大勢の者たちは、とても入っていけない雰囲気だ。
着ている服や靴で、彼らの権勢の高さが伺える。まぁ――どう贔屓目に見ようと思っても、感じは確かに悪かった。何か見えないオーラで周囲を遮断してるみたいだ。そして、彼らの女王様が、どうやら涼子のようなのだ。
「でも、マジで片桐、吉野なんかと結婚したの?」
懐疑的な口を挟んだのは、岩本憲剛。元ジャニーズ系。不動の二番人気だった彼は、すっかり太って様変わりしている。
「片桐が、吉野に夢中だったのは知ってたけど、今は立場が天と地ほども違うだろ。首長は東京の出版社で……吉野は、親父の墓屋ついだんだろ?」
「しかも髭だらけの、浮浪者みたいなひどい面になってるって。いくらなんでも、今の片桐とはあわないよな」
「私は、青森あたりで坊さんになったって聞いた。吉野、相変わらず笑わせてくれるよね」
どっと巻き起こる笑いの中で――香佑は、岩本の言葉に耳を止めていた。
片桐が吉野に夢中だったのは知ってたけど――
「……ミサミサ、知ってた?」
そっと、隣の美郷に囁いてみる。
「片桐さんが……吉野のこと好きだったって」
「うん。有名な話じゃん」
あっさりと美郷は頷いた。
「そうなの?」
私は何も知らなかった。片桐涼子の存在さえ、記憶に残っていないくらいだ。
「あ、そっかー。香佑は確かに知らないかもね。だって、ねぇ」
女子たちが、意味深な顔でうなずきあった。
「私らが、封じ込めていたからね」
「そそ。だって吉野は香佑のものじゃない? 吉野に近づくと許さないよって、首長に釘さしてあげてたの。感謝しなさいよ、香佑」
香佑は、言葉を失っていた。
知らなかった。――そんな――そんなことがあったなんて。
「もしかして」
嫌な予感を覚えながら、香佑は言った。
「そのおかしなあだ名も、その過程でつけたりした?」
女子たちは、記憶を確かめ合うようにして顔を見合わせる。
「どうだったろ。違うような……」
「多分、男子がつけたんだよね。小学校の時のあだ名だって聞いたよ。あの子さ、小二の夏まで宇佐田にいて、中一の時にまた戻ってきたの。いや、私らも小学時代のことは、まるで記憶にないんだけどさ」
「小二の時? いじめられてた首長を吉野が庇って、他の男子と喧嘩になったんじゃなかったっけ。あー、思い出した。その話聞いたミサミサが」
心奈が、美郷を指差した。
「片桐のこと、今度から首長って呼ぼうって言い出したんだ。だって、香佑の敵は私らの敵じゃん? まさか吉野相手にライバルが出てくるとは思わなかったからさ」
「えー、そうだったっけ? 結局、私が悪者なのー?」
美郷はけらけらと笑っている。
――そうだったんだ……。
香佑は、一人で頭を抱えていた。
そりゃ、涼子さんも不愉快になるはずだ。嫌われているような気は漠然としたけれど、そんな思い出があったんじゃ……。
そういえば匠己も、香佑の告白で酷い目にあったと言っていた。私、自分が気づかなかっただけで、当時は随分色んな人に――迷惑をかけていたんじゃないだろうか。
(それで吉野が庇って、他の男子と喧嘩になったんじゃなかったっけ)
しかも、そこでもまた、香佑は無意味に傷ついている。
それだけは、私が先だと思っていた。匠己を好きになったのだけは。
でも、それも結局は思い込みの勘違いで、彼の赤い糸は、最初から涼子とつながっていたのかもしれないのだ――
「香佑」
その時、背後から不意に背中を叩かれた。振り返った香佑は驚いたが、多分その席の全員が驚いている。後ろには、片桐涼子が立っていた。
「もう、懐かしい話は済んだ?」
さすがは宇佐田会の女王様。その笑顔が醸しだすそこはかとない迫力に、テーブルの誰もが黙っている。
「ね、だったら私たちの席に来ない? 藤木君がね。どうしても香佑と話がしたいんだって」
――え……。
香佑は、宇佐田会のテーブルの方を振り返った。シックなスーツ姿の男が、片手を上げてこちらを見ている。
「うん……、でも」
香佑は言いよどんで、美郷たちを見た。先程の勢いはどこへやら、全員、どこか気まずそうに黙っている。
まぁ、それも罪の意識なのだろう。
子供の頃はいくらでも残酷になれるものだ。香佑にしても、小学四年生までは、吉野のことを毛嫌いしていた。触ったら祟られるとまで言っていたほどだ。今にして思えば、一体どうして、ああも残酷な振る舞いができたのだろう。
「うん、じゃあ」
香佑はバックを持って席を立った。
難しいけど、話がそういう流れになったら、涼子さんにぱ謝ろう。自分には関係ないなんてとても言えない。いってみれば、何もかも私が原因のようなものなのだ。
「お酒、飲める?」
香佑の背を抱きながら、涼子は嬉しそうに囁いた。
「私が全然ダメだから、みんな、なんか白けちゃったの。ね、私の分も沢山飲んでね」
「これ、例のブツ」
高木慎が箱ごと投げたものを、匠己は少し黙ってから、受け取った。
「なんか、色々あった? もしかして」
「あったなんてもんじゃねぇよ」
吐き捨てるように慎は言って、壁際のベンチに腰掛けた。
午後八時の仕事場――外からは、蛙の鳴き声だけが響いている。匠己は頭を掻いて、ノミを持ったまま慎の隣に座った。
「店は?」
「閉めた。今、ノブが美桜送って帰ったよ」
繁忙期を過ぎた店は、少しずつだが普段の営業時間に戻りつつある。朝は十時から、夜の七時まで。それが正規の就業時間だ。
匠己はノミを置いて、顎のあたりに指を当てた。
「美桜なら今夜うちに泊まるって、涼子から聞いたけど」
たちまち、慎が噛み付くように振り返る。
「馬鹿か、お前は。どこの間抜けが新婚家庭に昔の女を泊まらせるんだよ。美桜じゃないぞ。涼子のことだ」
匠己は顎に指をあてたままで、溜息をついた。「ま、……そうだよな」
「当たり前だ。ボケ。なんだって俺が、いちいちテメェの浅慮の尻拭いしなきゃなんねぇんだよ。だいたいな」
匠己は手を上げて、まだ続きそうな慎の説教を制した。
「……てか、俺も正直わからないんだ。最近の涼子が何考えてんのか」
「お前のことが好きなんだろ」
「そうかもしれないけど、もう俺は結婚したんだ。それでも――普通、ああくるか? 涼子はそんなに馬鹿じゃないだろ」
慎は、疲れたような溜息を吐いた。
「涼子のことはどうでもいいよ。だいたい、お前があいつに敵うタマか。どうしたって振り回されるんだ。もう好きにさせておけ」
「まぁ、とりあえず静観してんだけど」
「俺が怒ってんのは、――彼女のことだ」
「…………」
嶋木のこと?
「いや、それは俺も――慎さんに聞くつもりだったけど、なんで、いつまでも畑仕事ばっかさせてんだよ」
「いつ出ていくかしれない女に、大事な商売のノウハウを教えられるか。あのな、匠己、あの子は従業員としてうちにいるのか? 違うだろ」
「…………」
いや、でも。
匠己が反論する前に、慎が再び口を開いた。
「あの子はなんだ? 最近この辺りにいついた猫か? それとも新しい従業員か? 悪いがそのどちらでもない。あの子はな、お前の奥さんとして、うちにいるんだ」
「…………」
「お前があえて、あの子を放っておいているのは判るよ。そうしなきゃ、うちみたいなおかしな従業員の中にはおいそれと馴染めないからな。相手が、ただの従業員ならやり方は間違ってない。美桜だって、そうやって自分の居場所を見つけたんだ。でもな、あの子は違うんだ」
慎は言葉を切り、苛立ったように息を吐いた。
「あの子の拠り所は、お前だけだ。お前だけを頼ってあの子はこの家にいるんだよ。本当に好きかどうかなんてどうでもいい。それがあの子の立場なんだ。そんなことも考えずに結婚したのなら、匠己、俺はお前を軽蔑するぞ」
「……………」
「その立場を守ってやらずに、お前が否定するような真似してどうするよ。それじゃ彼女が――あまりにも可哀想だ」
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