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10
「なんだよ。俺に話って」
後ろ手に扉を閉め、サンダル履きで外に出てきた慎は不機嫌そうだった。
「夜中に、人妻が男呼び出すなよ。ノブなんて大騒ぎだ。まさかと思うが、おかしな噂を店でも既成事実にしようってんじゃないだろうな」
「し、仕方ないじゃない。あんたが中々一人にならないから」
香佑は、家の方を伺った。午後十一時。静まり返っているが、もしかすると宮間がどこかで聞き耳を立てているのかもしれない。
「ちょっと……」
「なんだよ」
慎は、むったした目で香佑を見下ろす。その髪は、まだ生乾きで濡れている。
「も、もうちょっと、安全に話せる場所、ないの。その――誰にも聞かれない感じの」
「……………」
慎は、しばらく無言で香佑を見ていたが、やがて何も言わずに、家とは反対側に歩き出した。
香佑は、急いでその後についていく。
畑の方角――香佑はすぐに気がついた。慎が向かったのは、農具入れになっている納屋だ。目の前には香佑がいつも手入れしている畑がある。
慎は、納屋の前のベンチに座ると、どうぞ、とでもいうように香佑を見上げた。
香佑は頷いて、ひとまず慎の隣に腰掛けた。さて――どこから話すべきか。言えば、確実に相手を怒らせる話を。
(本当にすみません。ご迷惑は百も承知の話です。でも、できればあなたの口から、慎君に伝えて欲しいんです)
てか、なんだって私なの?
できることなら断りたかった。この家で、慎を敵に回したら、香佑には本当に逃げ場がない。でも、受けてしまったものは仕方ない。
「なぁ、怖くないの?」
不意に慎が呟いた。
「え?」
話の切り口を考えていた香佑は、訝しく慎を見上げる。
冷たい横顔は、うつむいたまま、どこか遠くを見ているようだった。
「俺、兄貴の留守中に、その嫁さんをレイプしたんだ。嘘じゃない、地元じゃ、誰でも知ってる話だ」
「…………」
「すごく、今と状況が似てるよな? しかも、誘ってきたの、あんただし」
手首を捕まれ、香佑は本能的な危険を感じて身体を強張らせた。
「こっち来てから、そう言えばずっと女に触ってなかった。なぁ――しようぜ」
「何、を……?」
「セックス」
この展開は、さすがに想定外だった。しかし慎の真意が、そうでないことも判っている。香佑は言葉を探しながら押し倒されていた。
「風呂入ったんだろ? すごく気持ちよくしてやるよ。なぁ、どこから舐めようか」
「……あのさ、高木慎」
そんな無理しないでよ。なんかもう――そこまでいくと痛々しいよ。
「なんだよ。乗ってこいよ」
ちっと舌打ちして、慎が身を起こして立ち上がる。
「そしたら、お前なんかとっとと追いだしてやるのにさ。――なんだよ。話って」
「あのさ、怒られるのを百も承知で言うけど――」
香佑は言葉を切り、腹を決めて目をつむった。
「奈々海さんと、会ってみない」
「……………」
「今日、吟さんとこで引き合わされた。彼女、数年前から時々吟さんのところにまで来てたんだってね。何度も吟さんが呼びかけたけど、あんたがずっと無視してるって……」
「それで?」
慎は怒りで冷えた目で振り返った。
「俺に会ってなんて言えって? 結婚おめでとうとでも言えっていうのかよ」
「うん」
残酷だな――と思いながら、香佑はすぐに頷いた。
「うん、そう言ってあげるべきだと、思う」
「馬鹿馬鹿しい……」
吐き捨てるように慎は呟いた。「離婚してもう三年だ。とっくの昔に他人だよ。友達ですらない他人が、なんで今さらの結婚祝いだ」
「幼馴染なんでしょ」
「………」
「家がお隣で、同級生の幼馴染で、幼稚園から高校までずっと一緒。しかも――これからは妹になるんじゃない。高木慎が認めてあげないと、……可哀想だよ」
そう言いながら、本当はもっともっと高木慎の方が可哀想だと香佑は心の中で思っている。
(慎君は、優しいんです。……子供の頃から私のこと守ってくれて、私がずっと遼さんに片思いしてるの知ってて、それでもいいから結婚しようって言ってくれました。うちの父の意向を汲んで芸大まで中退して――慣れない仕事についてくれたんです)
話してみれば魔性の女は、ただの心の優しい――そして弱い人だった。
(幸せでした。それは嘘じゃないです。慎君は、私の何もかもが嘘だと思ってるみたいだけど、本当にそれは嘘じゃない……。でも、ダメだったんです。遼さんと奥さんが別居してるって聞いた途端に、私の中に……どうしても捨てきれない未練みたいなものが、なんかもう、どうしようもなくこみ上げてきて)
そこは、曖昧に流されたが、おそらくその辺りから、遼――慎の兄の名前らしいが、遼も、隣の幼馴染の一途な想いに、心が揺れ始めてきたらしい。
そんな時に、事件が起きた。
告訴こそは取り下げられたが、警察沙汰にもなり、慎が会社を辞め、家を出るしかなくなった事件が――
(当時は慎君、一言も言い訳しなかったから、てっきり私も遼さんも、慎君が復讐のためにそんな真似をしたんだろうって思い込んでいたんです。ショックだったし、怒りもしました。だって私は、まだ慎君を裏切ったわけじゃなかったから。でも、慎君は私を信じてくれなかった。それで、あんな真似をしたんだって――)
それはあんたの勝手な理屈だろうと、話を聞きながら香佑は思った。
身体は裏切ってなくても、心が裏切られれば、それはなお残酷だ。なんの免罪符にもなりやしない。
(でも慎君が家を出た後になって、遼さんが、別れた奥さんから聞き出してくれたんです。あれは、奥さんが意図的に慎君を誘惑したんだって。私と遼さんの――色んな証拠写真を慎君につきつけて、どう責任とってくれるんだって言って。慎君は怒って部屋を出たらしいけど、それに収まりのつかなくなった奥さんが……)
暴行事件をでっちあげて、慎とその兄――おそらくそっちが本当のターゲットだったのだろうが、自分をないがしろにした二人に、復讐をしたということだろう。
(割り切ったようなことを言ってますけど、本当は遼さんも、慎君の許しが欲しいんです。私は所詮他人だけど……兄弟だから……。私も気持ちは同じです。慎君に許されるまで、私たち、幸福になっちゃいけないんじゃないかって――)
「はっきり言えば」
慎の背を見ながら香佑は続けた。
「あんた、何勝手なこと言ってんのよって、私がぶん殴ってやりたくなった。自分たちが幸せになりたくて、殻に籠ってる男を無理に引きずりだそうなんて、あまりに勝手すぎるじゃない」
うつむいた慎が忌々しげに舌打ちをする。
「私の言葉が気に障った? でも、実際はそうだよね。慎さん、現実みたくなくて逃げたんでしょ。本当は言い訳すればよかったのに、まだ奈々海さんと修復する道もあったのに、全部捨てて逃げたんでしょ。判るよ。私も――同じような性格だから」
「……………」
「で、逃げた果てが、ここなんだけど――私の塲合、ここだからこそ、忘れたかった過去も追っかけてくるんだよね」
香佑は立ち上がって、服についた泥を払った。
「ある意味、飛んで火にいるなんとやらよ。私の方が、慎さんよりずっと考えなしの馬鹿だった。でも、こんな事言う私が逃げるのも癪だから、同窓会には胸張って行くことにしたよ」
「馬鹿じゃねぇの」
慎がようやく呟いた。「それが俺に、なんの関係があるんだよ」
「ないようで、あるような気がして」
「お前の事情なんて、俺が知るかよ」
怒ったような、蔑んだような目で振り返られる。
「俺が唯一気がかりだったのは、あんたが匠己をどう思ってるかってことだけだ。なんの感情もないのに、行き辺りばったりに結婚したのが見え見えだったからな。俺はそういうのは――好きじゃない」
その非難の対象、私だけに向けるのは筋が違うと思うんだけど。
とはいえ、慎の気持ちはよく判った。自分の過去に、知らず知らずに投影させていたのだろう。なるほど、それは鬼みたいな形相で、匠己様と呼べとか言ってくるはずだ。
「慎さんは、いい人だね」
「は?」
「恋愛って残酷だね。……でも、どう頑張ってもペアになれるのは二人だけなんだから、どっかで、腹括らないと。まぁ、私が言うことでもないんだけど」
なんか、三人とも気の毒で。
というか、高木慎が一番気の毒で可哀想で――
フードコートで見た時の、無防備な驚きと動揺を顕わにした顔。
遼の妻に、証拠写真とやらをつきつけられた時、慎はどんな気持ちだったのだろう。それがどんな写真だったのか、知る由もないが、その瞬間に積み上げた全てを捨ててもいいと思うほど、高木慎は絶望したのだ――
「じゃあね。その気になったら私に言って。なんでかしらないけど、無意味に奈々海さんと仲良くなっちゃったみたいだから」
香佑はそれだけ言って、先に立って歩き出した。
多分、自分だったら受け入れられない。
これで高木慎との信頼関係は、完全に壊れたな――と思いながら。
11
「よし、これだな」
香佑は、数少ない衣服の中から、とりあえず一張羅を取り上げた。
一応、東京に住んでいた頃に買ったものだが、そうはいっても量販店で買った安物である。正直言えば、もっとグレードの高い服を来て行きたかったが仕方がない。なにしろ、先立つものが香佑にはないのだ。化粧品でさえ節約している昨今である。
靴も、嫁入りの日に履いていたパンプスが1つだけ。それも庭の砂利道でヒールがボロボロになってしまっている。
やはり憂鬱がこみ上げてきて、香佑はたまらず溜息をついた。何年かぶりに会うんだから、もうちょっと見栄を張りたかった。
同窓会なんて、絶対に女子は着飾ってくるに違いない。そうしてみれば、この服は少しばかり恥ずかしい。
――せめて、古着がどっかにないかなぁ。
あとミシン。
もう少し、裾の辺りをアレンジしたら、少しは今の流行っぽくなる。とはいえ、この家にそんなものはありそうもないし。
ああ――そういえば、もう随分長いこと、服の仕事をしていない。
明日かぁ……。
畳に寝転んだ香佑は、寝返りを打って天井を見上げた。
同窓会。
その当日に、そう言えば匠己も帰ってくる。
当然、涼子も一緒だろう。涼子が二組の幹事だということは、美郷から聞いて知っている。そうであるなら、明日は確実に出席するだろう。
「あー、もういや。……最悪」
「おう、ただいま」
その時、いきなり扉が開いた。香佑はがばっと跳ね起きている。
――え?
「何、昼寝中?」
「ち、違うけど」
どうして――だって予定じゃ、確か明日だって。
が、そこに立っているのは確かに匠己だった。
白いシャツにジーンズ姿。髪は無造作に目にかかり、少しだけ、再会した頃の熊男の面影が戻っている。
不思議そうな黒い目が、じっと香佑を見下ろしている。大きな身体に阻まれて、不意に、扉ばかりか部屋の中の何もかもが、小さくなってしまったようだ。
「休憩してるの。――さっき、畑から戻ったばかりだから」
香佑は自分のほつれた髪や、泥で汚れた膝を慌てて隠した。
「ふぅん」
恥ずかしい――絶対今、涼子と比べられたに違いない。洗練された美貌とスタイル。自分に似合った高級ブランドに身を包む涼子に、香佑は、何をしても勝てる気がしない。
「匠己君、今、お茶が入ったから」
背後から美桜の嬉しそうな声が聞こえてきた。
さっきまで不機嫌にむっつりしていたのに――本当に、この変わり身の速さときたら。
「早く早く。慎さんとノブ君ももうすぐ帰ってくるし。みんなでお茶にしようよ」
「私はいいよ」
匠己が何か言うより早く、香佑は先手を打って断っていた。
自分が顔を出せば美桜がまたぞろ不機嫌になるのは目に見えている。それに、日中、台所に入らないのは、香佑と美桜の間に出来た暗黙の約束事だ。
「これから勉強しないといけないし。お茶なら、後でいただくから」
「なんの勉強?」
匠己の眉が、不思議そうに寄せられる。
そっか。この人は――私がこの家で何をしてるかなんて、まるで関心がないんだな。
「なんだっていいじゃん」
積んであった野菜作りの本を押しやり、香佑は素っ気なく言って立ち上がった。「とにかく出てって。勉強の邪魔。夕飯は美桜ちゃんが作るんだよね。私は……みんなが出てってから風呂入るし、朝までほっといてくれていいから」
が、何故か匠己はそのままの姿勢で立っている。
「なに、お土産でもあるの。もしかして」
ちらっと振り返ると、匠己は初めてそのことに気づいたみたいな顔になった。
「悪い、それ、思いつきもしなかった」
だよね、やっぱり。
「私はいいけど、店の人には何か買って来るべきなんじゃないの。あれだけ迷惑かけたんだから――」
「ああ、それなら涼子が買ってるよ」
あっさりと言うその無神経さに、香佑は軽い目眩を覚えていた。
あっそ。
そうですか。
もう、いっそ、私なんて追いだして、二人で結婚すればいいのに。今時別居婚とか珍しくもなんでもないし。
「いや、その――嶋木」
「なによ、吉野」
香佑は、きっとして匠己を睨んでいた。
「……てか、今度は何、怒ってんの?」
別に怒ってるわけじゃ――いや、もうその言い訳は通用しないか。
というより、そんなことすら、この人にはわからないんだな。もう、絶望を通り越してどうでもいい気分だ。
「携帯のことよ」
仕方なく、さっきまでまるで忘れていたことを香佑は言った。
「携帯?」
「慎さんに頼んで……なんか、余計なことしようとしたでしょ」
「ああ、……余計なことだった?」
不思議そうに頭を掻く匠己の悪びれのなさが、ますます香佑の怒りに火をつけた。
「とってもね。もう二度と従業員使って私のことに口出さないで。偉そうに――男らしくない。だいたい、こそこそするほどのこと? そんなことで私が泣いて喜ぶとでも? お願いだから、二度と私に干渉しないでよ」
「…………」
さすがに言い過ぎたという自覚はあった。
慎に偉そうなことを言いながら、言っていることとやっていることが違う私はなんなんだろう。
ここは笑顔で、涼子さんと匠己を、応援してあげるべきなのに。
背後の沈黙が怖かった。ここまで言われて怒らない男はいないだろう。が――
「おう、慎さん、留守任せて悪かったな」
「悪いと思ってんなら、いますぐ納期が近いものから取り掛かれ。休めると思ったら大間違いだぞ」
慎のそんな声がして、二人はあっさりと香佑の部屋の前から消えていった。
「なんなんだよ。一体……」
三十分後、着替えを済ませた匠己は、自分の作業場に戻りながら首をかしげていた。
つい十日前ほどは、妙に優しくべたべた世話をやいてきたくせに、この変わり様はなんなんだ? 全く、女はわけが分からない。
留守の間、よほど嫌なことでもあったのか――それにしても、あそこまで刺だらけになっている理由が判らない。パーソナルスペースに入ろうものなら、容赦なく攻撃されそうだ。
ただ、思ったより事態が好転していないのだけはよく判った。
それどころか、一層悪くなっている。
――やっぱ、無理があったかな。
元々、不自然な結婚だった。何も考えずに勢いだけで決めたツケが、あっという間にきたのかもしれない。
足元で鳴き声がして、見ると、時々迷い込んでくる野良猫が物欲しげに舌を出している。
「なんだ。お前まだいたのかよ」
匠己は笑って、壁に備え付けの棚に隠しておいた煮干を猫に投げてやった。
「鳴くなよ。俺が美桜に叱られるからな」
いってみれば、この店にいる者全員が、迷いこんできた猫同然だ。居つく者もいるし、水があわずに出ていく者もいる。
その、どんな場面でも、匠己にはただ見守ることしかできない。人にできることには限界がある。それは死んだ父の残した言葉でもある。
――まぁ、いいか。本当に嫌になったら出ていくだろ。
匠己は溜息をついて、工具箱からノミを取り上げた。
初めから、それでいいと思って決めたことだ。いずれ離れていく人の人生に、今以上に踏み込んで関わっていくべきじゃない。
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