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「なんの真似?」
「なんのって?」
 涼子は肩をすくめて、匠己を見上げた。
「もう遅いから部屋に戻ったらって言っただけだけど? 明日の朝は早いんでしょ」
「……いつ来たんだよ」
 匠己は立ち上がって、浴衣の帯を締めなおした。結局、肝心なことが訊けなかった。参ったな。いつだいつだって矢の催促なのに。
「さっき。今夜は私も、このホテルに部屋を取ったから」
「あっそ」
 ――やっぱ、慎さんに訊いてみるか。
 匠己は頭を掻きながら歩き出した。
「明日は休みを取ったんだ。ね、一日一緒にいていい?」
「そりゃいいけど」
 仕事は捨てられないとか言ってたくせに、こんなことでちんたら油売ってて大丈夫なのかよ。だいたいなんだって、今になって、この態度だ?
「着替えてきてよ。ラウンジでお酒でも飲まない? 私、まだ夜ご飯食べてないんだ」
「………」
 匠己は、背後の人をちらっと振り返って、それから微かな溜息をついた。
「わかったよ。そこで待ってろ」
 まぁ、嶋木が気にしてないなら、こっちが気にする必要もないか。
 ある意味、結婚早々というタイミングで、涼子が現れてくれて助かったといえば助かった。そうでなきゃ、嶋木はますます警戒していただろう。
 結婚式まで挙げた以上、いくらそんな気はないと説明したところで、普通、説得力はないだろうし、自分でも下手な言い訳だとは思ったけれど――
(あんた、一体、何やる気出してるのよ。い、いきなりそんなのとか、私無理だし)
 あの時は、別に、やる気出してたわけでもなんでもないし。
(色んな意味で無理、無理だから!)
 誤解させたのは判ったけど、あんなに全身で、全否定しなくても。
 嫌だって判れば、絶対にしなかった。しなけりゃ失礼なのかな、とも思ったけど、嶋木は、なんとなく拒否するような気がしていた。
 でも、拒否されなかったら?
 そこは実は、想像もしていなかった匠己だった。されなかったら――? どうしていただろうか。まぁ、惰性で――いや、違うな。
 多分、同じ言い訳をして逃げていた。何故だろう。そこだけははっきりとそう言い切れる自信がある。
 いずれにしても、想像以上の激しさで全否定されたわけだから、もうその辺りはどうでもいいことなんだろうけど。
 とはいえ、そうも嫌な男との結婚を、何で黙って受け入れたんだ? と、そこまで考えると、匠己にはさっぱり判らなくなる。
 金か……。と、そこは少し考えてしまった。
 そこまで変わったのか、と思いもしたが、いざ家に迎え入れてみれば、中身はまるで変わっていない。
 他人を頼るのが極端に下手な女。結局は、何もかも我慢して、自分で背負いこんでしまう女。
「――上手くやってくれればいいんだけどな、あの連中と」
 匠己は呟いて窓から見える雨空を見上げた。
 そっか、向こうは晴れてんのか。
 昔は、雨が降る度によく思った。六百キロ向こうの空にも、この雨雲は続いてるんだろうか。
 自分が空を見上げるのと同じように、あいつも空を見てるんだろうか。
 それも全部――過ぎた昔の思い出だけど。
 
 
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「おじゃまします……」
 襖を開ける前から、その声は廊下のあたりにまで響いていた。
「べんせいぃぃぃ〜〜粛々ぅぅぅ〜〜」
 判った。詩吟とはつまるところあれだ。結婚式で、親戚の叔父さんあたりが冒頭に歌う――歌といっていいのかどうか微妙だけど、腹の底から声を出して朗々とやる、例のあれ。
「はい、結構」
 吟が手を叩いている。
 香佑は、こそこそと、車座になって座る人たちの背後に正座した。
「どうぞ」
 と、以前会った坂口というごま塩頭の老人が、慣れた手で茶と和菓子を出してくれた。
 香佑は頭だけ下げて、湯のみを持ち上げる。
 ――これが、詩吟教室かぁ……。
 吟宅の和室で、集まっているのは十人程度だ。知った顔はない。ほぼ全員が老人で、男女比率は半々。一番若い人で、五十過ぎくらいの女性がいるくらいだ。
「じゃ、次の人」
 中央に座る吟が促すと、牛蒡みたいに真っ黒に日焼けしたお爺さんが、うほっうほっと咳払いをした。
「べんせいぃぃぃぃぃ」
 無理。
 私、うっかり行きますとか言っちゃったけど、こんなの絶対私には無理。
「みなさん。新しい会員の、吉野さんじゃ」
 しかし、香佑が言い訳を考えるより早く、吟が先手を打って香佑を紹介した。
「吉野石材店の若奥さんじゃ。東京の娘さんでな。綺麗じゃろうが」
「えっ」「うそっ」「まさか、匠己君の奥さん?」
 その瞬間、女性たちの目が一斉に向けられる。
 うわ、何、この視線。
 香佑は戸惑って頭を下げる。
 明らかに恋愛適齢期をはるかに凌駕している女性たちの、この敵意に満ちた目はなんなんだろう。
「じゃあ、石材店で一緒に……」
「当たり前よ。結婚してるんだから」
「ああ、なんだかショックだわー、あそこは、男しかいないからよかったのに!」
 なんだ、そりゃ。
 ご近所で、匠己の評判がやたらいいのは知っていたが、こんな老婆たちの心まで――それは一体、どういうこと?
「あの、吟さん、折角誘っていただいたのはありがたいんですけど」
 やがて教室が引けたようなので、香佑はこそこそと膝で吟の傍ににじり寄った。
「教室は週に一度じゃ。仕事の都合がついたら来週から来なさい」
「いや……」
 それはちょっと……。
 大勢の人の前で、あんな大声出したくないし。
「まぁ、何事も経験じゃよ」
 香佑の内心を見透かしたように、吟が、ぽんと、肩を叩いた。
「腹の底から声を出すっちゅうのは、案外、いいストレス発散になるぞ。あんた、色々溜め込んどるようじゃからの。一度、叫んでみるといいよ」
 それは、目茶苦茶溜め込んではいますけど、叫んだくらいで解決するものとは、とても。
「慎公はどうしとる」
 吟に誘われて次の間に入ると、卓上には、すでに茶菓の用意がしつらえてあった。座椅子に腰掛けながら、吟がそう切り出した。
「今日は、普通に仕事してます」
「怒っとったかの」
「当たり前ですよ。――言いたくないですけど、なんであんな嘘ついたんですか」
 今日は、朝から不機嫌オーラ全開で、宮間ですら声を掛けられない状況だ。もちろん、香佑は目をあわせることさえできない。
「なんじゃ、違ったんかい」
「はい?」
 吟は、しれっとした目で茶をすすっている。
「あんた、慎の字に惚れとるんじゃないのかね。すごくお似合いだったと言われたぞ」
「だ、誰がそんな適当なこと言ったんですか。違いますよ。とんでもない噂流さないでください。私は――」
 私は――私が……結婚したのは。
 誰だったんだろう。
 そもそも、誰とも、結婚なんかしてないんじゃないだろうか。
「ま、誤解は己の口から解くんじゃの。田舎の噂は早いぞう。早いとこ誤解を解いてやらんと、あっという間に、あんた、慎公の嫁として下宇佐中に名前が広がるぞい」
「だから……それ、誰のせいだと思ってるんですか」
 香佑は頭を抱えたくなっている。
「同窓会には、いかにゃならんぞ」
 湯のみを下げ、少し睨むように、吟は香佑を見た。
「い、行きますよ。誤解解かなきゃいけないし」
「ふむ。ならよい。あんたは案外頑固者じゃし、意地でも行かないような気がしたからの」
「…………」
 まさかと思うけど、そのために嘘ついた?
 別に――私みたいな他人が同窓会に行こうが行くまいが、吟さんには全く関係ないじゃない。
「あんたの事情はよう知らんが、昔に蓋をして生きていくのが、必ずしも正解とは限らんからの。前に進めない原因が過去なら、どこかでケリをつけにゃならん。今のはあんたじゃない、慎の話じゃ」
 ――慎さん……。
「入んなさい」
 吟が手を叩くと、横の襖がすっと開いた。そこには、正座した女性が頭を下げている。
 その人が顔を上げた時、香佑はあっと声をあげていた。
 濡れたように潤んだ瞳――魔性の女――慎さんの元妻。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。