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「あれ、吟さん?」
 車から降りた香佑は、思わず救われたような声をあげた。
 ガレージ横のベンチに――背後が墓場という残念なロケーションではあるが、そこに吟がぽつねんと腰掛けている。
 いつもの着流しに、骸骨みたいなやせ細った顔。香佑を見上げると、吟はにかっと、いつにも増して薄気味悪い笑顔を浮かべた。
「なんじゃ。慎の字と一緒じゃったか」
 杖をついて、おっちらと立ち上がる。その手には何か紙切れのようなものを持っている。
「いや、俺はもう帰るとこですけど」
 すぐにでもアクセルを踏み込む勢いだった慎は、仕方なくといった風に運転席から降りてきた。
「どうされました? 今日は店は休みで、匠己も旅行中だから、話が判るのは俺くらいですけど」
 ええ、ええ。どうせ私はその頭数にすら入ってませんよ。
 拳を脇の辺りで握りしめながら、香佑は懸命に自分を抑えた。全く、この帰りの道中ほど、居心地の悪い時間もなかった。慎はひたすら不機嫌で怒りっぽく、その運転の荒くてひどくて恐ろしかったこと――もう二度と、こいつの車には乗りたくない。
「なぁに、ちょいと御新造さんを誘いにの。それより、ほれ」
 私を誘いに――? が、その意味を斟酌するより早く、吟が指さした方向から、一人の女が飛び出してきた。
「こーーーーうっ」
 香佑は――多分――フードコートの慎と、全く同じ顔をしていた。
 かなり明るめのボブ。小柄で丸顔で、目と口の大きい派手な顔立ち。中学の頃から化粧をしていて、顔の派手さで言えば宇佐中一だった。香佑の親友、柳美郷。
 ピンクの半袖ニットと、フレアのミニスカートを穿いている美郷は、五年ぶりの再会になるにも関わらず、まるで昔と変わっていないように見えた。可愛くて若々しくて――とても、二児の母には見えない。ただ、少しだけ体型が緩くなっている。
 美郷は昔と変わらない傍若無人の人懐っこさで、すぐに香佑の傍に駆け寄ってきた。
「やー、もう、里帰りのついでに来ちゃったしー。すぐに判ったよ。幽霊屋敷。ほんと、噂通りの不気味さじゃーん」
 いや、……曲りなりにもそこで働く人の前で……。
 慎の反応が怖くて、香佑はもう声も出ない。
 美郷の目が、不意に香佑の背後に向けられた。いや、最初からその視線は、背後の人への好奇心で、キラキラと輝いている。
「香佑の、だんなさま、ですよね?」
「…………」
 わちゃっ、と、香佑は頭を抱えたくなっている。よりにもよって、今みたいなタイミングでこう来たか。
 振り返ると、案の定、底冷えするほど恐ろしい表情がすぐ後ろにあった。今にも噛み付いて反論されそうな勢いだ。
「二人がどこ住んでるかわかんないから、とりあえずお店の方に来てみたんです。吉野君に訊いてみようと思って。そしたら、このおじいちゃんが、香佑と旦那さんなら、この家に住んでるからって」
 それは嘘ではない。嘘ではないが――
「同居してんだ。もしかして吉野夫婦と? よく判らないけど、上手くやれてる?」
 そこも、美郷の目は好奇心でキラキラしていた。
 が、その目は、今は香佑の隣に並び立った慎に向けられている。
「わーっ、もう、想像以上のイケメンですねー。もーうっ、香佑ったら水臭いんだから。こんな素敵な人と結婚するなら、早く教えてくれたらよかったのにぃ」
 慎が――数秒、おそらくこみ上げた怒りを噛み殺した後で口を開いたその直後に、香佑は、肘で慎の腰のあたりを突いていた。
「いずれはお客様なんじゃないの?」
「もしかして、――ミサミサさん?」
 慎の変わり身は、もはや神業と言ってもよかった。
「はじめまして、吉野石材店の高木といいます。彼女の言っていたとおりの人だな。同級生? そうは見えないですよ。随分お若く見えますね」
「えっ、やだーっっ、そんな昔のあだ名……、やだーっっ、もうっ」
 美郷は、もう真っ赤になって身悶えしている。
 香佑は、呆れて言葉も出なかった。――あんた、本当に商売人だよ。高木慎。
「ははは、でもひとつミサミサさんは誤解していますよ。僕と彼女は」
「なんじゃ、お前ら夫婦じゃったんかいな」
 いきなり、そこで吟の声が割って入った。香佑も慎も、おそらくぎょっとして振り返っている。
「慎の字よ。そこなお嬢さんはな、同窓会にあんたの女房をぜひ参加させて欲しいと、そのお願いに来られたんじゃ。広島くんだりから、わざわざそれだけのためにのう」
「……いや、吟さん」
「お願いします、高木さん!」
 慎が吟に抗議するより早く、美郷がすがるように頭を下げた。
「同窓会は今まで何度もあったけど、香佑、一度も出席したことないんです。ずっと東京で忙しくしてて、なんだか世界も違っちゃって――」
 香佑は、はっと言葉を飲んでいる。
 ミサミサ……。
 確かに香佑は、意識的に過去を切り捨てていた。美郷を含め、昔の友達とも意図して距離を置いていた。宇佐時代の自分はもう二度と振り返らないとさえ思っていた。理由は今ならはっきりと判る。吉野の情報を耳にしたくはなかったからだ。
 東京では、すぐに沢山の友達ができて、香佑の世界は一変した。心のどこかでは、宇佐時代を恥ずかしくさえ思っていたのかもしれない。なのに――
「それが宇佐町に帰ってきてくれて、私、本当に嬉しかったんです。香佑は人気者だったから、きっと、そんな風に思う昔の友達はいっぱいいると思います。――お願いです。今回だけでいいです。香佑を、同窓会に出させてあげてください」
 ずっとないがしろにしていた友人の、思わぬ言葉と優しさが、香佑の胸を一杯にした。
 が、それでもうんとは言えなかった。今みたいなタイミングで、どうしたって昔の友達には会いたくない。吉野とのことだって、どんな風に打ち明けていいのか……。
 隣の慎には、むろん香佑の葛藤は判らないに違いない。彼は多分、この展開にただ唖然としている。エスカレートしていく誤解をどうしたら、と思っているに違いない。
「いや……ミサミサさん。許可したいのは山々なんですが」
「許可してやれ。慎の字」
 何故かそこで、吟がきっぱりと言い切った。「あんた、亭主だろうが」
 ぎ、吟さん?
 慎もそうだが、香佑も、吃驚して振り返った。
 一体なんで? もしかして、老人性の――物忘れが入ってる? つい先日、この人の家には匠己と挨拶に行ったばかりなのに。
「よっしゃ。お嬢さん。今慎の字が頷いた。ゴウサインじゃ。わしは慎の父親がわりじゃからの。言葉がなくとも判るんじゃ。――香佑さんよ」
 どうしていいかわからないまま、香佑は困惑して吟を見る。
「あんた、行ってくるがいいよ。懐かしい友達と会って、ゆっくり楽しい時間を過ごすといい」
「いや、でも吟さん」
「ああ、ああ、もう何も言わんでええ。わしに全て任せておけい!」
 一体何を任せれば……?
 香佑と慎は、互いに顔を見合わせている。
「同窓会のう」
 吟は杖を引きずりながら、懐かしそうな目を墓場に向けた。
「そういえば、そろそろ、例の連中がやってくる時期じゃのう。やれやれ、また騒がしくなるわい」
 それはもしかして、墓場で同窓会をするという佐久間さん……?
「香佑さんよ」
 香佑の傍に歩み寄り、手にしていた紙を手渡しながら、吟は言った。
「行って来なさい。昔の友達に、もう何年も会ってないんじゃろう?」
「………」
「誰もが、自分と同じ時間を生きているわけじゃあない。あんたのような若いもんにはまだわからんかもしれんがのう。生きている間に親しい人たちと過ごせるというのは、本当に素晴らしいことなんじゃ」
 
 
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 ――詩吟教室……。
 吟が置いていったチラシを眺めて、香佑は重たい溜息をついた。
 吟の言葉は、頑なだった香佑の心に、少しだけ痛く染みていった。そうだな、同窓会には行かなきゃな――とはいえ、なんだってあんな嘘をついてくれたんだろう。
 おかげでますます美郷は誤解を強め、もはや、何を言っても聞いてくれそうもない勢いだ。なにしろ、第三者が当たり前のように二人を夫婦だと認めたのだ。そこだけは、今でも吟を許しがたい。
 同窓会では、高木慎と結婚したという誤解を解かなければならないのはもちろんのこと、今の香佑の置かれた状況みたいなものも、ひと通り説明しなければならないだろう。嘘でも、幸福なふりを――しなければならないんだろう。
 想像しただけで、とてつもなく憂鬱な気持ちになる。そして、ふと思う。いっそのこと、ここから逃げ出したらどうだろうか。あの日、東京から飛び出したみたいに、何も考えずに新幹線に乗って。
 午後九時すぎ。八時前には宮間も加納も戻ってきたが、慎だけが自宅に戻ったまま、帰ってはこなかった。
 ――ま、怒ってるんだろうな。
 それも香佑の口から、改めて謝らなければならないのだろう。
 慎に対しては、朝から迷惑をかけ続けているだけに、顔をあわせる事自体がとんでもなく憂鬱だ。とはいえ、あんな気まずい別れかたをしただけに、慎が今、どこで何をしているのかということが、気にならないと言えば嘘になった。
「慎さんって、一人で暮らしてんの?」
 仏間に布団を敷きながら香佑が聞くと、風呂から上がってきたばかりの宮間が足を止めて頷いた。
「そうですよ。上宇佐の駅の近くで、わりと小奇麗な賃貸借りて住んでます。てか、今夜慎さん、どこいっちゃったんですか」
「さぁ……」香佑は、曖昧に誤魔化した。そうか、やっぱり一人だったか。
「ノブ君は? 家族と?」別に今聞く必要もなかったが、必要以上に慎に関心を持っていると思われても困る。
「俺は家族とですね。竜さんは一人――のはずです。そういうの一切語らない人だから、正直、本当のところはわかんないんですけど」
 まぁ、一人でなければ、連夜石材店に泊まりこんではくれないはずだ。その竜は、一人、作業場で機材の調整をしている。
「美桜ちゃんは?」
 それはついでのように聞いただけで、もちろん美桜が一人暮らしをしていると思ったわけではない。店が開く時間に来て、締まる時間に帰る美桜は、もちろん家族と暮らしているのだろう。
「美桜は、ばあちゃんと二人で」
 宮間はあっさりと言ったが、香佑は耳を止めていた。
「ご両親は?」
「さぁ、どっか別の場所にいるって話ですけど」
 そこは、少し宮間の口調がそっけなくなったから、これ以上は話したくないというニュアンスだと、香佑は悟った。
「寝る前に、畑の柵見てきますよ。イノシシよけ、あいつら、ちょっとでも隙があると、突っ込んできますからね」
 宮間が出ていったので、香佑はひとりきりで、二人分の布団を敷いて、台所に戻った。
 宮間はともかく、他の連中に至っては、なんだか色々ありそうだ。もちろんそんなことを言っている私も、それなりに訳有りありなんだけど。
 聞かれたくない気持ちはよく判る。だから、香佑も、誰の話も聞くつもりはない。ましてや、口を出すつもりは毛頭ない。
 誰にだって、触れてほしくない内面があり、過去がある。判っていても、そこに立ち入らないのが大人のルールであり、付き合い方だ。
 でも、昔は――宇佐田にいた十代の頃は、それとは真逆の考えだった。
 当時の自分を思い出し、香佑は苦く笑っている。
 結構お節介で、揉め事にはいつも首を突っ込んで、なんとかしようと奮闘して――嫌われる人にはとことん嫌われてしまったけど、その代わり、すごく仲のいい友だちも出来たっけ。
 今考えれば、無鉄砲の考えなしだった。そう、多分あの頃の香佑は、他人と関わることに少しも怖さを感じていなかったのだ。嫌われることすら怖くはなかった。それがいつの間に、こんなに臆病になってしまったのだろう――
 ま、臆病っていうより、世間を知ったってことなのかな。
 香佑は、ややセンチメンタルになった自分を叱咤した。あの頃の自分は、悪い意味で他人の心の痛みみたいなものが判らなかったのかもしれない。だから、人の心にずかずかと踏み込めた。今は違う。それは――私が大人になったってことだ。
 お茶の用意だけして、先に寝ようと香佑は思った。一体いつまでこんな生活が続くのかは知らないが、もう一人でも大丈夫だと、明日皆にそう言おう。
 部屋の固定電話が鳴ったのはその時だった。
 まさか、美郷――? またあれこれ聞かれたらどうしよう。吉野の件に関しては、まだ、心の整理みたいなものが全くついてないのに。
 香佑はしばし躊躇ったが、結局は諦めて電話に出た。あまり可能性はないが、もしかすると、慎さんかもしれない。
「はい、吉野です」
 一瞬、電話の向こうから沈黙があった。
「おう、元気?」
 ――えっ……。
「吃驚した。一瞬誰かと思ったよ」
 匠己………
 周囲の音が鳴りをひそめ、自分の心臓だけが、静かに音を奏で始めた。
 腹が立つほど不意打ちみたいに掛けて来た。新婚の妻を一週間も放置しているバカ男。しかも、とびきり呑気な声で。
 なのに、なんでこんなに嬉しいんだろう。今も、声を聞いただけで、少し目が潤みそうになっている。
「何?」
 その感情を打ち消すように、あえて素っ気なく香佑は訊いた。
「今、みんな出払って誰もいないけど、なんの用」
「慎さんも?」
 ああ、あんたの真実の女房、慎さんね。
 香佑はそれには少しだけむっときていた。別に期待してたわけじゃないけれど、私を気遣ってかけてくれたわけじゃないってことか。
「いない。多分今夜は、こっちに来ないと思うけど」
「……なんで?」
「なんでって、――知らないわよ」
 私が怒らせたから。でも、その原因は言っていいものかどうか判らない。 
「伝言あるなら伝えとくけど」
「いや、いいよ。別に急ぎの用じゃないし」
 香佑の不機嫌が伝搬したのか、匠己の口調が少しだけ冷たくなった。
 それきり、不意に沈黙が落ちる。
 じゃ、用事ないなら切るから。という言葉が、もう喉まで出ているのに、香佑は黙ったまま、匠己が何か言うのを待っていた。
 ああ、そういえば、携帯の話――
 今、それを問い詰めようかと思ったが、やめた。この精神状態で切り出したら、最悪の展開になりそうだ。
「いつまでそっちにいるの」
 逆に、香佑は別のことを口にしていた。言ってから、自分から会話の切り口を出したことに後悔した。今の二人の関係からして、そういう取り繕った態度は、間違いなく向こうが見せるべきだと思ったからだ。
「週末まで。日曜の夜にはそっちに着くよ」
 けれど、匠己の声は、予想以上に優しく聞こえた。
「……楽しかった?」
「まぁな。あちこち仏像やら墓やらみて回れたし。懐かしい人にも会えたし」
「誰……?」
「大学の友達」
 少し、香佑は笑っている。
「あんたに、友達なんてできたんだ」
「芸大には、俺以上に変わった奴が沢山いたから。慎さんに訊いてみな。俺がむしろ普通だったって言ってくれるよ」
 電話で声聞くなんて初めてだ。
 そういや、中学校の時、一度だけ友達にそそのかされて電話をかけた。出てきたのは、しわがれた男の声で、大慌てでぶち切ったっけ。
 その人の家に嫁いで、その電話で今、大好きだった人の声を聞いている。人生って、なんて不思議なんだろう。
「そっち、降ってる?」
 不意に静かな声で匠己が言った。
「雨? 降ってないけど、なんで?」
「いや……こっちは雨だから。夕方からずっと降ってるんだ」
 今、匠己が空を見上げ、手をかざしているのが見えたような気がした。
 少し――普段より低く聞こえる声。逆に私の声は、この人にどう聞こえているんだろう。
「今、どこ……?」
「ん? ホテルだけど」
「何してるの」
 それには、数秒沈黙が返ってきた。「電話してるけど」
 まぁ、それはそうなんですけども。他に言いようがないのかよ。唐変木。
 いきたいな。
 会いたいな。
 今なら、すごく素直に傍に寄り添えるような気がする。なのに、電話で話す二人の距離は、三百キロ以上も離れているのだ……。
 今なら、聞けるかもしれない。香佑は思い切って切り出した。
「あのさ、同窓会の話、聞いた?」
「流れたってやつ? なんか、有志で集まるって聞いたけど」
「うん。……それにね」
 何故だか私も行くことになって、それで――その時に――
 あんたと結婚したって、話していいの?
 涼子さんのいるクラスの中で、私があんたの奥さんだって、本当にそう言っちゃっていいの?
 あんたは私のこと――周りにどう言って説明すんの?
「匠己、お待たせ」
 その時、電話の向こうから、柔らかな女の声がした。
 香佑は凍りついていた。涼子の声だ。
 あれから一週間たって、二人はまだ一緒にいたんだ。
「電話? 誰と? ねぇ、そろそろ部屋に戻らない?」
「ああ……」
 と、匠己の気の抜けた声がした。「いや……まぁ、それは戻るんだけど」
 別に……ここで私が動揺する場面じゃないし。
 香佑は、自分に言い聞かせた。
 涼子さんのことは、匠己から聞いてるっちゃあ聞いてるわけだし。そういう意味では、なんていうの? 彼女の存在を知っての上で結婚したといっても過言じゃないし。
「涼子さん?」
 自分でも驚くほど、平然とした声で香佑は言った。
「ごめん。じゃあ、そろそろ切るわ。皆には、日曜に帰るって伝えとくね」
「お前、同窓会出んの?」
 受話器を耳から離そうとしたら、そんな声が聞こえた。
「出るけど……なんで?」
「いや、――ちょっと色々面倒だな、と思ったから。俺行かないけど、結婚の話は、できれば適当に流しといて」
「……………」
 大丈夫なんじゃない? 自分のものではないような声で、香佑は言った。
「なんでか知らないけど、様々な誤解が積み重なって、私、高木慎と結婚したことになってるから。間違ってもあんたの名前なんか出さないから、心配しなくても大丈夫よ」
 じゃあね、と一方的に電話を切って、香佑はそのまま頭を抱えた。もう――いや。なにもかも、いや。
 いっそ、時間を巻き戻したい。結婚する前の段階に。もっとその前の段階に。――吉野のことなんか、知らなかった頃の自分に――
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。