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「わー、昔と全然違う」
 車から降りた香佑は、感嘆の声をあげた。
「町になったんだね、この辺りも。昔はちっちゃなスーパーしかなかったような気がしたけど」
 下宇佐から車で走ること一時間弱。昔もこの辺りでは唯一の繁華街――といってもスーパーがとちょっとした商店街があっただけなのだが――は、今は全国に名を馳せた大型ショッピングセンターになり代わっていた。
「腹減ったな」
 慎が、家を出て初めて口を開いた。
「どっかで飯でも食ってから行くか。とりあえず俺が出すけど、金はお前の取り分から引いとくからな」
「はいはい」
 つまりは奢ってくれるってことなんでしょ? もちろん後で返すつもりだけど、本当に回りくどいったら。
 それでも、こんな風に外に連れて行ってもらえるのは嬉しかった。
 今日が定休日だと気づいた時から、正直言えば、気分はずっと憂鬱だった。一人きりで、どうやって時間を潰そうかと思っていたほどだ。ぼんやりしていると、また匠己のことで頭が一杯になりそうで――それがすごく怖かったから。
「私、ハンバーガーが食べたいな」
「若くもないのにジャンキーなもん食うんだな」
「い、いいじゃない。こっち来てずっと食べてなかったんだから」
 それきり会話もなく、慎はポケットに手をつっこんで歩き出す。
 道中も、慎は殆ど何も喋らなかった。なのに、その沈黙が全く気にならなかったのは何故だろう。むしろ、あれこれ話しかけられるよりは何倍も気が楽だと香佑は思ったし、慎もまた、同じように思っていることが手にとるように判った。相性は最悪だけど、ある意味一緒にいて、一番気楽な相手なのかもしれない。
 フードコートで、二人は簡単な昼食を取った。その頃には香佑も、美郷の言った言葉が誇張ではないことに気がついていた。
 あからさまではないものの、通り過ぎる誰もが、慎をちらっと振り返っているのが判る。
 ――まぁ、確かにいい男なんだよね。
 ボーダーシャツに着古したジーンズ。ノンブランドのどこにでもあるような代物だが、スタイルがいいから、あつらえたように似合っている。
 なにより目立つのは、その顔だ。透明感のある肌に憂いを帯びた黒目がちの瞳。唇は珊瑚のようで、精巧な人形みたいに整った造形をしている。
 東京で、モデルなどを見慣れた香佑ですら唸るほどの美形なのだ。こんな田舎町では、オーラさえ漂って見えるのかもしれない。
「あのさ。……慎さん」
 ダイエットコーラを飲みながら、香佑はようやく切り出していた。
「ごめん。折角連れてきてもらったんだけど、――携帯、いいわ。私」
「なんで」
 水の入ったグラスを置いて、慎が訝しく顔を上げる。
「いや――」どう言っていいか判らないけど。
「私さ、ちょっとばかり借りがあるんだ。東京に住んでる家族に」
「借り?」
「まぁ、言い方あれだけど、平たく言えば借金、みたいな」
 表情は変わらないが、慎の秀麗な眉がわずかに上がる「……で?」
「別に――、そんな深刻な額でもないし、親子間だから、吉野の家に迷惑かけることもないんだけど、それは間違いないんだけど」
 香佑は、言葉を探して言いよどんだ。
「結婚祝いとチャラにするから無理に返さなくていいとは言われてはいるんだけど、……まぁ、そういうわけにもいかないじゃない。最初は何がなんでも携帯欲しかったけど、冷静になって考えると、ちょっと贅沢だったかなって」
「…………」
「そんなお金があるなら、少しずつでも返す方に回さなきゃいけないと思って」
 慎は無言で、グラスの水を一口飲んだ。
「だから、携帯いらないって?」
「まぁ……そんな贅沢してる塲合でもないかなって」
 慎は親指で額の辺りを掻いた。
「お前の親――離婚したんだろ。東京の家族ってお袋さんの話? どっちでもいいけど、携帯電話買うの辛抱してまで金返して欲しいって、親なら普通思わないだろ」
「それはそうなんだけど、私の気持ちの問題だから」
「借金の原因は?」
「…………」
「ブランドものでも買い漁ったのかよ。いかにも見栄っ張りだもんな、お前」
「ま、まぁ、そんなとこよ。見栄っ張りで悪かったわね」
「………」
 そんな理由でもないし、それ以前に私が作った借金でもないんだけど。――まぁ、それだけは絶対に言いたくない。
 香佑が黙っていると、慎が視線を横に向けたままで、溜息をついた。
「まぁ、買えよ。――店の仕事でも必要だし」
「必要ないじゃん」
 そこは少し、冷めた気持ちで即答していた。「私、ずっと家の中にいるし。できて電話番だもん。いらないよ、携帯なんて」
「いずれはいるだろ。客あしらいにも慣れて、営業に出られるようになったら」
 そんな時まで、自分が吉野石材店にいられるとは思えない。
「じゃあ、その時買うよ。どっちにしても今日はいいから」
「なんで」
「だって、今買う必要なんて何もないじゃん」
「いや、今日だ」
 慎はすっくと立ち上がった。「わざわざ来たんだ。なにも先延ばしにする必要はないだろ」
「だーかーら」
 本当にもう――。香佑も急いで立ち上がる。「先立つものがないんだって。そりゃ、こないだ貰ったお金はあるけど、今の私に、そんな気持ちの余裕はないの。判ってよ。お願いだから」
「その代わりに、店の電話で友達と長電話か。そういうのが迷惑だって言ってんだよ」
「こっちから掛けたわけじゃないじゃない! 使わないわよ。店の電話なんて。だいたい、誰にも番号教えてないのに」
「お前、孤独か?」
 慎が呆れた目で振り返った。
「それじゃ、どうやって友達や東京の家族と連絡を取るんだよ。契約切れたんだろ? 昔の友達だって困ってるんじゃないのかよ」
「いや、だから」
 契約が、切れた――?
 香佑は思考を止めていた。
 なんで? こればかりは正真正銘誰にも言っていないことを、なんで慎さんが知ってるの?
 そりゃ、今時の若い女性が一度も携帯を持ったことがないなんて、そっちの方が不自然だから、そのくらいは推測できるだろうけど――でも、なんで今のタイミングで、慎さんがそれを口走るの?
 慎もすぐに、自身の失言に気づいたようだった。大きく溜息をついて、髪に指を差し入れる。
「――だから嫌だって言ったんだよ、俺は」
 どういう意味よ。
 もしかして。
 もしかして、今日の企みは――全部、あいつ?
「吉野に、頼まれたの」
「吉野じゃないだろ」
「どうでもいいわよ。吉野があんたに頼んだの。てか……なんで吉野が、私の携帯の契約が切れたことまで知ってるの」
「俺が知るかよ。掛けてみたら、そんなメッセージでも流れたんじゃねぇの」
 煩そうに慎が答える。
 掛けたって私の番号――まぁ、確かに結婚する前に緊急連絡先として教えたような気もするけど、一度だって掛かってきたことはなかったのに。
「それで、慎さん使って、再契約するように計らってくれたんだ。それはそれは」
 自分は京都でのうのうと昔の彼女と過ごしながら、従業員を使って――、悔しさのあまり、香佑は皮肉な口調になっていた。「あの吉野が……随分えらくなったものね」
「なぁ、何を怒ってるんだ?」
 慎の口調は呆れている。
「お前ら夫婦だろ? 奥さんの携帯電話が使えないようだから、旦那が気を回してくれたんじゃないか。それが、そんなに、目を釣り上げて激怒することなのかよ」
「なんで自分で言わずに、いちいちあんたに頼むのよ」
「知るかよ。本人に直接訊けよ」
 しかも、仕事にかこつけて、回りくどい言い方をして。
 もう知ってるなら、はっきり言えばいいじゃない。金がないんだろって?
「……ほっといてくれたらいいのに」
 そんな同情、いらないのに。
 それは、さぞかし可哀想に思えたのだろう。いまの時代、携帯電話がないこともそうだけど、料金が支払えずに契約解除になったなんて――
「ごめん。帰る」
 香佑は立ち上がっていた。
「おい、どうやって帰るんだよ」
「ヒッチハイク」
「はあ?」
 急いで席を立った慎が、困惑気味に香佑の腕を掴んで止めようとする。香佑は、その腕を振りほどいた。
「離してよ、触らないで!」
「おい、頼むから騒ぐなよ。こんな場所でみっともないだろ」
 元々注目を集めていた慎が、この騒ぎでますます視線を浴びている。
「だったらもうほっといてよ。それから吉野に言っといて。今後、金輪際あんたの援助はいらないって」
「あのなぁ」
 ふと、そう言いかけた慎の言葉がそこで途切れた。
 香佑の腕を掴んだ状態で、慎は棒みたいに立ったまま動かない。嫌に静かな反応だ。
 ――慎さん……?
 ぼんやりとした慎の目が、香佑の背後に向けられていると気づいたのはその時だった。
 
 
「……慎君?」
 香佑の背後から、若い女の声がした。
 その方よりも、香佑は慎の表情の変化から目が離せなかった。こうも動揺した慎を見たのは初めてだ。
 まるで、いきなり平手打ちでもくらった人みたいな、無防備な驚きと困惑を隠そうともしていない。
「慎、お前――」
 今度は男の人の声がした。
「仕事はどうした。一体こんな昼間に何やってんだ」
 香佑は、咄嗟に慎から離れ、彼の背後に回っている。
 スーツ姿の男の人が、大股で歩み寄ってくる。背が高い美丈夫だ。骨太の体格で、慎より随分線が太いが、目鼻立ちがよく似ている。
 態度からして、まず、兄とみて間違いなかった。ひどく怒った目をしている。その目が、怒ったまま香佑を見たから、香佑は居心地悪く視線を下げた。なに、この展開。
 男の背後から、少し慌てたように、華奢な女の人が早足に追ってくる。瞳が大きく、潤んだようにしっとりと濡れている。香佑の経験則から言うと、男をメロメロにさせるタイプの女だ。
「定休日なんだ」
 その時には、慎の口調はほぼ平常を取り戻していた。「買い物に来てるだけだよ」
「じゃ、まだ、あの石屋で働いてるのか」
 男の声は、呆れている。呆れている――というか、言い方は悪いが絶望しているようにも聞こえる。
 品のいいビジネススーツに、決して安くはないイタリアブランドのシューズ。服のセンスは高い方だ。髪は艶々と撫で付けられ、眼光は鷹のように鋭い。
 浅黒い端正な顔だちは、慎を男にしたらこんな風になると――そっか、元々慎さんは男だった。
「慎……、話があってきたんだ」
「聞いてるよ」
 慎は片手を、軽く上げた。「昨日、ナナミのお袋さんから電話があった。結婚するんだって?」
 その刹那、男の顔色がわずかに強張り、背後の女性が視線を下げたから、――そのどこか気まずい空気で、香佑は漠然と察してしまった。
 これは――もしかして。
 兄弟で一人の女を奪い合った挙句、慎さんが負けちゃった……ってことなんだろう。
 しまった。とんでもない場面に居合わせてしまった。これは、自分もそうだが、高木慎にとっても、相当気まずいに違いない。
「その話じゃない。お前の、これからのことだ。慎」
 香佑はそろそろっと後退し、不自然にならないように立ち去ろうとした。その腕を、いきなり慎に掴まれる。
 初めて、男と女――両方の視線が、香佑に向けられた。
「そちらの方は?」
「判るだろ。定休日に二人で出かける間柄の女だよ」
 即答で慎は答えた。ぎょっとしたのは香佑だけで、慎の横顔は大真面目だ。
「まだ知りあって間もないから、親父には言わないでくれるかな。余計な気を回されたくないし」
 おいおいおいおい……。
 人には、店の信用を落とすなとかなんとか偉そうに言ってるくせに、自分は一体……
 なんとなく、ここで見栄をはりたい――自分では少し役不足な気もするけれど――ひとまず、相手は誰でもいいから強がらずにはいられない慎の気持ちはよく判る。
 わかるけど――言ってることとやってることが違いすぎではないですか?
「……慎……、お前もう、二十八だぞ」
 男が疲れたような溜息を吐いた。
「子供じゃないんだ。意地を張るのもいい加減にしないか」
 ここで、紹介さえ求められない香佑は、つまるところ、彼のお眼鏡には叶わなかった、ということなのだろう。
 それだけでも、どこか傲慢な、嫌な感じを受けはしたが、察するところ失恋の傷心に耐えられずに家を飛び出した慎さんを捕まえて、あんたがそれ言っちゃう? という感じだ。
「こんな田舎で、いつまで先のない仕事を続けていくつもりなんだ。――なぁ、これはお前の嫌がらせか? 頼むから、俺をこれ以上苦しめないでくれ」
 しかも、被害者は自分ですか。
 それは――いくらなんでもないでしょうに!
 なんとなく、今は世界の失恋者全ての代表のような気持ちの香佑だった。
「うちは優良企業ですよ」
 香佑は咄嗟に口をはさんでいた。
「なんだ? お前」
 男がむっとしたように香佑を睨む。さすがは高木慎の兄と思しき男。傲慢で、人を見下すことに慣れきった、底冷えするほど怖い双眸だ。少しだけ怯んだが、構わずに香佑は前に歩みでた。
「この人の恋人ですけど、何か?」
 そう、ここでの香佑の敵は、目の前の男ではない。
 他人の恋心をずたずたにしておきながら(全て推測)、のうのうとしている全ての男――いや、吉野匠己その人だと言ってもよかった。
「うちは石屋ですけど、主に墓石を作っています。あのですね――とても、意味のある仕事です。先が見えない? いいえ、見えすぎて怖いくらいですよ。だって、誰でもいつか死ぬんですから」
 言っている意味は、正直、自分でもよく判らないけど。
「つまるところ、日本で言えば総人口――、現在生きている人が全てうちのターゲットです。不死の薬でも発明されない限り、まず食いっぱぐれはありません。それが、うちがやっている仕事です。ビジネスをはじめるなら、これからは墓ですよ。高木さん」
 なかなかいい感じに話をつないでいる。香佑は自信満々に微笑んでみた。
「慎さんは、自分のあらゆる可能性の中から、あえてこの職業を選んだんです。私、慎さんのそういう――」
 無神経で、異常なくらい割り切りがよくて、人が死んだらすぐ電卓叩くような。
 いや、違う違う。
「そ、そういう、先見の明があるところに惹かれたんです。ねっ、慎さん」
「………………」
 が、慎は半ば口を開き、ただ唖然と香佑を見ているだけだった。
 お、おーい。
 そこで同意してくれなきゃ、私の立場がないじゃない。
「……慎……お前」
 同じように唖然としていた、男が低く呟いた。
「女の趣味が悪くなったな」
「自分でもそう思うよ」
 否定しろよ、高木慎!
 そこで、即答はないでしょうに……。
「兄さんだ」
 そして、今さら紹介しなくても。
「じゃ、行くよ。せっかく来てもらったのに悪いけど、話すことは何もない」
 香佑の肩を抱き寄せるようにして、慎は言った。
「頼むから、いちいち俺を気にしないでくれ。――俺は好きにやってるだけだ。今の俺の生活に、兄さんもナナミも関係ないよ」
 
 
 フードコートを出て、フロアの角を曲がった途端、二人は、互いに突き放すように離れていた。
「あ、謝りなさいよ」
「知るか。誰があんな余計なこと言えって頼んだよ」
 う……、と香佑は詰まっている。それは、確かにそうだったかもしれない。
「でも――あれは、あんたが最初に」
「俺が一体何言ったよ? 社長夫人と従業員が、定休日に揃って買い物に出たって話をしただけだろうが」
 噛み付くように慎は言った。反論しようとした香佑は、ようやくその言葉の意味に気づいていた。そういえは――そうだった。
(判るだろ。定休日に二人で出かける間柄の女だよ)
(まだ知りあって間もないから、親父には言わないでくれるかな。余計な気を回されたくないし)
 ある意味慎は、ひとつも嘘を言っていない。
 な……なんて狡猾で、知能的な。
 あの状況で、よくもまぁ、そんな冷静なトラップが仕掛けられるものだ。
「それが俺の恋人だと? どうしてそんな、見え透いた嘘を平気でつくよ。昭和のドラマか新喜劇か。こっ恥ずかしいにもほどがある。俺はあの人たちと自分の間に線を引いて、あの人たちがそれを察してくれたらよかったんだ。それを――余計な嘘で、台無しにしやがって」
 慎は香佑をひと睨みして、くるっと背を向けて歩き出した。香佑は、慌ててその後を追う。
「ちょっ、そんな言い方しなくてもいいじゃない」
「ああ、ああ、恥ずかしいほど嘘くせぇ。お前がもっと俺に釣り合う女だったら、まだ少しは信憑性があったのによ」
 ほんっとうに、失礼な男だ。
 でも、反論するのはやめておいた。そう言って歩いている高木慎の横顔が、すごく寂しそうに見えたからだ。
 まるで無理に怒っているみたいだ。まるで――吉野家に来たばかりの自分みたいに。
「……誰よ。あの人」
「兄貴。どこから見ても兄弟だって、よく言われるけど」
「そっちじゃなくて、女の方」
「元妻」
「――?」
 一瞬、言葉の意味が判らなかった。モトツマ?
「俺の奥さん。三年くらい前に離婚した」
「……………」
 え………?
「今は兄貴の婚約者――すごいだろ。あるようでなかなかないよな。現実には」
「………………」
「ちなみに離婚の原因は俺の浮気。相手は当時の兄貴の奥さん」
 香佑は、言葉も出なかった。冗談――本気?
「だから、俺が一方的にお気の毒ってわけでもないんだ。お前が何を想像したか手に取るように判ったけど、そんな勝手な想像で、いかにも同情するような庇われ方をされるのは迷惑だ」
 慎は吐き捨てるように言って、ボケットに手をつっこんで歩き出した。
「携帯の話はもう知らない。文句があるなら匠己に言え。もう二度と、お前ら夫婦のごたごたには手ぇ貸さないからな。――勝手にしろ」

 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。