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 夕方――洗濯物を取り込もうと裏庭に出てみると、丁度美桜が逆の方角からこっちに歩いてくるところだった。
 あ、いたんだ。
 香佑は少し驚いていた。午後からずっと家の中にいなかったから、てっきり帰ったものだと思っていたのだ。
 宮間や慎に訊いても知らない風だったので、今夜は、香佑が夕食を作ろうと思っていた。そういう意味では、少しだけ張り切っていたのだが――
 美桜はうつむいて、しきりに「しっ、しっ」と言っているようだった。その美桜の数メートル先を、茶色の猫が逃げるように駆けている。
 ――ああ、猫……。
 この辺りはやたら野良猫が多いみたいで、香佑も掃除の度に往生した。台所の窓や玄関も、うっかり開け放しておくと、猫が入り込んでくるくらいだ。
 猫を追い払うと、美桜はいかにも不機嫌そうな顔をあげた。その視線は、多分香佑をとっくに捉えている。
「洗濯物、……私が、取り込んどこうか?」
 そのまま無視して戻ろうとも思ったが、一応、声を掛けてみた。干された洗濯物の中には、香佑のものも混じっている。
「いいです。手を出さないでください」
 案の定、恐ろしい毒を含んだ声が返された。どうやら機嫌は、朝よりさらに最悪らしい。
「どこにいたの?」
 それでも、辛抱して香佑は聞いた。この店に居候させてもらっている限りは、この子とも上手くやっていきたい。だいたい、美桜が香佑を嫌う理由は、想像するに誤解、なのだ。
 美桜が匠己のことを好きでも。
 そうではなく、涼子と匠己を純粋に応援したいと思っていたとしても。
 香佑は、その、ライバルですらないのである。いっそ、この偽装婚の何もかもぶちまけてしまいたいくらいだ。
 美桜が無言で洗濯物を取り込み始めたので、後ろに立ったまま、香佑は言った。
「さっきさ。佐久間さんって人から珍しいお菓子もらったんだ。知ってる? 毎年大勢でお墓参りに来るとかいう――。お菓子、台所に置いてあるから、後で食べなよ」
 それを一切無視して、美桜は最初の質問に答えた。
「匠己君の仕事場にいたんです。あそこも、たまには掃除しなきゃだから」
「あ……、そう」
 当の本人が勝手に入るなとか言ってたような気がしたけど。
「寄ってくる猫も多くて、絶対匠己君が餌やってんだわ。今度慎さんに言って叱ってもらわなきゃ」
 それは、愚痴のような独り言だった。
「ロフトには布団もあるし、夏は沢山汗をかくから、まめにシーツ換えて干してあげないといけないんです。そういうこと、何も聞いてないですか」
「…………」
 もちろん、何も聞いていない。というより、あんな場所に布団なんかあったっけ。ロフトっていうなら、上の方にそんなスペースでもあるんだろうけど。
「じゃ、よ――社長は、あそこで寝泊まりしてるんだ」
「ええ」
 こちらを向かないまま、美桜は頷いた。
「以前、涼子さんがうちに住んでた頃、そんな風にしたって聞いてますけど。行かれたら判りますけど、結構広い寝床ですよ」
「へぇ……」
 そりゃ、二人用ならね。
 広くもなるでしょうよ。だからそれが、なんだって言うのよ。
 まるでフラッシュバックみたいに、あの雨の夜、一度だけ見た匠己の裸体が頭をよぎる。
 あの逞しい腕で、無骨だけど繊細に動く優しい指で、彼は涼子さんを抱いたのだ。あの、外界から閉ざされた、隠れ家みたいな部屋の中で。
 互いに恋しあう二人にとって、それはどれだけ幸福な時間だったろうか。
 ひどく動揺する自分に、香佑はうろたえて歩き出した。
 ここで自分が嫉妬する筋合いでないことは、心の底からよく判っている。香佑にしたって、半年前までは別の男と暮らしていた。今にして思えば、一年くらい前から関係は破綻していたけれど――それでも、一時期は夫婦みたいに濃密な日々を過ごしていた。もちろん、数えきれないほどセックスもした。
 男がそんな時、普段とはまるで別の顔を見せることを香佑は知っている。
 香佑には想像もできないその時の匠己の顔を、涼子だけは知っているのだ。そして涼子の顔も、匠己だけが知っている――
 足元が崩れそうなくらい打ちのめされたにも関わらず、香佑は毅然とした足取りで家の中に戻り、軍手と麦わら帽子を持って畑に向かった。
「女将さん、また畑ですか?」
 ガレージで、戻ってきたばかりの宮間と鉢合わせになる。
「うん。涼しくなったから、また草引きに行ってくるわ」
 なんで、今になって再会したんだろう。
 もう、色んなことが取り返しのつかない今になって。どうして。
(石の声って、聞いたことあるか?)
 あの頃に戻りたいって――そんなの、死んだって思いたくなかったのに。
「わー、この大根の葉っぱのツヤツヤしてること」
 畑につくと、香佑はしゃがみこんで大根の葉についた泥を払った。
 ここで畑仕事をしていると、自分もこの家にいていいんだと、少しだけそう思える。
 とりあえず、ここだけは私の居場所だ。
 他には何もないけれど、ここだけは――。
「……もう帰ってくるな。あのバカ男」
 汗だか涙だからわからないものを袖で拭って、香佑は新しく生え始めた雑草を引きぬいた。
 
 
 電話だと宮間に呼ばれたのは、そろそろ夕食でも食べようかな、と思っていた時だった。
 部屋で、墓石の素材リストを眺めていた香佑は、少し驚いて半身を起こした。
「誰? うちのお父さんから?」
「いや、……お友だちって言ってたかな。出たの慎さんだから、よくわかんないけど」
 友達?
 漠然と嫌な予感がして、胃が嫌な感じに冷たくなるのが判った。
「男……?」
 まさかと思うが、取り立て屋だろうか。
 そんな風にして、前にも友人の家に掛けてこられた経緯がある。一体どこで調べたのか――もちろん、借金を返済した今では、そんなことはないと判っているのに。
「いや、女ですよ。なんすか、女将さん、友と言われてすぐ男と出てくる辺り――ヤバイっすよ」
 宮間は冗談めかして笑ったが、香佑はますます笑いたい気分ではなくなった。
 この塲合、男でも女でも一緒である。
 なにしろ、香佑がこの家にいること、つまり吉野と結婚したことは、友人の誰にも打ち明けていないからだ。
 唯一うっかり話してしまったのは、たまたま結婚式の当日電話をかけてきた柳美郷――幼馴染で唯一時々連絡を取り合っていた友人だけだ。
 上宇佐時代の何もかもを忘れたかった香佑は、当時の友人たちとは意識的に交流を断っていた。美郷がその例外だったのは、彼女が一番の親友だったのと、美郷自身が香佑とほぼ時を同じくして中学卒業時に上宇佐を出たからだ。
 それでも、結婚相手の名を打ち明けなかったのは、当たり前だが恥ずかしかったのと、香佑の実家――嶋木家が、今回の結婚がおおっぴらになることを望まなかったという事情がある。
 その辺りはあまり考えないようにしていたが、父の再婚相手、いく子の実家の意向もあったに違いない。なにしろ香佑は、彼らに蛇蝎のように嫌われていたあばずれ女の娘なのだ。
 とうの昔に縁を切った女の娘が、ひょっこり戻ってきただけでも彼らには迷惑だったろうに、それを嶋木の名で嫁に出したのだから――結婚式の親族が父一人だったのも頷ける。
 そんなわけだったから、もちろん、ここの電話番号はおろか、嫁ぎ先が吉野石材店ということさえ美郷には言っていない。
 しかし、にも関わらず、こちらに電話がかかってきたということは――
「香佑〜〜」
 案の定、その声は美郷で、テンションが最初から高かった。
 香佑はすでに頭を抱えたくなっている。
「もうっ、もうもうっ、もうっ、このーーーっっっ」
「あ、あのね、ミサミサ」
 どこで聞いた?
 とはいえ、狭い田舎町だ。昨年定年退職して上宇佐に戻った美郷の両親あたりが、どこかで噂でも聴きこんできたに違いない。美郷自体は、今広島で別の家庭を持っている。
「もーっっうっ、びっくりしたよ。さっき香佑の実家に電話してみたら、今は下宇佐の吉野石材店さんでお世話になってますって――はっきり言われなかったけど、つまりそこが香佑の結婚相手がいるところでしょ?」
 そんな言い方をするのはいく子さんだろう。
 香佑は微かに溜息をついた。
「さすがは香佑、すごいよ、マジで。一体誰と結婚したのかと思ってたら――まさかのまさか」
「いや、だから」
「噂の超イケメン店員さんでしょ。うちの実家あたりまで、ちょっとした噂になってるよ。墓屋の吉野のところに、目茶苦茶イケメンのかっこいい営業がいるって。やっぱりそれ、吉野匠己の紹介か何か?」
 ―――へ………?
 誰の話だよ。それ。
「うちのオカンに聞いたんだけど、半分冗談で見学ツアーまで組まれたくらいの、滅多に見られないイケメンなんだって。えーっと、なんて名前だったかなぁ。さっきは出てきたんだけど、……」
 香佑は、ちらっと背後を振り返っている。
 まさかと思うけど、高木慎?
 固定電話があるのはダイニング兼台所で、今も香佑の背後では、仕事を終えた慎と宮間が8人掛けのテーブルでお茶を飲んでいるし、美桜はシンクで洗い物をしている。
「あ、そうだ。高木さん? ズバリ、その人が香佑の結婚相手なんでしょ?」
 やっぱり……。
「その人、時々上宇佐の辺りにまで営業にきてるみたいだけど、オカンの話じゃ、あの辺りのオババたちに大人気らしいよ。爽やかで優しい、絵に描いたような好青年なんだって?」
 ああ、営業。高木慎の裏の顔ね。いっとくけど、そっちが間違いなく裏だから。
「うちの孫と見合いを――みたいな話もひっきりなしだって聞いたけど、もう決まった相手がいるからって本人が、いやー、それが香佑のことだったんだ」
「いや……、ミサミサ」
 普通、吉野石材店にお世話になってるって聞いたら、まずはそこの店主と結婚したって思わない?
「正直言えば今年の同窓会? 吉野が来てたらとっつかまえて、その店員情報聞き出そうと思ってたんだけど必要なくなったわ。まさか、上宇佐で噂のアイドルを、すでに香佑がゲットしてたとはね!」
「…………」
 神様。この誤解を、どうすればいいのでしょうか。
「いや、ミサミサ」
「香佑が吉野石材店にいるって聞いて、びっくりしたけど、そういうことなんでしょ? だって吉野はクビナガ竜と結婚したし、今さら香佑とって、あり得ないじゃん」
 クビナガリュウ――
「……片桐さんの、こと?」
「そんな名前だったっけ? もう何年も前だけど、うちのオカンが、吉野母に聞いた話だから確かだと思うよ。って、あんたの方が今じゃよく知ってんでしょ? あの幽霊コンビが結婚したんだって、受ける〜」
「……………」
 なんだろう、その言い方。
「……なんの用? ごめん、ちょっと今、忙しくて」
「あ、ごめんごめん、さっきも、えらい不機嫌そうな人が出てきたけど、石材店の店員さん? あんたも苦労するねぇ。なんだって新婚早々、そんなとこで同居してんのよ」
 その人が、今、ミサミサの絶賛してたイケメン店員なんですよ。
 実際、顔だけは確かに神がかり的に素敵ですけど、中身は最悪の男なんです。
「あのね。同窓会の連絡なのよ」
 美郷は、ようやく本題を切り出した。
「同窓会?」
 ――また? と、一瞬思ったが、すぐにああ、と思い出した。宇佐田中学の同窓会だ。嶋木の家に居た頃に、案内のハガキが届いた。美郷には言っていないが、香佑は欠席で返信を出している。
「香佑と何年ぶりかで会えるから楽しみにしてたんだけど、流れちゃったじゃない? でね、二組の連中が独自に集まろうって計画してるんだって。吉野の家にいるなら聞いてると思うけど」
 二組――三年の時の匠己のクラスだ。
 あまり記憶にないが、もしかして片桐涼子も二組だったのだろうか。
「それで、お誘いなんだけど、他の組でも、来られそうな人は来て欲しいんだってさ。さっきうちのクラスの幹事から電話があって、香佑にもぜひ来て欲しいって」
「いや……」
 香佑は少し迷ってから、言った。
 どうせ匠己は行かないだろう。そういった行事には昔からとんと興味のない奴だったから。
「ごめん。無理そう。ちょっと……そういうの、許してくれそうもない人なんだ」
「だんなさん?」
 美郷の声がわずかに陰る。「もしかして、超束縛するタイプ?」
「う、うん……まぁ、そんな感じだと思ってくれれば」
「わかる!」
 美郷は大袈裟に同意してくれた。「うちも結婚したばっかの時はそうだったもん。女友達と遊びに行くだけでカンカンよ。同窓会なんて、男にしてみれば、浮気しに行くに等しいみたいだしね」
「ほんと、嫉妬深くて」
 香佑は適当に相槌を打った。
「やーもうーー愛されてるわぁ。うち、結婚して五年も経つからね。そういう愛され方が、今はむしろ羨ましい、みたいな?」
「まぁ、そんな感じで」
「でも、残念すぎるわー、それ。だってもう五年近く会ってないんだよ。私が東京に遊びに行った時以来じゃん。ねぇ、なんとかならない? なんだったら私が、香佑のとこまで会いに行くから」
「いや……もう、なんていうの」
 ごめん。ミサミサ。
 ただ吉野と結婚したってだけなら、ここまで嘘をつく必要もないんだけど、それがまるで実態のない結婚で――そういうの、今は、口に出して説明するのも苦痛なんだ。
「むしろ、ミサミサに迷惑がかかるから」
「まさか、暴力、的な?」
 言葉という意味では、それ正解。
「うん、まぁ、――とにかく疑り深い人なのよ。それも愛っちゃあ愛だけどね。携帯買ったら絶対こっちから連絡するし。その時詳しい話もするから」
 この家を無事に出たら、真っ先に経緯を説明するから。
 受話器を置いた香佑は、ほっとして振り返った。
「おい――」
 テーブルに座っているのは、今は高木慎一人になっていた。美桜の姿もどこにもない。香佑はぎょっとして立ちすくんでいる。
「まさかと思うが、俺の営業努力を、お前――今、適当な言い訳で台無しにしたんじゃないだろうな」
 冷えた怒りを含んだ目に、香佑はもう声も出ない。
「な、なんの話よ」
「誤解、解かなかっただろ」
「…………」
「高木さんと結婚された嶋木さんって、おい、今度はどこの何者の話だよ。俺がいつ、お前みたいな女と結婚したよ。しかも嫉妬深くて疑り深いだ?」
 いや、それは――
 てか、なんで今の電話を聞いただけで、そこまで推測できちゃうわけ?
 私、かなり言葉を選んだはずなんだけど……。
「め、面倒だったのよ」
 香佑は開き直って言って、冷蔵庫を開けた。今夜は何を作ろうか。残り物で夕食作るのもたいがい飽きた。
「面倒だと?――おい、お前、その理由で、一体どんだけ店の信用損なわせる気だよ」
 ――ああ、しつこい。
 香佑は冷蔵庫を締めて振り返った。
「悪かったわよ。誤解はすぐに解いておくからもう許してよ。独身のあんたが結婚して、しかも嫉妬深くて疑り深くて、新婚の妻に暴力振るうような男だって知れたら、上宇佐のオバサンたちもさすがにがっかりするだろうからね」
「は、はい? 暴力?」
 しまった。余計なことまで言ってしまった。
 それには、慎はさすがに唖然としているようだった。
「お前……言うに事欠いて……」
「だから悪かったって。明日にもミサミサには電話して謝るから」
 だから今は、もう放っておいてよ。
「今しろよ」
「明日するから」
「今だ。こんな不名誉な話が、今夜にでもその子の親に伝わったらどうすんだ」
「もう――だから明日。こんなのいちいち親に話すわけないじゃない」
「そんな保証がどこにあんだ」
 慎は苛立ったように立ち上がった。「お前、田舎の噂の恐ろしさを知らないだろ。今すぐ電話してお前の口からはっきり言え。そもそもお前が結婚したのは、うちの匠己だろうが」
「ああ――もうっ」
 香佑もまた、話が通じない苛立ちで頭を掻いた。
 もちろんそれは、自分の言葉不足であることも承知している。が、正直、どこまで高木慎に打ち明けていいものか、香佑にはさっぱり判らないのだ。
「明日するから」
「今だ」
「明日!」
 むっとした慎が、自ら電話の方に向かって歩いて行く。その意図を察した香佑は、慌てて彼の腕を掴んでいた。
 慎が、少し驚いたように振り返る。
「知ってるから。田舎の噂が怖いのはよく知ってる」
 うちの母親が、それで随分ひどい目にあったから。
「……ほんと、悪かった。……でも今夜は……勘弁して」
 なんかもう――惨めで情けなくて、考えるのも口にするのも辛いから。
 明日になれば――いつもみたいに慌ただしい朝が来れば、少しは気持ちも前向きになる。いつもみたいに葱を沢山入れた味噌汁作って、高木慎と喧嘩して、そして畑に行って仕事をしてれば。
 もっと、前向きに考えられるから。
「……泣くほどのことかよ」
 腕が振りほどかれ、慎が背を向けてテーブルの方に戻っていく。
 香佑は少しだけ流れた涙を手の甲でこすった。
「あんたが脅すからよ。こう見えて毎日びくびくしながら暮らしてんだから」
「笑わせるな」
 言葉は冷たかったが、不思議と毒の感じられない口調だった。
 香佑は、もう一度涙を拭ってから、再び冷蔵庫に向き直った。
「……お風呂、さっさと使っちゃってよ。私がいつも最後なんだから」
「今竜さんが使ってるよ。明日は定休日だから、俺ら、朝には一度帰るけど」
「うん……ありがと。でももうそろそろ、一人にも慣れたから」
 慎はしばらく黙っていたようだが、やがて微かに息をついて立ち上がった。
 香佑もまた、一人になって、溜息をついてしゃがみこんでいる。
 最低なところを最低な奴に見られてしまった。
 本当に自分が嫌になる。こんなに……弱いつもりはなかったのに。
 
 
 部屋の扉が控えめに叩かれたのは、夜も十一時を回った頃だった。
 寝そべって墓のパンフレットを眺めていた香佑は、眉を寄せて立ち上がった。誰だろう、こんな時間に。――って、候補は三人しかいないんだけど。
 扉を開けると、暗い廊下に、慎が背を向けて立っている。
「なによ、こんな時間に」
「お前、明日、時間いいか」
「は? なんの時間よ」
 香佑は、やや警戒して訊いている。明日、この店は定休日である。
 背を向けたままの慎は、少し苛立ったような口調で言った。
「時間っつったら時間だよ。昼前には迎えに寄るから、免許証だけ用意して待ってろ」
「はあ?」
 だから、一体なんの話よ。
 やはり背を向けたまま、慎は携帯電話を持ち上げた。
「機種変だ。俺がな。ついでに連れてってやろうって言ってんだ。お前、まだ携帯の契約してないだろ」
 ――それは……
「店員の緊急連絡先が判らないと、こっちが困るんだ。言っとくけど、ついでだからな」
「…………」
「これ以上、店の電話で長電話されるのも迷惑だしな」
 香佑が何か言おうとした時には、すでに慎は歩み去っていた。
 香佑は呆れて嘆息しながら、扉を締めた。
 ほんと、素直じゃないんだから。
 まぁ――そういう不器用な優しさを見せてくれるところは、ちょっと好きになったんだけどね。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。