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「宅急便でーす」
午後――丁度、畑から戻ってきたばかり所だった。玄関前で背後からいきなり声を掛けられた香佑は、「あ、はいはい」と慌てて軍手を脱いで、声の方に向き直った。
「吉野さん? じゃ、サインお願いします」
横縞模様の制服を来た宅急便のお兄さんが、小包の上の紙面を指さしている。
匠己宛だ。株式会社みまもる会?……なんだろ、へんな名前の会社が多いな。この辺り。
とりあえず、匠己宛の郵便は、全て高木慎に渡す約束になっている。香佑は、小包を持ったまま、その慎の姿を探した。家にも店にも姿が見えない。おかしいな――と思って、裏手に回った時だった。
「いや、……聞いてはないですけど。……ええ」
いつになく深刻な声に、香佑は少し驚いて足を止めた。
――慎さん……?
店舗横の機材の横だ。影が地面に濃く焼き付いている。
そろそろと歩み寄ると、壁に背を預けた高木慎が、携帯を耳に当てていた。
なんだか妙な雰囲気だ。やや上向き加減のその横顔は、深刻というより――ぼんやりとしているようにも見える。
「いや……僕に今さら……、すみません。それはもう、お気持ちだけで」
なんだろう。
香佑は、少し急ぎ足で、でも気配を悟られないようにして再び玄関まで戻った。
仕事のことかもしれないけど、あまりいい電話じゃなさそうだ。
わざわざ裏に回って話すってことは、あまり人に聞かれたくないってことだろうし――
とりあえず小包は玄関の目立つ場所に置き、香佑は縁側に座って麦わら帽子を脱いだ。首にかけていたタオルで、顔の汗を拭う。暑い――でも、身体を動かすって気持ちがいい。
匠己がこの家から消えて以来、心はずっと凪いでいる。
片桐涼子が現れた日――香佑の目の前から、まるでかっさらうように匠己を連れ去ってしまった日。あの日は、さすがに落ち込んだ。今の何もかもが夢であればいいとさえ思った。
こんな家にくるんじゃなかった。間違っても初恋の相手と結婚なんてするんじゃなかった。
高木慎に冷たくされても、横山美桜に無視されても、宮間信由に苦手に思われ、ついでに加納竜二が元ヤクザでも、――もう一度、あんな男を好きになることに比べたら、何倍もマシだった。
また、引き戻されたのだ。想っても想っても、報われないどころか、受け止めてさえもらえなかった片思い時代に。
諦めようと思う度に、無意味な偶然に引き寄せられて、そしてますます好きになる。ちょっとしたことで喜んで、舞い上がって期待して――そしてどん底に突き落とされる。苦しくて切なくて、思い通りにならない想いに胸がかきむしられるような――また、あんな日々が始まるのだ。
東京で、初めて匠己のいない生活を体験した時、正直、どんなにほっとしたか。
もう、どこを探してもいない。顔を見ることも、不幸な偶然に引き寄せられるもこともない。5年に渡る片思いからの脱却。――それは、未練さえ断ち切ってしまえば、とてつもない開放感だったのだ。
今も、それは同じだった。
匠己がいない毎日は、拍子抜けするほどフラットだ。そうだ。あいつさえ私の前をうろうろしなければ、ここも結構心地いい場所かもしれない――
「あのー」
前から、不意におどおどとした声がかけられた。
タオルで首のあたりを拭いながら、長靴の泥を落としていた香佑は、ん? と顔を上げる。
立っていたのは、初めて見る顔の男性だった。
「すみません。えっと、吉野石材店の方ですよね。今年も同窓会のお願いにこさせていただいたのですが――」
「はい? 同窓会ですか?」
タオルを首から外した香佑は、きょとんと瞬きをした。
もしかして、従業員誰かの同級生だろうか。それとも先生?
見た感じ、立っている男は四十半ばくらいで、年齢でいえば加納さんだ。が、どう見ても加納には似つかわしくない、凡庸なサラリーマンタイプ。
「えっと……誰に御用でしょうか。うちには今、四人の従業員がいるんですが」
「あ、いやー、……あれ?」
男は、困惑したように後頭部に手を当てる。
目尻と眉が極端に垂れた、いかにも優しげな人だ。ノンブランドのポロシャツにくたびれたチノパン。ポケットからはみ出しているハンカチは、子供向けアニメのキャラクターだ。
「もしかして、去年までおられた人とは違うんですかね。すみません、去年も女の人に挨拶した記憶があったから」
――涼子さんのことだな。もしかしなくても。
香佑は少しばかり嫌な気になったが、愛想よく笑ってみせた。
「すみません。私、先週ここに来たばかりで、まだお客様のことがよく判っていないんですよ。少なくとも去年対応した者とは違うと思うんですが」
「あ、じゃあ、新しい従業員さんですか」
――ま、そう言われれば、その通りだな。
香佑は少し迷ったが、その誤解に乗っかることにした。
「ええ。嶋木と言います。申し訳ありません。あいにく店の者は皆、社用で外に出ておりまして――」
加納と宮間は墓の設営に行ってしまったし、慎さんはなにやら深刻な電話中だ。
が、家の中にはあと一人、従業員といっていい女性が残っている。
横山美桜だ。
しかし、美桜は、こういった対応にはまるで無関心というか、――まだ15歳だから仕方がないが、少しばかり人見知りのきらいがあるようなのだ。
それに、今は、正直、声をかけづらい。
元々、好意を持たれていなかったのは知っていたが、匠己が京都に行って以来、美桜はますます香佑に対して頑なになって、今では目もあわせてくれないほどなのである。
「そうですかぁ。じゃあ、どう説明したらいいかなぁ」
「あの、同窓会のお誘いに来られたんじゃないんですか?」
香佑がそう言うと、男は少し困ったように首のあたりを手で拭った。
外はカンカン照りで、香佑の額にも、早くも薄い汗が浮かんでいる。
「あのですね。――どう説明したらいいのかな。簡単に言えば、今年も、こちらで同窓会をさせていただきたいんですよ」
「はぁ」
こちらで、というと、もしかしなくてもこの家で。
「それで例年どおり、事前にご挨拶にお伺いさせていただいたんです。えっとですね。とりあえず――これを、皆さんで」
差し出されたのは、デパートの紙袋で、中には菓子折りが入っているようだった。
よく判らないけど、これは受け取っていいものだろうか。どうしよう。――下手な対応して時間を取らせる前に、慎さんにヘルプを求めるべきか。もう、電話が終わっていればいいけど。
「サクマさん?」
その時、天の助けのような高木慎の声がした。
ガレージの方から、慎が驚いたような顔で駆け寄ってくる。ぱっと、サクマと呼ばれた男の顔が明るくなった。
「高木さん? お久しぶりです。今年もまた、来ちゃいましたよ」
「いやー、お元気そうでなによりです。立ち話もなんですから、どうぞ、中でお茶でも飲んでってください」
本当に――
いつも思うことだが、この高木慎の営業能力の高さときたら。
間違いなく、この店の屋台骨はこの男が支えている。普段の毒舌と冷淡までの態度はどこへやら、いざ客となると、人が変わったように快活で優しい男に変身するのだ。
「いえ、それはもうお気持ちだけで。車に家族を待たせてるんで、ご挨拶だけしたらお暇します」
へりくだって頭を下げるサクマは、ひどく人のいい笑顔を浮かべて香佑を見た。
「そちらも、商売繁盛のようで何よりです。新しい従業員さんを雇われたんですね」
「え?」
慎が、一瞬眉を険しくさせて香佑を見た。
うわ、と香佑は内心冷や汗をかいている。
「嶋木さん、でしたよね。これから長いつきあいになると思いますが、どうか、よろしくお願いします」
何度も頭を下げて、サクマが去っていく。
「今の人は……?」
紙袋を慎に差し出しながら、おそるおそる香佑は訊いた。
「毎年、墓参りに来る団体の幹事さんだ。従業員って?」
袋を受け取った慎は、香佑と目も合わそうとしない。
「……まぁ、説明するのも面倒だなって思ったから、つい」
「嫁、妻、長くても二文字じゃないのか? それから嶋木ってのは、どこに住んでる誰の名前だ」
「…………」
「お前――本当に追い出すぞ!」
ひっと、香佑は首をすくめて後ずさっている。
相変わらず、この人の怒りどころだけは掴みにくい。社長のことは呼び捨てにし、その妻のことは、お前とかあんたとかおいとか、思いっきり見下した呼び方しかしないくせに――
しかし慎は、息をひとつ吐くと、紙袋を再び香佑に手渡した。
「客にまで適当なことを言うな。うちの信用に関わるじゃないか」
「……ごめんなさい」
「いいよもう。……怒るのも疲れた」
でも、ちょっとこんな時は、高木慎をいい奴かもと思ってしまう。こんな時――香佑が萎れて下手に出ると、彼はたちまちトーンダウンして、怒りの矛先を引っ込めてくれるのだ。
逆に言い返すと、その口論は、宮間と加納が止めに入るまでヒートアップする。香佑も引かないが、慎も絶対に引こうとしない。が、その口論の最中にあっても、少しだけ香佑が反省の色を見せると、慎も同じように言い過ぎたことを反省してくれるのだ。
そう――まるで、自分の写し鏡を見ているようだ。
もちろん相性は最悪だろう。男女としても、人間としても。
「わっ、この店の焼き菓子、すごく美味しいんだよね。三時のおやつに食べようよ」
「子供か……。まず先代の仏壇に備えてからな」
慎が先に立って仏間に入ったので、香佑も菓子折りを持って後に続いた。
美桜は、台所で片付けをしているらしい。声をかけようか、とも思ったが、やめた。
どうせ無視されるのは目に見えている。今は昼食も夕食も、自分のものは香佑が一人で用意しているくらいだ。一時改善した風に見えた美桜の態度が硬化したのは――間違いなく、涼子が現れたせいだろう。
慎が、慣れた手つきで仏壇の観音扉を開き、取り出した菓子を備えて、手を合わせた。
香佑も、慌ててその真似をする。
仏壇には、小さな顔写真が飾ってある。色黒で仏頂面、針金みたいに痩せた顔をしていて、匠己に似た所はひとつもない。吉野匠一郎――享年、58歳。今から四年前に心筋梗塞で倒れ、その翌年に亡くなった。
「生きてりゃお前のお義父さんだ。匠己みたいな面倒くさい男をこの世に残した元凶の人だよ」
「それ……敬ってんの。貶してんの?」
「心をこめて手を合わせろと言ってるんだ」
全く、確かに高木慎はこの家の主婦だ。香佑が知る限り、匠己がそんな真似をするのを見たことは一度もない。
それどころか、自分の父親を香佑に紹介してくれたことも――ない。
――ま、本当の奥さんじゃないもんね。
深い部分にまで入り込むなってことかもしれない。
なんにしても、もう心の底からどうでもいい。
あんな奴――私の気持ちとか立場なんて一切お構いなしに、彼女を家の中に連れ込んで、その上二人で京都にいっちゃうようなあんな奴――本当にもう、知らない。
どーぞ、二人でいつまでも仲良くお幸せに。
今の自分にできることは、二度とあの泥沼地獄に陥らないことだ。同じ轍は二度踏まない。目に見える災難は、避けて通るのが一番なのだ。
「慎さん、私、頑張って働くから」
「あ?」
とにかく、当面の資金さえ手に入れたら、さっさとここを出ていこう。もう、あんな奴の傍になんて、一秒だっていたくない。
「それから小包。言い忘れたけど玄関に置いてるから。じゃ、畑仕事、行ってきます!」
「……? あ、ああ、気をつけてな。――てか、おい、ちょっと待て」
香佑が足を止めると、慎はいかにも不快そうに眉を寄せて言った。
「お前、携帯の契約行った?」
「あ……、まだだけど」
「いらねぇの? 外出先から連絡する時、かなり不便なんだけど」
「うん。まぁ――出かける機会があったらね。この辺りショップもないし」
香佑はそれだけ言うと、玄関に向かって歩き出した。
慎には悪いが、今は、携帯電話なんて呑気に契約している塲合じゃない。
慎から預かったお金は、肥料と食費でかつかつで、正直、今月は赤字覚悟である。家計のやりくりは、得意な方ではない。今月末、慎に提出する予定の家計簿など――叱られるのは目に見えているくらいだ。
それに……携帯の料金を払うくらいなら、他に回さなければならないこともあるし。
大股で玄関に向かっていた香佑は、ふと、先程電話していた時の慎の横顔を思い出していた。
なんだったんだろう。仕事の話じゃなさそうだった。あの鬼軍曹みたいな高木慎が、妙にぼんやり、気落ちした感じで――
振り返ると、慎は膝立ちになって仏壇の扉を締めているところだった。
ま、私には関係ないか。
訊いてみたところで、百パーセント不快に思われるだろうし。
まだ自分は、この家にとっては居候で、厄介者で――なんの役にもたたない存在なのだ。もちろん、高木や宮間、美桜らから見れば、仲間でもなければ友達でもないだろう。
香佑は軽く拳を握って、萎えそうな気持ちに喝を入れた。
くよくよしたって始まらない。とにかく―― 一日でも早く、このおかしな場所から出ていかなくちゃ。
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