19
 
 
 その夜二度目の驚きは、吟と共にやってきた。
「えっ、あの子なんなんすかね。似ても似つかないけど吟さんのお孫さん?」
 夜目にも際立って綺麗な女性の登場に、隣の宮間がテンパって香佑の袖を引く。
 その頃には、香佑の同級生たちもすっかり墓場の宴会に馴染んで盛り上がり、何がなんだか判らない状態になっている。
 奈々海は、香佑に向かって深々と頭を下げ、それから視線を巡らせた。多分――高木慎を探している。
 香佑は、心臓が嫌な風に鳴るのを感じた。
 どうしよう。慎さん――この件では、まだかなり怒ってるのに。
 多分、吟さんの計らいだろうけど、余計に慎さんの神経を逆なでしてしまうんじゃ……。
 が、驚くべきことが起きた。
 酔っぱらいの輪の中からおもむろに立ち上がった慎が、自分から奈々海の方に向かって歩いていったのだ。
 慎は、まず吟に一礼すると、それから奈々海に何かを言い、二人は少し距離を開けたまま、並び立って歩き出した。
「えっ、えーっ、もしかして慎さんの彼女っすかね? 俺は、てっきり師匠一筋なのかと……」
「あんた、そんなこと疑ってたの?」
「だって、慎さん、女には全く興味ない人なんすよ」
 それは……昔の恋が、きっといつまでも忘れられなかったから。
 二人は、並び立ったまま、墓場の横の木の下で何かを話し合っているようだった。
 雪洞がその上にあるから、慎が、わずかに微笑しているのがはっきりと判る。
「どうじゃ、香佑さんよ」
 吟が、いきなり香佑と宮間の間に割り込んできた。その背後には、弟子の坂口が、にこにこしながら立っている。
「同窓会もいいものじゃろうが。あんた、この間はちゃんと楽しく過ごせたかね」
「あの日は最悪でしたけど」
 香佑は少し笑っていた。
「でも、もしあるなら、来年も参加しようと思ってます。……昔の友達って、いいものですね」
「昔も、今もな」
 吟は、にたりと笑って、慎の方に視線を向けた。
「生きている間に会える人の数なんぞ、本当にわずかなものなんじゃ。親しくなる人はなお少ない。恋人なるともっとわずかで、結婚するのは一人きりじゃ。今はそうでもないらしいがの」
「………」
「曲がりなりにも自分の人生にひっかかった縁じゃ。大切にせんと、死んだ後まで後悔するぞい」
「案外、おせっかいなんですね」
 感謝の言葉をこんな風にしか言えない自分を恥ずかしく思いながら、香佑は吟のコップにビールを注いだ。
「年寄りはおせっかいなものだと相場が決まっておる」
 吟は嬉しそうだった。
「吉野石材店の連中は、皆意固地で、おせっかいを嫌うからな。ふっふっふ、あえて儂が、嫌われ役を引き受けておるのよ」
 そういえば、二人も同級生だったんだな。
 慎と奈々海を見ながら、香佑とはふと思っていた。
 もしかすると、二人にとっても、今夜は同窓会みたいなものなのかもしれない――
 
 
 
 騒ぎが引けた時は、深夜の一時になっていた。
 とりあえず全員が、予約しておいたタクシーやら迎えの車に乗って撤収した。
 宮間は、潰れるようにして仏間で高いびき。宴会に参加しなかった加納竜二は、墓場を掃除してから帰ると言った。慎は、その加納に送ってもらうと言っていたが――
「おい」
 台所で片付けをしていた香佑は、少しびっくりして振り返った。
 勝手口のところに慎が立っている。
「な、なに?」
 その不機嫌そうな顔に、香佑は嫌な予感を覚えて、取り繕った笑いを浮かべた。
 慎が何を考えているのか、不機嫌なのか上機嫌なのか、香佑にはさっぱり判らない。
 奈々海とは穏やかに話して別れていたようだったが、もしかすると、まだ香佑に対して怒りを覚えているのかもしれないし――
「ちょっと、いい」
「え?」
 香佑が戸惑っていると、慎もまた、戸惑ったように、指で外を示す仕草をした。
「外」
「え、う、うん」
 もしかして、外にでろってこと? そこで勝負でもつけようってこと?
 慄きながら勝手口から外に出ると、足元でにゃあ、という鳴き声がした。
「あ、猫」
 香佑が声を挙げた途端、さっと黒い影が、家の裏手に向かって駆けていく。
「匠己が餌やってんだ。美桜がいくら怒ってもやめないから」
 慎が呆れたように呟いた。
 その美桜は、今日は無断欠勤だった。といっても、給料を払っているようではないから、欠勤とは言えないのかもしれないが。
「……怒ってないの?」
 慎の背中に、おそるおそる香佑は聞いた。
「別に」
「嘘。とんでもなく怒ってたでしょ」
「こないだはな」
 慎が向かう先は、先日の夜、二人で話し合った畑のようだった。
 あの夜と同じベンチに腰掛けた慎は、しばらくの間無言だった。香佑も、どうしていいか分からないまま、その傍に立ち続けている。
「お前こそ、怒ってないの」
「え、私?」
 なんで?
 香佑がきょとんと瞬きをすると、慎は呆れたように眉をあげた。
「普通に考えて、従業員が社長夫人に、とんでもないことしたと思うんだけど」
「した……?」
 眉を寄せた香佑は、それが先々週、この場で起きたことだと気がついた。
「ああ、まぁね」
 あれは確かにドキッとした。後で思い出すと、すごいセリフを言われたもんだ。
「結構、肉食系なんだね。あんたって」
「なんだよ。その冷めた感想」
「まぁ……ちょっと意外な気がしたから」
 とはいえ、全く身の危険を感じなかったと言ったら、この人は逆に怒るかしら。
 香佑は少し迷ってから、慎の隣に腰を下ろした。
「俺の兄貴、一度会ったから判ると思うけど」
 慎は、前を見たまま切り出した。
「とんでもなく性格の悪い男でさ。傲慢で自惚れ屋で野心家で――とにかく、悪い男の典型、みたいなヤな男。――俺、そんな兄貴が結構長いこと苦手でさ」
「……うん」
 もしかして、私に思い出話でもしようとしているのだろうか。香佑は戸惑いながらも相槌を打つ。
「なのに、奈々海は好きなんだ。あいつ、……何度告白してふられたのかな。一回や二回じゃない。数えきれないくらい告白しては、撃沈だ」
 ものすごく、そこは共感して頷いてしまった香佑だった。
 そうか。奈々海さんに対して、どうも悪感情を抱けなかったのは、そこに自分と同じ匂いを察したからだったのか。頑張れ、奈々海さん。――とはいえ、もうその想いは届いたみたいだけど。
「俺、奈々海が可哀想でさ」
 呟くように、慎は続けた。
「兄貴も、ばっさり切ればいいのに、要所要所で、奈々海にいい顔見せるんだ。あれはもう――傍でみていて生殺しみたいなものだった」
「どういうこと?」
 慎は、眉に怒りをにじませて空を睨んだ。
「たとえば、他につきあってる女がいるのに、奈々海を誘ってドライブに行ったり、クリスマスのラスト三十分に外に連れ出したり――奈々海に言い寄る男は、兄貴が全部追い払うんだ。そして、奈々海が期待した途端、勘違いするなとどん底に突き落とす。俺は今でも判らない。当時の兄貴が一体何を考えていたのか」
 まぁ、それは……。
 あんたと同じで、極めて素直になれなかっただけで、本当はその頃から、他の男には渡したくない程度には好きだったってことなんじゃないだろうか。
 しかし、まれに見る最低男だということは間違いない。
 一体何年その状態が続いたか知らないが、奈々海さんはさぞかし辛かったし、心身共にぼろぼろだったろう。
「兄貴が結婚した夜」
 視線を下げたまま、慎はぽつりと呟いた。
「俺、奈々海を抱いたんだ」
「……………」
「泣きじゃくって手がつけられなくなって、――ま、そんな流れでさ。自分でも卑怯な真似してるよって思ったけどな」
 香佑は黙って視線だけを逸らした。
 ああ、なんかもう、聞くのが辛くなってきた。
 高木慎、あんたの初恋は、報われなさすぎるよ。
 世の中には、自分より悲しい恋をしている人が沢山いる。高木慎も可哀想だけど、その夜の奈々海も、どんな気持ちで幼馴染の優しさに身を任せたのだろう。
「まぁ……後の流れは、あんたが奈々海に聞いた通りだよ。でもな、俺――別に奈々海が憎くて逃げ回ってたわけじゃないんだ。それだけは、誤解されてるみたいだから言い訳しとこうと思ってな」
 溜息をついて、慎は空に視線を向けた。
「奈々海、笑ってたんだ」
「…………」
「大した写真じゃなかったよ。二人で一緒に歩いたり、車に乗ってるとこだったかな。どの写真でも、奈々海はとんでもなく幸福そうに笑ってた。俺な、あの時……本当言うと、ほっとしたんだ」
「…………」
「奈々海の笑ってる顔みてほっとした。そしてやっと気がついた。俺がしてることが間違いで、この写真に写ってる姿が本当なんだって。俺は二年の間」
 言葉を切ってうつむいた慎は、しばらくの間無言だった。そして、息を吐き出すようにして言った。
「二年もの間、……奈々海を汚し続けていたんだなって」
「それは違うよ」
 香佑は咄嗟に言っていた。
「絶対に違う。そんな言い方したら、奈々海さんが可哀想だよ」
「奈々海にも言われたよ。でも、どうかな。――本当は、……後悔するだろ。兄貴だって考えないはずがない。男って、案外そんな小さなことが気になるもんなんだ」
「……………」
 香佑は眉を寄せたまま、自分の膝のあたりを睨みつけた。
 そうだろうか。そうかもしれない。確かに香佑自身も、匠己と涼子の間に起きたことに言いようのないわだかまりを感じている。もしそうなら、匠己だって――私の過去をどう思っているのだろう。
「俺が逃げ回ってたのは、俺のやらかした罪から、かな。――向き合うのが怖かったんだ。思い出すのも怖かった。俺の知らない所で、二人には幸せになってて欲しかった」
「やっぱり違うよ。高木慎」
 香佑は遮っていた。
「やっぱり違う。どう考えても納得できない。それはさ、あんたが奈々海さんしか知らないからそう思うんじゃないの?」
「どういう意味だよ」
「あのさ。――きっと、もっと色んな人を好きになれば、わかってくるよ。私も、そりゃあちょっと――ちょっとどころじゃないくらい好きな人の過去は気になるけど、それが罪だなんて死んだって思えない。だってそんな風に思ったら、好きな人にも、その人が好きになった相手にも失礼じゃない」
「……………」
「あんたのこと好きじゃなきゃ、奈々海さん結婚なんかしなかったし、その前段だってなかったと思う。あんたの昔話は、奈々海さんの感情部分が欠落してる。昔つきあった相手にそんな風に一方的に思われてたら、私だったら怒って、――一発か二発はぶん殴ってるよ」
「…………」
「あんたがどう思おうと、私の方が絶対に恋愛経験豊富だから、間違いない。あんたの恋愛、所詮初恋止まりなんでしょ? 私なんてね、初恋に破れてからというもの――」
 香佑は、ごほんと咳払いをした。
 匠己と結婚して、その過去をちょっぴり悔いたこともあった。が、今の慎の話を聞いて、逆に香佑は心に決めた。
 そんなの、死んだって後悔しないし、逆に匠己の過去も気にしない。
 だいたい匠己の塲合、過去というより現在進行形だから問題なのだ。それに比べたら、過去なんてもう、可愛いものだ。いくらだって受け入れてやる。
「ごめん。……言い過ぎた」
 慎が黙っているので、香佑は少し反省して言っていた。
「あんたさ……、完璧主義者でしょ。ちょっとのずれも許せないタイプ」
「悪かったな」
「あんたさ、もしかしたら、そのずれが許せなくて逃げたんじゃないの? まずは、そのめんどくさい性格直してみたら」
 慎がむっとしたように香佑を見た。
「お前、言い過ぎたって言いながら、もっと酷いこと言ってないか?」
 ようやく返ってきた反論に、香佑はほっとして顔をあげた。
「これでも言葉を選んでるんだけど」
「嘘つけ。俺が弱ってると思って、言いたいこと言いやがって」
「まぁ、それも少しはあるけど」
「謝ろうと思ったけど、やめた。やっぱりお前は、匠己の嫁にはふさわしくない」
「ほっといてくれる?」
 やっぱり、高木慎はこうでないと。
 弱気になって謝るなんて、らしくない。そんなのむしろ、迷惑だ。
 よかった。――本当の意味では、何もしてあげることはできないけど、私があんたと喧嘩することで心のストレスを発散してるように、あんたも、そうあってくれたらいいと思うから。
「そろそろ戻ろうよ。まだ台所の片付けも終わってないし」
 立ち上がりかけた香佑は、慎が、何か物言いたげに自分を見ていることに気がついた。
「何?」
「……別に」
「何よ、言いたいことあるんなら、はっきり言ってよ」
「だから、別に」
 なんなの、一体。
 何もないって表情じゃないじゃない。
 香佑は仕方なく座り直した。
 慎は黙って空を見ている。ひどくぼんやりとした目をしている。香佑は、ようやく気がついた。
 ――ああ、そっか。
 一人になりたくないなら、そう言えばいいのに。
 この人は、今夜恋を失くしたのだ。
 多分だけど、それを認めたくないから逃げていた。それを今夜、初めて真正面から受け入れて、そして認めてしまったのだ。
「なんだよ」
「なにって……?」
「早く戻れよ。片付けが残ってんだろ」
 まぁ、それはそうなんですけど。
 どうしよう。このまま黙っているのも気詰まりだし、間がもたない。――そうだ。
 香佑は慎を見上げていた。「ねぇ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なに」
「あのさ、高木慎にとって、墓って、何?」
 
 
 
 猫の鳴き声がしたので、匠己はノミを持つ手を止めた。振り返ると、そこには涼子が立っている。
「なんだ、お前も来てたんだ」
 その足元から駆けてきた猫の頭を、匠己はしゃがみこんでから撫でた。
「まだやってんの。例の宴会」
「もう終わってた」
 涼子は、肩をすくめて、作業場の隅にあるベンチに座った。
「仕事が長引いて、予定してた新幹線に乗り遅れちゃった。毎年参加してるのに、残念だったな」
 こんな時間にうちに来たってことは、今夜は泊まる気で来たんだろうな。
 匠己は微かに溜息をついた。
「涼子さ」
「ねぇ、家に誰もいなかったけど、どうしちゃったの?」
 遮るように涼子は言った。
「さぁ、片付けでもしてんじゃねぇの?」
「ノブ君だけが寝てたけど、台所はもぬけの殻。鍵もかかってないし、無用心ね。嶋木さんも」
「……慎さんは?」
「二人ともいなかったけど」
 匠己は立ち上がって、棚から煮干しを取り出した。
「じゃ、自分で布団出して寝ろよ。俺はまだ仕事あるし」
「いきなりだったら、嶋木さんがびっくりするじゃない」
 ま、そりゃそうだな。
 猫の前に煮干しを置いてから、匠己は嘆息して立ち上がった。
「判ったよ。じゃあ、俺が探して言ってくるから」
 また慎さんに叱られるな。しかし、この時間から他所にいけとは言えないし。
「涼子、あのさ――」
「シャワー、借りてもいい? それも嶋木さんに断っておいてくれる?」
「あのさ」
 匠己は再度、遮った。
「俺、結婚したんだ」
「だから?」
 呟きで返した涼子の横顔は強ばっていた。
「だから何? もう友だちでもいられないの? 前みたいに家に遊びにいくことさえ迷惑なの?」
「…………」
「ひどいじゃない。お母さんまで他所に追いやって――それ、私とお母さんが仲良しだからでしょ? そこまでして、嶋木さんに気を使わなきゃいけないの?」
 見上げる瞳が涙の底に沈んでいる。懸命に涙を堪える唇が震えている。
 初めて匠己は、胸に強い痛みを覚えていた。
「別れるって言ったの、お前だろ」
「そうよ。だって――」
 涼子は言葉を切って、涙を指で払った。
「匠己はこの店を継ぐし、私には東京で仕事があるじゃない。どう頑張っても結婚できないのに、匠己の傍にいるなんて――それじゃ、結婚を期待しているお母さまにも失礼だと思ったのよ」
 本当にそれが理由だったのだろうか?
 仕事を辞めろとか、東京を捨ててこっちに来いとか、そんな話は一度だってしたことがない。むしろ、別居婚でも構わないと、そんな話までしたこともあったのに。
 匠己は、言いたい言葉を飲み込んで、何度も涙を拭う女を見下ろした。
「お前を悲しませたのは、謝るよ。俺――女の気持ちは、正直、よく分からないから」
 涼子は、無言で横を向いている。
「でも、今は結婚したんだ。残酷なようだけど、奥さんになった人を、ないがしろにするような真似だけはしたくない。それは判ってもらえないか」
「……私が、いつ、ないがしろにしたのよ」
 横を見たままで涼子は鋭く反論した。
「してるのは匠己であって、私じゃないでしょ。私は今までどおり、匠己の友達でいたいと思っているだけよ」
 まぁ、そう言われてみれば。
 たちまち反論の糸口をなくし、匠己はこりこりと額を掻く。
「それに、嶋木さんだって同級生だもの」
 涼子は続けた。
「せっかくだから、仲良くなりたいじゃない。私、誰にも迷惑をかけてるつもりはないわ。匠己があれこれ邪推して私を邪魔にするから――だから、悲しいんじゃない」
「いや、悪かったよ」
「そうよ。匠己が悪いのよ」
「ごめん……」
 うーん、なんだか論点がずれた気もするぞ?
 そう思いながらも、とりあえず匠己は謝った。
 今みたいに、涼子に理詰めで責められたら謝るしかない。この状態で何を言っても無駄なことは、今までの経験でよく判っている。どんな反論も気づけば霧散し、彼女の土俵に乗ってしまっているのだ。
 ――慎さんが、手に負えないって諦めてるのも判るな。うん。
 口の立つ慎がそうなのだから、元々口下手な匠己には手も足もでない。
「どうせ、慎さんにあれこれ吹き込まれたんでしょ。でも言っとくけど、慎さんを信じてたら痛い目にあうわよ」
「どういう意味だよ」
 涼子は、涙を払って匠己を見上げた。
「気付かない? 慎さんは、嶋木さんにもう夢中よ」
「……いや、それは」
 いくらなんでも、まだないだろ。
「信じないならいいけど、匠己が心配だから忠告してるの。今だって二人揃っていないし……でも言いすぎね。ごめんなさい。慎さんが匠己の親友だってことは判ってるのに」
 匠己が眉をしかめるより早く、さっと涼子は持論を下げた。
「今の話、忘れて。少し興奮して、わけがわからなくなってるみたい、私」
「いや、いいよ」
 説明するのも面倒だけど、ある意味慎さん炊きつけたの、俺みたいなものだし。
 まぁ……口にした直後に、馬鹿なこと言ったって思ったんだけど。
 それくらいあの時は、嶋木とは一線を引きたかった。
 放置していた理由は、慎さんが推測してたみたいな理由ばかりじゃない。今以上に――深く関わりたくなかったからだ。
 いずれ、出ていくと判っている人に。
「帰る」
 旅行鞄を肩にかけ直して、涼子は立ち上がった。
「泊まるとこあるのかよ」
「大丈夫。藤木君に電話してホテルを押さえてもらうから。その方が、匠己も気楽でしょ」
 あー、もう、なんて言っていいかわかんねぇな。これ以上。
 助かったってのが本音だけど、それ言えばまた泣くだろうし。
「気をつけて……」
「今、ものすごく言葉を選んだでしょ」
 むっとした目で見上げられる。
「匠己のことなら、なんだって判るんだから――言っとくけど、私以上に匠己のことが判る女はいないわよ、絶対に」
 まぁ、それはそうかもしれないな。
 匠己は嘆息して、前髪をかき上げる。藤木か。じゃあ泊まるのは同窓会のあった例のホテル――
「涼子」
 匠己は、出ていこうとする涼子の背を呼び止めていた。
「お前さ。――藤木に」
「なに? もしかして嫉妬してくれてる?」
「いや、そうじゃなくて」
 もしかして、例の話、した――?
「何?」
「いや、なんでもない」
 匠己は腕をあげて遮った。「じゃあな。気をつけて」
 そういえば、あれ、どこに収めたっけ。
 トランプでいえばジョーカー。ババ抜きのババ。
 藤木が持っているはずはない。あれは――十三年も前から、ずっと自分が持っているのだ。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。