18
 
 
「えええっ、本気でこれ全部、私が作んなきゃいけないの?」
 慎から渡されたメモを見た香佑は、半ば愕然として顔をあげた。
「しかも今夜? そんなの、何も聞いてないんだけど」
「今から、買いだし行ってくる」
 慎は、素っ気なく腕時計に視線を落とした。
「言ってなかったっけ? 毎年ミヤコさんが、それなりにご馳走を振る舞うんだ。今年は香佑さんによろしくお願いするわって、昨日電話で言われたよ」
 は――はい?
「いや……でも、私、巻きずしも稲荷も作ったことないし。お義母さんは?」
「昨日から、一家で温泉旅行中。ま、諦めるんだな」
 お、お義母さーん。
 最初はいかにもお人好そうないい人に見えたけど、なんだか色々、放っておきすぎじゃないですか?
「レシピだけはファックスで送ってもらったんだ。ありがたく思え」
 それだけ言うと、慎は冷たく肩をそびやかした。
 翌週の日曜日。朝食の後片付けをしていた香佑は、いきなりやってきた高木慎から、二升の米を炊くことを命じられた。
 今夜は、例の同窓会の日だ。墓場で同窓会を開くという、変わり者の人たちの集い。
 十日間の京都旅行から戻った匠己は、納期の迫った墓作りに追いまくられている。またしても、新婚の妻は放置状態だ。とはいえ――朝食と夜食だけは、香佑が必ず作って一緒に食べるようになった。そうなってまだ一週間にも満たないけど、漠然とした居心地の良さは少しだけ感じている。
 それに、香佑の頭痛の種――片桐涼子は顔を出さないし。
「買い物、私も一緒に行こうか」
 車のキーを持って外に出ようとしている慎に、香佑は言った。今は朝の八時半だが、ここから大きな店に行くには車で三十分以上かかる。
「いや、とりあえず材料届くまで、ご飯炊いちゃったら暇になるから」
 慎はしばらく、無言で香佑を見ていた。
 今の香佑の気がかりは――相変わらず態度の頑なな美桜を除けば、高木慎のことだけだ。
 あれから何も言わないし、聞けるような雰囲気ではないが、奈々海さんとのことはどうなったんだろう。
「いいよ。飯炊いたら、あんたは、竜さんの手伝いでもしてな」
「竜さんは?」
「墓掃除。あの人クソ真面目だから、今日は隅から隅まで綺麗にしてると思うよ」
 慎は素っ気なく言うと、そのまま家を出ていった。
 香佑に対する態度は、一時ほどの完全無視状態ではなくなったけれど、相変わらずのラインでフラットなままだ。
 携帯の件でも、奈々海さんの件でも、謝りたいというか、――とにかく和解したいのに、その隙すら見せてくれない。
 香佑は溜息をついて、エプロンをつけた。
 まぁ、いいや。とにかく今日は忙しくなりそうだ。定休日じゃないから十時には店も開くし、畑の水やりも欠かせないし。
 ――あ、美桜ちゃん……。
 香佑はふと思っている。この調子では、今日は一日台所仕事になりそうだけど、美桜とは、その辺り、上手くやっていけるだろうか?
 
 
 
 午後七時。
 その奇妙な同窓会が始まった。
 一体、墓場で同窓会なんて成り立つんだろうか? と、香佑は思ったが、慎が最初に形容したとおり、それはまさに夜桜見物。木に雪洞なんかを吊るしたりして、お花見気分の盛り上がりである。それが卒塔婆とかが乱立する墓場のどまんなかなんだから、もう……。
 いやもう――とんでもなく不謹慎じゃないのかしら。この光景。
「いやーっ、ほんっと、毎年すみません」
 香佑と宮間が、差し入れのために作った惣菜や稲荷を持って行くと、すでに顔を赤くした佐久間が、地面に額をすりつけるようにして頭を下げた。
「しかも僕、なんだかとんでもない勘違いしちゃって。吉野さんの奥さんでしたか。本当、その節は失礼しましたっ」
「い、いえ。私が適当にご挨拶してしまったから」
 香佑もへどもどして頭を下げている。
 そうだな。やはり常連とも言える人たちに、適当な嘘なんてつくんじゃなかった。その時は大袈裟だと思ったけど、高木慎の言うように、確かに店の信用に関わってくる。
「いやー、今年も盛況ですね」
 と、その慎が、香佑には絶対見せないにこやかなスマイル(営業)で、輪の中に入ってきた。香佑が台所から出る時には、店を閉める準備をしていたから、もうそっちの方は片付いたのだろう。
「おおっ、高木さん」
「どうぞ、どうぞ、こっちに来てくださいよ」
「いやー、美人が来ると酒の味も違うな」
 しかも、おっさんたちに大人気だし。
 ここに、普通に女がいるんですけど、――まぁ、確かに慎さんの方が何倍も美人だ。
「奥さんも、どうぞ、どうぞ」
 香佑も宮間も、結局は引きずられるようにして、その輪の中に加わっている。
「同級生の命日なんですよ」
 香佑の紙コップにピールを注ぎながら、佐久間が酔った口調で言った。
 香佑は頷いた。墓場で同窓会というのだから、その辺りは、漠然と察している。
「僕ら、高校の男子校で、本当に仲がよくてね。毎年同窓会してもだれひとり欠席しない。奇跡のクラスって言われてたんです」
「そうなんですか」
 香佑の座る位置からは、彼らが取り囲む墓の側面が見えている。なんの変哲もない三段式の墓だ。享年二十八――
 今の自分と同じ年に、香佑は静かな衝撃を覚えていた。なんだろう、会ったことはおろか、名前も知らない人のお墓なのに。
「悔しくてね」
 佐久間は一時、言葉を詰まらせてから、続けた。
「ずっと自分と同じ時間で生きていた人間が、ある時いきなり――消えてしまったのが悔しくてね。いや、そういうの、もうこの年になると、何度も経験しちゃってるんですか」
「…………」
 目の端に浮かんだものを指でこすりとり、佐久間は缶ビールを一口飲んだ。
「毎年命日には、クラスのみんなで墓参りに行こうって約束したんです。それが毎年の恒例行事で、その後に飲みに行くのが常でした。とにかく朝まで賑やかに騒ぎたくてね。でも、この辺り――こんだけの人数で入れる店がないんですよ」
 佐久間は続けた。
「そしたら――吉野さんがこちらに戻られた最初の年だったですかね。あっさりこう言われたんですよ。だったらいっそ、墓場で飲めばいいじゃないですかって」
 やっぱり、発案者はあいつだったか―――
 香佑は頭を抱えていた。
「すっ、すみません。あの人本当に――墓石馬鹿というか、常識的なものがないんですよ」
「その発想には、全員の顎が落ちました」
 香佑は、ますます穴が開いたら入りたい気分になっている。
「ほ、本当に不謹慎な人ですみません」
「いや、いい意味で落ちたんです」
 佐久間は人のよさそうな笑いを浮かべた。
「僕らは無意識に墓を――怖くて、寂しくて、もっと言えば、不吉なものだと思っていました。でも吉野さんには、まるで違うものに見えているようなんですね。彼に言わせれば、墓見酒は不謹慎でもなんでもなく、極めて普通――あるべき姿だということみたいです。そういう見方や考え方、僕らは全く知らなかったから」
「…………」
「僕らも、もうこの年だから、いつまで続くか判りませんけどね」
 男たちが、校歌のようなものを歌い出し、佐久間が立ち上がってそれに混じった。
「いやぁ、もう、たまんないですね。酔っぱらいは」
 宮間が、ようやくその輪の中から抜けだしてくる。
「女将さん、面倒だったら早めに抜けた方がいいですよ。下手すりゃ夜中まで飲まされますから」
 香佑は黙って、酒の注がれた墓石を見上げた。
 どこの誰かも知らない人が、今、確かにその中で声をあげて歌っているような気がした。
 
 
 
 空いた皿などを持って、いったん家の方に戻った香佑は、今度こそ本当に驚いていた。
 玄関の前に、数人の男女が屯している。その中心に立つ女が、いきなり香佑の方を振り返った。
「香佑っ」
「ミサミサ?」
 う、嘘。なんだってこんな時間に?
 しかも、周りにいる人たちって――
「香佑――っっ、会いたかったよ」
「この薄情者っ、なんで一度も連絡してくれなかったのよ」
 いきなり取り囲まれた歓喜の輪に、香佑は戸惑って声もでない。何、なんなの一体、何の騒ぎ?
「こないだ同窓会に来れなかった人たち」
 美郷が、興奮を抑えきれない口調で言った。
「香佑と吉野が結婚したって話したら、みんな、お祝いしたいって。丁度お盆前で、みんな帰省してたから」
「…………」
 みんな……。
 懐かしい顔が――忘れていたようで、一目見たらすぐに思い出せる顔がそこには沢山並んでいた。
 嘘でしょ、みんな――
 私なんて、友達ごと過去を捨てようとした、心の底から薄情で不義理な女なのに。
 うるっと目が潤みだす。しかし、その感慨は一時だった。
「で、で、なんで吉野と結婚したの?」
「吉野が超イケメンに変化したってマジ?」
「どこで? どうやって結婚したの? てか、どうやってあの石の男を落としたの」
「お前、ほんっと男見る目がないな。まだ吉野から卒業できてなかったのかよ」
 そっちかよ。興味の対象は。
「ああ、悪いな、待たせて」
 その時、背後でいきなり扉が開いた。香佑がぎょっとして振り返る間もなく、歓声とも驚きとも似つかぬ声が同級生たちの輪から巻き起こる。
「吉野? マジで?」
「あんた、整形でもした? それともシークレットブーツでも購入した?」
「嘘だろ。これ悪夢だろ――吉野が俺見下ろしてるし!」
 匠己は呆れているのか、ぽかんと口を開けてこの騒ぎを見下ろしている。
「でもすごいよ。初恋を実らすなんて」
「絶対無理だと思ってた」
「さすが香佑。しかもある意味、見る目があったよね」
「同級同士で結婚したの、こいつらだけだしな。とにもかくにも、おめでとうだよ」
 いや……その……。
 今度はヒューヒューの大合唱である。
「で、どっちから結婚しようって話になったの」
「その前に、どっちから告白した?」
 来た。一番されたくない質問。お見合いだなんて、話して信じてもらえるだろうか。どちらの意思もお構いなしに、流されるままに結婚しちゃいましたって。が――
「どっちも、俺だよ」
 あっさりと匠己が言った。
 ――え……。
 呆然と匠己を見上げる香佑の周囲は、もうキャーとかヒューとかワッフーの嵐である。
「なんで? どうして? 再会して、香佑が綺麗になってたから?」
「いや、嶋木は元々綺麗じゃんよ。それで今更どうこうはないだろ」
「それは……」
 匠己はしばらく言葉を探すような表情になった。
「中学の時に、ちょっと惜しいことしたって思ってたからかな」
 またしても、香佑は唖然として匠己を見上げた。
 全部、口からでまかせだということは判っているが、彼が――こんな嘘をついてくれるなんて、想像してもいなかったからだ。
「やっと正直になったよ。石屋だけに石頭が」
「ほんと、傍から見ても不思議だったよね。香佑の何が不満だったか知らないけどさ」
「それより香佑だよ。あんだけないがしろにされても、なお……」
「よっ、初恋夫婦」
 香佑はただ、引きつった笑いを浮かべていた。もう、マジ勘弁して欲しいんですけど。
「で、吉野」
 美郷が、思い出したように口を開いた。
「ここで宴会やってるって聞いたから、みんな誘ってきたんだけど、どこ? よくわかんないけど、本当に私たち混じっていいの?」
 ――えっ?
「ああ、いいよいいよ。遠慮なく混じっちゃって」
 匠己はあっさり言うと、先に立って歩き出した。「今、案内すっから」
 それってもしかして、夜の墓場の同窓会なんじゃ……。
「ちょっと――、それはちょっと、まずくない?」
 香佑は、慌てて追いついて、歩く匠己の腕を引いた。
「なんで? 構わねぇだろ。俺らもそうだけど、吟さんたちも毎年顔出してるし」
 いや、そういう問題じゃなくて。
「墓場で飲むとか、絶対に無理だって。そういう感覚、まずあんたにしか分からないから」
「そうか?」
「そうよ」
 背後からは再びヒューヒューの嵐である。ああ、みんな……これから連れて行かれる場所も知らないで。
「ま、慣れだよ。すぐに慣れるって」
 が、匠己は一向に意に介していないようだった。香佑は、嘆息しながらも、その後に続くしかない。
「……さっきは、ありがと」
「ん?」
 匠己の横顔をちらっと見上げ、香佑は気恥ずかしく視線を下げた。
「あんな言い方してくれるとは思わなかったから。正直、どう答えたらいいのか判らなかったし」
「……ま、あの程度なら、想定の範囲内だし」
 匠己はちらっと背後を見て、わずかに笑った。
「少しはお前の立場を上にしとかなきゃな。これで溜飲が下がったろ」
「ほ、ほんのちょっとね。もちろん、まだまだ足りないけど」
 本当はとんでもなく嬉しいのに、素直になれずに香佑はぷんっと横を向いた。
「私の五年間の溜飲は、そんな簡単には下がらないんだから」
 なんだよ、とでも言うように匠己が片方の眉を上げる。
「それはこっちのセリフだっつーの」
「…………」
 どういう意味?
 独り言のような呟きだったが、確かにそんな声が聞こえた気がした。それはこっちのセリフ……? どういうこと?
 その時には、背後から不穏な囁きが漏れ始めていた。
「まさか、墓場……?」
「う、嘘でしょ。あんなところで、飲んでる人たちがいるんですけど」
 匠己の手が、香佑の肩をぼんと叩いた。
「じゃ、俺は仕事あるんで戻るから、後はよろしくな」
「えっ、よろしくってちょっと」
 この異様な状況をどうやって私が説明すれば。――ああ、あんたってやっぱり、人迷惑なマイペース人間。もしかしてこれからずっと、私がその尻拭いをしていかなきゃならないのかしら。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。