16
 
 
「あ、お守り袋――」
 香佑が思わず呟くと、ん? と、匠己が訝しげに足を止めた。
「ごめん。戻って。藤木の部屋にあれがあるのよ」
「あれ?」
「だから――あんたも覚えてるでしょ、恋の神様」
 香佑を背におぶって立ったまま、匠己はしばらく黙っていた。そして再び歩きだす。
「それ、嘘だろ」
「嘘じゃないって。辻褄があったし、ものすごく信憑性もあったんだから」
「騙されたんだよ」
「そこだけは本当なんだって。木の上に引っかかってたのを、私が東京に行く直前に見つけた辺り、本当の話っぽかったんだもん」
 再び匠己は足を止めたが、やはり「嘘だよ」と言って歩き出した。
「本当なのに……」
「そんなにムキにならなくても、酔っぱらいに部屋に連れ込まれそうになった馬鹿女だとは思わないから」
「……それ、思いっきり思ってる時の言い方だよね」
 階段を降りたところで、二人の眼前に、大勢の同級生たちが現れた。
「香佑――あんた」
「ちょっ、そ、その人は一体何者なの?」
 美郷や心奈が口をぱくぱくさせている。
 いやー、面影あるでしょ。信じられないのはわかるけど。
 香佑は、匠己の耳に囁いた。
「あんたさ、もしかして今まで、髭とか髪とかぼうぼうのままであちこち歩きまわってた?」
「ま、ここ数年は、大抵仏像作ってたから、そうなるな」
 やっぱり……。
 しかし、当然のことながら、一目で正体を見ぬいた人たちもいるようだった。
「吉野、お前――こんなことしてただで済むと思ってんのか」
「服代払えよ。弁償しろよ。てか、コンタクトがなくなったの、どうしてくれるつもりだよ!」
 なんか頭から濡れ鼠になった人たちがわめていますが……
「何があったの?」
「さぁ」
 匠己は、面白そうに笑っただけだった。
「わりーな。今持ち合わせがないんだ。とりあえず、こいつ迎えに来ただけだから」
 そして声を張り上げる。
「吉野石材店に、いつでもそれ、請求に来いよ。俺なら、逃げも隠れもしないからさ」
 濡れ鼠の二人がぐっと言葉に詰まっている。
「香佑」
 美郷が、夢でも見ているような目で駆け寄ってきた。
「ごめん。何か――私、すごい勘違いをしてたわけ? もしかして、香佑が結婚した人って……」
 え――えっと……、えっと。
 同級生の輪の中には、涼子の顔も混じっている。香佑は咄嗟に言葉が出てこなかった。
「俺だけど」
 匠己が答えた。ひどく呑気な口調だった。
「今度、店の方に遊びに来いよ。こいつも、慣れない場所で寂しがってるから」
 美郷と心奈が、顔を見合わせている。多分、とんでもなく仰天している。判る。私もそうだった。
 誰が幽霊みたいな墓屋の吉野が、ここまでイケメンになると想像できただろうか。
「――所詮、田舎の墓屋じゃないか」
 吐き捨てるような声がした。
 あんな目にまであって、まだ追いかけてきたのか、悔しそうな藤木である。
「嶋木、お前後悔するぞ。そんな貧乏な男と結婚して、一体なんの特があるんだ」
 多分、まだかなり泥酔している。
「いいのよ」
 ちょっとした腹立たしさもあって、香佑は強く言っていた。
「貧乏でも墓屋でも」本当はどっちも違うけどね。
「吉野と結婚するのが、私の、子供の頃からの夢だったんだから」
 
 
             17
 
                   
「ちょっと……歩く?」
 車を降りた匠己がそう言ったので、香佑は少し驚いて顔をあげていた。
「歩くって、今から?」
「うん。嫌ならいいけど」
「う……ううん」
 帰りの道中、運転席の匠己は一言も喋らなかった。
 慎の時と違い、その沈黙は、とんでもなく気詰まりだった。聞きたいことも言いたいことも、溢れるほど沢山あるのに、そのどれもが言葉として上手く出せない。匠己もまた、同じように思っているような気がしたからだ。
「家、誰もいないの?」
 真っ暗な店と家を見て、香佑は聞いた。確か今夜は、横山美桜が泊まるとかって言ってたけど。
「いないよ」
 前を歩きながら、匠己が答える。
「……涼子さんは……」
「来ないんじゃない? 美桜がいないなら」
「…………」
 そうなの?
 横山美桜との女子トークは、むしろおまけのような気もしたけど。
「いいの?」
 香佑は重ねて聞いていた。「涼子さん、いなくて、……いいの?」
「むしろ、いた方がおかしくね?」
 まぁ、普通はそうなんだけど。あんたにとっては、それが当たり前のような気がしたから。
 だいたい私たちの塲合、涼子さんがいようがいまいが、基本的に関係ないし。
 式は挙げたけど籍は入れない。まるで実態のない結婚生活。もともとが――どんな関係だか、分からないから。
 ふと気づくと、匠己の姿が闇に紛れている。香佑は大慌てで歩幅を広げた。
「ちょっと」
「ん?」
「散歩するには暗すぎない? 1メートル先の視界がないんですけど」
「えー? 今夜は明るい方だけどな」
 そりゃ、あんたは原始人だけど、私は普通の人間だから。
「手、つなぐ?」
 闇夜の中で、香佑は真っ赤になっていた。い、一体何言ってんの。この人。
「いっ、いいよ。いい年して、恥ずかしい。あまり離れないでくれたらいいから」
「別に誰も見てないし」
 匠己は訝しげに周囲を見回した。「だいたい、さっきまで、背負われてたくせに。そっちの方は恥ずかしくなかったわけ」
「あれは――単に腰が抜けてたから。そ、それと今の話は別よ。とにかく――いやよ。恋人みたいで恥ずかしい」
 夫婦どころか、本当の恋人ですらないのに。
「ふぅん……」
 匠己は自分の髪に指を差し入れて、そして、少し歩調を緩めて歩き出した。
 初めはおっかなびっくりだった香佑の目も、次第に闇に慣れてくる。静かな夜、静かな時間。 黙って前を行く匠己の髪に肩に、月の灯りが落ちている。
 こんな風に――二人で歩いていることの不思議と幸福を、香佑はふと思っていた。
 過去に捨ててきたはずの初恋の人と、こうして今一緒にいる。
 なんだか判らなくなってきた。私は一体、何が欲しくて彼と結婚したんだろう。
 結婚すると決まった時から、互いの思惑は別にしても、ある意味二人の人生が再びリンクすることは判っていた。判っていながら――何で最初に、セックスだけは受け入れられないと思ったんだろう。つまりそれは、この男とは夫婦にはなれないと――結婚式の当日に、初めて自分は気づいたということだ。
 なのに、また好きだと思い知らされて、打ちのめされながらも、今、彼の言いなりに夜の散歩につきあっている私って――なんだか、何もかもが矛盾してない?
「さて――何から話していいかわかんないんだけど」
 店を離れて国道を少し行ったあたりで、匠己は足を緩めて香佑を見下ろした。
「まずは携帯電話の件だな」
「あっ、ご、ごめん」
 香佑はわちゃっと思いながら、即答で謝った。
「あの時は私が言い過ぎた。なんかこう――無意味に、意地になっちゃって。せっかく吉野が、色々気を回してくれたのに」
「――いや」
 匠己は、手をかざすようにして、香佑の言い訳を遮った。
「あれはな。俺じゃないんだ」
「……はい?」
「俺が言い出したことでもなければ、思いついたことでもない。だいたい、俺にそこまで気が回ると思うか? お前が携帯持ってた事自体知らなかったのに」
 そういえば――全く持って、その通りだ。
 お土産すら買い忘れた。もとい、買うことすら思いつかないような男なんだから。
「慎さん?」
「慎さんは確かに気が回る人だけど、知りあって間もない相手にそこまで干渉するような人じゃないよ」
 じゃあ、誰よ。
 匠己は自分の顎に親指と人差し指をあて、しばらくの間無言だった。
「絶対にお前には言うなと……、これは、俺とその人の、信頼関係の問題だから」
「だから一体、誰」
 言いかけた香佑は、そこで閃くように一人の男の存在を思い出していた。そうだ、どうしてそこに気が付かなかったのだろう。
「お父さんでしょ」
 決め付けるように聞くと、匠己は諦めたように顎を引いて頷いた。やっぱり――と、香佑は頭を抱えたくなっている。
「親父さん、何度も、お前の携帯に電話したんだよ」
「もう……、なんでよ。滅多にかけてくることなんてなかったのに」
 本当に余計なことをしてくれる。
 心配ないから大丈夫だって、吉野家の電話からも連絡しておいたのに。
「最後にかかってきた電話で、お前がすごく心細そうだったからって言ってたよ」
「…………」
 それ、もしかして、結婚式の夜の電話……?
 匠己は、ジーンズのポケットから、スライド式の携帯電話を取り出した。
 外灯もない夜だから、色まではよくわからないが、どうやら最新機種のようだ。
「なのに、何度掛けてもつながらない。問い合わせたら、契約切れだ。それで俺に電話が掛かってきた。なんとかしてくれないか。あいつ、自由になるお金を殆ど持ってないんだ――自分の口からは、死んだって言わないような性格してるし……云々、概ね、そんな話だった」
 香佑は、いつかの夜、父親から匠己に掛かってきた電話のことを思い出していた。
「まぁ、それで――慎さんから、携帯の契約をするように伝えてもらったんだ。お前に生活費を預けるって話をちょっと前に聞いてたしな。それでこの件は終わったと思ってたら……」
 香佑は、それでもぐずぐずと携帯の契約に行かなかった。
 匠己が京都に行って動揺していたのと、やっぱり、そんな贅沢は慎むべきだと思うようになったのだ。
「責められたよ……」
「ご、ごめん。マジで」
 お、お父さん、あんたって人は、なんだってそんな余計な真似を! 
「そうこうしてる内に、これがうちに届けられた」
 匠己は、手にしていた携帯電話を香佑に差し出した。
「何……?」
「業を煮やした親父さんが、本体だけ買ってうちに送りつけてきたそうなんだ。それで、改めて慎さんにお願いした。その時、俺、京都にいたからな――とにかく、一日も早く、嶋木を契約に連れてってやってくれって」
 香佑は、唖然として顎を落としていた。
 本体だけ買った? そんなのアリ?
 そんな――わざわざ新機種買わなくても、今持ってる携帯で、再度契約を申しこめばいいだけなのに。
「もしかして……株式会社、みまもる会?」
「あ、知ってた?」
 やっぱり!
 あのおかしな会社からの小包だ。――ああ、もう、なんだかますます恥ずかしい。
「親父さん、絶対に自分の名を出すなって言うし、店からの支給品ってことで誤魔化そうと思ったけど」
 匠己はひとつ溜息をついた。
「まぁ、慎さん嫌がってたよ。店で携帯なんてそもそも支給したことすらないし、そんな適当な言い訳、すぐにバレるって。まぁ、悪いとは思ったけど、その辺り上手くやれるのは慎さんくらいしかいないから」
 そんな静かな騒動が、香佑が嫁いできた二日目くらいから起きていたのだ。
 匠己もそうだが、慎も目茶苦茶忙しかったあの時期に、そんなことが。
「……ごめん……」
 情けなさから、香佑は、目をつむるようにして額を押さえた。
「うちのお父さん、吉野の忙しさなんて、何も知らないから。ほんっとうにごめん。余計なことさせちゃって、本当にごめん」
 匠己は、少しの間黙っていたが、やがて静かな口調で言った。
「契約しろよ。金なら俺が払うから」
「…………」
「最初から、俺がそう言えばよかったんだ。あの頃は遠慮もあったし――正直、お前の中に踏み込むことに躊躇いもあった。慎さんが怒るのも無理ないな。結局は、面倒ごとから逃げてたんだ、俺」
「そんなこと、ない……」
 思わぬ匠己の言葉に戸惑いながら、初めて香佑は気がついていた。
 実の伴わない結婚をしたのは、自分だけでなく、匠己もだった。
 夫婦でいることの居心地の悪さや、距離感の掴めなさを感じていたのも、多分一緒だ。もしかすると、匠己も匠己で不安に思っていたのかもしれない。私と同じで――どう、相手に接していいか判らなくて。
「判った。契約はする」
 目を逸らしながら香佑は言った。
「でも、お金は自分で払うから。高木慎に言われたとおり、生活費の中でやりくりして」
「どっかの時点で切り替えるよ。でも今は、俺に払わせてくれ」
 きっぱりとした口調で、匠己は言った。
「でも――」
 でもそれは――そんな風に、匠己に負担してもらうのは。
 とはいえ、これが意味のない論争だというのは、とっくの昔に判っている。匠己のお金が生活費に形を変えるだけで、結局、出所は一緒なのだ。そういう意味では、もう香佑は、一人で生きていると突っ張っていられる立場ではない。
 どこかでこの人を受け入れて、そして自分も入っていかなければならないのだ。
 判っているのに、何をぐずぐずと意地を張り続けているのだろう。折角匠己が、互いに張り巡らした壁の一部を、壊してくれようとしているのに――
「お前のためじゃない。親父さんの気持ちが嬉しいから払うんだ」
 香佑が黙っていると、匠己が少しだけ笑うのが判った。
「俺さ、嶋木の親父さん好きだよ。せっかちで不器用で口下手だけど、心の根っこが暖かい人だ。本当にいい親父さんだと思ってる」
「…………」
「俺の世話になるのが嫌なら、その分、俺のために働いてくれ。夜は夜食だって欲しいし、朝飯も作って欲しい。時々、肩もマッサージして欲しいし」
 なによ、それ。
 そんなの、心にも思ってないくせに。あの時だって、鼻息が煩いって言われたくらいで……。
 しばらく他所の方を睨むように見つめてから、香佑は小さく頷いていた。
「うん……、判った」
 その瞬間、すうっと胸を塞いでいたものがとれて軽くなった。なんで、そんなくだらない意地にしがみついていられたのかが不思議なくらい、すっきりとした気分になった。
「よし」
 ようやく肩の荷が降りたとばかりに、相好を崩した匠己が、大きく伸びをする。
「ほんと、お前説得するのも骨が折れるよ」
「な、なによ、それ」
 笑いながら匠己が再び歩き出す。香佑は、少し膨れながら、その後について歩き出した。
 知らなかった。
 何故だか潤みそうになった目を、香佑は急いで指で拭った。
 知らなかった。好きな人に自分の父親を褒められるのが、こうも幸せなことだなんて。
 想像したことさえなかった。たったそれだけのことが――泣けるほど嬉しいなんて。
 悔しいけど、いつだってこの人は、色んな感情を私に教えてくれる。こんな苦しさも幸せも、他の誰にももらえなかった。
 愛されて、頼りにされて、必要とされる恋愛はすごく安心できるし気が楽だった。でも同時に、泣くほど苦しむことも、泣くほど幸福なこともなかった。そういう相手は私には――昔も今も、匠己一人だけなのだ。
「それからな」
 前を行く匠己の背が、不意に言った。
「俺たちのことなんだけど」
 それには、香佑は少し表情を強張らせていた。
 なんの話だろう。彼の口調や背中から、漠然とした言いにくさが伝わってくる。
「あのな」
「……うん……」
「悪かったよ」
 ――え?
 うつむいて息を吐いた匠己が、香佑の方を振り返る。
 香佑は、匠己を見上げていた。月光が、しらじらとその顔を照らし出している。
「結婚した理由はどうあれ、俺は少なくとも、お前を奥さんとして扱わなきゃいけなかった。お前は他の従業員とは立場がそもそも違うんだ。俺、――全くそこに気づかなかった。慎さんに叱られて、初めて目が覚めた気分だったよ。本当に悪かった」
「…………」
 高木慎が――
 慎さんが、匠己を叱ってくれた――
「お互いに恋愛感情がない以上、本当の夫婦になる気はない。それは、最初にも約束した。でも――それは、あくまで俺たち二人だけの問題だ」
「……うん」
 恋愛感情――私は、あるけど……。
 が、今それを言っても仕方がない。他に好きな人がいる彼を困らせるだけだろう。香佑は口をつぐみ、匠己の出した結論を聞くことにした。
「対面的には、俺はお前の亭主だし、お前は俺の奥さんだ。だから――これからは、そういう風に振る舞うことにした。でなきゃお前の立場がないだろ」
「………うん」
 しばらく呆気にとられていた香佑は、ようやく、彼の言いたいことを理解して頷いた。
「てか、そんなことに、今頃、気づいたんだ」
 てっきり、妻が名ばかりだから、あえてないがしろにするのがこの人のやり方なんだと思っていた。周りも何も言わないし、これがこの家のやり方なんだって。
「私の立場なんて、そもそもないんだと諦めてたけど」
「……まぁ、だから……悪かったよ」
 匠己は、気まずそうに視線をそらす。
「責められても仕方ないけど、結婚なんて、人生で初めて経験するんだ。なんていうか――想定外なことだらけで、……ちょっと、困る」
 困るくらいなら、最初から結婚なんてしなきゃよかったのに。
 香佑は、少しだけ笑っている。
「じゃあ聞くけど、一体何を想定して、何が想定外だったわけ? てか、本当に何かを想定してた?」
 それには、匠己はしばらく黙っていた。
「まぁ、――してないといえば、してなかった」
 やっぱり。
「あんたって本当、行き当たりばったりなんだから。そういえば、それで昔も、何度も山で迷子になったよね。警察まで出動してみんなが大騒ぎしてる時に、ひょっこり帰ってきたりして……本当に人迷惑なんだから」
「俺、言ったんだけどなぁ」
 匠己は、心外そうに頭を掻いた。
「どんなに奥に入っても、絶対に迷子にはならないって。だって石が帰り道を教えてくれるんだよ。マジな話」
 信じないよ。誰も。
「今度も、石が行き先を教えてくれるの? 私まで道連れなんだから、迷子になんてならないでよ」
「任せとけ」
「なによ、それ」
 言いながら、香佑は思わず笑っていた。
 そっか――
 上手く言えないけど、これでやっと、振り出しに立てたような気がするよ。
 あんたには石の声が聞こえるのかもしれないけど、私にはせいぜい蛙の声しか聞こえないから。
 行く先も帰る場所も判らなくて、ずっと不安で、ずっと一人で迷っていたような気がするけど、ようやく――今、先を行くあんたの背中が、見えたような気がするよ。
 それでも、あんたには他に好きな人がいて、私とは、いずれ別れるための道を歩いて行くんだろうけど。
 特に行き先もない夜の散歩は、その辺りが終着点になった。元来た道を帰りながら、香佑はこの時間が終わってしまうことに、不思議な寂しさを覚えていた。
 明日は、どんなことが待っているんだろう。それはこの男と生きていく限り、いつまでもさっぱり見えてこない。
「もう、今回の京都みたいに、遠くに行くようなことはないの?」
「当分は、ないな。仏像の仕事も途切れたし」
 遠くを見ながら、考えるように匠己が答える。
「今度行くなら東北かな。年明けくらいに、一度師匠のところに挨拶に行こうと思ってるんだ」
「師匠って、仏像の?」
「うん。こっちに戻って以来、ずっとご無沙汰していたからな。今は大きな仕事を抱えていらっしゃるから――年明けだな、やっぱり」
 来年か。そりゃまた随分先の話だ。
 その頃、私は――まだこの人の隣にいるのかな。
「一緒に行く?」
 前を見たままで、匠己は言った。
「――え?」
「東北、岩手のあたりだけど」
「…………」
 香佑は一瞬呆けたように瞬きをした。
「嘘、冗談」
「うん、行くっ」
 二人の声が重なりあって夜に響く。
 ――え?
 そして、驚いたような目が重なりあう。
「いや、冗談じゃなくて」
「嘘、今の嘘だから」
 その声もまた被っている。
 二人はしばし、眉を寄せるようにして見つめ合った。
「……なに、どっちが本当」
「そっちこそ……」
 頬のあたりを指で掻き、先に目を逸らしたのは匠己だった。
「ま、その時の雰囲気でな」
「う、うん。そうだね」
 夜で本当によかったよ。と、香佑は心から思っている。
 そうでなきゃ、とんでもなく赤くなった顔を見られている。
 恋をしてるって、一目で見抜かれるような表情を、見られていたと思うから――
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。