10
 
 
 午前6時前――当たり前だが、まだ従業員は誰も来ていないようだった。
 自分が、この家にまだいる不思議を感じながら、香佑は持参したエプロンをつけて、部屋を出た。
 家の中――それがどこからかは判らないが、ふっと五感に染みてくるような、ひんやりとした水の底のような匂いがする。
 なんの匂いだろう。
 昨日は気がつかなかった。そう、土の匂い……凍った冬の土の香に似ている。
 石の、匂いだ。
 自分が石を扱う家に嫁入りしたことが、ふと不思議な静かさと実感を持って胸にこみあげてくる。
 結婚はもちろん形だけだけど、自分はもう、この家の中で生活しているのだ。
 家中のカーテンと雨戸を開けて、香佑は静まり返った台所に入った。
「美桜ちゃん、借りるね」
 申し訳程度に断ってから、冷蔵庫を開けて、朝食に使えそうな食材を探した。
 料理は、得意ではないけれど、作るのは好きな方だ。仕事を初めてから、ずっと忙しい生活が続いていたから、手際よく作る術も心得ている。
 ――なにやってるのかな、私。
 朝起きたら、絶対嶋木の家に戻るつもりだったのに――
 夕べ、雨が止んでから、匠己と2人で、この家に帰ってきた。
 これからどうする、とは匠己は何も聞かず、香佑もまた、何ひとつ先のことを口にしなかった。多分、一言でも聞かれていたら、「帰る」と断言していただろう。でも聞かれなかったから、結局は言わなかった。
 家に帰ると、匠己はすぐに天の岩戸――ようやく場所を知ったのだが、庭の外れにあるプレハプ作りの仕事場に戻ってしまい、香佑は与えられた部屋で、1人布団を敷いて、寝た。
 そうして今、台所に立って、冷蔵庫にあった葱を刻んでいる。
 台所は、一見、綺麗に片づけられていた。が、引き出しの中は乱雑で、冷蔵庫の中には、古い調味料や痛んだ野菜などが、無造作に詰めこまれていた。
 どうやら美桜は、あまり片付けが得意ではないらしい。
 ――さて、問題はそれを私が片付けていいかどうか、だけど。
 そんなことを考えつつ味噌汁の味を見ている時、台所の窓がいきなり開いた。
「おう、おはよう」
 何故かその時、目の前で透明なものがぱちぱちっと弾けた。香佑はぎゅっと目を閉じて首を振った。なんだ? このおかしな感じ。
「飯? 悪いけど、なんかすぐに食えるものあったら食わせて」
 サンダルを脱いだ匠己が、窓から直接家の中に入ってきた。地面から五十センチ程度の高さがある窓だが、普段もそこから日常的に出入りしているのか、窓の下には、いかにも足を乗せてくれと言わんばかりの置石が据えられている。
 冷蔵庫を開けようとした匠己が、ふと手をとめて、香佑の顔をのぞきこんだ
「……? ゴミ? 目に入ったんなら見てやろうか」
「ち、違うわよ。ちょっと日差しが眩しかったから」
「ふぅん」
 牛乳をコップに注いで飲み干しながら、匠己は8人掛けの大きなテーブルについた。
 なんだったんだろう。今の。
 いきなり飛び込んできた匠己の姿を見た途端、目の前がちかちかっとして――なんだかこう、眩しい、みたいな?
 いや、ありえない。あるはずがない。こんなむさ苦しい、泥みたいに薄汚れた男に見惚れるなんて。地球が滅亡してもあり得ない。
「ゴミといえば、これ、どこに捨てたらいいわけ?」
 再度ぶるぶるっと首を振った香佑は、台所の隅に固まっているゴミ袋を指差して、言った。
「分別とか、どうなってるの? 缶もビニールもごっちゃになってるみたいだけど」
「ゴミなら、ちょっと離れたとこに、収集場があるんじゃねぇかな。そういうの、慎さんがよく知ってるから聞いてみて」
「……収集日は?」
「それも慎さんに聞いてみて」
 他人事みたいに言いながら、牛乳をもう一杯グラスに注ぐ匠己を、香佑は眉を寄せて見つめていた。
「あんた……本当に家のこと、何も知らないの?」
「うん。興味もねぇし」
 いや、興味とか、そう言う問題でもないと思うんだけど。
「ついでに聞くけど、家のお金とか、どうなってるわけ」
「金?」
 訝しく顔を上げる匠己に、香佑は誤解されじと急いで言葉を継いだ。
「会社のお金じゃなくて、家。家計のお金。公共料金払ったり、食料や服買ったり。どう考えたっているでしょ。色々」
「ああ、――それも、慎さんかな」
 それさえも?
 平然と答える匠己を、香佑は口を開けたまましばし見つめた。
「なん、で?」
「なんでって、慎さん節約上手だし、家計簿もまめにつけてくれるし、おふくろも頼り切ってんだよ。うち、随分経営が苦しい時期もあったしな」
 はぁっと溜息をついて、香佑は匠己の前に、出来たばかりの味噌汁の椀を置いた。
「あんた……いっそのこと、慎さんと結婚したらよかったんじゃない?」
「はぁ? なんだよ、そりゃ」
 そっか。
 家計握ってるのは、あの子じゃなかったんだ。
 高木慎。ある意味、横山美桜より強敵ではあるけれど。
 それでも、女の感情的には少しだけ収まったような気がする。
「あれ、慎さん、えらい早くないですか」
「お前こそ、何かあったのかよ。まだ七時前だけど」
 そんな声が、風を通すために開けておいた勝手口の向こうから聞こえてきたのはその時だった。
 
 
「いやぁ、だって、女将さん夕べ出てったし。師匠の仕事も追い込みだし。もしケンカがこじれて実家に帰ってんなら、俺が迎えにいった方がいいのかなぁって」
 声の一人は、宮間信由だ。
 もう1人の名前はすでに出ている。慎さん――高木慎。
 昨夜、彼に浴びせかけられたあまりに冷たい言葉の数々を思い出し、香佑は、自分の顔が強張るのを感じた。
「そう言う慎さんは? なんでこんなに早く来たんですか」
「ま……、ちょいと寝ざめが悪くてさ。俺がきついこと言って、追い出したようなもんだから」
 ぶっと宮間が吹き出すのが判った。
「慎さん、真っ先に追いかけていきましたもんね。挙句、溝に落ちちゃって。案外間抜けなんだから」
「おい…………殺すぞ」
「痛めた足引きずって来るほど心配なら、最初からキツいこと言わなきゃいいんですよ」
「うるさい」
 ――え……。
 香佑は少し驚いて、テーブルの対面に座る匠己に目をやった。
 匠己はわずかに肩をすくめたものの、見せた反応はそれだけだ。
「あれ。なんかいい匂いしませんか」
 香佑が急いで立ち上がろうとする前に、勝手口が大きく開いた。
 一瞬、目を瞬かせた宮間が、やがてあんぐりと口をあける。
「慎さん、女将さんと師匠が仲良く飯食ってる!」
「はい?」
 続いて、慎も顔をのぞかせる。やはりぽかんと口を開ける。
 それから数秒の沈黙ほど、気まずいものはなかった。
 おそらく双方が、今の会話が筒抜けだったことを認識している。香佑は、慎の足首に巻かれた包帯についてどうコメントしていいか判らなかったし、慎は慎で、いかにもしくじった――とでも言いたげな、不機嫌そうな顔になる。
 宮間は――何故だかひどく驚いているようで、「え? え?」と言いながら香佑と匠己を交互に見ている。
 そんなに大袈裟に驚かれなくても、新婚夫婦が朝食を一緒に食べる風景くらい、結構当たり前だと思うのだが――
「2人とも、飯まだなら、食わせてもらえよ」
 匠己が、茶碗の白米を口に運びながら、何事もなかったように言った。
「結構上手いよ。味噌汁なんていい出汁でてるし」
「いや……まだっていえば、まだだけど」
 弾かれたように呟いた慎が、香佑と目があった途端、どこか不快そうにそれを逸らした。
 香佑はそれを――あえて楽観的に、昨夜のことが気まずいからだと受け取ることにした。
 ここの人たちも、仕事も環境も、何もかも香佑は好きではない。
 でも、昨夜、悔しいけど気づいてしまったことがある。自分が好きになれない以上、相手も絶対、自分のことを好きになってはくれないものだ。
 それに。
 理由はどうあれ、2人とも一応、心配してくれていたみたいだし。
「食べてよ」
 とはいえ、少しばかり攻撃的に、香佑は言った。
「き、昨日の言い方には、カチンときたけど、だからって毒なんか入れないから」
 むっと、慎の秀麗な眉が寄せられる。
「お前が、竜さん、やくざだなんて言うからだ」
「背中に刺青があったら、誰だってそう思うわよ」
「偏見だな。だから浅はかな女は嫌いなんだ」
「それは、偏見とは、い、い、ま、せ、ん! 10人中10人が、まずそう思うに決まってるじゃない」
「なんだと?」
「まぁまぁまぁまぁ」
 そこで、辟易したように宮間信由が割って入った。
「慎さん、そりゃ女将さんの言うとおりだよ。誰だってそう思う。実際、竜さん元ヤーさんだしさ」
「なっ、お前、一体どっちの味方なんだよ」
「いや、味方とか敵とかそもそもないでしょ。慎さん、いい年して考え方が子供すぎ」
 ぴしっと、慎の額に青筋めいたものが走った気がした。
「そういうお前はなんなんだ。ポリシーのない日和見主義者か。そんなだから、いつまでも1人立ち出来ないんだよ。根性なしの元ヤンキーが」
「……なんだと? 今、なんつった」
 温厚そうな宮間の目に、ゆらりと暗い焔がよぎる。
 なんなの、いったいこの2人。仲がいいのか悪いのか。どうでもいいけど、こんなところで喧嘩なんて始めないでほしい。
 香佑は救いを求めるように匠己を見たが、――見る時間さえ無駄だった。匠己は、この騒ぎなど耳にも入らないように、平然と味噌汁を口に運んでいる。
「やるんなら外に出ろよ」
「おう、出ようじゃねぇか」
 ちょっとちょっと、冗談じゃないわよ。
「――あの!」
 高い場所から飛び降りるような気持ちで、香佑は声を張り上げた。
 睨みあっていた慎と宮間が、少し驚いたように振り返る。
 正直言えば、何を言うつもりで声を出したのか、自分でもよく判らなかった。が、判らないままに――言葉は自然に口から出ていた。
「竜……加納さんには、私から……謝るから」
 ちょっと面喰ったように、慎が綺麗な目を瞬かせた。
 宮間もまた、虚を突かれたように眉を上げる。
「昨日は、間違いなく私が悪かったと思ってるから。……ああいう無神経な言い方をしたことは、ちゃんと私の口から謝るから」
 だから――その。
「もう、……その、昨日のことは忘れようよ。べ、別にあんたに何か言われたからって、それだけで飛び出したわけでもないから」
 言った――。
 別に謝ったわけでも、自分が悪かったと認めたわけでもない。もちろん、この家に残ると決めたわけでも。
 でも――そう、この場の剣呑な空気を収めるために、ひとまず大人になったのだ。
 香佑は言い訳がましく、自分の取った態度の理由を心の中で解析する。
 奇妙な沈黙のあと、明らかに気まずげに視線を伏せたのは慎だった。
「べ……別にそういうの、俺にいちいち報告されてもな」
「べ、別に、あんたにいちいち報告したわけじゃないわよ」
「てか2人、どんだけツンデレなんですか」
 宮間が、呆れたようにそう言った時だった。
「ま、そういうことでいいんじゃね?」
 匠己が、笑いを噛み殺すように言って、立ち上がった。
「いいんじゃねって、おま――いつもいつも他人事みたいに」
「従業員のことに口出すなっつってんの、慎さんじゃん」
 食器をシンクに置いて、匠己は振り返った。
「こいつなら、多分、皆ともうまくやっていけるよ。だから、悪いけど、こいつに、家と店のこと教えてやってくんねぇかな。俺、何もしらねぇから」
「……そりゃ、いいけど」
 慎は、疑念をこめた目でちらり、と香佑の方を見る。信じていいのか、とでも言うような目つきだ。
「でも、嶋木」
「ええっ。もしかしてまだ苗字で呼んでんすか、師匠!」
 と、そこでまたもや口を挟む宮間。少しばかり面喰ったように、匠己はこりこりと耳のあたりを掻く。
「まぁ、そのあたりはおいおいな。――嶋木、料理とか掃除とか家のことは基本、美桜に任せて大丈夫だから」
 え……。それは、でも。
 さすがに、そればかりは「判った」とは言いかねた。それじゃ、主婦としての私の立場はどうなるんだろう。――って、私、もうこの家の主婦になる気でいる? もしかして。
「お前は慎さん手伝ってやって。どっちかっつったら、慎さんの方がいっぱいいっぱいで働いてっから」
 今度は香佑が、慎の方をちらっと見た。やはり、信じていいの? と思ったからだ。
「それから――」
 言い差した匠己が、初めて迷うように言葉を切った。
「こいつ、香佑って名前だから。香りに人偏に右。今度から、ちゃんと名前で呼んでやって」
 ――え……。
 慎と宮間、両方の視線を浴びて、香佑は戸惑って視線を下げた。
 え、てゆっか、なんで吉野が、私のフォローをしてくれるわけ?
 なんだか癪に障るじゃない。まるで、私の気持ちを、全部読まれてるみたいな。――
「いや、……つーか、それ以前にまず自分が名前を呼ぶべきなんじゃないっすか?」
 ややあって宮間が訝しげに呟いた時には、もう匠己は台所の窓から外に出ていた。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。