11
 
 
「こっちが葬儀関係の本。こっちが宗教関係な。それで、こっちが石の見本誌で、特徴とか産地とかそういうのが全部列挙されてるから」
「う、うん……」
 戸惑う香佑の前に、どさどさっと分厚い本の山が積み重ねられる。
「で、こっちが全国の墓地の宗派と料金のリスト。それからこっちがキリスト教と神道の葬儀の……」
「ちょ、ちょっと待ってよ。慎さん」
 たちまち、むっと慎が眉をあげる。
「馴れ馴れしく慎さんって言うな」
「……高木さん」
 心の中で拳を握りながら、香佑はゆっくりと言い直した。
「百歩譲って、日本の宗教までは判るけど」
「譲ってもらう必要なんてない。宗教の勉強は墓屋の基本中の基本だ。宗派によって、法要の仕方も違うし、寺院墓地を選ぶ時の基準にもなるんだ。いいか、日本には在来仏教がいくつもあって、主要なものだけでも13宗あるんだぞ」
 は……はい?
 寺院墓地? 在来仏教?
 意味が判らず、香佑は目を泳がせる。
「よ、よく判らないけど、別に私たちが、葬儀までやるわけじゃないんでしょ」
「当たり前だ。俺たちは坊主じゃないし、ここは祭儀場じゃない」
「じゃあ、どうしてそこまで勉強しなくちゃいけないの?」
「……あのな」
 ぴくっと慎の珊瑚みたいな唇が震えた。
「墓建てる時にはな、宗派ごとの決まりや縛りみたいなものがあるんだよ。そういうの、お客さんは全部、まるっとうちに相談してくるんだよ。わかんねーから他所あたれって、お前、確か昨日の電話で言ってたよな?」
「……まぁ、それは」
 確かに言われるとおりだった。だってペットの埋葬とか、それを人間と一緒に埋めていいかなんて相談、どちらかと言えば行政にすべきなのかな、と思ったからだ。
「いいか。あんな対応してるとな、お客さんがどんどん他所に逃げてっちまうんだ。このド田舎で、一体一年に何人が死んでると思う? 死人をただ待ってたらな、墓屋なんて商売あがったりだ!」
「…………」
 あの……。
 香佑はやや唖然としながら、慎の端正な顔を見上げていた。
「なんかこう、すごく違和感あるんですけど」
「何が」
「だって、人の死を……まがりなりにも、死を、ですね。そんな言い方ってないんじゃない」
「なんで」
「なんでって」
「さっきも言っただろ。俺たちは坊主じゃないし、ここは祭儀場じゃないんだ」
 怒っていても几帳面な性質に揺らぎはないのか、慎は、本をミリ単位もずらさずに重ね直しながら続けた。
「石屋は職人だ。墓石は作品であり、同時に商品でもある。少なくとも俺は、墓石を見ると、その産地と金額しか頭に浮かんでこないね。すぐに電卓を叩きたくなる」
「はぁ……」
 それはすごいというか、徹底しているというか。さすがは氷の心を持つ男。
 まぁ、職人なんてきっとそんなものなのだろう。墓のひとつひとつに、感情移入していたら務まらない。いや、それならまだしも、匠己なんて、むしろ嬉々として墓石を彫ってそうだ。
 昔から、墓石の前で嬉しそうに笑ったり、石を撫でたりしていたから――
 ああ、なんて理解できない世界!
 香佑はげんなりしながら、積み重ねられた本に向きなおった。
「そうだ。それからお前に、ひとつだけ仕事をやる」
「えっ?」
 現金なもので、香佑は目を輝かせて振り返っていた。
「なになに、なんなの? なんでもするからなんでも言って」
 その剣幕には、慎がやや引いてしまったようだった。が、彼はすぐに体勢をたてなおし、どこか含みのある冷淡な笑顔になった。
「ま、それは午後に改めて教えてやるよ。その前に勉強、それからご近所に挨拶周りに行って来い。田舎のコミュニティーは、あんたが思っているよりずっとずっと厳しいからな」
 
 
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「禅宗が空風火水地で、浄土宗が南無阿弥陀仏、日蓮宗が……」
「何ブツブツ言ってんっすか」
 訝しげな宮間の声に、香佑は我にかえって顔をあげた。
 その日午後――作業場を兼ねた事務所からは、石を削る音が聞こえてくる。残り物の昼食を1人で食べた香佑は、昨日の詫びも兼ねて、改めて吟と名乗った老人の家を訪ねてみるつもりだった。
 ついでに――といってはなんだが、ご近所への挨拶回りも併せて済ませておこうと思っていた。田舎の町内会とは都会のそれより結束が強く、新入りの嫁が挨拶なしで済ませることなど、慎さん曰く「村八分にされたいなら、勝手にどうぞ」――であるらしい。
 本来なら義母のミヤコか、夫の匠己が同行してくれて然るべきだと思ったが、ミヤコは叔母の家に行っているし、匠己といえば、朝から仕事場にこもったままだ。――いや、それ以前に、そういったご近所付き合いを彼に期待する方が無理かもしれない。
 相変わらず何もすることがない香佑は、午前はひたすら宗教関連の本を読んでいた。
 絶対に完璧に覚えて見返してやる――と意気込んだものの、そもそも興味のない分野は、さっぱり頭に入らない。
「駄目。暗記しようと思ったんだけど、読んだ端から忘れてるみたい」
 香佑が抱えている本を見て、宮間はげっとでも言うように眉をあげた。
 2人は今、店舗横のガレージに向かって歩いている。そこに夕べパンクした自転車があって、朝の内に宮間が修理しておいてくれたのだ。
「そんなのいちいち暗記する必要なんてないっすよ。てか、南無阿弥陀仏って墓に刻む文字のことでしょ。そんなもん、パンフ見ながら説明できれば十分ですって」
「だって、えらそうにいちいち講釈垂れてくるんだもん」
「慎さんっすか?」
「他に誰がいるのよ」
 はぁっと息を吐き、宮間はガレージの中から、古びた自転車を引き出してきた。
「どうでもいいけど、慎さんといちいち張り合おうと思う方がどうかしてますよ。あの人、性格も口も悪いけど、頭だけは天才的にいいですもん」
 また出たよ。宮間の大袈裟な形容詞。
 香佑は話半分に聞き流している。
 だいたいどこの天才が、こんなド田舎で墓石屋なんかやってるのよ。
 まさに狭い世界の英雄ってやつで、東京に出てみれば、たちまち身の程が思い知らされるに違いない。かつての香佑が、そうだったように。
「宮間君、この町から出たことないの?」
「ノブでいいっす。ないですよ。生まれた時からずっと下宇佐です」
 慣れた手でサドルの高さを調整しながら、宮間は答えた。
 そっか――それは、ある意味幸せだ。
 厭味ではなく、香佑は本当にそう思って、青く晴れた空を見上げた。
 私も、生まれた町を出なかったら。
 ずっとこの町で、腐れ縁みたいに好きだった人を、一途に見つめて生きていたら。
 引き出された自転車は銀色の28インチで、相当な年期物のようだった。
「随分古い自転車だね。昨日はよく判らなかったけど」
「これ、師匠が高校んとき使ってたやつです。奥さん来るからって急きょ倉庫から引っ張り出したんですよ。この辺り、お隣さんに回覧板持ってくだけでも、結構な距離があるから」
「……へぇ」
 吉野の、自転車。
 香佑は少しの間、返す言葉を失っていた。
 知らなかった。当たり前だ。高校生になってからの匠己のことを、全くと言っていいほど香佑は知らない。どんな自転車に乗って、どんな髪型をして、何に夢中になって、誰のことを好きだったのか。
 自分の知らない匠己を思い、香佑は少しだけ切なくなる――と、その感情を、急いで首を振って押しやった。彼方に飛んで行け、ノスタルジー。二度と、あんな男に恋なんてしない。
「なに、嶋木どっか行くの?」
 その時、彼方に放ったノスタルジーが、あたかもブーメランみたいに舞い戻ってきた。
 しかも、思いもよらない方角から――国道の方からだ。見れば青いトラックがゆるゆると近づいてきて、その助手席から、匠己が顔を覗かせている。
「おうノブ、今から吟さんとこ行ってくるわ。修繕終わったから、取りつけ行ってくる」
「ええっ、師匠自ら行かなくても、取り付けだったら俺行きますよ」
「いや。吟さん、俺じゃねぇとうるせぇから」
 腰に腕を当てた宮間が、ちらっと香佑の方を振り返る。
「……吟さんとこなら、女将さんも行くみたいっすけど」
 ――私?
 香佑は大慌てで、首を横に振っていた。
「わ、私なら一人でいいし。吟さんとこだけじゃなくて、色んな家を回るから!」
 なんだろう。これ以上匠己と無意味に接近したくない。
 形だけとはいえ結婚までしておいて、そんな風に思うのはおかしいのかもしれないけれど。
「いいんじゃないですか。取りつけの後、ご一緒に行かれたら」
 錆を帯びた声で口を挟んだのは、運転席の加納竜二だった。
「ミヤコさんも言われてたじゃないですか。ご近所さんへの挨拶回りですよ。いくらなんでも奥さん一人で行かせるのはお気の毒だ」
「そっか。んじゃ、仕事終わったら俺と一緒に行くか」
 匠己は面倒そうに頬の辺りを掻くと、停まったトラックから飛び降りた。
「乗れよ」
「えっ、……吉野は?」
「俺、荷台に乗るから。ほら」
 ほらって――。
 空いた助手席を示されても、香佑はどうしていいか判らない。
 匠己と一緒に ご近所巡りなんて冗談じゃない。恥の上塗りっていうか、だいたいご近所に挨拶にいくのに、タオルを頭に巻いた作業着姿ってどうなのよ。
「奥さん、よろしければ、ぜひ」
 加納が、彼の職業にとっては一切無意味な美声で言った。
 口実をつけて断ろうと思っていた香佑は、何故だかそのバリトンに気圧されたように、う、と言葉に詰まっている。
「これから店でやっていかれるなら、仕事の現場はなるべく目にしておいた方がいい。お乗んなさい。石の仕事をしようという者にとっては、きっといい勉強になりますから」
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。