8
 
 
 立ち上がった途端、グルル……と腹が面白い音をたてた。
 惨めさがほとほと身に染みる。着替えと歯ブラシを抱えたまま、香佑はそろそろと部屋を出た。
 午後十時。周囲がようやく静かになったから、従業員も皆、引き上げたのだろう。
 匠己は戻ってくる気配もないから、天の岩戸とやらで相変わらず仕事をしているに違いない。
 ここの敷地にあるのは石材店と家だけではない。墓石や仏像の陳列スペースがあって、トラックや石置き場や、プレハブの建物なんかもあったりして、とにもかくにも相当に広いのだ。そこのどこに匠己がいるのか、見当もつかないほどだ。
 なんにしても、これでようやく1人になれた。やっと――やっとお風呂に入れる。
 従業員も使うという風呂場に、正直、いつのタイミングで入っていっていいか判らなかったのだ。 
 それにしても、本当にとことん惨めな境遇だ。家事は他の女に仕切られて、食事も入浴も自由にできない。店の手伝いさえ拒否された挙句、姑と夫にも放置されっぱなし状態。ただ、部屋に閉じこもっているだけの、幽霊みたいな存在なんて。
 渡鬼のピン子だって、ここまで追い詰められはしなかったろう。まだこき使われた方がマシなくらいだ。存在そのものを拒否されるより。
 ――あの子……さすがにもう、帰ったよね。
 美桜の存在にびくびくしながら、家の中を歩きまわっている自分も憐れだ。
 食事だけではない、掃除も洗濯も、つまるところ家事の全ては、美桜がそつなくこなしているようだった。
 夕方、香佑が部屋から出ると、もう洗濯物が取りこんであり、美桜は台所に立っていた。掃除機は置き場所が判らず、倉庫には鍵がかかっている。
 冷蔵庫だって――勝手に開けていいかさえ、もう香佑には判らない。
 中に入っているのが従業員たちの賄いの材料なら、きっと、手を出してはいけないのだろうし、それが美桜の領分なら、出したくもない。
 家の中は、台所と廊下に電気がまだ点いていた。一瞬警戒した香佑だったが、人の気配はないようだった。
 ――冗談抜きで、餓死する前に、ここ、出て行った方がいいのかな。
 ふぅっと溜息をひとつついて、脱衣場の扉を開けた時だった。
 男の、背中が目の前にあった。
 香佑は息をとめていた。息だけではない、時間ごと凍りついたようだった。
 ただの背中ではない。そこに青く色鮮やかに描かれた観音菩薩――
 刺青。
 ヤクザ――
(おう。ねぇちゃん。別嬪さん。あんたなら金稼ぐ方法、いっくらでもあるだろうが)
(あんたの彼氏が、うちに借金作って逃げたんだよ。あんた、彼氏の金で随分贅沢したんだろ?)
(来いよ。あんな馬鹿な彼氏のことなんて忘れてさ。俺が溶けるほど可愛がってやるからさぁ)
「い……っ」
 嫌――。
 叫ぶよりも、恐怖にひきつった声をあげた香佑を、男はゆっくりと振り返った。
 知らない顔だ。
 髪は五分刈りで、目が鋭く研ぎ澄まされている。顔には深みのある皺が刻まれており、壮年――といっていい年代だ。
 その眼光がふっと和らぎ、男は唇を動かして何かを呟いたようだった。
「……奥さん?」
 と、そう言ったのかもしれない。その声が耳に入る前に、香佑は扉を思いっきり締めていた。
 誰?
 なんで?
 どうして刺青背負ったヤクザが、風呂に入ろうとしてるわけ?
 頭はパニックも同然で、何を、どう考えていいかさえ判らなかった。
 玄関で、誰のものとも判らないサンダルをつっかけると、香佑は夜の闇に飛び出した。
 誰か――どうしよう。警察に――
「どこいくの」
 冷めた声と懐中電灯の灯りが、背後から香佑を呼びとめた。
 香佑は、救われたように振り返る。
「このあたり、街灯なんていっこもないから、夜出歩いたらマジ、溝に落ちて死んじゃうよ。匠己のところになら、今行かない方がいいと思うけど」
 ――慎……さん?
 懐中電灯を片手に、ヘルメットを抱えている男は、暗くて顔はよく判らなかったが、冷めた声は、明らかに慎のものだった。
「そ、そんなことより」
 半ばパニック状態のまま、香佑は叫ぶように言った。
「い、家の中にやくざがいるの。どうして? なんで? 一体、ここって、どうなってるの?」
「やくざ?」
「せ、背中に刺青――そんなのが、家のお風呂に入ってたのよ!」
「……ああ」
 ようやく合点がいったのか、慎は、家の方をちらっと振り返った。
 自身の持つ懐中電灯が、その慎の顔を闇に仄かに浮き上がらせる。
「あの人はヤクザじゃないよ。うちの従業員。朝、顔だけは見てるでしょ。加納の竜さん」
 竜さん? あの頭をタオルで覆って、色眼鏡をかけていた人? そんなの、顔なんて判るわけないじゃない。
「じゃあなんで、刺青なんてしてるのよ!」
 殆ど金きり声で、香佑は言っていた。
「そんなの、普通の人じゃないに決まってるじゃない。どうしてそんな人を雇ってるのよ。おかしいじゃない! 一刻も早く追い出してよ!」
「…………」
 闇の中で、慎が、ひどく冷やかに香佑を見ていることだけは、判った。
「じゃあ、あんたが出て行けば」
「…………」
「あんた。金欲しくてうちに来たんだろ? うち、去年は大分儲かったからね。でもそれは、死んだ先代の置き土産。今は違う。匠己が、そもそも大量生産とかダメな人だから」
 なに、それ。
 香佑は凍りついたまま、淡々と喋る男を見上げている。
「とはいえ、去年の収入も借金返済でほぼトントン。そういうの期待してんなら、早目に出てった方がいいと思うよ。匠己に聞いてみな。使えないあんたより、間違いなく熟練の竜さんの方選ぶから」
「慎、いい加減にしろ!」
 鋭くて低いバリトンが、慎の背中から割って入った。
「奥さん。すみません。どうやら、驚かせてしまったようで」
 さっきのヤクザ――。
 香佑は反射的に後ずさっている。
「社長からお聞きおよびだと思っていました。そうでないなら、なんと言っていいか……、あれは私の、若気のいたりなんでございます」
 声と共に、大きな影が、慎の背後から歩み寄ってくる。香佑は、無意識にその分だけ後ずさっていた。 
 いやだ。
 絶対に、嫌。
「……奥さん?」
「奥さんなんて呼ばないで! 私、奥さんでもなんでもないんだから!」
 自分でも何を叫んだのか判らないまま、香佑は飛ぶように後に下がった。
「私が出ていく……。もう、絶対こんなところには戻らない」
 こんな、最低なところ、二度と戻って来るものか。
 糸が切れたようにきびすを返した香佑は、そのまま後も見ずに駆けだした。
「奥さん!」
「おい、溝に落ちたら怪我するぞ!」
 竜と慎の声だけが、折り重なるようにして背後で聞こえた。
 駐車場まで辿りついた香佑は、殆ど無意識に、そこに置いてあった自転車の一台に飛び乗った。
「ちょっ、あんたっ、その自転車は!」
「慎、てめぇがおっかけろ。俺は社長に知らせてくる」
 2人の声が最後に聞こえたが、振り切るようにして、香佑はペダルを踏み込んだ。
 とにかく、走るだけ走って、警察のあるところにまで行こう。
 そこで保護してもらって、事情を話して、この町を出て行こう。
 もう、一秒だって居たくない。
 最低の環境、最低の人たち、最低の配偶者。
 ここじゃないどこかなら、もうどこだって構わない――
 
 
            9
 
 
 漫画だな。
 降りしきる雨を見ながら、香佑はぼんやりと思っていた。
 漫画。何もかもが一昔前の漫画みたいだ。そうして私は、その漫画の登場人物の一人なのだ。ただし、間違ってもヒロインではない。
 自転車は、走りだしてほどなくして前輪の空気がなくなり、ついで、後輪もぺしゃんこになった。
 なるほど、最初から空気が抜けていたから、鍵もかけずに駐車場の前に放置してあったに違いない。
 諦めて自転車から降りた途端に、空から雨が落ちてきた。それは数分後には冗談みたいな土砂降りになり、香佑は、あぜ道沿いにあるトタン屋根の下に逃げ込んだ。
 おそらく、畑仕事の際、日よけに使うために作られたのだろう。風が吹けば吹っ飛ぶ程度のずさんな作りだったが、ひとまず雨だけはしのげるようだ。
 ――昼間、無駄に車走らせたのが、よかったかな。
 このあぜ道にトタン屋根の小屋があることは、その時に知って覚えていたのだ。そうでなければ、この真っ暗闇の田舎道で、ただ雨に打たれるだけになっていただろう。
 ただし、ささやかな幸運は、しょせんそれだけのことに過ぎなかった。
 胃は、空腹で痛いほどで、身体中が汗と雨でベタベタだ。雨と闇に遮られて、これからどこにいっていいかさえ判らない。それどころか、財布も着替えも、全部忘れてきてしまった。
 まさに、絶体絶命のピンチ。
 この飽食の現代で、餓死なんて運命が自分を待っているとは思ってもみなかった。が、それは冗談でなく、半ば現実のものとなりつつあるのだ――
 その時、白っぽい光が、雨粒を裂いていきなり香佑を照らし出した。
 眩しさに香佑は眉をしかめ、同時に顔を背けていた。汗と雨でべしゃべしゃになった顔を、たとえそれが誰であっても、まともに見られたくなかったのだ。
「そんなとこに、いたのかよ」
 雨音に混じって、ひどくうんざりした声がした。それはすぐに、苛立ったような声に変わる。
「お前なぁ。たいがいにしろよ。皆がどれだけ心配したか、判ってんのか」
 水飛沫のカーテンを割って、大きな身体が香佑の隣に入りこんできた。髪も服も雨でずぶ濡れになっている。――匠己だ。たちまち狭い小屋の密度が増して、香佑は隅に逃げるように身を寄せる。
「ひっでー、下着までびしょびしょだ」
 ばたばたと水浸しのシャツをはたくと、匠己はそのままシャツを脱ぎ捨てた。 その無遠慮さに、香佑は半ば、唖然としている。
「……誰が心配してって頼んだのよ」
「は?」
 匠己が振り向く。裸の肩に、雨の滴が光っている。触れれば、弾かれるように逞しい身体だ。香佑は少しばかり気押されつつも、気持ちだけはひどく反抗的になって、言った。
「もう無理。あんたのとこにいられないことはよく判った。私、ヤクザなんかと死んでも一緒に仕事はできないから」
「…………」
「この話、さすがにうちの家は知らないよね。結婚してもないけど離婚します。父も納得してくれると思う。私、今夜中には実家に帰るから」
 暗い沈黙が怖かった。香佑は匠己の顔を見ないままで、じりっと後に後ずさった。とはいえ、狭い小屋の中、2人の距離は30センチも開いていない。
 怖かった。
 昼間の少しだけのやりとりで、匠己が意外に怒りっぽいことも判ったし、今もまた、昼以上に彼を怒らせているという自覚はある。
「……竜さんは、やくざじゃないよ」
 が、ふっと息を吐くように前を向いた匠己は意外なほど静かな声で、言った。
「お前、加納さんの名前フルで聞いたか? 加納竜二っていうんだ。笑うだろ。そのまんますぎて」
「…………」
 笑う、というより、匠己の思いの外優しい声に、香佑は言葉が出て来ない。
「ただ昔のことは、俺は知らない。竜さんは親父の頃からこの店にいて、親父が誰よりも信頼してた。俺には、それだけで十分だったけどな」
「…………」
「竜さんは優しいよ。うちの店、へんな奴ばっか揃ってるけど、俺が見る限り、竜さんが一番まともだ」
 そんなの――
 香佑は、迷うように視線を逸らした。
 そんなの、なんとなく判ってるわよ。
 加納竜二に対して、随分酷いことを言ってしまったという自覚はあった。香佑が慎に言い放った残酷な言葉は、おそらく彼の耳にも入っていただろう。
 なのに加納は、怒るどころか、かえって慎の方を止めたのだ。
 今朝だって、誰もが素っ気なく振舞う中、一番丁寧に挨拶してくれたのが、加納だったのに。
 なんだかもう、――子供すぎる自分が情けなくて、泣きたくなる。
「それだけじゃないわよ。だいたい私……嫌われているじゃない」
「誰に」
 香佑は、眉をあげて匠己を見上げていた。
「誰にって、全員に! 見ててそんなの判らない? 美桜って子なんか、露骨に嫌がらせてしてくるし――とにかく、もう嫌なのよ、こんな墓ばっかりの辛気臭いところ!」
 絶間ない雨だけが、激しくトタン屋根を叩き続けている。
 これで本当に終わりだと思った。これで本当に――この人とは終わった。そもそも始まってもいなかったけど。
「……嫌ってはいないと思う。好きでもないと思うけどな」
 が、それでも匠己は冷静だった。
「同じことじゃない」
「違うよ。全然違う。じゃあ聞くけど、お前は、うちの連中のことが好きなのか」
「はぁ? 今日会ったばかりの人を、どうやって好きになれっていうのよ」
 言った刹那、香佑は自分の矛盾に気がついていた。
 そう。それは――香佑だけじゃない。相手も同じことなのだ。
 しばらくの間、雨が地面を叩く音だけが、響いていた。最初に口を開いたのは匠己の方だった。
「なにが、あったんだよ」
 なにが?
 一瞬戸惑った香佑は、きっと隣の男を睨みつける。 
「だからさっきも言ったじゃない。美桜って子に嫌がらせされて、他の従業員には嫌われて、最後にはやくざがでてきて、それから慎っていけすかない奴が」
「んなことは、みんな知ってるよ」
 うんざりしたように、匠己が片手を上げて香佑を遮る。
「何があったんだよ」
 なに、が……?
 雨の飛沫が、2人の足元を濡らしている。
 淡い懐中電灯の光の中で、香佑は匠己の顔を、ただ見つめていた。
「聞くつもりなかったけど、やっぱ聞くわ。なんであんなに出たがってたこの田舎に戻ってきた」
「…………」
「なんで、俺みたいな馬鹿な石屋と結婚するって決めたんだ。驚くなって方が、無理だろ、普通」
 それは……。
「別、に、……特別な理由なんて、何もないわよ。仕事やめてブラブラしてたら、たまたま父が、見合いの話を持ってきてくれただけで」
「ふぅん」
 言えるわけないじゃない。
 東京で一緒に暮らしていた恋人が借金作ってトンズラして。取り立て屋のやくざにストーカーみたいにつきまとわれて。とにかく怖くて、何もかも捨てて逃げ出してきたなんて。
 わずかに唇を噛んだ香佑は、そのまま匠己を振り仰いでいた。
「だいたい私、あんたに、この町を出たいなんて言ってたっけ」
「言ってたじゃん。しょっちゅう言ってた。東京でデザイナーになるんだって、お前、公言してたじゃん」
「……してた?」
「卒業アルパム、まだ持ってたら、見てみな」
 初めて匠己が――多分、再会して初めて、香佑の前で笑ってくれた。
 何故かその笑顔に、恐ろしく危険な匂いを感じ、香佑は慌てて視線を伏せている。
「……へぇー、驚いた。私のことなんか、覚えていてくれたんだ」
「印象、強烈だったじゃん」
 ――強烈?
 香佑はむっとして、匠己を睨みあげている。
「私に振られても、あんたの感じた印象なんて知らないわよ」
 そりゃ強烈だったでしょうよ。5回も告白してきた女なんて。
 ごほん、と香佑は咳払いをした。
「でも――悪いけど、私の方は、あんまりあんたのこと覚えてなかったみたい。最初なんて、見合い相手の名前聞いてもピンとこなかったくらいだしね」
 それは、少しばかりの強がりだった。確かに当時の記憶はひどく曖昧になっていて、ところどころが思い出せない。吉野匠己のことがなんで好きだったかさえ、よく判らないくらいだ。
 ただ、それでも、他の誰と比べても、彼の記憶は鮮明に残っている。
 悔しいくらい――残っている。
 その時、匠己が独り言のように呟いた。
「……確か、7回くらい告ってきたような」
「……! 5回よ! 誰が7回も、あんたなんかに!」
 はっと口を抑えた時、男の横顔がわずかに笑んだ。
「よく、覚えてるじゃん」
 こいつ――。
 悔しさと恥かしさを懸命に堪えながら、香佑は早口で言い訳した。
「あの頃の私はね。多分、何かこう――頭のネジが狂ってたのよ。1人で幻を見てたっていうか。あんたを過剰に美化しすぎてたっていうか。人と違うことをしてみたかったていうかね」
 ん? と、意味が判らないのか、匠己がわずかに首をかしげる。
「つまりね。つまり――流行りものが好きって馬鹿みたいじゃない? 私はオリジナルを追及したかったの。自分にしか判らない価値感があるって、そんな風に――周りに思われたかったし、認められたかったのよ。つまり、――つまり、理屈先行よ。ほら、あんたのこと好きだった女なんて、当時は誰もいなかったじゃない? 私の特殊性を証明する、いわばツールだったのよ。あんたは」
「…………」
 言いすぎたし、半分はとってつけた言い訳だった。が、匠己はぱちぱちと瞬きをした後、納得した風に頷いた。
「まぁ、そんなとこなんじゃね」
 え、と、逆に香佑の方が拍子抜けしている。
「……怒らないの?」
「なんで? 俺が怒る必要ないじゃん」
 まぁ、それはそうでしょうね。振ったのはあなたで、振られたのは私なんですから。
 香佑がむっと押し黙ると、口元に僅かに笑みを残したまま、匠己は続けた。
「ま、正直に言えば、当時はかなり迷惑だったけどね。なんの気まぐれかクラスの人気者に毎年のように告白されて、地味に生きてた俺が、どれだけ陰湿なイジメを受けたか」
「……えっ、そうなの?」
「逆だったらどうか、想像してみな? 少しは、俺の立場が判るから」
「…………」
 それは――想像さえしていなかった。それでなくとも、クラスの落ちこぼれで、ややいじめられる傾向にあった墓屋の吉野。それが本当の話だとしたら、私はとんでもない迷惑を、彼にかけてしまったことになる。 
「もしかして、それで私のこと、振ったの?」
 ぶっと、彼の横顔が吹き出した。
「それは違う。俺、当時は、単純に女が気持ち悪いと思ってた。そんだけ」
「……そんだけ?」
 うん、と大真面目に匠己は頷く。
「それが不思議なもんで、高校生になったくらいから、逆に俄然興味が湧いてきてさ。その頃だったら、即決でオッケーだったかな。俺、とにかくしたかったから」
 は…………はい?
 今が、暗闇の中でよかった。そうでなければ、真っ赤になった自分の顔を見られていただろう。信じられない。そんな――そんな即物的なことを、奥手でストイックだった匠己がさらっと口にするなんて。
「ま、タイミングが悪かったんだな」
「逆によかったわよ! したいだけの男とつきあうなんて、絶対にいやよ」
 匠己は答えずに笑っただけだったが、香佑は少しも笑いたい気分ではなかった。それどころか、何故かむしょうに気持ちが沈んでいくのを感じていた。
 そっか。高校生か――じゃああと一年、頑張って告白を続けていたら、もしかして両思いになれていたのかもしれないんだ。
 絶対に言うつもりはなかったが、香佑の初体験は、高校一年生の時である。
 東京の高校で初めて出来た年上の彼氏と――少しばかり不本意な形で、流されるようにセックスをしてしまった。
 実際、あの後、喪失感と悲しさから、香佑はしばらく立ち直れないでいたほどだ。でも、結局はそんなものだと割り切って――いつしか罪悪感も後悔もあとかたもなく消えていた。
 同じ頃、吉野匠己もまた、私の知らない他の誰かと、同じような経験をしていたのだろうか。
 言い方はあれだが、自分が食べようと思ってせっせと焼いていた肉を、横からひっ浚われたような気分である。
 あと一年待っていれば――でも、それが、恋の残酷なタイミングだ。
 昔から香佑は思っていた。もし、恋の神様が本当にいるのなら、その神様はとんでもなく意地悪だ。助けて欲しい時には見向きもせず、放っておいてほしい時に、無駄に手を貸してくれる。
 この町を出ると決まった時、もし最後のあの日に匠己が見送りに来てくれていたら。
 初めての彼氏とラブラブな日々を過ごしていた頃、偶然――街角で匠己を見かけてしまわなかったら。
 多分、修学旅行の最中だったのだろう。黒の詰襟をまとった大人びた匠己の姿に香佑は胸を掴まれたようになって、それからしばらく、彼氏の顔を見たくもなくなったのだ。それからほどなくして、彼氏の浮気が判明して、2人は別れた。
 今でも香佑は思っている。あの日、偶然匠己を見かけたりしなければ――最初の恋を、あんな形で失うこともなかったと。
 匠己は、どうだったのだろう。あれから少しは私のこと……。
「あのさ、……」
 おそるおそる見上げた時、匠己の影ががくっと揺れた。
「え、あ、ああ。悪い」
 と、大慌てで体勢を立て直す。
 寝てた? 
 もしかして、この深刻な状況で――すかーって寝てた?
 唖然とする香佑を尻目に、匠己は両腕を伸ばして大あくびをした。
「この二日寝てないんだ。……ふわぁ、横になりてー。雨、当分やみそうもねぇな」
「じゃあ寝ればいいじゃない。もうあんたと話すことなんて何もないから」
 怒り任せに言いかえしながら、香佑はふと気付いている。
 嘘。じゃあ、結婚式の前日から寝てないってこと……?
「仕事、……大変なの?」
「ん? ああ、でもあと少しで終わるから。なぁ、マジで少し寝てもいい?」
「……いいけど」
 こんな狭い場所でどうやって? と聞きかけた時だった。
 いきなり降りかかってきた巨大な影が、香佑の膝の上にずしりと重くのしかかる。
「ちょっ、な、何やってんのよ!」
「悪い、……寝かせて……。今急に、限界きた」
 香佑の膝に頭を乗せたまま、うわごとのように匠己は呟き、そのまますうーっと静かになる。
「もうっ、ずうずうしいにもほどがあるわよ。私たち、どこまで行っても他人なんだからねっ」
「……わかってるって」
 もう――。
 腹立たしいが、この大きな物体を膝からどかせる力も気力も香佑にはない。
 一体、どういうつもりなんだろう。どう取り繕われたって、私、出て行くつもりなのに。
「……嶋木」
「なによ」
「お前、結構、胸でかいんだな」
「は――?」
 意味が判らず、香佑はしばし唖然としている。今、この人なんてった?
「下から見上げると、結構なボリューム……知らなかった……」
「あのねぇ、あんたねぇ!」
 が、見下ろした匠己の唇からは、すでに規則正しい寝息だけが零れていた。
 なんなの、こいつ。
 ねぼけてたの、もしかして。
「んもう……」
 怒り任せに、少しだけ頭をはたくと、ざりっとしたものが手指に触れた。
 もしかしてフケ――?
 思わずぞっとした香佑だったが、すぐにその感触が、それとは全く異なるものだと気がついた。
 もう一度、ごわついた髪を、指でおずおずとさらってみる。掌に零れてきたのは、――ぱらぱらとした砂粒だった。
 ――砂……。
 違う。これは多分、石の欠片だ。石を削った時に出来る粒子。
「…………」
 結婚式の前の日も、今も。
 この人は――懸命に石を削っていたんだろうな。
(石の声って、聞いたことあるか?)
(俺な、ほんの少しだけど聞こえるんだ。こんな形にしてほしいとか、このあたりに鑿を当ててくれとか。――誰にも言うなよ。ますます頭がおかしいって思われるからさ)
 あれは、小学校を卒業した日の夕暮だった。
 その日、匠己を学校裏に呼びだした香佑は、「もうあんたのことなんか好きじゃない。あんたを好きだった私ごと、今日卒業したんだから」と、意気揚々と彼に告げるはずだった。
 これだけ好きと公言しているのに、いつまでも無視されることに、いい加減頭にきていたし、多少現実に立ち戻ると、なんでこの私が吉野なんかを好きでいないといけないのか、なんだかよく判らなくなってきたからだ。
 が、校舎の裏にある観音様の石像を、魅入られたように眺めていた匠己は、その日、初めて見せるような優しい笑顔で、香佑にそう言ってくれたのだった。
(で、俺に話って、何?)
(…………中学になったら、つきあって)
(無理)
 そして二度目の告白をして、あっさり振られてしまったのだ。
 あの時もそうだった。諦めようとした途端に、何故だか匠己と接近する。そして、ますます好きになる。
 今も――
 はっと現実に立ち戻り、香佑はぶるぶると首を振った。いや、好きになるなんて、いまさらそれだけは絶対に、ない。
 ちょっと……感情移入は……しちゃったけど。
 膝からは、規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
 やっぱり、恋の神様は意地悪だ。いまさら無意味に、こんな男に感情移入なんてさせないでほしいのに。
 恋の神様――そういえば、あのお守りどうしたんだっけ。
 死んだお婆ちゃんにもらった恋愛成就の赤いお守り。小さい頃は、あれだけ大切に持っていたような気がするのに、多分、引っ越しのどたばたで失くしてしまったんだろう。
(このお守り袋の中にはな。恋の神様が住んでおるんじゃ)
(大事に持っておるんだぞ。そうしたらな、恋の神様が、必ず香佑の恋を叶えてくださるからな)
 他にも色々聞いた気がするけど、忘れてしまった。
 神様なんてこの世にいないことは判っているけど、今度こそ余計なおせっかいをやかないでほしい。
 どうせ、時が来たら匠己とは別れるのだ。その時に、また辛い感情を引きずりたくはない。
 そんなことを想いながら、香佑は彼の髪をもう一度――今度は少しだけ優しく撫でていた。
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。