7
 
 
 玄関の扉を開けると、たちまち室内から、暖かな家庭の匂いが溢れてきた。
 リビングの向こう――閉めきられた台所から、賑やかな笑い声が響いている。
 香佑はフルーツの籠を抱えたまま、少しばかり躊躇してしまっていた。
 今がどういう状況なのかは、すぐに察しがついた。石材店の従業員たちが、台所で食事を取っているのだろう。
 そこに、夕べ別れたきりの、吉野匠己はいるのだろうか。
「この唐揚ウマッ。マジで美桜ちゃんが作ったわけ? ね、ね、一体どういうサービスよ」
 聞こえてきた大きな声は、今朝香佑を迎えにきてくれた宮間信由のものである。
「……このクソ暑いのに、唐揚ね。嬉しくて吐気がしてくるよ」
 ひどく皮肉な男の声がした。高木慎の声だ。そこに、再び宮間の声が被る。
「慎さん、あんたは、心の底まで氷でできてる! 絶対そうだ。そうに決まってる!」
「こら、ノブ、うるせぇぞ。メシくらい静かに食え」
 錆のきいた男の声。この声は加納さん――竜さんのものだ。
「沢山食べてよね。今日は、ほんっとに頑張って作ったんだから」
 美桜の、声。
 それからしばらく、歓談の声と笑い声が聞こえてきた。
 そこに、匠己がいないことだけは、なんとなく判った。
 なのに香佑は、それでも佇んだ場所から一歩も動くことができなかった。
 なんだろう。へんだぞ、私。
 普通に扉を開けて、入って行けばいいだけの話なのに。なんで、たったそれだけのことが、こうも憂鬱に感じられるんだろう。
 前も、こんなことがあった。
 嶋木の家でも、父といく子、そして沙希の三人が歓談しているリビングに、香佑はどうしても入って行けない時があった。
 その前に――東京で、母が、子連れの男性と再婚した時もそうだった。香佑をのぞく三人が団欒を楽しんでいる場に、どうしても入って行けなくて……。
 まるで自分とその扉の前に、透明の――どうしても乗り越えることができない、果てしなく高い壁があるようだ。今も香佑の前に、何故だかその見えない壁が立ちはだかっている。
 別に、大した場面ではない。たかだか従業員たちが、中で食事をしているだけだというのに。
「そういや、奥さん、どうしたの 」
 宮間が、ふと気づいたように言った。
 廊下に立っていた香佑は、いきなり自分の話題が出たことに、驚いて眉をあげてしまっていた。
「知ぃらない。暇そうにしてたから、どっか遊びにでもいってるんじゃない?」
 しらっとした口調で美桜。
「へぇ……。それで一台しかない営業車を持ってかれたのか。これじゃ先が思いやられるな」
 呆れたような慎の声。
「てか、なんで匠己君、あんなのといきなり結婚したのよ。おかしくない? ありえなくない?」
「まぁ確かに、師匠の好みとは思えないよな」
 後を継いだのは、宮間だった。
「てかさぁ。俺、やっぱ、東京の人って苦手だわ。朝から、私ってキレイでしょ、あんたたちとは違うでしょオーラ、ビシビシ出してたしさぁ。こんなド田舎に嫁にきてあげました感丸出し? あんな人に、ほんとに石屋の女房がつとまるのかな」
「無理よ」
 蔑むように口を挟んだのは美桜だった。
「だって、食事なんか作りたくないっていうような人だもん。綺麗にネイルしたご自慢の爪が汚れるんですって」
「ま、時間の問題だな」
 慎の声が、割って入った。
「なにしろ相手があの匠己だ。どうせ音をあげて出て行くさ。今までの女と、一緒だよ」
「そりゃそうかもしれないけど、ねぇ、なんであの女が匠己君の結婚相手なの? 涼子さんはどうなっちゃたわけ?」
 涼子。
 紙に書いてあった五人目の名前。
 涼子、さん……。
 扉の前で、香佑はただ固まっている。
「てっきり涼子さんがお嫁に来るんだとばかり思ってたのに……がっかりよ。なんであんな、ケバくて馬鹿そうな女がいきなり出て来るんだろ」
 憤慨したような美桜の声の次に、複数の溜息が入り混じって聞こえた。
 まるでそこにいる全員が、今の言葉に同意だとでも言うように。
「なぁ、何日持つか賭けない?」
「ぱーか、賭けになんないだろ」
 香佑は、ゆっくりと後ずさり、それから足音を殺すようにして、再び戸外に出た。
 今の、なに。
 何の話?
 全く歓迎されていないのは判っていたし、慎の冷たさも美桜の底意地の悪さも、判っていたつもりだった。
 でも、今朝がた、曲りなりにも楽しく話せたと思った宮間がああいう言い方をしたのは想像以上のショックだった。
 私……そんな風に、見られてたんだ。
 それ以上に、聞き捨てならないことは幾つもあった。
 もしかして、私以前に、ここには女の人がいたって、こと……?
 いや、そんなことより。
(てっきり涼子さんがお嫁に来るんだとばかり思ってたのに……がっかりよ)
 涼子という人は、もうここの人たちと顔なじみで、みんなは、その人が吉野と結婚すると思いこんでいたのだろうか。
 そこに私みたいなのがやってきたから――だから、許せないということだろうか?
 だとしたら、香佑の居場所なんて、そもそも最初からここにはない。こんな四面楚歌の状態で、どうやって暮らしていったらいいのだろう。
 ぼんやりと国道まで出た香佑は、そのままぺたんとしゃがみこんでいた。
 頼みのミヤコはおらず、全く頼りにならないがとりあえず事情を共有しあっているはずの吉野匠己は一切顔を見せてくれない。
 とうしたらいいの、これから――。
 ふっと空を見上げた途端、とん、と背中に硬いものが触れ、振り返ると水子地蔵が微笑んでいる。
「――!!」
 立ち上がって場所を変えようとした視界には、一面の墓、墓、墓。
 もう、やだ……。
 ぺたり、と膝をつき、香佑は両手で顔を覆っていた。
 こんなとこ、一秒だって居たくない。
 誰か、助けて。
 誰か私を、もう一度昔の生活に戻して――。
 
 
 どれだけの時間、そうしていたか判らない。
 作業場の方から、ぶーんという空気を震わす重たい音や、石を叩くような音が響いてくるようになったから、もう、ランチタイムは終わったのだろう。
 今朝嫁いできたばかりの女が戻ろうが戻るまいが、誰も、何ひとつ気にしていないようだった。
「…………」
 ぐるる、と、朝から何も食べていない腹が鳴った。
 指には、まだパッションフルーツの甘い匂いが残っている。
 ――リビングに、おいてきちゃったな。
 ひとつでも取っておけばよかった。そんなことを考える自分のひもじさが、余計に惨めさをかきたてる。 
 所持金は、二千円と少ししかないし、もう実家には戻れない。吉野家にはもっと、戻りたくない。
 ――私、こんなに、弱い子だったかな。
 張り合おうにも、悲しいくらい勝てる気がしなかった。横山美桜にも涼子という見知らぬ女にも。
 悔しいし、情けないけど、いますぐにでもこの家から、尻尾を巻いて逃げだしてしまいたい。
 明日、電車でこの町を出て、どこかで住み込みの仕事でも探そうか――
 そんなことを思いながら、ようやく立ち上がった時だった。
 ばったりと――とんでもない間の悪さで、そこで出くわしたのは、あらゆる全ての禍の元だった。
 吉野匠己――いや、いい加減フルネームで脳内変換する癖をやめなければ。
 墓石と水子地蔵の間からいきなり香佑が立ち上がったので、さすがの匠己も、少しばかり驚いたのかもしれない。2人は、奇々怪々たる石像や墓石に囲まれたまま、少しの間無言だった。
「ああ、来たんだ」
 が、匠己は、すぐに彼のペースを取り戻したようだった。
 軽くて優しい、取りようによっては、人を馬鹿にしているとも思える口調。そういえば、昔、よく先生に叱られていたっけ。「吉野、お前、大人を舐めてるのか」「いやぁ、そんなつもりは、全然」その答え方があまりに呑気だったから、余計に先生を怒らせたものだ。
「そんなとこで何やってんの。飯、食った?」
 今も、あまりにもその言いようが呑気だったので、香佑は気短にもむっと眉をあげていた。
「食べたわよ。なんでいちいちそんなこと聞くのよ」
「いや、別に」
 匠己は不思議そうに、ぱちぱちと瞬きをする。
「あんま、日向に長いこといると日干しになるぞ」
「ほっといてよ。あんたには関係ないじゃない」
 さすがに匠己は、やや鼻白んだようだった。
「そりゃどうも、失礼しました」
 匠己は泥色……もとい、元は白かったであろう無印のTシャツに、くすんだ水色の作業ズボン姿だった。
 首には黒ずんだタオルがぶらさげられ、ズボンのポケットからは工具みたいなものが覗いている。
 うわっ、サイテー。
 と、顔を背けた香佑は、心の中で毒づいていた。見るからに肉体労働者。絶対に絶対に何があったって、結婚相手には選ばないタイプの男。
 そうよ。絶対に私の方が、断然立場が上なのよ。小中学校の時だって、今だって。
 なのになんで、私は5回もこの男に振られ、今も――こんなに立場が悪いんだろう。
「おい」
「なによ」顔をあげないまま、香佑は答える。
「わりーけど、この皿、美桜に返しといてくれ。俺、仕事に戻るから」
 なんで私が。
 むっとして顔をあげると、匠己は、皿の乗ったトレーをこちらに突きだしている。仄かに残る唐揚の残滓。それで、香佑はようやく気がついた。
 多分匠己は、作業場の中で食事を終えたので、皿を返しに戻ってきたのだ。
「……なんだよ」
「別に」
 般若のような顔をしたまま、香佑は立ち上がって、匠己の手からトレーを乱暴に奪い取った。
 なにか、言うことあるでしょう。
 絶対におかしいじゃない。結婚したばかりの男が、食事を他の女に作らせて、それで平然としているなんて。
「ちょっと、待ちなさいよ」
 匠己が何も言わずに背を向けたので、溜まりかねた香佑は、咄嗟にその背中に声をかけていた。
「だから、なんだよ。さっきから鬼みたいな目で眼見しやがって」
 足をとめた匠己が、少し苛立った風に振り返った。
「言いたいことがあれば、はっきり言えよ。悪いけど、俺、今はお前の気持ちを斟酌してやるほど、暇じゃねぇんだ」
 予想もしていなかった怖い声――少しだけ、香佑は足がすくんでいた。
 な、なによ。生意気じゃない。吉野のくせに、私にそんな口きくなんて。
「言えよ」
 多分、香佑の怯えを察したのか、少し声のトーンを和らげて、匠己は言った。
「聞いてやるから。何、カリカリしてんだよ」
 あらためて思うけど、どうしてここまで、この男は背が高くなれたんだろう。上背もあって、身体にも厚みがあるから――なんていうか、向かい合うだけで気圧されてしまう。
 こんな男に怖い目で睨まれたら、伸び放題の髪と髭も相まって、悪い意味で迫力満点だ。これで職業が墓屋なんだからもう……。
 ある意味、最強の男じゃない。
 その気圧された気持ちを振り切るようにして、香佑は言った。
「い、一体家のことってどうなってるわけ? 私、今日から何していいのか、マジさっぱりなんですけど」
「……家?」
 意味が判らないのか、はたまた香佑の言い方が気に触ったのか、匠己の眉が再び不機嫌そうに寄せられる。思わず、香佑はずずっと後ずさっている。
「そ、その、――忙しいのは判るけど、放置するにもほどがあると思わない? べ、別に構ってほしいわけじゃないけど、せめて家事の分担くらい、教えてくれたっていいじゃない」
「家のことなら、美桜がやってくれてるだろ」
 不思議そうに匠己は言った。
「別に嶋木がする必要ないし、何か、別の仕事探せばいいんじゃないの」
 なにそれ。
 それじゃ、主婦としての私の立場がないじゃない。
「とにかく――じゃあ、そういうの含めて、あんたがあの人たちに指示出しなさいよ。みんな私のことなんて、てんで無視してるんだから」
「あのさ」
 なおも言い募ろうとした香佑を、匠己は煩げに遮った。
「悪いけど、俺、あいつらに何の指図もできないから。てか、最初からする気もないし」
 それは、もしかしなくても、横山美桜を始めとする従業員たちのこと?
 香佑は、呆然と匠己を見上げた。
「あんた、社長なんじゃ、ないの?」
「社長だけど、俺馬鹿だから、マジで何もわかんねぇんだ。経営のことは全部慎さんに任せてるし、家のことは美桜に任せてる。おふくろは、しょっちゅう叔母さんちに行ってるからな」
「え……じゃあ……」
 私は、本当に、ここで何をしたらいいのでしょうか。
「ま、慎さんと美桜とは仲良くやってくれ。あの2人だけじゃない、従業員の誰とも、だ」
「でも、……だって」
「あいつらが1人でもいなくなったら、うちの会社、間違いなく潰れっから」
 それじゃ、本当に私の立場は――
 そこで、香佑は声を途切れさせていた。
 香佑が飛び出してきた玄関から、美桜が出てくるのが見えたからだ。
 美桜は足を止め、いかにも不快そうな目で香佑をじっと睨んでいる。あたかも、余計のこと言わないでよ、と、言っているかのように。
「おう、美桜。皿、返しに来た」
 が、そんな女2人の微妙な空気も気にならないのか、匠己は香佑の手からトレーを奪い取ると、あっさり美桜の方に向かって歩いていった。
「美味しかった?」
「ん、腕あげたな。美味かったよ」
 なに、その優しい声。
 匠己の大きな手が、美桜の頭をぽんっと叩く。美桜はちょっとあからんで、上目遣いに匠己を睨んだ。
「また、美桜のこと子供扱いしてる」
「ああ? 15歳はまだ子供だろ」
 15??
 香佑は目を見開いている。いくらなんでも若すぎじゃない、それ。
 いや、そんなことより、新婚の妻の前で、いかにも恋人気分なこの2人って一体……。
「あ、そうだ。匠己君」
 いかにもわざとらしい甘えた声で言って、美桜は匠己の腕越しに、香佑をちらっと見た。
「また吟さんから珍しいフルーツをもらったんだ。今から切って、みんなに食べさせてあげようと思うんだけど、一緒に食べない?」
「ああ? ……いやぁ、俺、果物はバナナくらいしか食わねぇし」
「ね、食べよ。たまには息抜きしないと、身体壊しちゃうよ」
「まぁ、美桜がそう言うなら」
 香佑は唖然と――ある意味、とんでもなく傍若無人な2人のいちゃいちゃぶりを見つめていた。
 何が匠己さんの好物よ。
 バナナしか食べない猿人じゃない。ほんと、見たまんまの嗜好の持ち主じゃない。
 てか、15歳の女の子に鼻の下でれでれ伸ばしてる山男なんて、――最低。
 その山男が、腹が立つほど平然とした眼を、香佑に向けた。
「嶋木も来いよ。お前、腹へってるだろ」
 はぁ?? そこで、私に振りますか。
 しかも、こんな場面でなお屈辱的な旧姓呼び。くすり、とその刹那、美桜が顔を背けて笑ったのが判った。
「私、荷物の片付けとか、まだなんで」
 人生における忍耐の全てを費やしながら、香佑はにっこりと笑って見せた。
「どうぞ、私のことはお構いなく」
 出て行ってやる――本当にこんなところ、一日でも早く出て行ってやる。

 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。