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 家に戻ると、台所からは明らかに人の気配がした。
 ――まさか、吉野……?
 こわごわと勝手口を開くと、中からくつくつと湯のたぎる音が聞こえてくる。
「何か用ですかー」
 背を向けて立っていたのは、先ほど香佑を案内してくれた、横山美桜だった。
 白いエプロンをつけ、シンクの前で包丁をふるっている。傍らのガスコンロでは、鍋が火にかけられているようだ。
「え、なにって……」
 一瞬、部屋を間違えたかと思った香佑だったが、すぐに現状を理解した。そうか。台所は従業員さんたちと共有だった。それって、ただ食べる場所ってだけでなく、作るって意味もあったんだ。
「もしかして、賄い?」
 生意気な少女ではあるが、年は、おそらく10くらい離れている。あまり大人げない態度をとりたくない香佑は、作り笑顔で、美桜の方に歩み寄った。
「手伝おうか? 何作ってるの?」
「触らないでください!」
 途端に、鋭い剣幕で遮られた。香佑はびっくりして鍋に伸ばしかけた手を引いている。
「蓋開けないでください。圧が逃げちゃうじゃないですか」
「あ、ごめん」
 自分の言った言葉の激しさに、美桜は少しばかり気まずそうだったし、それは香佑も同じだった。
「匠己君の食事の支度なら、別にしなくていいと思いますよ」
 包丁で、器用にじゃがいもを剥きながら、美桜は言った。
 匠己君。その呼び方に、香佑は一瞬瞬きをしている。
「あの人朝は食べないし――ていうか、食べられる時間に起きて来ないし。昼は従業員みんなで一緒に食べるし。夜もそうです」
 その目は、一度も香佑を見ようとしていない。
「で、従業員の賄い作るの、私1人の仕事ですから」
 それは――つまり。
「吉……匠己さんの食事も、美桜ちゃんが作ってくれるってこと?」
「結果的に、そうですよね」
 いや、そんな逆に問いかけられても……。
 じゃ、私は何をしたらいいんでしょう。
「手伝うよ。その方が早いし、楽でしょ」
「ほんと、いいですから」
 遮るように美桜は言った。
「私、料理大好きだし、1人で作るのが楽なんです。それが私の仕事ですから、手も口も出さないでもらえます?」
 さすがにその言葉には、下手に出ていた香佑もむっとした。
 嫁入りしたのは初めてだが、そんな初心者の香佑にだって判る。台所の主は――この場所だけは、ひとまず香佑のものなのだ。
「そうは、いかないでしょ」
 なるべく穏やかに、香佑は言った。
 まさかこの子が、吉野の想い人――? そんな思いがちらっと胸を掠めたが、すぐにそれは違うだろうと思い直した。親に交際を反対されている相手が、こうも家にべったりと入りこんでいるはずがないからだ。
「私だって、せめて家族の食事くらいは作りたいし、賄いも一緒に作らせてよ。美桜ちゃんの邪魔はしないから」
「そこにいるだけで、邪魔だって判りません?」
「…………」
 これほど大人でいようと自分に言い聞かせたこともなかった。
 ずっと抑えていたが、本当に腹の立つ女の子だ。間違いなく他人のくせに、これではまるで、小姑が居座っているようなものだ。
「じゃ、買い物にいってもらえます?」
 不意ににっと笑って振り返ると、どこか優位な目で、美桜は言った。
「このへん、車使わないと買い物行けなくて、私1人じゃ無理なんです。信由君、今竜さんと外に出てるし。奥さん、行って来てもらえます?」
 なるほど、免許もない未成年か。香佑もまた少しばかり優位な気分になって、エプロンを外しながら頷いた。
「うん、いいよ。何買ってきたらいいの?」
「ドラゴンフルーツとマンゴスチン」
 ――は?
「もちろん、知ってますよね。匠己君の好物だし、食卓にかかせないフルーツだから。じゃ、お願いしまーす」
「…………」
 いや、確かにフルーツの種類としては知っているけど、このド田舎で、そんな珍しいフルーツって……。
「あ、そうだ。お金」
 くるっと振り返った美桜が言った。
「いくら渡しましょうか。匠己君から、私が生活費預かってるんで」
「…………」
 さすがに香佑は、自分の顔が強張るのを感じた。
 なにそれ。
 なにかそれ、間違ってない? 基本的な部分が。
 やっぱりこの子が、吉野匠己の恋人なの? だとしたら、そんな女と、曲がりなりにも妻になった女を台所で鉢合わせにさせるなんて、無神経というか残酷というか――
 それも私を、早々に追い出すため?
「……いい。少しなら、私も持ってるから」
 感情を懸命に堪えながら、香佑は言った。
 所持金二千五百円余り。ドラゴンフルーツとマンゴスチンがいくらなものかは知らないが、それくらいあれば足りるだろう。
「車は?」
「事務所に慎さんがいるんで、彼に言って鍵を借りてください。あ、それから」
 もう顔も見たくなかったが、呼び止められたので香佑は足を止めている。
「私のこと、これからは絶対に美桜ちゃんって呼ばないでくださいね。それ、立派なセクハラですから――奥さん」
 
 
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 奥さんもセクハラですよ。それこそ立派な、紛れもない。
「あの、このあたりで、果物売ってる店知りません? なるべく大きい店探してるんですけど」
 運転席側の窓から顔を出し、香佑は声を張り上げた。
 傍の畔で草を刈っていたと思しき老夫婦2人が、立ちあがって顔を見合わせる。
「あんた、どこの人」
「吉野石材店の者です」
 同じことを言うのは、これで三度目だった。
「あれま。もしかして、匠己君のお嫁さんかね」
「そういやぁ、昨日が結婚式じゃったかいね。ほら、宮さんがべっぴんさんが来たゆうて、大騒ぎしとった」
「そうじゃ、そうじゃ」
 三度目の騒ぎが収まるのを、香佑は辛抱強く、待った。
「……あの、それで果物屋は――」
 三度同じ答えを得た香佑は、今度こそ諦めて軽自動車のアクセルを踏み込んだ。
(果物屋なんて、この辺りには一軒もないじゃろう。トンネルを超えて町までいけば、大きなスーパーがあるけんど……果物ゆうても、ごく普通のものしかおいとらんような気がするのう)
 騙された。
 結局のところ、香佑は態よく追い払われたのだ。横山美桜。――天使のように可愛らしい顔をして、なんて嫌な子供だろう。
 嫌われているのははっきりした。それが匠己と結婚したことが原因なら誤解だが、もう香佑にしても、あの少女に好意を持ってやるつもりはない。
 いずれにしても、悔しすぎてこのまま手ぶらでは帰れない。意地でも、そのパッションフルーツを見つけてやる。たとえ、どこまで車を走らせても。
 憤慨しながら、香佑は何度もききの悪いアクセルを踏み込んだ。が、そこでふと、怖いことに気がついた。ここって、一体どのあたりだろう。
 見渡す限りの、田、田、田。どこもかしこも似たような光景だ。
 しかも店の場所を訪ねるために、結構入り組んだ道に入りこんでしまった。さっきから何度も右折やら左折を繰り返しているけど、なかなか広い道に出られないのは……。
 ――まさか、迷子になっちゃった?
 救いを求めるように、香佑はラジオのスイッチを入れた。故障しているのか、電波自体が届かないのか、聞こえてくるのは雑音だけだ。
「冗談でしょ、本当にどこまで田舎なのよ!」
 拳でスイッチを叩き切る。とにかく落ち着いて、――香佑は自分に言い聞かせた。結局は単純な田舎町だ。国道さえ見つかればなんとかなる。
 が、そう思った端から、突き進んでいた道が、どんどん細く急勾配になっていった。どこかでUターンしようにも、幅員が狭すぎてどうにもならない。
 そして、予想通りの行き止まり――目の前には、簡素な門構えの平屋家屋が立ち塞がっている。
 とんでもなく急な坂を登りきったボロ車のクラッチは、すでに悲鳴をあげる寸前だ。
「嘘でしょ……、バック、苦手なのに」
 香佑は、半ば泣きそうになりながら、バックにギアを入れ、背後に身体をねじまげてハンドルを切った。――その時だった。
「あっ」
 思わず、恐怖の悲鳴をあげていた。
 背後の窓越しに、白髪頭の老人の驚いたような顔が飛び込んできたのだ。
 香佑は慌ててブレーキを踏んだが、タイミング的にはアウトだった。どんっと鈍い衝撃が――わずかながら伝わってくる。
 しまった。轢いた――!
 人を、人をはねてしまった。
「だ、大丈夫ですか!」
 車から飛び出したものの、膝が震えてつんのめりそうになっていた。
 何もかも夢だと思いたかったが、予想通りの光景が、車の背後には広がっている。
 倒れているのは、骨と皮ばかりに痩せさらばえた老人だ。仰向けにのけぞって、泡を食ったような目で、香佑をぽかんと見あげている。
 香佑は、半ば失神しそうになりながら、老人の傍に膝をついた。
 落ちくぼんだ瞼の下から、老人が数度瞬きをする。
 幸いなことに、意識ははっきりしているようだ。
「怪我、ありませんか。あの、どこが痛いですか」
 着流しに純白の白髪頭。以前店先のベンチに座っていた老人だとすぐに判ったが、もちん、呑気に挨拶をしている場合ではない。
 老人は、しばらく呆けたように目をぱちぱちさせていたが、やがて香佑の手をやんわり払うようにして、半身を起こした。
「いやぁ、びっくりしたなぁ」
 そうして、ぐしゃりと相好を崩した。顔中が皺で埋もれたような奇怪な笑顔だ。
 その刹那、ある種のパニック状態に陥っていた香佑が、「もしかして、この人、妖怪?」と、胸の底に疑念の風を掠め走らせてしまうほど、俗人離れした笑顔である。
 老人は、着物の泥土を払いながら、思いの外颯爽と立ち上がった。
 逆に香佑の方が、慌てて支えようとしたほどだ。
「た、立っても大丈夫なんですか。おケガは?」
「あのな、娘さん。ぶつかってはおらんのよ。車が下がってきたのに驚いて、勝手にこの老いぼれが転んだだけじゃ」
 しっかりした老人の口調に、ようやく香佑も、わずかながら安堵していた。
「私が、よく後ろを見ていなかったんです。本当にすみませんでした」
 そう言って頭を下げた時、ざりっと足元が耳触りな音をたてた。
 香佑はようやく、老人や自分の足元に米粒が散乱しているのに気がついた。その傍らには、重たげなコメ袋が口を開けて転がっている
「やれやれ」
 足元を見下ろし、老人はくたびれたような声をあげた。「おかげで、せっかくもろうたコメの袋が破れてしもうたわい。こりゃ、もったいないことをした」
「あ、私、拾いますから」
 香佑は急いでしゃがみこみ、泥に散らばった米粒を拾い集めた。それを、車内にあったビニール袋に泥ごと入れて、米袋の口を元通り締め直す。
「汚れたお米は、洗ってうちで食べますから。も、もちろん、その分は後日お返しします。本当に――すみませんでした!」
 香佑はがばっと頭を下げた。車に当たってはいないとこの老人は言ってくれたが、少なくとも、米袋にはぶつかったのだろう。もしかすると、それで老人に怪我がなかったのかもしれない。
 とにかく怪我がなくてよかった――まだ冷めやらぬ動揺で、香佑の膝はがくがくいっている。
 骨と皮のような老人はにんまりと笑って、もういいんじゃよ、と香佑を遮った。
「よい、よい。何度も言ったが、わしが勝手に転んだだけでの。どれ、米袋を貸しなさい。わしの家は、すぐそこじゃ」
「あ、運びます。私」
 その時、かがみこんだ香佑のジーンズから、ねじこんでいた広告の紙片がはらりと落ちた。
「ん? なんじゃ、これは」
 香佑より先に、かがみこんだ老人がその紙片を拾い上げたので、香佑は少し赤くなっていた。
 ここまでの間、複数の地元の人たちに果物屋の場所を聞いた。何を探しているのと聞かれ、マンゴスチンとドラゴンフルーツと答えたものの――ほぼ百パーセントの率でマンゴーとドライフルーツに間違われるので、途中で紙とペンを借り、文字にして示していたのだ。
「ここに書いてある果物を探しているんです。おじいさん、どこかこの近くで売っている店をご存じないですか」
「うちにあるよ」
 老人はあっさりと言った。
 えっと、香佑は耳を疑って訊き返している。
「マンゴーとドライフルーツが?」
「ん……? マンゴスチンと、ドラゴンフルーツでは……?」
 眉を寄せた老人が懐から老眼鏡を取り出したので、香佑は慌てて頷いていた。
「そ、そうです。すみません。びっくりして間違えました」
「うちはいただきものが多くての。果物なんぞ売るほどにあるんじゃい。ふむ――店ではないから売ることはできんが、よかったらいくつか差し上げようか」
「ほ、本当にいいんですか?」
「そこで、少し待っていなされ」
 そう言うと、老人はすたすたと突きあたりの屋敷の門扉をくぐって、家の中に入っていった。
 香佑はあらためて、その家を見上げている。
 まるで山奥の寺――庵のようだ。古びているが、しっかりした造りだというのは、素人の香佑にも判る。
 やがて門の中から果物を乗せた籠を抱えた老人と、そして、その老人より少しばかり若そうに見える、ごま塩頭の男が出てきた。そのごま塩男も、着物姿だ。
「先生、じゃあ、これは中に運んでおきます」
 小柄で痩身で、いかにも頼りなげなのに、ごま塩男はいとも簡単に米袋を肩に担ぐと、香佑ににっこりと笑いかけて再び門の中に消えて行った。
「先生……ですか」
 香佑がおそるおそる訊くと、老人はにんまりと口角をあげて微笑んだ。
「なに。そういっても大したことは教えておらん。年寄り同士の道楽じゃよ」
 そういえば、田舎に似合わず風流そうな人だ。
 お茶か書道でもたしなんでいるかのような――銘仙の着流しも粋だし、帯の結びも洒落ている。一体、この老人は何者だろうか。
「詩吟をな、ちょいと教えておるのじゃよ。さっきのは内弟子で坂口という男やもめじゃ。あんた、吉野さんところの御新造か。今度、このギンさんのところに詩吟を習いにおいでなさい。米はその時に受け取ろうよ」
「……ギン、さんですか」
「詩吟の吟の字をとって、吟、じゃ。ま、俳号のようなものじゃよ」
 シャアッと、蛇が威嚇するような声を出して笑うと、鶴みたいに痩せた白髪の老人はおっちらと背を向けた。
 ――吟さん、か……。
 笑顔がホラー映画みたいだし、ちょっと変わった所のある人だけど、基本、悪い人じゃなさそうだ。それにしても、詩吟って、名前は聞いたことはあるけど、一体なんの分野だっけ?
「あの、後日、お礼にうかがいますから」
「よいよい。匠己君には、随分世話になっているからの。その果物も、昨日同じものを坂口に届けさせたんじゃが、それが気にいったのかのう」
 そういうことか。
 どおりで田舎娘が、珍奇な果物の名前を知っていたはずだ。
「まだ欲しければ、いくらでもあげようと、匠己君に伝えておきなさい」
「は、はい」
 パッションフルーツから立ち昇る甘酸っぱい匂いが、少しだけ香佑の胸を温かくした。
 なんだか今日一日で、随分沢山の町の人と顔見知りになってしまったようだ。――と、そんなことを言っている場合ではなかった。
 時刻は、とうに12時を回っている。
「あんた、この坂を下りて、もうひとすじ向こうの坂をあがんなさい。山林の向こうに国道があって、しばらく行くと、あんたの家だ」
 香佑は振り返り、手を振っている老人――通称、吟に、丁寧にお辞儀した。

 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。