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 下宇佐田町は、香佑が生まれた上宇佐田町の北側に位置する。
 ふたつの町は山に遮られ、昔は遠鳴峠という危険な峠を越えなければ、辿り着くことができなかった。
 今は、トンネルが通り、国道として立派に整備されているが、トンネルが設置された昭和五十五年頃までは、下宇佐田で急を要する病人が出ると、まず死ぬと言われていた。
 なにしろ、市で唯一の総合病院がある吉沢町まで、車で一時間以上はかかる。それも、崖っぷちに面した峠を越えて行かねばならず、峠から落ちて死んだ者も何人もいると言われているほどだ。
 そんな町だから、当然、下宇佐田町は何もかもが遅れている。学校も病院もなければ、上下水道も整備されていない。
 同じ県北の田舎でも、そして同じ宇佐田という町名でも、上と下では、天地ほどの差があるのだ。
 香佑が嫁いだ吉野石材店は、そんなおそろしく辺鄙な場所――下宇佐田町のさらに北の外れにあった。
 
 
「こないだ、ようやく下水道が完備されたんですよ。だもんで、トイレの心配はしなくていいです。女の子には、ちょっとヘビーな匂いだもんなぁ。汲み取り式は」
 車を運転しながら、宮間信由(みやまのぶよし)と名乗った青年は、呑気そうに続けた。
 くすんだ青い作業着姿で、首にタオルを撒いている。顔は赤黒く日焼けして、手首に、軍手と思しき日焼けの跡が残っていた。年は、多分香佑より若い。いかにも田舎の洒落者らしく、髪と眉を金髪に染めている。
 ――ふぅん。あいつ、本当に迎えを寄こしてくれたんだ。
 香佑は少しばかり冷めた気持ちで、車窓の外を見つめていた。
 どこまで図々しいんだろう。
 そう。図々しいのも悪いのも、全部吉野だ。最初に真実を打ち明けてくれていれば、間違ってもこんな結婚はしなかった。でもしてしまったものは仕方ない。
 だから香佑は―――しばらくの間、せめて次の生活の目途が立つまでは、吉野家の世話になることに、決めた。
 嫁いだのではなく、就職したと思えばいいのだ。
 一生懸命働くから、いくらか給金をもらえないだろうか。そのあたり、相談したらなんとかしてくれるだろうか。
 でもお金目当てだと思われるのも、癪だし(本当はそうだけど)、吉野の下で働くなんて、考えただけでも屈辱的だ。
 明け方まで、そんなことをつらつら考えながら国道沿いでぼんやりと過ごした香佑は、今、少しばかり開き直った気分になっていた。
 というより、現実的に、所持金数千円の身ではどこへも行けない。
 匠己との結婚生活は暗雲どころじゃない。今となっては真っ暗闇も同然だが、それでもともかく、衣食住と収入を得ることが先決だと、そう自分に言い聞かせた。
 気合いを入れ直すために、今朝はいつにも増して完璧なメイクを施してきた。身につけている服もアクセサリーも、今では数少ない東京物だ。
 こうなったら、なんとしてでも吉野匠己に判らせてやらなければならない。あんたが嫁に迎えた女が、この辺では決してお目にかかれない希少価値のある存在だと。そう、女の意地にかけても。
 そこまで思った時、運転席の男が口を開いた。
「もう直ぐですよ。乗り慣れない車で疲れたでしょ。すみません。今、こんなオンボロしか空いてなくって」
「あ、ううん」
 香佑は慌てて、取り繕った笑顔を向けた。
「軽トラは初めてじゃないんだ。子供の頃、家にもあったから」
「へぇー、そうなんすか」
 2人乗りで、背後が全部荷台になっている軽トラック。――通称、軽トラ。
 あの頃は、まだ両親の仲もよくて、山中の田に行く時、よく香佑を荷台に乗せてくれた。風が顔に当たるのが気持ちよくて――荷台で食べるおにぎりやお茶が美味しくて――
 次の瞬間、いきなり踏まれた車のブレーキ音が、香佑の回想を遮った。
「やっべ。猪が死んでる。やだなぁ。タイヤ汚したら、ミオちゃんに叱られるんだ」
 ――猪??
 道路に黒ずんだ染みがある。香佑は慌てて目を逸らしていた。
 さ、最低。なんて幸先の悪いものを見てしまったのだろう。黒猫ですらなく猪だなんて、どれだけ縁起が悪いのか。
「すんません」そう言って、宮間が、再び車を発進させる。
「まぁ、墓屋もね。いいとこがありますよ」
 そしてなんの脈絡もなく語りだした。
「あ、正式には石屋です。主に墓扱ってるからみんな墓屋って言ってますけど、あくまで石屋。石材店」
 大真面目に断っておいてから、宮間は続けた。
「なにしろ、墓屋に嫁げば、墓、無料で作ってもらえますからね。高いんスよ〜、これがまた。だいたい一体、いくらくらいだと思います」
「70万、くらいですか」
「いいとこ突いてますが、それでも、ピンキリのややピンあたりの値段ですわ。高いやつだと、一千万とか平気で超えたりしますから」
「えっ……」
 さすがに香佑は絶句している。
 何故か自慢気に宮間は鼻をうごめかせた。
「国産のいい石に拘るとね。しかもうちの師匠は、機械彫りじゃなくて、手造りに拘ってますから。半端なく高いんですよ」
「師匠って……」
「あ、社長っす。二代目。匠己さん」
 宮間は、頭でも叩かれたような顔になった。
「とはいっても、師匠には別の予約も入ってたりして、二年先までスケジュールが一杯なんすけどね。このペースで行くと女将さんの墓、二年待ってもらわなきゃな」
 別の仕事……? 訝しく思ったものの、それより宮間の呼び方に、香佑はぎょっとして隣の男を振り仰いでいた。
「女将さんって、まさか、私のこと」
「でしょ? 師匠の奥さんなんだから」
 ざっと鳥肌がたっていた。
 うわ、……それだけは勘弁してほしい、的な――
「それにしても、女将さん。これからが大変っすよ」
 なにやらしたり顔で、宮間は続けた。
「師匠は、男の俺から見ても、相当かっこいいっすからね。女将さん、心配でしょうが、多少は大目に見てやってくださいよ」
 は…………。
 はいい?
 今、何か、近くで空耳が聞こえたような。
 聞かなかったことにしよう。香佑は適当に相槌を打って、その話を切りあげた。
「従業員って何人いるの?」
「えーと、……」
 あまり頭がよくないのか、宮間はその質問に1分くらい間をあけてから、
「4人かな」と答えた。いや、4人なら即答しろよ! と、香佑は内心つっこみを入れている。
「俺と、ミオちゃんって女の子と、シンさんとリュウさん。ミオちゃんは可愛くてシンさんはかっこよくて、リュウさん、渋いです」
「へ、へえ……」
 香佑は戸惑いつつ、「すごいね」と言った。
 どうやらこの青年は、他人を過大評価する癖があるらしい。
「あ、そこの引き出しの中に、緊急連絡先とか書いた紙が入ってるんで、それ見てもらったら、フルネームとか判りますよ」
 別にそこまで知りたくないけど……。と、思いつつ、香佑は宮間の言う所の引き出し――車のコンソールボックスを開けてみた。
 その途端に舞い上がる埃と黴くさい匂いに、うっとして顔を背ける。
「これ?」
 しなびた紙きれを、指先でつまむようにして広げると、殴り書きのようなメモが出てきた。一目でそれが匠己の筆跡だと判った香佑は、ますますその紙を手にするのが嫌になる。
 加納竜二
 高木慎
 宮間信由
 横山美桜
 そして、最後に付け加えたように、1人。
 涼子
 名前の横には、各々の携帯番号が書かれている。
「4人……だったよね」
「そうっす」
 5人、いるじゃん。
 渋めの竜さん。かっこいい慎さん。可愛い美桜ちゃんに、隣で運転している宮間信由。
 じゃあ、この名前しか書かれていない女の人って……なに?
 何故だかそれは――聞かない方がいいような気がして、香佑は「ありがとう」と言って、折り畳んだ紙を元どおりボックスの中に収めた。
「あのさ、宮間君。私たち年近いんだから、ため語でいいし、香佑さんとかでいいよ」
「そうっすか?」
 やがて道路脇に、打ち捨てられた石造の群れが見えてくる。
 香佑の唇から、知らず、憂鬱の溜息が洩れた。
 子供の頃の噂話は、大筋で正解だった。存在自体がすでに墓場。ここは――本当に、幽霊スポットだ。
 ごつごつとした岩が打ち捨てられている県道沿い。そこに、突如として巨大な石の彫像が現れる。恐ろしい顔をした阿修羅観音像。鬼神像。そんなおどろおどろしい石像が、まるで展覧会のようにずらっと路肩に並べられている。
 鬼の像、キツネの象。それから、ここからが本業なのか、墓石の見本のようなもの。これでは――幽霊屋敷と言われても仕方がない。
「夜とか、怖くない?」
「あははっ。いくら墓石売ってるからって、幽霊なんて出ませんって」
 幽霊以前の薄気味悪さを言ったのだが、宮間に意味は通じていないようだった。
 香佑は諦めて、視線を路肩展覧会から遠くに逸らした。と、そうして初めて気がついた。その一面高台全部が、全て墓だ。無数の墓石や卒塔婆が無造作に立ち並んでいる。
「えええ?」
 思わず、身を乗り出している。
 嘘だ。嘘、嘘。とんでもない。つまり吉野石材店って、周囲を墓に囲まれているんだ――。
 本当に、真面目に寒気がしてきた。
 これを悪夢と言わずして、何を悪夢と呼べばいいのか。これじゃ瀬戸の花嫁ならず、墓場の花嫁だ。
 半ば愕然と外の光景を見ていた時――墓石や仏像の群れが徒党を組む中、そこにしつえられたベンチに、1人の老人が腰掛けているのが目に入った。
 ――お客さん、かな……?
 香佑はそう思い、急いで車の中から、ぺこりと小さく会釈した。
 品のいい白髪に、着流しの着物姿。背景が背景だけにこんな比喩をあえて使うが、骸骨みたいに痩せている。この辺では少しばかり珍しい、風流の匂いが漂う人だ。
 老人は扇子で自身を扇いでいたが、その手をとめて、香佑に丁寧にお辞儀をしてくれた。誰だろう――ご近所の人なら、後で挨拶に行かなくちゃ。
 老人の姿はたちまち消え去り、その先に、ようやく朽ちかけた看板が見えてくる。
 白字に黒のペンキで、ところどころ錆びた看板は、しかし書体だけは相当立派だと言ってよかった。
 吉野石材店。
 看板の向こうが、どうやら作業所のようである。コンクリートで覆われた細長の建物。屋根はトタンで、ところどころが欠けている。
 入口はオープンで、外から、中の様子は半ば丸見えになっている。内部はうす暗く、淡い蛍光灯の光が奥の方に垣間見えた。
「おーい。帰ったぞ」
 軽トラックから飛び降りた宮間が、まず大きな声をあげた。
 途端に奥から、険のある男の怒鳴り声が返される。
「遅ぇぞ、ノブ。今日は上宇佐の長嶋さんとこに、工事に行くって言ったろ」
「しょーがねぇだろ。社長の奥さん、迎えに行ってたんだからさぁ」
 怒鳴り返す宮間。先ほど香佑に見せていた温厚さは欠片もない。
「え、奥さん、本当に来たの?」
 今度は、女の声がした。
「全くいい迷惑だな。この忙しい時期に結婚なんてするか? 普通」
 男――今度はひどく冷淡で静かな口調。最初とは明らかに違う男の声だ。
 ――なんか、全く歓迎されてないと思うのは、気のせい……?
 なんとなく、敵地に降り立った気がして、香佑は足がすくんでいる。
 作業所の中から、複数の足音が聞こえてきた。
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。