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 あの男が扉を叩いている。
 何度も何度も叩いている。
 激しく、乱暴に、蝶番が軋んで壊れるほどに。
(おいっ、いるんだろ? 居留守使ったって無駄なんだよ!)
(出て来なきゃ。窓ぶっ壊して入っちゃうよ? 俺といいことしてあっそぼうぜぇ)
 助けて。
 色白で面長の痩せた男。三白眼の睫だけが、薄気味悪いほど濃くて長い。
 名前はケンジ。粘っこい声に粘っこい目が、どこに逃げても執拗につきまとい、追いかけてくる。職場にも、家にも、夢の中までも。
(あんたさぁ、俺の好みのど真ん中なんだよ。だからソープに売るところをこうして許してやってんだ)
 助けて。
(おい、やくざから逃げられると思うなよ? 自己破産なんてふざけた真似してみろよ。俺が、地獄の果てまでお前追いかけて、骨までしゃぶりつくしてやるからな)
 誰か、助けて。
 私を、ここから連れ出して――……。
 
 
 ごくっごくっと、喉を鳴らすような音がする。
 まどろみの中、夢と現実を行き来していた香佑は、その音に眉をしかめて、薄眼を開けた。
「―――!」
 窓の外は真っ暗で、部屋は薄闇に包まれていた。
 うたた寝のつもりが、どうやら本格的に寝てしまっていたらしい。
 すごく嫌な夢を見た。
 いや、そんなことより、悪夢が吹き飛ぶほどに驚いたのは、いきなり飛び込んできた光景だ。
 立ったままの匠己が、精力増強ドリンクを、とんでもない勢いで飲みほしている。
 一本、二本、三本、四本。
 お、おいおいまさかこの人、鼻血出すまで飲むつもり? と、香佑が慄いてしまうほどの勢いだ。
「ちょ、ちょっと」
 跳ね起きた香佑は、逃げるように膝で張って壁際に背を寄せた。
 冗談じゃない。不意打ちみたいに追い詰められて出てきた答えは、やっぱり無理、だ。
「あんた、一体、何やる気出してるのよ。い、いきなりそんなのとか、私無理だし。せめてもう少し、お互いのこと話しあったり、判りあったりしてから」
「ああ、起きたんだ」
 ドリンクを手にしたまま、匠己は少し驚いたように瞬きをした。
「だいたい、まだお風呂も入ってないし、そろそろ月のものがきそうだし、歯も磨いてないし、ババシャツだし、色んな意味で無理、無理だから!」
 自分でも何を言っているのか判らなかった。耳が熱くなり、心臓がへんにドキドキいっている。
 匠己はしばらくあっけにとられたように香佑を見ていたが、やがて、言った。
「まぁ、ちょっとこっちに来なよ」
「や、やだ。じゃあ、せめてお風呂に入ってから」
「いや、そんなんじゃないから」
「やだ、絶対にやだ」
「いや、だからマジで、そんなんじゃないって」
 それでもなお壁にへばりつく香佑を見下ろし、匠己は深い息を吐いた。
 そうして彼は、おもむろにしゃがみこむと、自身のスポーツバッグの中から薄っぺらい紙を取り出した。
 婚姻届――すぐにそれと判ったのは、香佑自身が昨夜、その紙に記名押印したからだ。
 吉永香佑。
 説明がややこしくなるから、ここでは元の姓、嶋木で通しているが、それが香佑の現在の本名である。
 その婚姻届は、今日、父の手から、吉野家に渡っていたはずだった。
「な、なによ。確かにサインはしたけど、そんなもので私を縛れると思ったら」
「いや……だからさ」
 面倒そうに言ったと思うと、匠己はいきなり、その紙を中央から二つに裂いた。呆気に取られる香佑の面前で、更に重ねて、もう一度裂いた。
「違うんだって。ばーか。人の話ちゃんと聞けよ」
 ひらひらと、ちぎれた紙片が畳に落ちる。香佑はただ、呆然として、その光景を見つめていた。
「俺、結婚する気なんて、そもそもないんだ」
 破った紙と落ちた紙片を拾い上げて丸め、匠己はそれをゴミ箱に投げいれた。
 いや、それは私もだけど。でもそうは言ってもここまで来たんだからそれなりに腹は括って――って。
 ようやく匠己の言った言葉の意味が、胸の底に降りてくる。
「なん、で……?」
「あー、……なんでって言われても困るけど」
 匠己は唇を曲げるようにして、頭を掻いた。
「正直に言うと、俺、好きな奴がいるんだ」
「………」
「その人、こっちの人じゃねぇから、おふくろが反対してんの。他にも色々あって、結局一緒になるのは諦めたんだけど、……まぁ、そいつとは、今もつかず離れず、上手くやってるっていうか」
 は……。
 はぁ??
 香佑は、口をあんぐりと開け、しばらく閉じることさえ忘れていた。
「どっちにしても、もう終わった話だからって、それは何度も説明したんだけど。それでもおふくろ1人が、今も心配してんだよ」
「なに、を?」
「俺が、そいつのこと追いかけて、またどっかに行くんじゃないかって」
「…………」
 なに、それ。
 そんな波乱万丈な恋物語が、この宇宙人みたいな男にもあったわけ?
「だから地元で見合いしろ、結婚しろって、とにかくしつこく言ってくるわけ。断っても断っても、次から次から新しい話をもってくるしさ。正直言えば、いい加減うんざりしてたんだ」
「あの……つまり」
 香佑は、自分の頭の中を整理しようとした。
「結婚する気、ないんでしょ」
「うん」
「それは――その人のことが、好きだから?」
 それには匠己は曖昧に首をかしげ、肯定とも否定ともとれる表情になった。
 いや、もうそのあたりはどうでもいいんだけど。
「じゃ、なんで今、私と2人でここにいるの」
「とりあえず、式挙げたからじゃね?」
 いやいやいやいや。
「おかしいでしょ。ありえないでしょ。そうだったら、最初からちゃんと断りなさいよ。こんなとこまできて結婚する気ないですって、それ、はっきり言って詐欺みたいなもんじゃん」
 匠己は訝しげに眉を寄せた。
「それって、お前にも言えなくね? 新婚初夜にその気がないですって、それこそ詐欺以外のなにものでもないじゃん」
「ばっ、お。おかしな話にすりかえないでよ」
 思わず立ち上がった香佑を、匠己は手をかざすようにして止めた。
「まぁ――まてよ。正直俺もどうすりゃいいかで迷ってたけど、これではっきりしたわけだろ」
「なにが」
「お前も俺も、つまるところ――セックスする気は」
「ちょっ、――ばっ、そんなこと言葉に出さないでよ!」
 香佑は真っ赤になっていた。
 13年ぶりに再会した初恋だった(かもしれない)人と、初めて交わすまとも会話がこれなんて、あまりにも恥かしすぎる。
「俺はとりあえず、おふくろが安心するならそれでいいんだ。あ、ちなみに老い先短いっつーのがおふくろの口癖で、身体はどこも悪くないから。気管支が少々弱いだけで、冬場も風邪ひとつひかねぇくらい頑丈な人だから」
 え……?
 なんか話が、色々違ってきているような……。
「とりあえず俺的には、相手がお前で助かったって感じ? うちに来ても何もいいことないと思うけど、いたきゃいつまでいてもいいし、嫌になったら出ていけばいい。あんなに大騒ぎして結婚式まで挙げて、それですぐに離婚とかになれば、おふくろもさすがに懲りるだろうしさ」
「ちょっと、待ってよ」
 ややあって、香佑は呆然と呟いていた。
「それ――おかしくない? なんだってそんなこと、今日になって言ってくるわけ? 結婚する前に言えばいいじゃん。そしたら、こんな馬鹿な結婚、絶対にしなかったわよ。普通なら、ここ、私があんたの横っつらひっぱたいて、即、出ていってる場面だよね」
「だから、そうしたきゃそうしていいんだって」
 匠己は全く悪びれずに平然としている。
「籍も入れてないし、入れる気もないし、お前にはなんの損もない話だろ。それに――正直に言えば、お前がなんでこっち帰ってきて、石屋の俺なんかと結婚する気になったのか、俺の方がわけがわからないし」
 そうこられると、香佑には何も答えられない。
 香佑自身にも、その経過というか、ここに至る経緯については、上手く説明できないからだ。
「お父さんが、……あまりに乗り気だったから」
「ま、その辺りのことは、雰囲気で判ったけど」
 初めて匠己は、少し疲れたような横顔を見せた。
「なんにしても、これでおふくろが懲りてくれたら、俺的にはそれでいいんだ。結婚式なんて金も手間もかかること、もう二度としたくないってくらい懲りてくれたら万々歳」
 まさか、そのためだけに今日の恥辱――もとい、華燭の宴を開いたと?
 匠己は、さばさばとした仕草で、足元のスポーツパックを持ち上げて肩にかけた。
「んじゃ、ひとまず帰るわ、俺。さっき店から電話入って、急ぎの仕事が入ったから」
 え――。
「明日、店の誰かを迎えに寄こすから。実家に帰るんなら、置手紙でも残しといて。じゃ」
 そこでふと足を止めた匠己は、何かを思いついたように振り返った。
「言っとくけど、俺んち、お前の親父さんが思ってるほど、経営状態よくないから」
「どういう、意味よ」
 ひどく乾いて強張った声で、香佑は即座に聞き返していた。
「んー、金目当てなら、あんま意味ないってことかな。違ってたらごめん。じゃあな」
 
 
「あら、香佑さん?」
 電話に出てくれた人は、第一声で、驚いた声を返してくれた。
「まぁまぁ、どうしちゃったの。こんな時間に。何か、うちに忘れ物?」
「あ……いえ」
「今日はごめんね。式に顔も出せなくて。沙希のピアノ発表会があったでしょう? あの子も随分楽しみにしていたから」
 言い訳みたいにまくしたてられる。父親の再婚相手だから香佑にとっては継母にあたるのだろうが、もちろん互いにそんな感情は欠片も持てない相手――嶋木いく子。
「別にそれは、……色々お世話になっただけで、ありがたいと思っていますから」
 言葉を切った香佑は少し躊躇い、それから、「父に、換わってもらえますか」と言った。
 父が7年前に再婚した女性、――いく子と香佑は、年が12歳しか違わない。
 嶋木家の本家筋である家の長女で、香佑が小さい頃、時々一緒に遊んでくれた記憶がある。高校の時に地元を出ていって――後のことは、よく知らない。大人しくて地味だという印象しかなかった女性だ。
 再婚後に顔をあわせたのは二ヶ月前が初めてだが、多分、双方が、互いを苦手な相手だと認識した。香佑は、それでも懸命にいく子に馴染もうとしたが、いく子にその気はさらさらなかったらしい。
「どうした。香佑か」
「そうなのよ。まさか、もう吉野さんと喧嘩、とか……」
 隠せばいいのに、電話の向こうの会話が、筒抜けだ。
 すぐに電話に出てくれた譲二の声は、明らかに酔いを滲ませていた。
「どうした、香佑。新婚早々、家に電話なんかするものじゃないぞ」
「…………」
 お父さぁん。という女の子の声が父の声に重なって聞こえた。ねぇ、香佑ちゃんと電話? 沙希にも代わって。
「こらっ、沙希。静かになさい。――で、何の用だ」
 今夜、そっちに泊っていい?
 その言葉は、喉に引っかかったように出て来なかった。
「あ、あー。吉野さん。今ちょっと外に出てるから、その間に連絡しとこうと思って」
 気づけば、取り繕ったような明るい声でそう言っている。
「そうか……疲れて、いないか?」
「うん。大丈夫。……吉野さん、優しいし、よくしてくれるから」
 口にした途端、少し泣きそうになっていた。香佑は慌てて空を睨んだ。
「そうか。……よかったな、香佑。わざわざ電話してくれて、ありがとう」
 電話の向こうでは、いく子が沙希を叱っているらしい声がする。
 沙希、電話なんて出なくていいから勉強しなさい。もう香佑さんは、この家の人じゃないんだから。
 沙希――生まれて初めて会った、小学1年生の異母妹。
 香佑という異母姉の登場を、沙希は、無邪気に喜んでいたが、いく子は少しばかり迷惑気だった。むしろ沙希が香佑になつくのを、嫌がっていたような節さえある。
 それはそうだろう。香佑は嶋木の前妻の娘――田舎町では悪名高い、あばずれ女の娘なのだ。両親の離婚の原因をはっきり聞かされたことはないが、本家筋――つまるところいく子の実家から、母がひどく嫌われていたことだけは知っている。
 吉野と結婚するまでの一ヶ月余、香佑は彼らと共に生活したが、いく子がひどく神経質になっていたのだけは、よく判った。
(あなた……。言いたくないけど、香佑さんには、早く出て行ってもらわないと)
(結婚話がまとまったんだ。心配するな、と言っただろう)
(あんな都会のお嬢さんが、見合いなんか素直に受けるものかしら。出戻りになって、居つかれたら、困るわ、私)
 そんな会話を聞いたことも、見合いを断れなくなった一因だったのかもしれない。
 嶋木の家は、香佑が中学三年まで過ごした家だったが、もう、自分が知っていた家の名残はどこにもなかった。
 香佑の部屋は沙希の部屋になり、母と一緒に寝た寝室には、いく子が当然のような顔で居座っている。
「うん。……じゃあまた、落ち着いたら、吉野さんと挨拶に窺うね」
「吉野さんは、ないだろう」
 父は、苦く笑ってそう言った。
「もう夫婦なんだ。匠己さんと呼びなさい。吉野さんが、気を悪くするぞ」
「うん、気をつける。……じゃあ」
 携帯電話を切った後も、香佑はしばらく動けなかった。
 国道沿い。外にいることが父にばれなかったのは、この田舎町に殆ど車が走っていなかったからだろう。
 月が、夜に朧に滲んでいる。
 どうしてこんなに苦しくてやるせないのか、自分でもよく判らなかった。
 まがりなりにも初恋(だったかもしれない)の人に、自分のあさましい本心を見抜かれていたことがショックだったのかもしれない。
 ひどく矛盾した感情だが、拒否するつもりが、逆に拒否されたことがショックだったのかもしれない。
(俺……好きな奴がいるんだ)
「……生意気じゃん。吉野のくせに」
 てか、馬鹿じゃない? あいつ。
 どこのお人好しが、そんなことをぬけぬけとほざく男の元に嫁ぐだろうか。
 超絶イケメンとか大富豪とかならともかく、こんな田舎町の墓石屋――しかも、熊みたいなむさ苦しい容貌をしているくせに。
 いったいどんな女が、あのブサメンの相手なのだろう。絶対にとんでもないブサイクの田舎娘に決まっている。だって、墓屋の吉野の彼女だよ?
 ひとしきり心の底で毒を吐くと、ただぼんやりと月を見上げる、気が抜けたような1人きりの自分だけが残っていた。
 どうしよう。これから。
 どこに行こう。これから。
 あと数時間で携帯電話も切れる。行く場所もなければ、戻る場所もない。
(二度とうちに顔を出さないでよ。あんたの借金、一体誰が肩代わりしたと思ってるのよ)
(勝手に家出てチャラけた男と同棲した挙句がこれ? あんたなんか、もううちの子じゃないわ。冗談じゃないわよ。雅紀の勤め先にまで、取り立て屋が顔を出したそうじゃないの!)
 そうだ。最初から、私の帰る場所なんて、どこにもなかったのかもしれない。
 どこにも――この世界の、どこにも。
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。