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◇
「香佑。お前、結婚しないか」
離れて暮らしていた父から電話があったのは、結婚式から遡ること二ヶ月前の夕暮れである。
東京から博多方面に向かう新幹線の中――なんだってこんな時に、と思ったのをよく覚えている。
「一体、どうしたのよ。お父さん」
携帯電話を使用するために、デッキに向かいながら香佑は訊いた。
「いきなり電話してきて、いきなり結婚話? 久しぶりなのに、それって何の冗談よ」
「いや。いきなりじゃない。ずっと前から儂は、香佑には、結婚してこの町で暮らして欲しいと思っていたんだ」
「またまた、初めて聞いたわよ。そんな話」
香佑はまだ、それが父のジョークだと思っていたし、仮に本気だとしても、まともに取りあうつもりはなかった。
「中学で上宇佐を出て以来、私、一回もそっちに帰ったことないんだよ。今さら上宇佐に住むなんて絶対に無理に決まってるじゃん」
「いや、それでも一度、戻ってみてくれないか」
父は、いつになくしつこかった。
「本当にいい結婚話があるんだ。それに、香佑が上宇佐に帰れなかったのは、儂と母さんの責任であって、香佑のせいじゃないだろう」
「そんな言い方はやめてよ。私、自分が東京に行きたくて、お母さんについていったんだから」
香佑の両親が離婚したのは、香佑が中学三年生の時である。
生まれも育ちも東京だった香佑の母親は、当時の上宇佐では誰もが振り返るほどの美人で――同時に、悪名高いあばずれ女でもあった。その悪評は、母の元の職業がホステスだったことからついたものだろう。多分。
(上宇佐の何もかもが嫌よ。寒気がする。二度とあんな田舎に戻りたくないわ)
東京行きの新幹線の中で吐いたその言葉どおり、母は二度と上宇佐に戻らなかったし、別れた父と連絡さえ取ろうとはしなかった。
単なる離婚というより、絶縁――決定的な決裂という形で、母は嶋木家を後にしたらしい。だから香佑が、実父と自由に連絡できるようになったのは、成人を過ぎてからなのだ。母と、離れて暮らし始めてから。
「まぁ、一応聞くけど、一体どんないい話なの?」
今も、父の声を聞いたのは、かれこれ一年ぶりになる。一緒に暮らしていた頃から、折り合いがいいとは言い難い父娘だったから、今でも電話は滅多にかけないし、父からもかかってこない。たまに話しても、会話が長く成立した試しがない。
香佑にとっては、少しばかり苦手な父親――が、今は、その父と話せていることが、不思議なくらい素直に嬉しいと思えていた。
「お、じゃあ、少しは乗り気になってくれたんだな? いい話だったら、こっちに戻って来るんだな?」
父の声に喜色が満ちる。香佑は苦笑して、「聞くだけよ。あまり期待しないでね」と言った。
多分――その時の香佑は、空っぽのコップも同然だった。大袈裟ではなく、一滴の水にも飢えていた。
その日、仕事も住む場所も何もかも失って、逃げるように南を目指していた香佑に、確たる行き先があったわけではない。後で思ったことだが、父の申し出は、天から下ろされた蜘蛛の糸も同然だったのだ。
一応聞くけど――そう言った時点で、もしかすると心のどこかで、その糸にすがりたいと願うずるい自分がいたのかもしれない。
「実はな。下宇辺りでの縁談なんだが、……どうにも急いで、結婚相手を探している家があってな。それというのも、母親が病気で、どうも長くはないらしいんだ」
うわぁ、条件、最悪。
即座にそう思い、香佑は肩をすくめている。
「よくある話だが、自分の元気な内に息子の嫁の顔が見たいと言う、あれだよ。それで、とにかく夏中に話をまとめようと、焦って相手を探しておられるようなんだ」
いくらかドン引きするものを感じながら、「へぇ」と香佑は、窓の外をみた。夕焼けが山々の稜線を光の温色に染めている。
話を聞いた私が馬鹿だった。病気持ちの母親つきの男なんて、結婚する前から介護必須に決まっている。そんな面倒な人生、絶対に嫌だ。
「いくつの人?」
それでも続けて訊いてしまったのは、何故だったのだろう。
「28歳、香佑の同級生だ」
「へぇ、同い年なんだ」
その時、父はある意味的確な事実を告げていたのだが、香佑はそれを、単なる同年だと解釈した。
年が近いと聞いて、一度は引いた気持ちが、また少しだけ戻り始める。
「……仕事は? 下宇佐で何してる人?」
「社長さんだよ」
「――社長さん?」
初めて、それでもどこか冷めていた香佑の気持ちに、ほんのりと火がついた。
「ああ、石の切り出しやなんかのな。そういった会社の社長さんだ。仕事は忙しいだろうが、経営状態はしっかりしている。去年、事業で成功して大きな儲けがあったらしく、あの辺りじゃ、大きな家の方だよ」
下宇佐に、そんな家あったっけ。
とはいえ、中学校卒業と共に実家を出た香佑には、その後のことは、あまりよく判らない。友達の柳美郷の話では、同い年の同級生たちは、とっくの昔に都会に散ってしまったと言う話だけれど――
「石を扱う、仕事?」
「ん、まぁ……、大雑把に言えば、な」
そこは、曖昧に誤魔化した父親の作戦勝ちだった。
そこで墓屋だと言われれば、連想するのは当然墓屋の吉野だったろう。多分、会うまでもなく即決で断っていたはずだ。
「相手方は、できるだけ年の近い、家の仕事を手伝ってもらえる健康な女性を探しておられるそうだ。そこでうちが手を上げた。丁度いい娘がいる。どうか、もらってやってほしいとね」
「まぁ、健康っちゃあ、健康だけど」
なんか、目茶苦茶な話だな、と思った。
目茶苦茶というか、乱暴な話だ。今時親の介護ために結婚って、一体どういう28歳の社長だろう。
間違いなくマザコンで、女に奥手のヘタレ野郎に違いない。
これまで、親におんぶにだっこで育てられ、結婚相手まで世話されても、全くプライドが傷つかないお坊っちゃまタイプ。――無理。
「ああ……まぁ、いい話だとは思うけどね」
香佑は、所在なく外を見ながら呟いた。
現実には、結婚する気なんて、全くない。
男なんて当分、見たくもない。
それ以前に、父のいる上宇佐の家には……もう、二度と帰ることもないと思っていたけれど。
外は、茜色の夕焼けに包まれていた。
ゆるやかな稜線を描く山。その頂を覆う雲の帯。金赤色の光が、雲の濃淡を淡い紫色に染めている。その下に、ぽつり、ぽつりと点在する家。
「…………」
何故か、無感動に涙が零れ、その涙の意味が判らないまま、香佑は急いで、指の端でそれを拭った。
「うん、……会って、みようかな」
「本当か?」
だめもとで電話したのか、父の声は、喜びよりもむしろ驚きが勝っていた。
「本当だな? じゃあ香佑、ひとまずこっちに帰って来るんだな?」
何故かその刹那、もう一筋涙が零れ、香佑は深呼吸しながら、指先でそれを払った。
「すごく気に入らない人だったら駄目だけど、……そうでなかったら、結婚してもいいかな。私」
多分、その時香佑は、帰りたくなったのだ。
帰りたくなった。
子供の頃に過ごした場所に。香佑の人生で、多分一番屈託なく輝いていた場所に。
そこに、東京で失くしてしまった自分の居場所があるかどうかは判らなかったけれど――
◇
「じゃあ、私らはここでお暇するけど、香佑さん、ゆっくり休んでくださいよ」
枯れ枝みたいに痩せた細面の女性は、そう言って何度も香佑に頭をさげた。
「本当に、うちみたいな辺鄙なところに、よう嫁いできてくださりました。本当に、本当に、ありがとう」
吉野ミヤコ。匠己の母親で、今日から香佑の義理の母になる人だ。
外見は、たとえは悪いが昔の吉野匠己そのものである。小柄で痩せていて色白で――ちょっと幽霊じみた感じの儚げな女性だ。
なんの病気かは聞いていないが、あまり体調が思わしくないことだけは窺い知れた。披露宴の最中も、ひどく辛そうに咳き込んでいたから、肺か気管支が悪いのかもしれない。
「あの、明日から頑張りますので、こちらこそよろしくお願いします」
香佑も、急いで言って頭を下げた。
「私、お店のこととか何も判らないので、色々と教えてください」
当の匠己とは、ほとんど意思疎通をはかっていない香佑であるが、姑となるミヤコとは、時折連絡を取り合っていた。親しくなるほどではないにしろ、多少はうちとけて話が出来る仲ではある。
黒留袖姿のミヤコは謙遜しているのか、慌てたように片手を振った。
「なぁんにも、私が教えることは、本当になぁんにもないですから」
「そんな」
「店には若いものがたんとおりますから。香佑さんは、なんにもせんと、のんびり構えとったらいいですよ」
「はぁ……」
意味が判らないままに、香佑は曖昧に笑って頷いた。
まさか、店の人間に家事の全部をやってもらうわけではないだろうに。
今夜、香佑と匠己は、あけぼの会館に宿泊することになっている。願ったり叶ったりだが、それが新婚旅行の代わりらしい。
今、――お盆を一カ月前に控えた墓石屋は、休む間もないほど忙しいらしく、旅行は、夏が終わってから、という話になっているのだ。
「無理だけは、せんでええからね」
ミヤコは、噛んで含めるように言ってくれた。
顔には丸めた紙みたいな皺が幾重も刻まれているが、目鼻立ちは整っていて、あるいは健康だったら、そこそこ綺麗な50代後半だったのかもしれない。
「店のことは、従業員もたくさんいるし、近所の皆さんもいい人ばかりだから。香佑さんはのんびり、自分のペースで、うちに馴染んでいきんさいよ」
「はい、ありがとうございます」
ミヤコについては、見合い前から介護が面倒とか、ネガティブイメージを抱いていただけに、少し申し訳ない気持ちになっている香佑である。
しかも長くはないなんて――なんの病かは聞かなかったが、ミヤコの方にこそ、これからはのんびりと休んでほしい。
記憶の底にも、微かながらにミヤコの面影は残っている。
参観日、運動会、卒業式――思いかえせば、いた。ひどく影の薄そうな女のひとが。いつも日影に隠れるようにして立ち、はらはらした目で、息子を見守っていたような。
いずれにしても、ひたすら善人で、ただただ香佑を気遣ってくれるこの老婦人に対してだけは、悪感情は持てそうもなかった。
「匠己、今夜は私らが都さん見てるから。安心して、な」
そのミヤコの隣に立つ、骸骨みたいに痩せた老婦人が、ミヤコを支えるようにして言った。都の姉にあたる人で、大槻ルリ子。匠己にとっては叔母にあたる人だ。
顔色の悪さは、言っては悪いが妹以上。どうやらとことん病弱な家系らしい。
その叔母とは対照的にまるまると肥えた夫――大槻正弘が、「ほれ、匠己」と、いきなり手にした包みを、匠己の方に差し出した。
酔っ払っているのか茹で蛸みたに赤い顔で、額はつるりと剥げ上がっている。
正弘はにたにた笑いながら、匠己の腹を肘でつつく真似をした。
「首尾よくやれよ。このこのぉっ」
「……?」
首をかしげながら受け取った匠己が、袋の中をのぞきこんで眉をあげる。その中身が、赤マムシドリンクだと気づいた香佑は、むしろ蒼白になっていた。
「キョーレツな奴だからな。薬局でいっちゃん高いの、買ってきた」
苦笑した匠己は、それを目のあたりにまで持ち上げた。
「悪いな。助かるよ」
助からなくていい、助からなくていい。
ていうか、絶対に、嫌だ。
もちろん、結婚した以上、夫婦の生活――身も蓋もない言い方をすればセックスが、避けて通れない儀式だということは、香佑だって理解している。
当たり前だが、それこみで、香佑はこの男との結婚を承諾したのだが――
ぞろぞろと親族たちが去って行って、香佑と匠己の2人だけが、がらんとしたロビーに取り残される。
さすがに匠己は所在なさそうで、香佑はさらに居心地が悪かった。
「……んじゃ、まぁ」
「あ、うん」
それが合図のように、匠己は先に立って歩き出し、香佑はその後を、少し遅れて、追った。
階段をあがる2人の行き先は、今夜宿泊する予定の部屋である。
とんでもなく、気持ちは重いままだった。
好きでもない男とのセックスなんて、香佑には初めての経験だ。いや、体験することの方が稀なのかもしれないけど。
こういう時、一体どう振る舞えばいいんだろう。嘘でも嬉しそうに、――無理。いっそ、自分から積極的に――もっと無理。
なにしろ香佑と匠己は、手さえ繋いだことがないのである。
一カ月前に見合いして、双方断らなかったから、そのまま結婚式の日取りが決まった。
多分、本人同士より、双方の家族が大乗り気だったのだろう。
実のところ、香佑は何度も迷ったし、折をみて断ろうとさえ思っていた。が、狭い田舎町、しかも吉野石材店は、そこそこ大きな会社である。
おまけに仲介に立ったのが父の上司。ゆうちょ銀行の支店長でありながら、地元町内会の会長を務めるという、田舎では結構な立場にいる権力者である。
今さら嫌と言えば、父やその上司に恥をかかせてしまう気がしたし、それを差し引いても、なんとなく断り辛いムードが、当時は家中に立ちこめていたのだ。
最大の誤算は、絶対に断ってくると踏んだ吉野家サイドが、意外にものりのりで話を進めてしまったということである。一体その間、匠己が何を考えていたのか、香佑には、さっぱり理解できなかった。
なにしろ匠己は、過去、自分を五度も振り続けてくれたのだ。いってみれば、とことん縁のない相手。故に、今回も振ってくれるだろうと――漠然と楽観していたのかもしれない。
が、結局は互いに断りを入れないまま、あれよあれよと今日の日を迎えてしまった。
そんな曖昧な2人が、一足飛びに身体を繋げてしまうなんて、そもそも本当にアリだろうか?
「俺、腹減ったから、外に食いにいくけど、どうする」
鍵を開けながら、匠己が初めて、香佑に何かを聞いてくれた。
ここは、嫌でも一緒についていくべきだろうと思ったが、どうしてもそんな気分にはなれなかった。
「……私は、いらない」
「あ、そ」
簡単に答えると、部屋に入って荷物を置いた匠己は、本当に1人で出て行ってしまった。
その素っ気ない態度に、自分から断ったにも関わらず、香佑は少しばかりむっとしている。
なに、その態度。
それでも誘ってくれるのが男ってものじゃない。私たち、新婚で、私――殆ど、お金持ってないのに。
1人になった香佑は、ごろん、と寝転んで天井を見上げる。
「……まいったなぁ」
想像では、許容の範囲内だったけど、やっぱりセックスなんて絶対に無理そうだ。
13年前の初恋の相手だからって、今も同じように思えるはずもなく、別人と化した匠己に対しては、言っては悪いが、嫌悪感と不気味さしか沸いてこない。
だいたい、一度も話題に上らないけど、あいつは私のこと、ちゃんと覚えててくれるのだろうか? 五度も告白したのだから、よもや忘れてはいないだろうが、それにしても――
なんにしても、今の匠己のビジュアルは、やや潔癖のきらいのある香佑には、絶対に受け入れられそうもなかった。キスとかセックスとか、考えるだけでも鳥肌ものだ。
――どうしよう。いやだって言えば、多分しないような気がするけど、それなりに不愉快に思うだろうな。
畳の上で、香佑はごろんと寝がえりを打った。
だったらなんで結婚したんだって――財産目当て。バレバレだな。恋愛感情なかったらそれしかない。小学生にだって答えは判る。
転校してからも、ずっとあなたが好きでしたって――、少女漫画か。そんなの、吉野みたいな阿呆にだって嘘だと判る。今となっては、なんで好きになったかさえ覚えていないほどなのに。
ありていに言えば、今の吉野匠己の魅力は、彼の年収だけだった。昨年の収益を聞かされた時、石屋ってこんなにもうかるの? と、香佑は内心吃驚したものだ。
そう、お金は――ないより、あった方がいい。
なにしろ、金がなかった故に、香佑は東京で地獄を見たのだ。もう二度とあんな経験はしたくない。
相手の財産に拘るのは、別に悪いことじゃない。だって年収は、女が結婚相手をセレクトする際の超重要ポイントだし、それが男のステイタスでもある。
そのステイタスを共有するためなら、多少気に入らない男でも、素直に身体くらい提供したって――
「…………」
商売女か、私は。
判っていたことだけど、なんだか惨めでしょうがない。
こんな人生を送るつもりじゃなかった。東京で店を持って、成功して、それから――
(この店を、僕らがデザインした服でいっぱいにしよう)
(そうしたら、僕たち正式に結婚しよう。子供はいらない。2人で、年の半分は海外を旅行するんだ。最新のファッション感覚を、常に吸収していかないとね)
そんな夢みたいな未来が、もうすぐそこにあったのに。
なのに今の香佑は、田舎町のさびれた公営旅館で、ぼんやり天井を見上げている。
それでも、東京での悪夢みたいな日々にくらべたら、何倍もましなのだ。あの日々に引き戻されることに比べたら――
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