恋の神様は意地悪だ。
 肝心な時に来ないくせに、絶対来てほしくない時にやってくる。
 
 
 
 
 
 
第1話 墓場の花嫁
 
 
 
 
「もし結婚するなら、このクラスの誰がいい?」
 
 とは、小学校時代、女子の間で流行っていた交換日記で、一番よく飛び交った質問だった。
 藤木君――ふじき小児科の一人息子で、文武共に優れたイケメンの秀才が、当時、ダントツの一番人気。
 岩本君――勉強はやや駄目でも、徒競走ではぶっちぎりの一位。黒目の大きな幼顔はいかにもジャニーズ系という雰囲気で、彼が不動の二番人気。
 次に、獣医の息子の安田君、ガソリンスタンドの木村君、とお馴染のメンバーが続いていく。
 で、問題はその次だ。
 だいたいおまけみたいに、この質問が後に続く。
「一番結婚したくない男子は誰」
 これは全員の答えが、ほぼ一致していた。
「墓屋の吉野」
 もう、いっそ、気持ちいいほど一致していた。
 理由は色々あげられる。
 墓屋の吉野――吉野匠己。
 彼がクラス一番のちびっこで、病気の猫みたいに痩せていたこと。
 運動神経が極端になくて、給食を食べるのが一番遅くて、忘れ物ばっかりして――とにかく、あらゆる局面でクラスのお荷物みたいな存在だったこと。
 そのくせ、へりくだるでも、おどおどするでもない。憎らしいほどの愛想なしで、どこか近寄りがたいおかしな迫力――不気味さみたいなものを持っていたこと。
 悪い意味での超マイペースで、集団行動ではいつもなにかしらの問題を起こし、クラスの和とか団結みたいなものには、一切無関心だったこと。
 行動そのものが、おかしかったというのもある。
 遠足とか社会見学とか、そういう学校外での授業の時、吉野はきまってふいっといなくなる。そうして何処で見つかるかといえば、大抵は霊園やお寺で見つかるのだ。
 つまるところ、墓場で。
(あいつ、ヘンタイだよ、マジ変態!)
(お墓の前でにやにや笑って、ぶつぶつ独り言ゆってんの。もう、おっそろしくて、サブイボ立った。吉野、あいつ、幽霊でも見えるんじゃない?)
 その推測は、学年の女子全体を震撼とさせたが、彼が墓に馴染みがあるのは、ある意味当然ともいえた。なにしろ墓屋は、彼の生家の職業なのだ。
 この界隈で最もド田舎と言われている下宇佐田町に、彼の実家はある。
 人気の途絶えた県道沿い。墓やら不気味な彫像やらがずらっと並んだ薄気味悪いトタン屋根の工場――そこが、彼の父がやっている墓石屋だ。
 正式な名称は吉野石材店。
 同じ下宇佐田に住むクラスメイトは、皆、口を揃えてこう言うのだった。
 下宇佐の幽霊屋敷。家自体がそもそも墓場。富士山麓なみの心霊スポット。
 しかも、店の中には幽霊よりもっと辛気臭い親父がいて、子供たちがいたずら半分で近づこうものなら、死神より恐ろしい顔で怒鳴りつけてくる――
「こらっ、たたられっぞ」
 そんな伝説の男、吉野匠己に、五回もふられた女がいるんだから、世の中は面白いというか、無駄に上手くできている。 
 そう、小学校五年から中学三年まで、「幽霊」とか「サブイボ大王」とか呼ばれてクラス全員の鼻つまみものだった吉野匠己に、毎年告白しては振られ続けた女子生徒がいた。
 クラスの女子全員に、「マニア」「悪趣味」「レベル下げるにもほどありすぎ」と言われながらも、毎年毎年――恒例のように、学年末に告白しては、振られ続けた可哀想な女の子がいた。
 その子は、小さい頃お婆ちゃんにもらった恋愛成就のお守りを後生大事にもっていて、このお守りが――恋の神様が、絶対に自分と吉野匠己を両思いにしてくれるものだと、可愛らしくも頑なに信じていたのだ。
 勉強も出来てスポーツも万能で、当時の学年の中では一番人気のあった女の子。
 あの吉野に5回もふられた女――と、最悪のレッテルを貼られたまま、中学3年の秋に東京に引っ越した女の子。
 何故そんな子が、吉野匠己みたいな男を好きだったのか、あれから13年たった今では、全くの謎なのだけど――
 
 
 
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「結婚した? するじゃなくて、した?」
 携帯電話から聞こえる幼馴染の甲高い声に、香佑(こう)は少しばかり眉をしかめ、携帯を耳から離した。
 まぁ、驚かれるのも無理はない。こうやって報告している本人が、今、一番現実感がないのだから。
「うん。するじゃなくて、した」
「誰と」
「まぁ、……この辺の人と」
 香佑は曖昧に言葉を濁しながら、鏡に映る自身を見つめた。
 白無垢姿の花嫁が、携帯電話を耳にあてているといういかにも現代の象徴みたいな姿。
 正確には、結婚したんじゃなくて、しているのだ。今がまさに結婚式。結婚に至る現在進行中なのだから。
「この辺の人?」
 素っ頓狂な声をあげた電話の相手は、柳美郷。中学校を卒業するまで親友で、香佑が東京に転校してからも時々連絡を取り合っていた友人である。
「この辺って、香佑、今上宇佐に戻ってるんでしょ? じゃ、うちらの実家あたり? てか、あんなド田舎、もうろくな男が残ってないじゃん。うちらみたいな若いのは、どんどん街に出てってるし」
 それにしても、滅多に電話なんてかかってこない相手から、どうしてこうも最悪なタイミングで――そんな香佑の憂鬱も知らず、美郷は興味津々、とばかりに続ける。
「柳原の孝雄さんはついこの間結婚したし。宮田の和さん……? それとも吉田の真介さん? ねぇ、一体、誰なのよ」
「ま……そのあたりは、今度、会った時にね」
「じゃ、8月の同窓会? 一ヶ月以上も先じゃん。もっと早く会えないの?」
「うん……」
 あまり、会いたくない……とは言えない。
「ねぇ、誰誰? 上宇佐の男なら、大抵は覚えてるから名前言って。一体誰が、宇佐小のアイドルだった香佑のお婿さんになるのよ?」
「マジで、会った時に話すから」
 香佑は溜息を堪えながら、曖昧に話を遮ろうとした。
 過去をよく知る昔の友達にだけは言えやしない。今、現在進行中の結婚相手が、まさか、あの――
「まさかと思うけど、墓屋の吉野じゃないよね」
 ぶっと香佑は吹き出すように咳き込んでいた。
「は、はい?」
 けらけらっと美郷が笑い出す。
「やだぁ、もうっ、ジョークジョーク。そんなのあり得ないに決まってるじゃん。なにしろ結婚したくない男ナンバー1の吉野だよ。墓屋の幽霊男だよ?」
 一瞬言葉に窮した香佑が、意を決して口を開く前に美郷は続ける。
「そうだー、思い出したよ。その吉野にさ、香佑ってば、7回くらい告白してはふられてたよね。宇佐小の七不思議。スターの恋とか言われてたじゃない」
「……そ、そんなことあったっけ?」
 冗談を言うみたいに返しながら、冷たい汗が額を伝った。
 告白したのは7回じゃなくて、5回です。肝心なところで、過大に間違わないでほしいんだけど。
 墓屋の吉野。
 変人、変態の変わり者。嫌われ者の幽霊吉野。
 香佑は軽く息を吐いて、13年前の自分の面影を頭から追い払った。
 どうして吉野匠己みたいな男を好きだったかなんて、あれから13年経った今では覚えていないし、思い出したくもない。
 多分錯覚だったし勘違いだった。おそらく、数年に渡って悪い夢でも見続けていたのだろう。
 が、現実には、その吉野匠己に、香佑は5回も告白して振られたのだ。それだけは、当時同級生だった誰もが記憶している過去であり、取り消しのきかない事実である。
「結婚式に呼んでくれてたら、その恥かしい過去、私がぜーんぶスピーチしてあげたのにさぁ」
 くすくす笑いながら、美郷は続けた。
「てか、今だから聞くけど、あれってどういう冗談だった? 吉野なんて、今思い出してもサブイボたつくらいキモい男だったんですけど」
「そこまでひどかった、……かしらねぇ」
「だって香佑も言ってたじゃん。あれは子供時代最大の悪夢だって。目が覚めてみたら、なんであんなキモメンが好きだったのか全くの謎だったって。で、高校入ってすぐにいい男見つけてさぁ。吉野が好きだった自分が、むしろ恥かしいとまで言ってたよね」
「あの……もう、切っても、いい?」
 何故友達とは、こうも無駄に記憶力がいいのだろうか。いっそ、自分の人生から消し去りたい過去を、こうも見事に覚えているとは。
「まぁ、吉野なら、風の噂でクビナガリュウと結婚したって聞いたし。その線はないか」
 独り言のような美郷の言葉に、香佑は再び吹き出しかけていた。
「え、なに、クビナガて?」
「いたじゃーん。忘れたの? ろくろっ首よ。お化け同士、吉野のつれあい」
「……?」
 なんの話か判らないけど、その噂、風というか、ガセですよ。思いっきり。
 最早、何も言う気になれず、ただ声もなく笑うしかない香佑である。
「で、話を戻すけどさ。そんな香佑が、13年ぶりに上宇佐に戻って、一体誰と結婚したわけ?」
 友人の興味が再び自分に向けられた時だった。ごほんごほんと、香佑の背後で、いかにもわざとらしい咳払いがした。
 振り返ると、薄緑の着物を着た中年女性が、笑顔に苛立ちを滲ませてこちらを見ている。
 いわゆる、花嫁の付添い人だ。
「お時間です」
「あ、すみません。すぐ」
 慌てて携帯を手で塞ごうとしたが、遅かった。続く女の声が、多分回線の向こうの人にも、ばっちりと届いている。
「急いでくださいね。もう花婿さんも、ご両家の皆様もロビーにお揃いでございますから」
「え? 花婿? 香佑、あんた、今一体どこにいるの?」
 携帯越しに、美郷の驚いた声が響き渡る。
 苦く顔を歪め、香佑は、携帯を耳に当て直した。
「ごめん。ちょっと今取りこんでる。それからこの携帯、今日で契約が切れて使えなくなるから」
「え――は?」
「新しいの買ったらこっちから連絡するね。じゃあ」 
 携帯電話をテーブルの上に置いた香佑は、急いで椅子から立ち上がった。
 同時に歩み寄ってきた付添い人が、しゃがみこんで白無垢の裾を直してくれる。香佑は鏡の前で、どうにも位置が決まらないように思える綿帽子を、心持ち目深になるように調整した。これだけは、綺麗な流曲線が出るよう、何度も自分で形を整えたものである。
 ――神前結婚式、か……。
 披露宴がないから、当然お色直しもない。身につける衣装はこの白無垢一着だけだ。
 式の費用が何もかも相手方持ちだから贅沢は言えないが、正直言えば、少しばかり残念な気持ちだった。
 基本的に着物が好きでないというのもあるが、できれば自分のデザインしたウェディングドレスを着てみたかった。
 東京でパタンナー ――衣服のデザイン画から型を起こす仕事をしていた香佑の夢は、ファッションデザイナーだったし、自分が結婚する時は、当然のように自身のデザインしたドレスを着られるものだと思っていたのだ。
 とはいえ今――現実には、この、あけぼの会館とかいう田舎まるだしの公営建物で、ウェティングドレスを着てしまうことの方が恥かしい。
 控室を出て、付添い人に手を引かれて歩き出した香佑を、やたら派手な衣装を身に付けた老人たちの群れが、わっといきなり取り囲んだ。「きゃー」とか「すてきねぇ」とかいう歓声と共にパチパチとまばらなフラッシュがあちこちで瞬く。
「花嫁さん、挨拶して」
 と、隣の付添い人に促され、呆然としていた香佑は慌てて一礼した。――誰? この人たち。
 結婚式の参列者は親族だけだし、赤や緑のワンピースって、趣味の悪さ以前に式の出席者にしては派手すぎる。それに、半分近くの人は普段着だし、中にはいかにも農作業着的な衣装に身を包んでいる人も……。
「ほんま、都会のおなごさんは、綺麗じゃのう」
「こないな綺麗なお嫁さんは、この辺りじゃ見たことがないでがんす」
「がんす、がんす」
 香佑は精一杯の作り笑いで、しおらしく頭を下げ、逃げるように老人たちの祝福の輪を抜けだした。
 がんすとか、そんな恥かしい方言、とっくに死に絶えたと思ってた。
 13年もの間、耳にさえしたことがなかった生まれ故郷の言葉。まさか、二度と戻るつもりがなかった場所に、こんな形で足をつっこむことになろうとは……。
 それでもなお追いかけてくるフラッシュに巻かれて歩きながら、香佑は今度こそ絶望的な気持ちになっていた。
 ――ああ、まさかこんな運命が私を待っていたなんて!
 一体どうして、こんなことになったんだろう。どこでサイコロを振り間違えたら、ここまで酷い事態になるんだろう。まさに、絵にかいたような悪夢としか言いようがない。
 小学校時代の同級生。
 結婚したくない男子ナンバー1。
 しかも、私を5回も振った男。
 あれから13年。今や下宇佐のお化け屋敷の主人となった吉野匠己と、いまさら結婚することになるなんて――
 
 
 香佑と付添い人が進む先――式場の入り口には、黒地に白の五つ紋を染め抜きした紋服姿の男が、所在なげに立っていた。
 吉野匠己。
 13年ぶりに再会した幼馴染。
 体格だけは、チビで痩せっぽちだった13年前と比べて別人になった。
 身長は180センチを超えるほどに伸びているし、家業で鍛えられたからだろうが、肩にも胸にも男らしい厚みがついている。
 そこは、驚く程いい形に成長した。腰位置が高い立ち姿も綺麗だし、肩幅も広いし――後ろ姿だけを見たら、「わぁ、素敵な人!」と、勘違いする輩もいるのかもしれない。
 が――
 振り返った匠己を見た香佑は、がっくりと肩が落ちるのを感じていた。
 髭剃れよ! それから髪!
 遠くからでも、思いっきり叱咤したい気分である。
 顔もまた、彼は別人になっていた。
 昔は色白の――「幽霊」というあだ名に相応しい、どこか影の薄い儚げな容姿をしていたのに、今、その面影はどこを探しても見いだせない。
 肩まで伸びた昆布みたいに重苦しい髪に、唇の周辺と、頬から顎までを覆う真っ黒な髭。そのむさくるしさと不潔さときたら、幼馴染の香佑であっても目を背けたくなるほどだ。
 顎が大きく、唇は肉感的で、充血した目もどこか凶悪気で――あまり顏を見ないようにしているから、詳細は不明だが、とにかく、いかにも田舎の肉体労働者みたいな野卑な顔つきになってしまった。
 一体どういう経緯を経れば、ここまで残念な変化を遂げることが出来るのか。
 その匠己の前に、香佑が歩み寄るより早く、1人の小柄な男がどたばたと駆け寄ってきた。
「匠己君、今日は本当におめでとう!」
 茹でた蟹みたいな赤い顔。そして銅鑼みたいな大声に、香佑は思わず顔を背けている。
 香佑の父親、嶋木譲二である。横幅はあるが背の低い譲二は、匠己の肩のあたりまでしか背丈がない。
 その譲二が、顔をますます真っ赤にして、匠己の腕を押し抱かんばかりに握り締めると、何度も頭を下げ始めた。
「ありがとう! 娘をもらってくれて、本当にありがとう! 何度礼を言っても足りないくらいだ! 本当にありがとう、匠己君」
 香佑には背中しか見えないが、匠己は多分、困惑気味に「はぁ」とか「まぁ」とか言っている。
 うるうるっと譲二の双眸が潤みだす。
「これから、香佑をよろしく頼むよ。本当に娘を、よろしく頼む!」
 ああ……そんな、恥かしいくらいの大声で。
 しかも、あれは間違いなく朝から一杯ひっかけた顔だ。昔から酒豪だった父は、何か緊張を強いられる行事がある日は、必ず起きぬけに焼酎を飲んでいた。それでテンションを上げて大声を出すのだから、周りの者はたまらない。
 香佑はますます恥かしさで消え入りたいような気持になる。
「いいお父様をお持ちですねぇ」
 と、付添い人にしみじみと囁かれても、慰めか厭味だとしか思えないほどだ。
 感情表現が大袈裟で、声が必要以上に大きくて――まるっきり場の空気が読めない典型的な田舎者の父が、香佑は幼い頃から苦手だったし、少しばかり恥かしかった。
 今も、わめくように喋りながら花婿に頭を下げ続ける譲二の姿を、周囲の者たちが、若干奇異な目で見つめている。その恥かしさときたら――いっそのこと駆け寄って、父親の口を塞いでしまいたいくらいだ。
「おう、娘が来た」
 その時、父の赤く潤んだ目が、いきなり立ちすくむ香佑に向けられた。
「なんと綺麗な花嫁だ。こんな美しい娘は世界中のどこを探してもいないでしょう。私の自慢の娘です。どうぞ、じっくり見てやってください!」
 割れるような大声に、周囲の視線は当たり前に集中している。一瞬「どうすれば……」みたいな沈黙があったものの、すぐに気をきかせたような喝采と拍手が周辺から鳴り響いた。香佑はもう、倒れそうなくらいの絶望を覚えている。
 お…………、お父さん……。
 実の父にとんでもない恥かしい前振りをされた花嫁は、軽い貧血を覚えながら、うつむいて匠己の傍に並び立った。
 匠己は、曖昧に笑いながら、歓声と冷やかしに片手を挙げて答えている。その様もなんだか妙に軽薄そうで、もう香佑は今の全ての――あらゆる状況に後悔していた。
「よう」
 うつむいた頭上から、初めて匠己の声がした。
 少し鼻にかかったような、軽い、けれどやや硬質の――それでいて優しい声だ。その耳触りのいい声だけは、子供時代の面影がはっきりと残っている。
「……あ、……ども」
 一応、挨拶をされたようなので、香佑も曖昧に目礼を返す。
「元気だった?」
「あ、まぁ……とりあえず」
 匠己は思いの外平然としていた。いや、平然――というより、必要以上にリラックスしているように見えた。
 会話はそれきりで、そこで匠己の友人らしい人たちが近寄ってきたから、香佑は気をきかすふりをして匠己から数歩離れた。
 それにしても、今のが、これから結婚する2人の会話だろうか?
 13年ぶりに見合いの席で再会して、今日でほぼ一カ月半。
 匠己の仕事の都合もあって、トントン拍子に式の日程が決まったのだが、その慌ただしさの中で、実は2人は――殆ど会話を交わしていないのだ。いや、会話どころか、顔を合わせてさえいないのである。
 正直言えば、本当にこんな2人が結婚なんてしちゃっていいの? というのが香佑の気持ちだ。
 もちろん香佑の方には、縁談を断り難い家の事情があったのだが――、見合いの席で、香佑以上に乗り気ではないように見えた匠己の本心は、一体どこにあるのだろう。
「匠己、お前さ、こんな時くらいその髭剃れよ。いくらなんでもお嫁さんに失礼だろうが」
「さっき式場のおばちゃんにも怒られた。しょーがねぇ、仕事終わってねぇんだもん」
 そんな会話が、香佑の耳に飛び込んできた。
 ちらっと見上げると、背を向けた匠己がぼりぼりと頭を掻いている。
 肩に散った白いものを見て、香佑は――大袈裟でなく――倒れそうになっていた。
 百歩譲って長髪と髭までは許せる。見合いの席でも聞いたが、それには理由があるらしいからだ。
(本当にすみませんねぇ。この子、仕事にかかっている時は、縁起担ぎ、とでもいうんでしょうか。髪も髭も、絶対に切ろうとしないんです。今日だけはしゃんとしろって、私も口を酸っぱくして言ったんですけど)
 見合いの席で、吉野の母が恥かしげに打ち明けてくれた話が本当なら、そこはぎりぎり我慢できる。そこまでは我慢できるが――
 フケはないでしょ!
 まさかと思うけど、昨日風呂にも入ってないわけ? 冗談じゃない。肩にフケを散らした花婿なんて、絶対に嫌だ。
「……香佑」
 気づけば父が、感涙に目を潤ませて、娘の晴れ姿を見上げていた。
「幸せに、な。今まで何もしてやれなくて、本当にごめん、な」
 今にも号泣しそうな父親に、香佑は慌てて用意されたハンカチを差し出した。
「やめてよ、お父さん。泣くような場面じゃないから」
「そ、そうだな。晴れの席で、お父さん、泣いちゃいけなかったな」
 苦笑いして、譲二は袖で涙を拭う。
 いや、そういう意味じゃなくて、そもそも泣けるほど感動される必要がないって意味で――
「金の面でも、あまり助けてやれなくてごめんな。本当はもっと、ちゃんとした支度をしてやりたかった。式だってもっと大きなところで、盛大にやりたかったのにな」
 さすがにその言葉には胸が詰まった。
「お父さん……」
 と、香佑が初めて双眸をわずかに潤ませかけた時だった。不意に視界が明るく鳴り、頭から何かが引き抜かれたような感覚がした。
 ――え……?
 とんでもなく嫌な予感を覚えながら、香佑は、おそるおそる振り返る。
 背後では、匠己が、不思議そうな面持ちで、香佑の頭あたりを見下ろしていた。
 その手に摘み上げられている白い布切れは――もしかして、もしかしなくても。
「ばっ、な、何やってんの。やめなさい、匠己君!」
 泡を食った声で怒りだしたのは、香佑ではなく、花嫁の付添い人の女だった。さすがは狭い田舎町とあって、匠己とは知己の間柄らしい。
 香佑はもう、唖然として声も出ない。
「一刻も早く顔みたいのは判るけど、あんた、式の前に花嫁さんの帽子取っちゃうなんて、それ、絶対にやっちゃいけないことだから!」
 あまりの珍事に、周囲の親類たちからも冷やかしの声があがる。
「よっ、ラブラブじゃねぇか。匠己」
「見たいとこ、そこじゃねぇだろ。裾の下は夜までとっときな」
 さすがにその卑猥な冷やかしには、匠己は少しばかり閉口していたようだった。
 もちろん、香佑は、あまりの侮辱に真っ青になっている。
 い、一体なんなの、この男。
 どういうつもりなのよ。なんの真似なのよ。せっかく綺麗に整えた綿帽子が!
 が、次に匠己が首をかしげながら洩らした言葉ほど、香佑を切れさせたものもなかったかもしれない。
「いやぁ。この下どうなってんのか、ずっと気になってたから」
「…………」
 飄々と呟いた男を、香佑はたっぷり三秒は見上げていた。
 そこ……?
 そこ?
 見たかったのって、まさか――そこ?
 あるいは、唯一、13年前と何ひとつ変わらないのは、匠己の性格みたいなものかもしれない。
 馬鹿で、KYで、マイペースの変わり者。13年たった今でも、悲しいくらい小学校時代の墓屋の吉野のままなのだ、こいつは。
 しかも――
「これ、こっちが表でいいのかな」
 普通に返してくれればいいのに、なんの親切か、匠己は自分の手で綿帽子を香佑の頭に被せてくれようとしているらしい。
「ちょっ」
 止める間もなく、無造作に頭に乗せられた綿帽子と、がつんと髪に当たった無骨な手。それはあろうことか、頑なに止まっているはずの香佑の鬘を、微妙に横にずらしてしまった。
「――あ」
 匠己が、驚いたように口を開けた。
「それ、地毛じゃないんだ。もしかして!」
「…………」
 当たり前だろうが、ボケ。
 さすがに周囲は静まり返り、香佑は無言で、鬘の位置を指で直した。
 あんた、本当に何も変わってないよ、13年前と。
 最低。
 本当に――最低なマイペース男。
 激怒を綿帽子の下に封じ込め、香佑はひきつった笑顔で歩き出した。
「あっ、花嫁さん。花婿より先に入っちゃ駄目ですよ。もうっ、なんて礼儀を知らない人たちだろう!」
 ずんずん歩く香佑の背後から、新郎匠己が悪びれのない足取りでついてくる。
「よっ。大将、おめでとうっ」
「かっこいいよ。吉野のダンナ」
 神前結婚って、普通は親族だけなんじゃないの?
 しかも、ギャラリーの大半が普段着、しかも農作業着って……。
「悪いなぁ。みんな、忙しいのに」
 喋るな、新郎!
 なにもかも、なかったことにしたかった。今日の全てを、何もかも。
 最低。最低。何もかも――最低。
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。