23
 
 
「同じ家に住んでるのに、どうしてこうも遠いわけ?」
 香佑は、1人で怒りながら、庭を大股でつっきっていった。
 確かめなきゃ。
 聞いてみなきゃ。
 どうして吉野が、あれから十三年もたって――私でさえ忘れていた恋の神様の話を、今さら、夕べになって持ち出してきたのか。
 もちろん、ただの昔話だったのかもしれない。なんの気なしに思い出しただけだったのかもしれない。
 いや、そう思う端から、夕べの匠己の態度が、不自然にぎこちなかったことを香佑は思い出している。
 よく判らない。でも――今、今すぐ、匠己の真意みたいなものを、確かめずにはいられないような、そんな不思議な高揚と焦燥を感じている。
 まだ、自分は何か――大切なことを忘れているのではないだろうか。
 ようやく着いた彼の作業場には、夕べ完成した観音像が、シートをかぶせられた状態で置いてある。
「吉野?」
 つい、呼び慣れた名前を呼び、香佑は作業場の端にある扉をあけた。
 扉の向こうには入ったことはないが、匠己が夕べ、その扉の奥に消えたから、そこに、彼の仕事部屋――仮眠もできるような部屋があるのだろうということは、漠然と察している。
 ――え……。
 中には薄い太陽光が差し込んでいた。
 びっくりするほど狭いスペース。広さは多分、四畳ほどしかない。壁一面は棚になっていて、本がぎっしりと詰まっている。
 彫刻、美術、ざっと見たところ、そんな感じの本が多い。上の方には工具らしきものが、沢山のケースに収納されて収められている。それは、思いの外整然としていて、いっそ、美しいくらいである。
 壁際には小さな机があり、そこは少しばかり乱雑な有様だった。古びたスケッチブックや画用紙の断片が散らばり、鉛筆やマジックが散乱している。
 その部屋の奥まった場所に、1人の女性が立っていた。
 背は、香佑より少し低い。黒いパンツスーツに、肩甲骨までのプロンド混じりの褐色の髪。
 すらっとした痩身で、スーツで締められたウエストが、見事なくびれと曲線を描いている。スタイルは、相当にいい。
 女がゆっくりと振り返る。その手が何か赤いものを握り締めているように見えたが、女はさっとそれを自身のポケットにねじこみ、香佑を真正面から見上げた。
 顔が小さくて目が大きい。鼻が小さくつんととがって、まるでフランス人のようだ。細くて長い首、ぬけるように白い肌――相当な美人だった。
 ――誰……?
 こんな人、従業員にいたっけ。
 張りつめたような沈黙は、いきなり破顔した女の笑顔で打ち消された。
「嶋木さん、嶋木香佑さんでしょ?」
 ――え……?
 唖然とする香佑の傍に、エキゾチックな美女はあどけない笑顔を浮かべて近づいてきた。
「やだ、私のこと、覚えてない? 中学で――クラスは違ったけど、一緒だったじゃない」
 ――え?――え?
「片桐です。片桐涼子。あー、それでも覚えてないって顔してる。わからないわよね。私、存在感薄かったから」
 涼子――
 片桐、涼子。
 うっすらと、記憶の中に蘇って来る面影がある。
 病気の人みたいにガリガリに痩せていて、いつも青白い顔をして、首がやたら長かったから――
「ろくろ首」
 くすりと笑って、上目遣いに涼子は香佑を見あげた。
「もしくは、首長竜。そう言えば思い出してくれるかな。嶋木さんたちがつけてくれたあだ名だから」
 いや、そんなあだ名で、私は呼んだことないし。
 が、そんな風にどこか存在感が薄くて不気味だった涼子を、関心の対象外に置いていたことだけは確かである。
 いや、そんなことより。
「……涼子」
 香佑は、思わず呟いていた。
 店の車の中から、出てきた名前。てっきり涼子さんがお嫁にくるんだと思っていたのに――美桜の言葉。
「あ、ごめんね。いきなりで驚かせちゃったかな。今日は匠己を迎えにきたの」
 匠己。
 香佑がいまだ呼べない名前を、涼子はあっさりと口にした。
「っていっても、やだ。誤解しないでね。彼とはもう終わってるんだから。えっと、聞いてるよね。東京で、少しの間一緒に暮らしてたの、私たち」
 ――東京……。
「りょ……片桐さんも、東京に?」
「涼子って呼んで」
 にっこりと笑うと、涼子は、勝手知ったる感じで、傍らの本棚から雑誌と思しきものを一冊取り上げた。
「高校二年の時に、私も親の転勤で引っ越したの。もともとうち、東京だったから」
 じゃあ、匠己が追いかけていったというのは――
 私の時は、見送りにもこなかったあいつが、わざわざ東京の大学を選んでまで追いかけたのは。
 この人なんだ。
 この人――だったんだ。
「私ね、今、この雑誌の編集をやってるの。匠己が京都に行くので同行取材。だからごめんね。十日ばかり、匠己をお借りしちゃいます」
 可愛い顔で悪びれずに言われても、香佑にはなんと言っていいか判らない。
 というか、全てがもう、片桐涼子に負けている。
 すっぴんでぼさぼさ頭につっかけ姿。失業しほぼ無一文で携帯電話さえ持っていない香佑と。片や――東京の出版社で編集の仕事をしているという片桐涼子。
「おい」
 背後で、不機嫌そうな声がしたのはその時だった。
 
 
 
 香佑は、数度瞬きをした。
 ――誰……?
 黒っぽいクラッシックなスーツに、光沢を帯びたグレーのネクタイ。少し長めの髪は無造作に左右に散り、その下に凛々しい眉と、黒い――夜を思わせるほど深みを帯びた双眸が、静かに香佑を見下ろしている。
 セクシーな厚い唇と、意志の強そうな形のいい顎。引き締まった長い脚、広い肩に見上げるほどに高い背丈――
 見つめられて、香佑はわずかにあからんでいた。
 ――誰……
 いや、もう答えは判っている。最初からその顔を――香佑は、まともに見ないようにしてきたのだ。見合いの席から、ずっと。
 理由は考えないようにしてきたけど、もう香佑には判っている。
 忘れたはずの過去に、足をすくわれるのが怖かったから。
 絶対に振り向いてくれない人を、また、好きになるのが怖かったから――
「何やってんだよ。ここには勝手に入るなって言ってるだろ」
 耳の後ろの方をうるさげに掻きながら、匠己は言った。
「ごめーん。だって、なかなか帰って来ないんだもん」
 ぺろっと舌を出して、涼子は匠己の傍らに駆け寄ってその顔を見上げる。
「もう少し、前髪切ってほしかったな」
「いいだろ。そんなのどうでも」
「いい男なんだから、もっと顔をよくみせなきゃ」
 涼子の指が匠己の前髪を払い、匠己は少し照れたように顎を引いた。
 なに、この絵。
 これって、――
 これって、2人がやってることが間違ってるんじゃなくて、邪魔者はむしろ、私?
「おい、匠己、お前何やってんだ!」
 慎の怒鳴り声が外から響いた。
「もうトラックが来てんだぞ。お前が指示しないと、何も始まんないだろうが」
「うるせぇな。今行くって」
 匠己は声だけを返し、それから、平然と香佑を振り返った。
「んじゃ、後のことは慎さんと相談してやってくれ」
 ――はぁ。
「前も言ったけど、戻るのは十日くらい先になるから」
 そうですか。
 それはそれは、――まぁ、ごゆっくりとしか。
「じゃあね。香佑ちゃん」
 いきなりの馴れ馴れしさで、涼子は香佑の手をとった。
「まさか匠己と香佑ちゃんが結婚するなんて、夢にも思ってなかったからびっくりした。話は、また後でゆっくり聞かせてね」
 そして、そっと香佑の耳に唇を近づける。
「彼、我儘で甘えん坊だから、大変でしょ」
 なんですか、それ。
 宣戦布告か、挑発ですか。
 でもその相手、間違ってますよ。
 私なんて、あなたの敵ですらないですから。
「てか、なんでお前がついてくるんだよ」
「あら、慎さんに取材の許可は取ってるのよ? これも石材店の宣伝だと思って諦めなさい」
「はいはい」
 2人の足音が遠ざかり、背後でばたんと扉が閉まる。
 その途端、涼子が卓上に置いた雑誌が、吹き込んだ風ではらりと開いた。
 香佑は、半ば夢でも見るような気持ちで、その雑誌を取り上げていた。
 若き仏師 吉野匠己 24歳の素顔
 今みた男性を、少しだけ幼くした青年が、黒の作務衣を着て佇んでいる。その顔には、今よりはっきり、小学校時代の面影が残っている。
 東京芸大を中退後、東北の大仏師遠藤良案に師事し、五年の修行を経て今に至る。日本屈指の大仏師遠藤氏をもって天才仏師といわしめた青年の素顔は――
 ああ……。
 仏師っていうんだ。仏像作る人のこと。
 へぇ……。
 雑誌にぽつりと雨粒が落ちてきた。
 ああ、屋根があっても雨って降るんだ。香佑はぼんやりと考えている。
「…………」
 恋の神様は、意地悪だ。
 なんでこう、最悪なタイミングで、また思い知らされるんだろう。
 また、恋に落ちているって。
 また――あいつのことが、苦しいくらい好きになっているって。
 
 
 
 
 
 
 第一話(終)
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