22
 
 
「なにやってんの?」
 弾かれたように顔を上げた香佑は、自分の表情がみるみる不機嫌に変化していくのを感じた。
 傾斜地の上の木陰から、ひょろりと痩せた色白の顔がのぞいている。
 ――墓屋の吉野だ。
 クラス一の変人で嫌われ者。墓屋敷の幽霊男。
 どうでもいい奴とはいえ、いやなところを見られてしまった。
「別に」
 つんと顎を逸らし、香佑は立ち上がって膝の泥をはらった。
「探し物?」
 吉野は重ねて聞いてくる。
 普段幽霊みたいに存在感のない男子に、いやに馴れ馴れしく話しかけられたことに、香佑はかちんとして頭上の吉野を見上げていた。
「あんたには関係ないじゃない。邪魔だからあっちに行ってよ」
 吉野は白けたように、ちょっとだけ眉をあげる。この男は、普段誰からも馬鹿にされているくせに、時々、こうやってひどく他人を見下すような表情を見せるのだ。
 香佑は、それが大嫌いだった。
「ちょっと!」
 素直に背を向けた同級生に、香佑はさらに苛立つものを覚えながら声をかけた。
「私がここにいるって、誰かに言ったら承知しないからね」
 答えず吉野は肩をすくめる。その、小学四年生らしからぬ仕草もまた、香佑の神経を著しく逆なでした。
 再び1人になった香佑は、作業の続きを再開させる。――すぐに吉野への怒りは、悲しみと焦燥に変わっていった。
 ――ない……。
 ない。ない。どこにもない。
 きっかけは、ささいな口げんか、どうでもいい諍いごとだった。
 子供同士によくありがちな――男と女に別れての戦争。
 小学四年生。女子の中で一番体格もよく、勉強も出来た香佑は、こういった場では、いつも流されるように、リーダーとして矢面に立たされてしまう立場にあった。
 そして、口げんかが高じて、ついに直接対決が行われたのが昨日の夕方。決闘広場と呼ばれる学校裏の山のふもとに、男子と女子のリーダー集団同士が集結し、そこで思わぬ惨事が起きた。
 口論が高じて引っ込みがつかなくなった男子生徒の一人が、その場に投げてあった女子のランドセルを掴んで、思いっきり投げ飛ばしたのだ。
 あっと言う間もない。それは、とんでもない傾斜下――木々と草だらけの真っ暗な山の斜面の下に転がり落ちていった。
 なんとも不運なことに、それが、香佑のランドセルだったのである。
「あーっ、いーんですか、いーんですか」
「先生にいーっちゃろ」
 とんでもない事態に女子もまた、怒りのシュピレヒコールをあげ、男子のほぼ全員が泣いてしまったという――それもまた、とんでもない結末を迎えたのだが、この場合、一番の犠牲者は香佑だったろう。
 先生や両親にこっぴどく叱られたこともそうだし、教科書や文具が泥だらけになったこともそうだが、それよりなにより、その惨劇の中、香佑が最も大切にしていた物が失くなってしまったのである。
(先生も探してくれたんだけど、どこにもなかったよー。香佑ちゃん)
(ごめんな、嶋木。俺らも探してみたんだけど、そんなお守り袋はどこにも……)
 お守り袋がなくなった。
 おばあちゃんにもらった、恋愛成就の、赤いお守り袋がなくなった。
(いいよ。ないものはしょうがないじゃん)
 わーっと泣きだしてしまいたいほどのショックだったにも関わらず、香佑は、ひどくさばさばと言った。
(全然気にしてないし、気にしないでいいよ。ほんと、もうそのことは忘れていいから)
 そうでも言わないと、ランドセルを投げた男子が、いつまでも落ち込んでしまうと思ったのだ。
 内心は、動揺とショックで胸が張り裂けそうだった。
 物心がついてすぐに他界した祖母との思い出は、香佑には、そのお守り袋が全てである。
 恋の神様――
 ずっとずっと大切に持っていると約束したのに。
 翌日は土曜で、学校は休みだったが、香佑は朝食を食べてすぐに、お守り袋を探すために決闘広場に駆けていった。
 山の傾斜をためらわずに滑り降り、ランドセルが落ちていたあたりを、とにかく探した。枯れ草をかきわけ、石を転がし、懸命に――探した。
 ない。
 日が高くなり、両手が泥と草で青黒くなっても――見つからない。
 吉野が去ってからどのくらい経っただろう。
 どこからともなく梟の鳴く声が響き始め、不意に心細くなった香佑がうるっと双眸を潤ませかけた時だった。
「ないの?」
 また、頭上から声がした。
 ――吉野?
 驚きよりも、反射的な怒りの方が勝っていて、香佑は目を潤ませたままで、きっと頭上を睨みあげている。
「なによ、私が何を探してるっていうのよ!」
「赤いお守り袋」
 最初と同じで、木陰から自分を見下ろす男は、平然と言った。
「嶋木がいつも、ランドセルの横にくっつけてたやつだろ」
 ――嘘。
 なんでこいつが、そんなこと……。
 呆然としている間に、吉野は意外なほど慣れた足取りで、斜面を駆け降りてきた。
「別に好きで見てたわけじゃないけど、俺、昨日、このあたりでぶらぶらしてたから」
 かがみこみ、枯れ草を手で払いながら、吉野は言った。
 つまりその時に、ここで起きた騒ぎを見ていたということだろうか?
「なん、で……?」
 そのなんでには色んな意味があったが、あっさりと吉野は答えた。
「墓」
 はい?
 ――墓?
 その刹那、香佑は背筋にぞーっと鳥肌がたつのを感じていた。
「この山には、結構昔のいい墓があるんだよ。そういうの探しに時々来るんだ」
「…………」
 そ、そうですか。やっぱ、こいつ、変態だわ。関わり合いにならない内に、さっさと帰ろう。 
「そんなに大切なものなら、強がんないで、昨日そう言えばよかったのに」
「っ! 余計なお世話よ。あんたには全然関係ないじゃない」
「関係ないけど、墓探すついでだから」
 なに、そのついで。
 交わした会話は、多分、それくらいだった。
 結局2人して、山の斜面を登ったり滑ったりしながら、その日は日が暮れるまで、探した。
 疲れたとも面倒だとも何も言わず――そもそも、一緒に探してくれる必要も理由もないのに、吉野はただ、黙々と草をわけ、石をよけ、泥を寄せて、香佑の失くしものを探し続けてくれた。
 理由は、よく判らないし、その時はさほど深く考えもしなかったけれど、次の日曜も、ほぼ丸一日、吉野は香佑につきあってくれたのだった。
 結局、お守り袋は出て来なかった。
「あ、ありがと。頼んだわけじゃないけど、一応お礼はいっとくから!」
「……? なんで礼言いながら怒ってるわけ?」
 そう――結局、恋の神様は、あの山の傾斜地で失くしてしまったままなのだ。
 
 
「…………」
 香佑は、布団の中で瞬きをして、目が覚めたことを理解した。
 ――夢……
 それとも、今が夢?
 目に映るのは、これで四度目になる吉野家の天井。
 今は、そう、現実だ。私は吉野の家に形ばかりとはいえ嫁入りして、今日が四日目の朝なのだ。
 ――思い出した。
 香佑は、布団を払って跳ね起きた。
 思い出した。匠己を好きになった理由。まぁ、それが直接の理由ってわけでもないけど――そんなことより。
 恋の神様。お守り袋。
 あれはもう、最初のあの日に、失くしていたんだ。
 匠己を好きになる、その以前の段階で。
 時計を見た香佑は、げっと目を剥いていた。九時半! 何かの間違いでなければ、九時半。
 障子越しの光がまぶしい。扉の向こうからは、何気人の話す気配がしたりする。それはそうだ、店は十時には開くのである。従業員たちは、とっくに来ているに違いない。
「ど、どうしよう。髪、ぼっさぼさじゃない」
 大慌てで、パジャマを脱いで、Tシャツとジーンズ姿になる。髪はとりあえずひとまとめにして、急いで部屋を飛び出した。
 でも、なんで……?
 なんでその御守り袋のことを、吉野が未だに覚えているわけ?
 台所にも、家のどこにも、匠己がいる気配はなかった。
 仕事場に駆けて行って扉を開けると、加納が1人で機械を使って墓石を磨いている。
「よ――」 
 じゃない。とはいえ匠己は……やっぱりすぐには出てこない。
 口ごもった香佑は、そこで最上の妥協策を見出した。そうか、この手があったじゃない!
「社長は?」
 加納は眉をしかめるように瞬きをして、「社長なら、ご自分の作業場の方だと思いますが」と言った。まだ何かいいたげな気配を感じたものの、香佑は頷いて、仕事場を後にした。
 あの日――小学校四年生の初夏。
 あの日のことが、直接、恋のきっかけだったわけじゃない。
 多分、その時、ちょっといい奴じゃんと思ったことが、少しだけ吉野に対する偏見や苦手意識を解いていった。
 よく見れば、意外に顔立ちが整っていることや、箸使いが綺麗なことや、絶対に人の悪口を言わないところや、彼の描く絵がすごく綺麗だったことや――
 人の見ていないところで、何気なく他人を助けたり、気づかったりするところや――
 ちょっといい奴は、その年の終わりには、かなりいい奴、に変わってしまった。
 そうして、ゆっくりと、恋として心に沁み込んでいったのだ。
 つっかけを引っかけたままで、庭を走りながら、香佑は胸の底に膠着していた記憶が、ゆるやかに解けていくのを感じていた。
 ――思い出した……。
 あれから、もう一度、香佑は吉野と、あの場所に行ったのだ。
 決闘広場の傾斜下。
 あの日から五年過ぎて――香佑が、東京に転校する前日に。
 
 
 
「なにやってんの」
 香佑は、天に向かって息を吐いてから、声のした方を振り返った。
 五年前と同じ、木陰の向こうから、あの日と同じ――少しだけ背は伸びたものの、ひょろっと痩せた色白の顔がのぞいている。
「もしかして、あるのかと思って」
 もう一度、木々に覆われた頭上を見上げながら香佑は言った。
「なにが」
「御守り袋。あの時なくしたやつ」
「――は?」
 呆れた声と共に、吉野が傾斜を降りてくる。
「……まさかと思うけど、それ、随分前にここで失くした……」
「うん、吉野と2人で、探したじゃん」
 背は、並ぶと丁度同じくらいだった。その時の香佑が162センチだから、吉野は多分165センチかそこらだったのだろう。
「マジで言ってんの? あれからどんだけ経ったと思ってんだよ」
 判ってる。
 あの時、あれだけ探したのだ。しかもあれから毎年台風は来るわ、大雨にたたられるわ――この辺りの地形も、少しだけ変わってしまっている。
 もうお守り袋は、どこかに埋もれたか流されてしまったのだろう。
 それでも東京に行く前の日になって、香佑は未練のようにこの場所に来ていた。
 吉野も同じ気持ちだとしたら、それはもう、運命としか言いようがないのだけど――
「あんたは、墓探しに?」
「あ、判った?」
 ま、そういうものよね。
 香佑は嘆息して、再度頭上を見上げた。
「あのね。もしかしたら、木の上にあるんじゃないかと思ったの」
「……なにが」
 吉野は訝しげな顔になっている。
「御守り袋。あの時ランドセルがざーっと落ちたじゃない。よく考えれば、御守り袋は外側のフックにひっかけていたから、木の枝にひっかかってちぎれたってこともあるんじゃないかなーって」
「で、五年もたって、今さら木の上を探してるわけ」
 吉野の声は完全に呆れていた。
「あるわけねぇだろ。仮にそうだったとしても、もう、風で飛ばされてるよ。紐だって痛んで切れてるだろうし」
 まぁ、そうなんだけど。
 それは、常識問題として、よく判ってるんだけど。
 ふぅっと息を吐いて、香佑は、吉野に向きなおった。
「……それ、見つかったら、両思いになれる気がして」
「誰と」
「あんた以外に、誰がいるのよ」
 頬をふくらませたまま、香佑はその場に膝を抱いて座った。
「……なんで、俺だよ」
 吉野は立ったままで、傍らの木に所在なげに背を預けている。
 それでも、最後のこの日、2人でいられる幸運に、香佑は素直に感謝していた。もしかするとこの偶然もまた、恋の神様の意地悪なのかもしれないけど。
「あのお守り袋、……本尊は恋の神様なの」
 香佑は、独り言のように言っていた。
「死んだお婆ちゃんの形見だって話は、前にもしたよね。恋愛成就の御守り――お婆ちゃんが言うには、あの袋の中には恋の神様が住んでいて、大切に持っていると、好きな人と両思いにしてくれるんだって」
「へぇ」
 吉野は、いかにも興味なさげに適当な相槌だけを返してくる。
「なのに、私は失くしちゃったんだ。大切に持っていなかった。――だからかな」
「何が」
「恋の神様が、やたら私に意地悪なのは」
 吉野は、たっぷり一分は黙っていた。多分、呆れてものが言えなかったのだろう。
「お前、それ本気で言ってるわけ?」
 本気も本気、大真面目だった。が、同時に香佑は知っていた。そんなものがありもしない迷信で、口にした途端、自分でも冗談として笑うしかないということに。
「冗談よ。今も、たまたま懐かしくて来ただけで、本気であんなもの探してたわけじゃないから」
 もう、忘れなきゃな。
 恋の神様なんていなかった。
 いたとしても、意地悪されてばかりだった。
 もう――これで、終わりにしなきゃ。
 それでも、最後の賭けのように、香佑は言っていた。
「明日、駅まで見送りにこない?」
「無理。明日は広島で、墓石の展覧会があるから」
 あっそ。
 本当に――あんたって人は――いっそ、墓を彼女にして、墓と結婚してください。
「もし来てくれたら、三年」
「……は?」
 香佑は三本指をつきだし、少し迷ってから、五本に増やした。
「五年、五年、あんたを待っててあげるから」
 意味が判らないのか、吉野は訝しげに眉を寄せている。
「わ、私なんて、可愛いし綺麗だから、向こうにいったら、すぐに彼氏とかできると思うんだよね。だけど、作らないで待っててあげる。五年間限定で」
「なにを、待つんだよ」
「あんたの気持ちが、変わるのを」
 吉野は数度瞬きし、そして何故か頭上を見上げ――そのまま、しばらく無言になった。
「ま、いかねぇし」
「だよね」
 返事は判ってたんだけどさ。
 それ判って、聞く私も、相当未練ったらしいんだけどさ。
 でも、好きだったんだもん。
 この恋が勘違いでも、思い込みでも。
 同じ空気を吸って、同じ風に触れて、偶然視線があって、私には向けられない笑顔をこっそり見つめて、――たったそれくらいのことで、夢みたいに幸せ感じるほど、あんたのことが好きだったんだもん。
「じゃ、帰る」
 香佑は息を吐いて立ち上がった。
「手紙も電話もいらないし。もちろん、私も書かないから」
「あ、そ」
 吉野はあっさりと背を預けていた木から身体を起こす。
 そしてもう一度頭上を見て、それから、その目を下に下げた。
「――嶋木」
 背を向けようとしていた香佑は、少し驚いて振り返った。
 何故か振り返られた吉野の方が、香佑より驚いた目をしていた。
「いや、なんでもない」
 期待はあっさり裏切られ、吉野は視線をさげたままで、片手を振った。
「呼びとめて悪かった。じゃあな。元気で」
 それが――香佑の記憶する限り、宇佐町で吉野匠己と交わした最後の会話だった。


 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。